第7話 その湯を教えた人は
実家と間違えてキヨミの湯にある魂湯に入ったわけではなかった。いくら酒を飲んでも人に迷惑をかけることはしないが、今日は決して飲酒をしていなかった。普段は仕事が終わると咲とともに咲の家に行き、少し飲んでから寝ることが一日の終わりに行うことであった。今日は咲がシフト休の為、一人で彼女の家に向かった。呼び鈴を鳴らしても彼女が出てくることはなかった。スマホで電話をかけても出ることは無い。もしかすると先に寝ているのでは、と思ったが、ドアを見ると少し開いていたため、中に入ると、部屋のドアノブに紐をかけ、咲は真っ青な顔をして首を括っていたのだ。すぐさま警察に連絡すれば良かったものの、気が動転し恐怖を覚え、ただ只管誰かに助けを求めようと走っていた。他に拠り所の無い私はキヨミの湯に着いた。着いた途端力が抜けてしまった為、入り口で座り呆けていると、キヨミの湯の引き戸が開いたのだ。独りでに開いた引き戸に導かれるように、キヨミの湯に入り、誰かにこのことを話さなければと思っていた彼女は廊下を走って助けを求めた。扉を開けるとそこには浴場があり、勢い余って汐実が入っている湯船に飛び込んでしまったのだ。
「その子、まだ死んでるんだよね?」一連の流れを聞いた汐実は、曖に問いかける。
「まだ?どういうこと?」
「遺体はそこにあるのかってこと」汐実は湯呑に入った茶を啜る。
「まだ連絡していないから」
「まずは警察に連絡だね、住所は?」
「住所は分からない、住んでいたわけじゃないし」
すると、茶を飲み干した汐実は棚からパーカーを出し、曖に着るよう促した。
「早く着替えて。そこに行こう」
曖は躊躇した。友人の遺体など見たくない。
「道案内してくれるだけでいい。まだその子は家にいるかもしれないから」俯いた彼女を見た汐実が小さな声でそう言うと、曖は顔を上げ汐実の目を見た。一先ず彼の言うとおりに動いてみるしかない。彼に助けを求めているのだから、早く行こう。彼女はまだそこにいる、その汐実の言葉を聞き、彼女の死と向き合い歩むことを決めた。
咲と出会ったのは曖が十九歳の初夏だった。曖は大学受験を受けることも無く、高校卒業後は将来に目的を見いだせぬまま近くのスーパーマーケットでアルバイトをしていた。将来は結婚をして永久就職をすればいいと思っていた。そのためには何かに一生懸命に頑張らず、何でもいいから目的を見つけて、特に目指すつもりもない何かに必死にならなくてもよい。
曖は目的を見つけて成し遂げようとする者をとても羨ましく思っていた。実家のある小さいS町で働いていたスーパーマーケットの先輩に“あなたはここにいるべきではない、もっと人の多い華やかな街で働くべきだ”と言われた曖は、その三週間後にスーパーマーケットを退職した。母には叱られたが、父にはその後すぐ探せば問題ないと言われた。高校のクラスメイトであった咲に半ば強引に誘われ、K町のJerryで働くことになった。親には言っていないが収入は多かったため、貯金をしてから、そこから将来を考えようと思っていた。キャバクラの仕事は午後からの仕事となるため、昼夜逆転の生活を行っていたが、収入は多かったため、半ば開き直って仕事をしていた。ただ親への説明はとても難しかった。一家の一人娘がキャバ嬢で、世の男性に手を握られたり、何かを買い与えられていることなど知らないだろう。もし知っていたとしても黙認しているに違いない。ずっと続けるつもりはないし、目的が見つかれば辞める。そう思っていた。暫く働き慣れた後に、咲からお薦めの銭湯があると聞いた。名前はキヨミの湯、行けばわかると言われ、興味本位で行ったキヨミの湯は、次第に何もかもを忘れられる憩いの場となっていった。特に悩むことも無かった曖だが、その湯は、一日の疲れを落とす、というよりも、一日の活力となる不思議な魅力を感じていた。普段K町の寝床の主であった、K町で共に働き、キヨミの湯を教えてくれた咲はもうこの世にはいない。今から向かう先は、咲の寝床ではない。冷たく一人きりでこの世を去った咲自身に会いに行く。空は少し明るんで、咲の自殺など知る由も無い、奇麗な夜明け空であった。
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