第2話 丑三つ時の番頭
汐実は布団から目覚め、眠気眼で台所に立ち、鍋に昆布を入れ水を沸かせ、洗面台で顔を洗った。台所に戻り、ガスを弱火にし、沸々した湯に鰹節を入れ、暫く経った後に節をこす。再び洗面台に行き歯を磨いた後に、若干冷めた出汁を再び鍋に入れ、味噌を溶く。再びガスを付け、汐実お手製、具なしの味噌汁が完成した。冷蔵庫から牛乳をコップに注ぎ、これで汐実の朝食は完成する。
「あっつ」
猫舌の汐実は熱々の味噌汁を少しずつ飲み終え、牛乳を一口ずつ飲み干し、すぐさま済んだ食器を台所に持って行き、洗い物を済ませた。これがこの丑三つ時の番頭が行う朝一番の日課である。
汐実は机にある鍵を持ち階段を降り、普段清が座っている会計口の隣にある扉を開錠した。きーっと軋む扉を開け、魂湯に繋がる廊下で寝間着を脱ぎ全裸になった。魂湯の脱衣所は廊下にあたった。服を脱ぎ捨て廊下を越えるとそこには魂湯があった。魂湯には老若男女の霊が魂の抜けた顔で湯に浸かっていた。
「しーちゃん、おはよう」
「おはよう」
四十代の髪の長い女の霊が汐実に声をかけた。汐実は産まれたときから霊と干渉することができ、キヨミの湯で毎日、丑三つ時と呼ばれる午前二時から三時までの一時間のみ、湯に浸かって霊と談笑していた。
三時になると霊たちは自然と浴場からいなくなる。魂湯では、霊の間での最近の流行、霊として見たこの世の情勢、生きていたころの話、様々な話を聞くことができる。ここは汐実の憩いである。
モーニングコールをした四十代の髪の長い女は名前を“ミキコ”と言う。当時付き合っていた男性に別れを切り出され、ショックの勢いで彼の部屋から飛び降り自殺を図った。時折男性の様子を見に行き、現在の状況を観察しているため、死後十数年経っていても成仏していないと言う。死後、別れの原因が不倫だと知り、彼に近づく女に呪いをかけていた。現在はその恨みの思いも軽くなったのか、彼の住んでいる家の上空をただ浮遊し、この時間帯になると汐実を起こし、魂湯に浸かることを日課としているそうだ。汐実は、彼女がもうすぐ成仏の為、彼女から悩み相談を持ちかけられるだろうと予想を立てている。
「今日いる人に置き土産したい人はいないと思うよ」
数人いるうちの成人の男性が言う。
霊には悩みという概念は存在しなかった。霊から見る“あの世”に残した悩みは、悩みではなく未練であるからだ。汐実はそれを知りつつもあえて言及せず、悩みの無い霊に囲まれている魂湯の雰囲気が好きだった。汐実は毎日魂湯で朝風呂に浸かることが日課であった。彼にとって毎朝魂湯に浸かることは、義務ではなく、自身が好き好んで行っている。
「しーちゃんが試験の時、僕頑張ったよ」不慮の交通事故でこの世を去った七歳の“ユウキ”は言う。
「あの時はありがたかったけど、普通に分かっていたよ」
汐実が中学二年生の頃に行った試験に、先ほどそういった男児は優秀なクラスメイトの答案を見て汐実に伝えていた。汐実は元々地頭が良かったが、難問については霊が手助けしていたのだ。男児に限らず霊が話す過去とは、霊となった後に行った“思い出”であった。
すると二時から三時、この一時間に霊が思いを馳せるこの魂湯に、突然“生身”の女性が魂湯に入ってきた。派手な格好をした女性が魂湯に入ってきたことに汐実は驚いていた。すると人間の女は汐実の全裸を見て驚いた。霊たちも、生身であることに嫉妬する霊、生身であることに怖がる霊、生身であることに興奮する霊で、魂湯の湯気は普段より多く湧いていた。
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