第6話 消えた女子トイレ
ある日、僕の高校から一つの女子トイレが忽然と姿を消した。前の日までは確かにあったはずの扉は壁になっていた。不自然な空白を埋めるように、緑色の掲示板が取り付けられている。高校二年生の初秋だった。
その女子トイレで、ある少女は息を引き取った。僕もよく知る、同級生だった。あの壁の中に、まだ彼女は囚われているのだろうか。壁の前を通るたび、じっと見つめてしまう。
死とは案外、すぐそばにあるものだ。明日、運悪くトラックが突っ込んでくるかもしれない。明日、突然に不治の病を宣告されるかもしれない。「かもしれない」という確率が僕らには常に付き纏う。きっとそれは避けようのないもので、思い悩んでも仕方のないことだ。そんなことを考えるよりも、今という時間を楽しんだほうがいいのだろう。
感情が抜き取られたような彼女の顔を見たとき、悲しみを感じるよりも先に、安心した。あぁ、よかった。あの優しく笑う彼女の面影は、棺の中にはなかった。僕の知っている彼女の姿は、葬儀場のどこにも見当たらなかった。
遺族の方に頼んで、彼女の好きな小説を棺に入れさせてもらった。しかし、そんなことは無駄だった。彼女はあの小説を読むことができない。彼女はあの棺の中にはいないのだから。
まだ彼女は死んでいない。そう思った。あの日から、彼女の姿をいつもどこかに探してしまう。日々に彼女の残滓を見つけては、拾い集めて心にしまった。身体から抜け出してそこら中に散らばった彼女は、ふとした瞬間に顔を覗かせる。大丈夫。まだ彼女は死んでいない。
どうして彼女は消えてしまったのか。そんなことを僕が考えるべきではないと思った。それが彼女なりの答えで、他人の人生を批評できるほど自分は偉くない。生きる権利が認められるのに、死ぬ権利が認められないのは不自然だ。自分の人生だ。それぞれが好きなようにすればいい。
しかし、何も言わず、いきなり消えてしまわれるのも困るのだ。目の前の景色にぽっかりと穴が開き、そこから冷たい風が吹き込んでくる。凍えそうなほど、冷たい風が。何かで穴を埋めなければならない。
日々に彼女の残滓を見つけては、拾い集めて心にしまう。集めたピースで穴を埋める。虚構だが、ないよりずっとマシだ。凍えずに済むのなら。
きっと彼女は、まだあの壁の中にいる。僕らはあの壁を見るたびに彼女を思い出す。まだ彼女は死んではいない。僕らが彼女を忘れてしまうその日まで。
消えた女子トイレから出られずに、彼女はまだ泣いている。
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