リスタート
それから僕は、ピアノに向き合ってみた。一音一音丁寧になぞってみると、あの頃の自分の音を思い出した。
あの頃の僕は、八つ当たりするかのようにピアノを弾いていた。全てピアノのせいにして、お前が悪いんだと言わんばかりに乱雑に弾いていた。女々しいと言われたのは、ピアノをやっているせい。運動も勉強もさほど得意ではないのも、ピアノをやっているせい。友達ができないのも、ピアノをやっているせい。そうやってピアノのせいにして、ピアノを弾くしかできないんだと言い訳して、ピアノの前に座って向かい合うフリをして、ピアノからも目を背けていた。
「あなたって結局何も変わってない」
その言葉は、きっとそういう部分だった。今の僕は、音楽をやらない理由を咲良に押し付けているだけだった。やらない理由を探すことばかりに躍起になってるだけだった。気がついてしまえば簡単なことに感じて、なんだか全てが滑稽なものに思えた。ピアノの前で一人笑い転げる僕を心配そうに見ている母に質問を投げかけてみた。
「母さんはさ、咲良が死んだって聞いた時、なんで何も説明しなかったの」
一瞬戸惑ったように見えたものの、その表情はすぐに安堵の表情に変わっていた。
「だってあなた、あの子と出会ってから少しだけ、楽しそうだったんだもの。」
「え?」
「まだ子供の癖に悟った顔して全部どうでもいいかみたいな感じだったのに、咲良さんはどんな魔法を使ったんだろうって思ったの。あなたに咲良さんの話をする前、彼女のお母様から「唯は奏弥くんに心から笑って欲しいだけだって言っていたけれど、きっとあの子、奏弥くんが大好きだったのね。」って言われたのよ。わたし、不謹慎だろうって思いながらも舞い上がっちゃったわ。「うちの子にそうやって想ってくれるような子がいるのね」って、嬉しくて。」
今度は僕が戸惑う番だった。そんなこと、初めて聞いた。咲良が僕を好きだって?何かの冗談だろ。そう思ったって、聞くことができないってことに気づいてしまう。僕は君が、好きだった。そんな言葉を伝えることも、できなくなってしまったのに。
「あなたの様子を見ていて、きっとこの子たちはお互いにすごく大切なんだろうなって思ったの。だから、亡くなったっていうことも、なかなか言えなかった。」
母はピアノを見つめて、言葉を探すように続けた。
「ちゃんと説明できなくて、ごめんね。どうやって説明したらいいのか、お母さんにはわからなかったのよ。」
「なんで謝るの」
逃げたのは僕なのに。
「説明していたらすぐに受け入れられたかも知れない。説明していたらあなたが前に進めたかもしれない。そう思うとね、お母さんとしては、いくら後悔しても足りないくらいなのよ。もしかしたら、言わないほうが正解だったとしても、ね。」
言わなかった後悔にやらなかった後悔。やった後悔よりも、やらなかった後悔のほうが残ると聞いたことがある。誰が言ったか忘れたけれど。
「あなたは一度、思った通りに行動してみなさい。」
そう言った母の顔を、きっと僕は忘れられないような気がした。
次の日は、あの高台に行ってみた。そこから中学まで歩いてみた。その途中、小さな喫茶店を見つけた。その喫茶店は、おじいさんが一人で経営するほんとうにこじんまりとした所謂純喫茶ってやつで、店内にはジャズのレコードがかかっていた。その曲ひとつひとつに聞き覚えはあったけれど、少し休んで店を出る時に流れ始めた曲は彼女が僕に「弾いてほしい」と言ったあの曲だった。
「あの、ここで流している曲って、ずっと変わらないんですか?」
意を決して声をかけた。
「そうだね。なにか気になった曲でもあったのかい?」
少し遠まわしに、咲良の話をしてみた。
「僕、ピアノ弾いてるんです。とっても大切だった子が、僕に練習しろって言った曲があって……」
そこまで言うと、マスターは小さくうなづいて「ちょっと待ってなさい」と言って奥へと入っていった。何があるんだろうと思いつつ待っていると、一枚の写真を持って戻って来た。
「唯ちゃんのお父さんは友人でね、家族でよく来ていたんだよ。この日はたしか「娘がバイオリンをやりたいって言うんだ!」なんて楽しそうに言うもんでね、もっていた楽譜をくれてやったんだ。僕はもう演奏はしないからね。」
その写真には、幾分か若い頃のマスターと同じくらいの歳の男性がいて、その間で嬉しそうに楽譜を抱えた小学校低学年くらいの女の子がいた。
「君の話は唯ちゃんに聞いたことがあるよ。そうか、君が音原くんか。」
なんの話をしたのだろう。余計なこといってないだろうな。そんなことを思いながら次の言葉を探す僕をマスターはカウンターへと促した。そして少し普通より甘めにした珈琲を一杯出すと、これはサービス。それだけ言って僕の言葉を待ってくれた。
「咲良の話を、聞かせてもらえませんか?差し支えなければですけど」
ゆっくりうなづくと、マスターは少しづつ語ってくれた。
「彼女が病弱だったのは知っているかい?」
こないだ聞いたばかりですけど。そう言いながらうなづく。
「そう。だからね、雅春……唯ちゃんのお父さんは、彼女に目標を与えようとしていたんだ。なんでもいいから、自棄になってしまわないように」
人に会わせて、たくさんのものを見せて、たくさんのものを聞かせたのだという。苦しくなった時に頑張れるように、辛くなった時にその大切なものが支えてくれるように。
「その中で、彼女は一人の少年に出会った。出会ったというと少し語弊があるかな、目に付いた、という方が正しいかもしれない。その少年はピアノを弾いていて、すこし照れた表情をしていたそうだ。ピアノの音を聴いた時、唯ちゃんは両親にこう問いかけた「あれは恋の曲なの?」ってね。親としては困ったようだ。雅春は結局こう答えることにした「彼が大切な人に向けてその曲を奏でるなら、それは恋の曲になるんだ」と。この少年が誰だったか、わかるかい?」
だいたいこういうのは話の流れっていうものがある。この流れだとセオリーとしては僕なんだろうけど、僕であってほしくはないと思った。
「君なんだよ、音原くん」
複雑な表情で戸惑う僕にマスターは苦笑を浮かべながら言葉を続けた。
「君の、まだ拙いピアノに彼女は恋をしたんだ。あのピアノの隣に行くにはどうしたらいいだろうって必死に考えたんだろうね、バイオリンをやると言い出したそうだ。初めて本気でお願いをしたと言っていたよ」
僕が彼女の大切な時間を奪ってしまったような気がして、表情が曇る。それでも同時に、独占欲に似た感情も抱いていた。
「僕は咲良の……」
そこまで言うと、言葉を遮るように話し出す。
「唯ちゃんの目標に、夢になってくれてありがとう」
言葉は何も出てこなかった。
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