つたえること
帰り際、しんとしていた教室に声が響く。
「お前らに何があったのか知らねえけどさ、言いたいことあんだったら言ったら?」
言葉を探す僕の耳にため息が聞こえた。
「これじゃあ唯も、悲しくなるよ」
「なんだよ!」
思わず出た声は、自分のものとは思えなかった。声を荒げることなんてなかったし、必要以上に大きな声を出すこともなかった。
「だってそうでしょう?人に合わせてるようで、人を拒絶している。あの頃から何も変わってない!」
反論も、できなかった。返す言葉が見当たらないくらい、それは刺さって聞こえた。
「やっぱり僕は、音楽はやらないよ」
そう言い残して帰ろうとする僕に、声が聞こえた。
「ぼくはさ、君と喋ったことあるかないかぐらいだし、咲良さんも喋ったことあるかないかくらいだけど、音楽室から放課後に聞こえる音楽はいつも聞いてたんだ。文芸部の部室すぐそばだったし。」
足を止める。同じ中学であることは知っていたけれど、把握されてるとは思っていなかった。文芸部の部室は音楽室から近かったから聞いていてもおかしくはないのだけれど。
「楽しそうだなって思ってたんだ。この人たちと一緒に音楽できたらきっと楽しいんだろうなって。」
そんなことない。喉まで出かかった言葉をかき消すように言葉を続けた。
「でもぼく、バンドしかやってなかったから、この人たちの音楽とは違うって思ってたんだよ。そしたらね、高木が「ジャズやろうぜ!」なんて言うの。音楽なんてやらなそうなこの図体で。」
文句を言う声と、小さな笑い声が聞こえた。
「まあそれでさ、ぼく、思ったんだ。出来ないって言ってたら何も出来ないんだなって。出来ないんだって、そこに入る資格ないんだって思ってたら、無理なんだって。……本当に出来なくなってからじゃ、遅いんだって。」
僕と、彼女と、セッションがしたかったと言う彼は、口下手なくせに必死に言葉を重ねていた。音楽をあんなに避けようとした僕に「まだ間に合う」って誘ってくれた彼女は僕の言葉を待っていた。僕は、いつも同じ答えを出し続けていた。
「少し、時間が欲しい」
そうやって逃げていた。今回だって、この言葉を発していた。逃げているだけなのを知っていて、この言葉を選んでいた。それをきっと知っていて、彼女は「あんまり待てないけどね」なんて続けた。
僕はその声を聞きながら、逃げるように帰った。家に着くと、荷物を投げ捨ててピアノの前に座り、何も考えないように弾き続けた。何も考えないように、すべて忘れるように、知っている曲をなんども弾き続けた。夜が深くなったことも、食事も忘れてピアノを弾き続ける僕を心配そうに見つめた母のことも気付かないくらい。まとまらない思考に、ただただ募っていく苛立ちに、止まってしまった手は、ゆっくりとあの曲を奏でた。
「音楽が君の答えになるなら」
その言葉が、今になって響いてきたような気がした。
「言いたいことがあるなら、言わないとわからない」
その言葉が、重くのしかかってくるような気がした。
「本当に出来なくなってからじゃ遅いんだ」
その言葉が、今の僕にはとても痛かった。
音楽に、感情を乗せてみた。痛いよ、苦しいよ、わからないよって。君の言葉を抱きしめるように、一つづつ飲み込むように。
翌朝も、あの桜の木を眺めていた。いつも通りの通学路で、いつも通りに咲くあの木も、もうじき散ってしまう季節になっていた。どうしようもなく立ち尽くす僕に、いつも通りの声が聞こえた。
「オハヨウ、傷心中の奏弥クン?」
「喧嘩売ってるだろ」
そう笑いながら返すことができることが、なんだか今は大切な気がした。
「なんだ、元気そうだね」
そうやって茶化してくる彼女は、大切な友人のような気がした。つい昨日まで話したこともなかったのに。
「いってえ!」
そんな叫び声が聞こえて振り返ると、笑いまじりの怒声が響いた。
「お前それ投げるもんじゃねえからな!」
「ケースに入ってるから刺さらないよ」
「そういう問題じゃねえよ!」
飛んできた黒いケースを拾いながら、大事な商売道具なんじゃねえのかよ。そう呟く友人の顔は、なんだか明るいように見えた。
「なあ、桃井サン」
「呼び捨てでいいわよ気持ち悪い」
今の気持ちは言葉にしなければいけない気がして、声をかけた。
「放課後、あいてるか?」
「仕方ないから空けてあげる」
そう言って先を歩く彼女。追いかけるように歩き出した友人と、うずくまったままの友人を見比べる。
「ねえ、高木。早くしないと遅刻するよ」
そう言う彼女の声はすこし踊っているようだった。
放課後、咲良の話がしたい。そう言った僕を連れて行ったのは、町の少し外れにある高台だった。見える景色を見渡すと、彼女は大きく息を吸い込んだ。
「ここはね、唯が好きだった場所なんだ。「音は風に乗ってどこかへ行ってしまうけど、私はきっとここに居られるね。」って、そんなこと言いながら。」
それはどういう意味なんだろう、そう聞けない僕に、言葉を続ける。
「唯ってね、体が弱かったのよ。別に難病とかじゃないんだけど、体調を崩しやすくて。言ったかも知れないけど……大好きなスポーツもあまりできなかった。」
そこまで言うと、彼女は僕の方を向いて「あまり聞きたくない話かもしれないけど」そう続けた。
「いいよ。僕がお願いしたんだ。」
そう答えると、小さく頷いた。一呼吸置いて、ゆっくり何かを探すように言葉を重ねていく。
「あの日も、きっと唯からしたら「貧血ですこしふらついただけ」なのかもしれない。本当のことなんて、本人にしかわからないんだけど。きっと場所が悪かったのね。事故は、起こってしまった。」
初めて、あの日の真相を聞いた。それを僕に話さないことは、きっとみんなの優しさだった。あの後ピアノに一切触れなくなった僕に何も言わなかった母も、きっと全て知っていたからなんだろう。
「唯は君のことを知ってたんだよ。君が人前でピアノを弾くのを嫌がる理由も、知ってた。」
咲良は僕と同じ小学校だったらしい。どんな言葉も聞き入れようとしない僕に、すぐにでも声をかけなかったことを悔やんでいたと言う。
「声をかけていたところで、変わらなかったかもしれない。けど、少しでも変わっていた可能性があるのなら、それを諦めたくはなかったのよ、あの子はね。」
「何のために……」
僕に声をかけること、僕がピアノを弾くことで彼女が得をすることは何一つない。
「唯だって、双葉くんと一緒。あなたと一緒に音楽がやりたかったの。」
それだけの為に時間を費やすほどの価値など、自分に対して見いだすことはできないでいる。納得がいかない、そんな顔でもしていたのだろうか。
「もしかしたら、あなたより上手なピアニストなんて腐るほどいるのかもしれない。そんなことは、どうでもいいのよ。」
「は……」
意図を図りかねている僕に、ため息をつく。
「あなたにはわからないかもしれないけれど、唯には「今」しかなかったのよ。」
いつどうなるかわからない。何が起こってもおかしくはない。それはどんなことなのか、僕にはきっと知ることはできない。健康で、別段得意なことはなかったけれど、できないことも殆どない。できない辛さだとか、死の恐怖だとか、そういうものを頭ではわかっていても、きっと実感することが出来なくて。それでも今、どうしようもなく知りたいと思っている自分がいた。
高台から、少し身を乗り出してみた。
「ここから、咲良は、何を見てたのかな。」
「知りたいなら、聞いてみたらいいじゃない。」
どうやって。そう言いかけて気づいた。ヒントなら、たくさんあったんだ。思い出の場所、好きだったもの、大切にした音楽。全部咲良は遺していっていた。
「……なんだよ、全部あるじゃん。」
そう呟く僕に、彼女は何も言わなかった。ただ、そこにある景色を大事に、記憶から消えることのないように見渡した。
どれだけそうやって眺めていたかはわからない。一言も発しないままで、その空気に身を委ねていた。そうしたら華鳴高校を見つけた。
「なあ、アレ、うちの高校だよな。」
「そう。私は唯の志望校、ここで聞いたんだもの。指差して「私あそこの高校行くんだ!」って。目の前の桜並木が綺麗だからって。」
「そんな理由?」
いままでの空気感が一気に崩れ、力が抜けるような気がした。
「そんな理由。でも、その理由をずっと楽しそうに言うのよ。」
咲良にとって、それはとても大切な理由だった。中学一年生の無邪気な絵空事。端から見たらそんなものだったと思う。
「唯には生きる目標が必要だったし、私もそれでいいと思った。だから「じゃあ高校は別になるね」なんて言った。」
その様子を想像しながら、次の言葉を待っていた。
「そうしたらあの子「嫌よ!」って言うの。嫌だって言ったって私は進学校に行くつもりだったし、無理だって話しても聞かなくて。」
想像して、笑った。この光景も友人も大切で、どっちかを選ぶなんて出来なかったんだろう。
「そうしたらあの事故だもの。もう私、どうしていいかわからなくて。」
大切な友人の死を、乗り越えなければいけなかったんだろう。咲良の死に戸惑ったのは僕だけじゃない、なんて。考えてみればそんな当たり前のことも、僕は考えられないでいたんだ。
「だからね、私、この学校に来ることにしたの。唯の見たかったもの、私が見てやろうって。ちょっとおこがましい気もするけど。」
それでも立ち止まっていたのは、きっと僕だけだった。
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