放課後。無理言って部活を休み、藤と2人、勇み足で講堂へ向かった。古ぼけた2階席の手すりに腕をついて、壇上に並んで歌声を響かせる合唱部の面々を眼下に眺める。

 自分は音楽や、それこそ合唱に精通している訳ではないが、それでも自分の学校の合唱部のレベルの高さには一目を置いている。指揮棒の動きに合わせて膨れ上がる歌声の爆発を目の前で肌に受けると、こう、全身の毛が逆立ってなんとも言葉にできない想いがふつふつとわき起こる……ような気がする。

 曲名なんて知らないが、出会いは別れであり、別れは出会いである。そんな沢山の出会いは色とりどりの虹のような光となるだろう――といった感じのフレーズが印象的な、儚くも前向きで、でもやはり物悲しさが残る曲だった。


「おい、合唱に感動してる場合じゃないぜ。見ろよ。ソプラノの前列中央、黒髪ロングにカチューシャをした大和撫子が件の東條だ」


 藤の指差した方向へ釣られて視線を向けると、なるほど、ひときわ存在感のある女生徒が澄ました表情で、でも強い力のある瞳を大きく見開いて、ほんのり朱の注した瑞々しい唇をいっぱいに開いていた。

 あの時は顔なんて分からなかったから、実際に素顔を見るのは初めてだったが、彼女があの天使なのだろうか。しかしながら、合唱曲であるせいか彼女自身の声があの歌声かを確かめる手段はない。

 そう思った矢先、ふと声が止んで講堂がしんとした静寂に包まれる。伴奏のピアノすらも止んだ後に、物言わぬタクトに導かれるようにして、東條の口がゆっくりと開かれた。

 愛おしくも、強い悲しみを込めたような、短くも熱のこもった彼女のソロパートだった。何度も聞いた出会いと別れのフレーズを、まるで最愛の誰かと永劫の別れを交わしたかのように切なく、泣きそうな表情で、だが慈愛に満ちた聖母のように温かみのある声で歌い上げる。

 その通った鼻筋と、ここからでも分かるほどきめ細やかな肌。整った顔立ちと、エネルギッシュな歌声から伝わる感情のうねりがそこにあった。


「あれが歌姫・東條だ。出るとこに出たら、売れっ子の歌手だって舌を巻くぜ。ちなみに卒業後は、声楽の勉強のためにイタリアに渡る事が決まっているらしい」


 なるほど、これまで何度か歌が「上手い」人間には出会ってきたが、彼女は格別だ。まさしく、歌姫と呼ぶにふさわしい。


「何度でも言うが、この学校に彼女以上は存在しない。お前がそこまで感動して恋に落ちたってんなら、彼女しかいないと思ったわけだけど」

「どう……なんだろうな。そもそも顔が分からない相手だ。そうだと言われればそう言う気もするし、違うと言われれば違うかもしれないし……むむむ」

「ハッキリしないな」


 煮え切らない自分の隣で藤が肩をすくめる。


「だが、確かにこうして直に聞いてみて、何とも言えない感情が沸き起こったのは確かだ。それはあの日、雨の日に抱いた感情に遠からずも近からず。今もこうして、胸が高鳴っている。確かに、天使はあの女史なのかもしれない」


 どくんと波打つ鼓動に、あの日の感情を重ねる。間違いないと心に言い聞かせてみれば、より強い確信と実感が、腹の底から湧き上がって来るのを感じていた。

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