望みを叶えてくださる言葉

阿古耶 南

 まるでどんよりとした雲が目の前いっぱいに広がったような視界の中で、自分は彼女に出会った。夕立を頭から浴びながら、校舎の窓越しに自分は彼女の歌を聞いたのだ。

 歌詞は良く分からない、英語の歌だった。辛うじて聞き取れた「メディスンゴーダウン」という言葉を口ずさみながら、とても軽快に、スキップでも踏むような曲調。ぽんぽんと、色とりどりのゴムボールが弾んでいるような、そんな印象の曲だった。

 事実、彼女は教室の中で踊っていたようにも見えた。何よりも楽しげに歌うその声は、今までに聞いたどんな歌手のそれよりも心に響き、まるで天使のようだと思った。雨に濡れるのも、上階から落とした眼鏡を探すのも忘れて、わくわくしながら聞き惚れていた。

 だが、その歌は突然にやんでしまった。その時の自分に状況を把握する力はほとんどないが、彼女がこちらの存在に気づいたのだということは理解できた。

 自分は彼女を見た。表情もぼやけたままで、白い肌と、後ろで一つに纏めたふんわりとした髪の毛しか分からない。そんな彼女の顔もまた自分を見た――ような気がした。

 目が合った、そう思った瞬間、自分は雷に打たれた。紛れもなく、恋に落ちたのだ。

 この時の気持ちをなんと例えよう。まるで忍び込んだ舞踏会でジュリエットに出会ったロミオのような。そう、運命めいた出会いを、確かに感じたのだ。


「ジュリエットと違って、相手も恋に落ちたとは限らないけどな」

「藤よ、人が気持ちよく語っている時に水を差さないでくれ」


 藤は、反対向きに腰かけた椅子の背もたれを抱え込むようにして、気だるげに自分の机に頬杖を突きながら、レモンティーの紙パックに刺さったストローに口を付けた。


「相談があるって言ってきたのはお前だぞ、海道。いつ口を挟むかは俺の勝手だろ?」

「いや、だが、ここからが大事なところで……ああ、やっぱりいい」


 口にしながら、自分がいかにして彼女に恋をしたかなんて、この場ではそれほど大事ではなかったかもしれない、そう思えてきて自分は口を閉じた。藤はそんな自分の様子を見ながら、ゆったりとした癖のついたやや長い、薄い茶色の髪をくしゃりとかき上げた。

 その仕草や憂いを帯びた表情はまるで雑誌のモデルのように決まっていて、自分が女ならドキリとさせられていたに違いない。おそらくは。


「要するに、好きな女が出来たから付き合いたいと。そういう事なんだろ?」

「そこまでは望まない! 天使と付き合うなんておこがましい事だ!」


 自分は慌てて声を荒げた。


「ただその、この気持ちを燻らせておくことも男としてどうかと思うところもあり、彼女がいかに素晴らしいか、いかに素敵であるか、それはお伝えせねばなるまいと、そう思っている次第であって……」

「だから、好きって伝えたいんだろ。なんでそう、回りくどい表現を使うかね」

「すまない、それはクセだ」


 古めかしい語り方だと、昔からよく知人友人に言われる。幼い頃から男の何たるかを教え込み、厳格に育ててくれた父、そして祖父の語り口がそのまま移ってしまったものだから、こればかりはどうすることもできない。ちなみに父は地元で空手の道場を開いており、祖父はその先代だ。自分もその後を継ぐべく、日夜修練に励んでいる。


「で、彼女の名前は?」

「わからない」

「学年は? 制服のリボンの色で分かるだろ?」

「ジャージだった」

「どんな顔だった? なんとなくでも良いから」

「肌は白かった」

「あのなぁ……」


 藤は大きくため息をついた。


「いくら顔の広い俺でも、何も分からない相手を探すのは不可能だ! 人を超能力者か何かだと思ってるのか!?」

「仕方ないだろう! その時、眼鏡をなくしていたんだからな!」


 声を荒げて迫られて、逆にこちらもまた声を荒げてしまった。額が触れ合う距離で、お互いににらみ合う。が、不意に藤が身を引くと、そのまま自分の太い黒縁眼鏡に手を伸ばした。とっさの事に反応が遅れて、眼鏡はするりと彼の手の中に奪われていた。


「おーい、海道よ。これが何本か見えるかい?」


 言いながら、おそらく藤は彼の顔の横で指を立てて見せた。


「1本だな」

「ぶぶー、ハズレ。正解は、シャーペン握ってるだけで1本も立ててません。お前、ホントに目わるいのな」

「物心ついたときからずっとなんだ。眼鏡を返してくれ」


 自分はドがつくほどの近眼だ。眼鏡を外すと、世界のすべてが靄に掛かったようにぼやけて見えてしまう。ちゃんと見える視界は直近――せいぜい15センチくらいだろう。

 だから、不慮の事故でベランダから眼鏡を落として割ってしまったあの日、歌っていた天使の顔をハッキリと見る事ができなかった。いや、逆に視界がハッキリしていたら、あれほど歌に聞きほれる事もなかったのかもしれない。


「あ、あの、藤君。今、ちょっと時間ある?」


 不意に女生徒の声が聞こえて、自分は斜め後ろを振り向いた。すぐ傍に、1人の女生徒が立っているのがぼんやりと見て分かった。


「悪い、今ちょっとコイツと大事な話をしてて」

「あっ、な、なら良いんだ。ごめんね。また後で声を掛けるよ」


 女生徒はふんわりとしたセミロングの髪の毛を揺らしながら手を振ると、そそくさと教室を出て行った。


「今の誰だ?」

「二組の佐倉。演劇部の。なんの用だったんだろう……あ、これ、眼鏡返すよ」


 藤から眼鏡を受け取って、自分はすぐさま耳に掛けた。曇った窓ガラスを拭いた時のように、慌ただしい朝の教室の景色が、多少はっきりと視界に広がっていた。


「すごいな、他のクラスの奴の部活まで把握してるのか」

「それで食いつないでるわけだしな。期待してるぜ、学食Aランチ1週間分」

「ああ、分かっている」


 藤は片目でウインクをきめながら、パックのストローをちゅうっと吸い上げた。


「ところで、お前の想い人の話だけどさ。実は心当たりがないわけでもない」

「本当か!?」


 自分が飛びつくと、藤は得意になって笑みを浮かべ、ふふんと小さく鼻を鳴らした。


「要領を得ない情報しかないが、『天使のような歌声』ということならある程度の候補は絞られる。この学校で、それほどの感動を与える声で歌う人間はそう多くないからな……と言うか、ぶっちゃけ1人しかいないと思う」

「だ、誰なんだそれは?」


 もったいぶって答えを焦らす藤に、自分は食い殺さん勢いで迫ると、その笑みを引きつらせながらも彼は答えてくれた。


「が、合唱部の東條だよ。3年の。この学校に彼女以上の歌姫はいないだろう」

「合唱部……なるほど。歌と言われれば、しっくり来るな」

「ちょうど放課後に、講堂でコンクールに向けた通し練習を行うって話だ。なんなら行ってみるか? というか、いい加減に暑苦しい! 離れてくれ!」


 ぐいっと思いっきり肩を押されて、自分は浮いていた腰をどんと椅子に落ちつけた。

 合唱部の東條――その女史は果たして、自分の探している天使なのだろうか。

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