四章 練習試合は決別に代えて
インターハイ個人戦の県予選から一週間後。
司はベスト8以上の選手で行われるリーグ戦で3位に入り、全国進出を決めた。聖はリーグ戦に進んだものの、6位という結果に終わった。それでも地方総体には進めるので、ますます朝代北高校が警戒されることになるだろう。
それでも司は全く浮かれていない。
「全員で全国行くぞ」
それが最近の司の口癖になっていた。
つまり、団体戦での全国出場。
その前に立ちはだかるであろう強豪校、瀬名高校に砌達は来ていた。
まず、敷地の広大さに度肝を抜かれた。グラウンドは朝代北の数倍の広さがある。そこをいくつもの運動部がそれぞれ広々と、だが鬼気迫る様子で使っている。
この広大な敷地。迂闊に出歩けば迷子になりかねないと本気で思わせる。
その中に三つある体育館の内、第二体育館を卓球部が使っている。
「失礼します!」
司がそう声を張り上げて体育館の中に踏み込む。
「はい、いらっしゃーい」
聞くだけで全身が脱力してしまいそうな声が迎え入れた。
体育館の、実に半分が卓球部に与えられたスペースだった。防球フェンスでそこをさらに三つに分割し、女子はその一列を使っているようだった。全体が広大なので一瞬小さなスペースだと思ってしまうが、朝代北高校では体育館の6分の1のスペースが男女卓球部に与えられたスペースで、女子は2台だけしか卓球台を使っていないことを考えると信じがたい広さである。
「安倍ちゃーん、今日はゆっくりしてってね」
溶けたような笑顔を浮かべた相手の頭頂部に優しくチョップを叩き込むと、司は大きく溜め息を吐く。
「
「そう言わないでー。あー、聖ちゃーん。聖ちゃんには
「はい!
敷島時雨。先週の県予選でベスト8に入り、リーグ戦では5位。聖との試合では接戦を制している。
そのせいか、時雨にいい子いい子と頭を撫でられる聖は厭な顔もせずになすがままだ。時雨のなんとも言えない包容力を差し引いても、聖が自分を負かした相手によく懐くというのは本当らしい。
「時雨、いつまでも『神童』で遊んでるんじゃない」
眼鏡をかけた大人びた女性が時雨を注意する。
「オバちゃん、そんなにしゃっちょこばると、また顧問に間違われるよー」
時雨が砌達を見回す。実際この中に顧問だと思った者が何人かいた。
「オバちゃんって言うなって言ってんだろうがッ!」
「はーい、こちらが部長の
「呼んだら殺す」
ドスの利いた声で言われ、司以外の全員が黙って頷いた。
「じゃあ荷物はあっちの隅に固めて置いておいてくれ。端の三台を基礎練習用に空けておくから、それが終わったら一発目の団体戦」
基礎練習をあらかた終えると、司が砌と聖の台に紙と鉛筆を持って現れた。
「さあて、ここが団体戦の醍醐味だ」
司が手にしていたのはオーダーシートだった。5試合行うそれぞれの出場選手を記入し、提出する紙だ。
「向こうで一番強いのは時雨だと思う。先週のリーグ戦では私が勝って、聖が負けた。つまり実力的には私しか勝ちを取れない相手ってことになる」
そこで司は砌を見た。
「本来ならここで砌を使うっていうのが私のやりたかった戦略なんだけど、今回は駄目だ」
砌はほっと胸を撫で下ろす。
「時雨は県で一番の粒高使いだ。相性的に、砌と合わない。潮も駄目だな。実力差が思いっきり出てしまう。そこで――」
「私ですか?」
隣の台から桜が笑顔でやってきた。
「そう。桜は相性上、時雨に勝つ可能性が高い。だから桜をどうしても時雨とぶつけたいんだけど――」
司はオーダーシートと睨めっこをする。
「これが読めたら苦労はしないんだな、これが」
団体戦では試合前に互いに非公開でオーダーを決め、それを互いに公開して組み合わせが決まる。対戦する選手はダブルス含めて5択――ダブルスの組み合わせを考慮するとさらに増える――になるが、どの選手と当たるかは直前までわからない。当然オーダーシートを出したあとで選手交代などもできない。
「そこを読むんですよ! 時雨さん強いから、絶対に勝ちを取りたいとこにぶつけてきます!」
聖の助言にうんうんと頷きながら、司は頭を文字通り捻るのではないかというほどオーダーシートに向き合う。
「そうなんだよな。時雨は向こうで一番強い。でも私とではこっちに分がある。でも向こうはこっちよりも地力ではるかに勝ってる。私と聖以外なら、どこに誰をぶつけても勝てる気でいる。なら――オーダーは単純に……」
司はオーダーシートに素早く選手名を書き込み、すっと瀬名高側を見遣る。時雨で笑顔でオーダーシートを持った手を振った。
それまでじっと体育館の隅のパイプ椅子で練習を見ていた瀬名高校の監督、
「両校整列!」
よく通る声で恵美が言うと、両者の間にたちまち緊迫感が生まれる。瀬名高校の生徒から親しみと恐怖を込めて「姐御」と呼ばれるその表情は、年齢によって刻まれた皺を感じさせないほどに鋭かった。
「それではこれより瀬名高校対朝代北高校の団体戦、練習試合を始めます。
シングルス1、敷島時雨――勅使河原桜」
名前を呼ばれた両者が手を挙げ、軽く一礼する。司が小さくガッツポーズをした。
「シングルス2、
ダブルス3、敷島時雨、見城青葉――柊潮、勅使河原桜。
シングルス4、見城青葉――安倍司。
シングルス5、飯島五十鈴――鵜野森砌」
砌は小さく手を挙げ、五十鈴の顔を見ないように一礼した。
試合は一台で一試合ずつ行われることになった。防球フェンス側が朝代北のベンチになり、桜がユニフォームに着替えている。
「目論見は成功だな」
司が満足げに笑う。
司が考えたのは、瀬名がシングルスの順番を単純な強さ――校内ランク順にするということだった。実際、これは団体戦の定石とも言える。最初に確実に試合を取れる選手をぶつけて流れに乗り、そのまま勝ちを取りにいく。先に3勝したほうが勝ちというルール上からも、早い段階で勝負を決めにかかるこの作戦は有効だった。
だが、それは強者の理屈。朝代北のような挑戦者は、網の目を掻い潜り一勝をもぎ取らなければならない。
「あの、安倍さん」
砌は蝋のように白い顔をしながら司に声をかける。
「なんで私が、団体戦に……?」
司は少し驚いた顔をして、砌に訊き返す。
「なんでって――言っただろ? 色々な使い方を試したいって。砌もそれに納得して、オーダーを決めたんじゃないか。紫を下げてまで組んだベストオーダーだと思うけど」
司がオーダーシートに書き込む前の最終確認に、砌は同意している。
「それは――はい。でも――」
そこで桜と時雨が呼ばれ、台に着いた。それで砌は発言する気力を失った。
「潮、よく見ときなよ。時雨はあんたの数段上だ」
「はい!」
審判は互いの学校が交代で担当することになり、紫がカウンターを持って台の横に着く。
練習とラケットの交換を終え、サーブは時雨が取った。
互いに右利き。だが時雨は基本のバック側ではなく、フォア側に着き、さらにはバックの構えで球を投げ上げた。
時雨のラケットは日本式反転ペン。サーブの際は裏ソフトを表にして行うのが普通だが、今の時雨は粒高を表にしている。
「時雨はサーブに拘らない」
裏面の裏ソフトで球を擦り、勢いのない下回転のショートサービスを桜のバック側に送り出す。
「ほとんどがあの単調な下回転。それはレシーブに絶対の自信があるから。でも」
司がにやりと笑う。
桜はバックハンドで思い切り手首を捻り、台上でスナップを利かせてボールを擦り上げる。
凄まじい横回転を加えられた高速のレシーブが、大きく曲がった軌道を描いて時雨のバック側を貫いた。
「いきなりレシーブエース――っていうかあれって――」
聖が驚愕の表情で桜の穏やかな笑顔を見ている。
「チキータ――あんなにはっきりわかるの、初めて見ました」
バックハンドのフリックで、強烈な横回転を加えたレシーブ。その軌道がまるでバナナのように曲がることから、チキータバナナから名前を取って――チキータ。
常時そうである時雨の溶けたような笑顔が、少しだけ真顔に戻っている。
「しかも滅茶苦茶速い! ほとんどスマッシュじゃないですか!」
「なんだお前ら、一緒に練習してるくせに」
「いや、てっしー先輩が速攻型っていうのは知ってたんですけど、あたしあんまり練習相手になってもらってないから……」
「同じくです」
「ああ、そうか。桜の奴、校内ランク戦のために隠しとくっつってたな。司さんに県予選の前に教えてもらって、それからずっとあたし相手にしか練習してないんだった」
「県予選の前って――この短い間にあんなチキータをものにしたんですか!?」
司がしてやったりの笑みを見せる。
「桜はセンスの塊。上達の速さは常軌を逸してるからね」
時雨の同じサーブを再びチキータで返す。今度は時雨が追い付き、粒高でストレートに返球する。
決して悪くない返球。だが、桜はフォアハンドで小さく腕を引くと、乾いた打球音を響かせる。
角度をきっちりと合わせたスマッシュ。
桜はシェイクハンドのラケットのバックに裏ソフトラバーを、フォアには表ソフトラバーを張っている。
表ソフトラバーは粒が立ったラバーで、粒高ほど粒が高くなく、球離れが速いという特徴がある。回転の影響をあまり受けず、回転をかけるのも難しいが、その性質上、角度さえ合えば強引にスマッシュに持っていくことができる。
フォアならば表ソフトのスマッシュ。バックならば裏ソフトのドライブ。その超攻撃的な戦型が桜のスタイル。
対するは県でトップの粒高使い。そうなれば必定、盤面は――。
「速い――」
息も吐かせぬ超高速の打ち合いが続いていた。
桜は速攻型という性質上、台から離れず、前陣で絶え間なく攻撃をしかける。対して時雨もまた主戦場は前陣。時雨の戦型の正式な呼び名は異質前陣攻守。相手の攻撃を即座に粒高で受け止め、一歩も引かずに打ち合う。
桜のバックハンドドライブがストレートに入る。エースを取りにいくものではなく、次に繋げるための一打。
時雨はその一打を誘導するレシーブを打った直後に、ラケットを反転していた。フォア側に入った桜のドライブを待ち構え、鋭い一撃。
これまでのラリーは桜が攻撃し、時雨がそれを高速で返し続けるというものだった。だが、この一打はそれまでのラリーの埒外。時雨から攻め――決めにいく一打。
9‐11。あと一歩でデュースに持ち込めそうだったものの、1セット目は時雨が取った。
「やっぱり強いですね」
タオルで汗を拭きながら、桜が笑う。次のセット前に朝代北側のベンチに下がり、司からアドバイスをもらうのだ。
「いや、いい感じだ。もっと前に出て、徹底的に攻めてけ。さっきのセットでは繋ぎの球を狙われたとこが多かったから、そこに気を付けて。ミスしてもいい」
「わかりました」
コートを替え、2セット目が始まる。
サーブの時、桜はラケットを反転させる。表ソフトではあまり回転がかけられないため、裏ソフトをフォアにしてサーブを出すのだ。表ソフトが赤、裏ソフトが黒――卓球では裏面とは異なる色のラバーを張らなくてはならない。
時雨は若干センターラインに近い位置でレシーブの態勢を取っていた。ペンホルダーの場合、個人差もあるが確実なレシーブはバックハンドのほうが安定する。バックを多めに取るこの場所取りが時雨の定位置だった。
桜が球を投げ上げ、ラケットを引く。瞬間、手の中でラケットが回転した。
(赤――表ソフト)
速度はそれほどないロングサービスが時雨のバック側に入る。
(うーん、不意打ちのつもりかな)
桜はそれまで全て裏ソフトで回転をかけていたサーブを2セット目の最初のサーブというこの場面で、打球の寸前で表ソフトに切り替えた。
気付かれなければ、あるいは対応が遅れれば、それまでと回転の質の違うサーブに時雨は翻弄されただろう。
だが、時雨はそこまで甘くなかった。
ラケットを引き、裏面に張ってある裏ソフトで一気に打ち抜く。
「裏面打法!」
時雨のラケットは日本式反転ペン。中国式ほど攻撃的ではないものの、同じ原理で裏面打法も可能。
強烈なドライブが台を貫き、桜は反応できなかった。
「普通、一度も打ったことのない相手のサーブなんて、初見で打ちにいけるもんじゃないんだけど――」
司が時雨の溶けたような笑顔を見て苦々しげに呟く。
「あいつ、プレーは桜に負けないレベルで攻撃的だったな――」
7‐11。今回は桜のスマッシュやドライブミスも多く、流れは大きく時雨に傾いた。
「相手は守備型なのに、攻め負けてるって感じだな……」
「そうですね……実力の差を痛感します。私のミスも多いですし……」
前のセット終わりに司に言われた通り、桜は繋ぎの打球をなくすよう、全球決めに行くつもりで打球している。卓球は元々ミスが頻発するスポーツだが、無茶な攻めにかかればそれだけミスも増えていく。
「よし、じゃあ桜、自分の思うようにプレーしてみろ」
「え?」
「さっきの私のアドバイスに引っ張られて、無茶なプレーが多くなってた。攻めることと無茶は違う。まあでも、そうなったのは私のせいでもあるか……悪かった」
司は監督としてまだまだ未熟な自分に思わず唇を噛む。
「いいか、攻めるってことは何も、全部決めにいくことじゃない。時雨のプレーを正面から見れば、厭でもわかるはずだ」
「――はい」
真剣な表情で頷いたあと、普段の柔らかい笑みに戻る。気負いすぎていない、いい証拠だ。
台に着き、構える。
時雨のサーブ。今までコースや長さは若干変えているが、基本はずっと同じ裏面での下回転。
チキータを狙いにいくには充分だが、そのチキータに今や時雨は完璧に対応していた。桜はまだあまり広角への打ち分けができず、スマッシュ並みの速度だろうと時雨は簡単に返してしまう。
時雨がサーブを放った瞬間、桜は掌の中でラケットを回転させる。
いつもと同じ、バック前の下回転。
ラケットを台と垂直に立て、弓を引き絞るように腕を縮める。そして一気に、押し出すように、放つ。
乾いた打球音と共に、真っ直ぐ台を射抜く。
「なんつー奴――」
司が驚愕の声を上げた。
(意趣返しかな?)
時雨は自分の笑みがまた引き攣っていることがよくわかった。
今の打球は、時雨が最も得意とする技術。この試合でも何回もそれで点を取ってきた。
「プッシュ――ですよね?」
聖に訊かれ、司が頷く。
主にペンホルダーで行うバックハンドの打法。押し出すように放つことからプッシュと呼ばれる。
これは異質前陣攻守での重要な攻め手だ。自分からほぼドライブが打てない粒高にとって、この安定した高速の打球はゲームメイクにおいて大きな比重を占める。
桜はバックハンドを表ソフトに反転させ、そこからプッシュを放った。シェイクではあまりメジャーな打法ではないが、粒高に性質の近い表ソフトからならば充分に可能ではある。
しかし――
「桜の奴、今までプッシュなんて使ったことなかったのに――」
「ぶっつけ本番でやったな、あれは」
いくら「練習」試合といえ、普通はその場で思いつき、今までやったこともないようなプレーを実行に移せるものではない。
類い稀なるセンス。成長速度で言えば、桜はこの場の誰よりも速い。
(でも、今のは不意打ち)
桜は再び同じサーブの構えを見せる時雨を注意深く見る。先程と同じサーブを出してくるということは、今の強襲も次は完璧に返すという自信の表れだ。今まで全て同じサーブだったということはつまり、常に桜の一歩上を行っているということの証拠でもある。
フォアで充分に狙える球はスマッシュ。
バックで台上の甘い球はチキータ。長い球はバックハンドドライブ。
今までのそのプレーに、桜はツッツキを織り交ぜ始めた。
角度を合わせにくい、低い高度で突き刺さる時雨のツッツキには、無理にスマッシュを狙わずに同じくツッツキで対処する。当然、ツッツキ合いで時雨に勝てる道理はない。あくまで繋ぎの、相手に攻撃を狙わせない打球。
幸い時雨はフリックの技術を習得しておらず、台上の浅いところにツッツキを出せば強打が飛んでくることはない。
それでも時雨の的確にコースを突いた鋭いツッツキは十二分に脅威だった。だが互いに前陣という相性上、どこに飛んでこようと即座に追い付き、すぐさま高速の応酬が始まる。
10‐8。桜がセットポイントを手にして始まったこのラリーも、高速の打ち合いが続いていた。
(駄目――)
スマッシュだろうと、ドライブだろうと、チキータだろうと、時雨は全て完璧に返してくる。一瞬でも気を抜けば持っていかれる。か細い糸のようになった集中力が、どうか切れないでくれと必死に願っている状況だった。
桜のバック側に鋭いツッツキが入る。ドライブで返せば浮いてカウンターを食らう。ツッツキならこれよりさらに鋭いツッツキで返される。
桜は自分でも気付かぬ内にラケットを手の中で回転させていた。
(多分これが、最後の悪あがき)
引き絞り、突き出す。
渾身のプッシュが時雨のフォアを襲う。時雨はラケットの真正面でそれを捉える。だがその打球はネットに阻まれ、桜のコートに届くことはなかった。
11‐8。1セット。どうにか1セットもぎ取った。
「悔しいですけど、ここまでだと思います」
朝代北側のベンチで桜は普段は絶対に見せない悲痛な表情を浮かべていた。
「時雨さんにはもう何も通用しません。さっきのは、ここぞという一点のために取っておいた不意打ちです」
セットの最初の一打以降、最後の一打まで、桜はプッシュを一切使っていなかった。時雨に打球を覚えさせず、不安定なレシーブを誘うための奥の手として残しておいた。
「だけど」
「はい、部長。諦めることは絶対にしません。何がなんでも食らいついてみせます」
そう言った桜は、いつもの穏やかな笑みに戻っていた。
「よく言った! じゃああと2セットぶんどってこい!」
桜はこのセットから完全にプッシュをものにしていた。不意打ちに用いるのではなく、純然に攻撃の一手としてプッシュを織り交ぜていく。
だがそれを受けて時雨もすぐに桜のプッシュに対応した。相手の手が一つ増えた程度で時雨は崩せない。
11‐13。デュースまでもつれ込んだが、最終的に時雨がマッチポイントをものにした。
セットカウント1‐3。時雨の勝利――瀬名高校の1勝だ。
「すみません。やっぱり勝てませんでした」
「いや、いい試合だったよ」
司が笑って桜の健闘を称えた。
「聖ちゃん」
桜がユニフォームに着替え終わった聖の胸の前に拳を突き出す。聖は一瞬呆気に取られたように固まったが、すぐに満面の笑みでその拳に自分の拳を突き合わせた。
「任せてください!」
普段よりも張り切った様子で、聖は台に向かった。
「三枝か――あたしあいつ苦手だ」
潮が練習のラリーを始めた聖と相手――未絵を見て呟く。
「未絵なあ……県で一番激しい選手だと思うよ」
司が苦笑しながら潮に同調する。
ラケットの交換が終わり、じゃんけんでサーブ権は聖が取った。
「激しいって、攻撃がですか?」
砌が訊ねると二人とも苦笑し、見ていればわかるとばかりにサーブの構えに入った聖に視線を送る。
「サーブ一本! っしゃ来いオラァ!」
雄叫びが上がった。
聖は驚きのあまりサーブの構えを崩し、未絵の顔を目を点にして見ている。
「一本! 来いオラァ!」
恫喝するような未絵の叫びに聖は慌ててサーブの構えに戻る。
未絵は右利き。左利きの聖と対すると、サーブの際にクロスの球がフォア側に放たれることになる。それは聖も同じなのだが、聖は自分の打ちたいようにしかサーブを打たない。フォアだろうがバックだろうが、上手い選手はどちらからでも攻撃に転じてくる。無論試合中に相手の苦手なコース、回転は分析し続けるが、最初の一打はどこに打とうが同じというのが聖の持論だった。
クロスへの
「ラァ!」
未絵は飛びついてドライブを放つ。
(いきなり打ってきますか!?)
かなり無茶なプレーだが、返球は台に入っている。
聖も未絵のドライブに合わせたドライブで対抗する。
バック側に来た聖のドライブを、未絵はバックハンドドライブで返す。
ストレートに入ったその打球に追い付けず、聖のミスになる。
「っしゃあ! もう一本!」
サーブの前や自分の得点の際に、声を上げる選手は少なくない。
だが未絵の場合、その迫力も声量も桁違いだった。
まるで一人で応援団をしているような、流れを強引に引き寄せる力があった。卓球はメンタルスポーツだ。自分を鼓舞するのも、相手を威嚇するのも、充分に意味を持つ。
しかも、未絵の場合はそれだけではない。
「最初のサーブ、ヤマ張って打ったな」
「ヤマ――ですか?」
砌が驚いて聞き返すと、司は苦笑いで答える。
「最初っから攻めに行くことで、無理矢理自分のペースに持ち込む。入ればラッキー、入らなくても脅しになる。未絵は流れを支配することにかけては一流だよ。指導一歩手前だけど」
「一本! 来いオラァ!」
聖は特に慌てた様子もなく、バック前に横回転のサーブを出した。
「フッ!」
未絵はそれをバックハンドのフリックで払う。
左利きの聖が巻き込みサーブやYG(ヤングジェネレーション)サーブなどの逆横回転ではなく素直に横回転を出すと、左回転になる。それが右利きの未絵のバック前に来ると、そこから打ちにいけるコースは限定される。
即ち、クロス。聖のフォア側。
卓球のサーブに付加される回転は凄まじい。直接受ければ軌道が目に見えて変わるのがわかる。その回転に逆らってコースを狙うのは、余程台上処理に優れていなければリスクのほうが大きい。
聖はコースを誘導し、その打球が来るところですでに構えていた。
強烈なドライブがストレートに決まる。
「リャア!」
だが未絵はそれに追い付き、カウンターを決める。聖が素早く飛びつき、バックハンドドライブで打ち返す。
試合は完全にドライブの打ち合いの様相を呈してきた。互いに一歩も引かないドライブの応酬。
未絵の戦型は超攻撃的ドライブマンだとわかる。それに圧され、聖はじりじりと台から下がっていく。
「進藤ってパワーはないんすね」
潮が未絵の攻撃に後退していく聖を見て呟く。ドライブの勢いの差は一目瞭然だった。
「でも、力押しじゃ聖には勝てないよ」
司がにやりと笑う。
未絵のドライブがバックの深いところに決まる。聖はそれを咄嗟にブロックで返す。だが球は浮き、未絵の強烈なドライブが放たれた。
聖は台から離れたところでそれをカウンタードライブで迎え撃つ。未絵もまたそれをカウンターで返し、両者は対角線上で向かい合う。未絵はフォア側、聖はバック側で回り込んでのフォアハンドドライブ。
聖は身体を折り畳むかのような無理な体勢になると、ストレートにカウンターを放った。
フォア側に大きく身体を移動させていた未絵はそれに追い付けず、聖が得点する。
すぐさま身体を元に戻していた聖はよしとばかりにガッツポーズを決めた。
「あんなの返せるわけない――」
紫が呟くと、司がそれは少し違うと訂正をする。
「あんなコースに打てるはずがないんだ――普通はな」
ドライブの応酬に発展したラリーでは、互いにほとんど打てるコースが限定されしまう。一瞬でも気を抜けば終わってしまう緊迫感の中、全力のドライブを打ち合うと、身体の向きは互いに固定される。全く逆のコースを狙うとするのなら打球のリズムを変え、ブロックやロビングに切り替えるくらいしか方法はない。
とはいえ打ち合いの中固まる時間はあくまでわずかなものだ。ドライブ対ドライブの鍔迫り合いの中ではその時間が凄まじく長く感じるが、ドライブからブロックやロビングに打ち変えてコースを狙えば普通は追い付かれる。
ところが聖はカウンタードライブで、逆のコースを突いて見せた。
聖はドライブの応酬の中、本来ならありえないコースに打ち分けることができるずば抜けた技術と、それを可能にする身体能力を持っていた。
素の能力の高さだけでも地区大会で優勝でき、相手が強くなればなるほどこの常軌を逸した打法が活きてくる。『神童』という呼び名は全国の舞台で与えられたものだ。
11‐6。聖がまず1セットを取った。
そのままあっという間に残り2セットを奪い、この試合をものにした。
「てっしー先輩! 潮ちゃん先輩! 頼みます!」
にこにこと笑う桜とその呼び方やめろと悪態を吐く潮が台に向かう。審判として砌もカウンターを受け取る。
ダブルスは強い者同士が組んだからといって勝てるとは限らない。互いの戦型の相性や、どの打球が得意かなどの相互理解が必要になってくるからだ。
司は砌と聖が入部する前から様々な組み合わせのダブルスを試していたが、現状一番しっくりくるのが桜と潮の組み合わせだった。
互いに前陣型。高速の打ち合いを得意とする者同士。打球のリズムは潮のほうが遅いが、それがかえって桜の打ち方に合うようだった。
桜が攻め続け、潮が守りながら的確にコースを突く。卓球のダブルスでは一打ごとに交代して打たなくてはならないので、シングルス以上にコースを突く戦略が活きる。
対して瀬名高校側のダブルスは、絶対防御の時雨に、カットマンの青葉という組み合わせだった。瀬名高校は一年前からずっとダブルスはこの組み合わせだ。
じゃんけんの結果時雨が勝ち、サーブは瀬名高校側が取った。時雨のいつもと同じ構えからのサーブ。受けるのは桜だ。
ダブルスでのサーブは台の右側から対角線上にしか出すことができない。サーブからはほとんどコースを突くことができないので、レシーブ側のほうが有利な場合が多い。
じゃんけんの勝者はサーブかレシーブ、好きなほうを選べるというのに、サーブを取ったということは、サーブに絶対の自信があるか――打たれても平気ということか。
時雨のサーブを桜はフォアハンドフリックで強引に払う。
青葉は台から離れた位置でそれを身体を沈めて切るように打つ。下回転をかけて相手の打球を返し続ける。青葉レベルのカットマンを打ち崩すのは容易ではない。
下回転で返ってきた球を潮はツッツキで返す。それを時雨がプッシュで強襲し、見事にコースを突かれて桜が追い付けずにミスになる。
ダブルスでは1セットごとに打ち合う相手が変わる。今は桜の攻撃を青葉がカットで受け、潮がそのカットをツッツキ、時雨がそれを打ち返す――そして桜が攻めるという形だ。
司はこの組み合わせが上手くいくことを予想して、自然に1セット目にこの打順にするよう二人に指示を出した。時雨は1試合目で桜の攻撃を受けることに慣れている。逆に言えば桜は時雨の打球を打ちにいくことに慣れている。そこで桜の打球を青葉が受けるように仕組んだのだが、逆に潮のツッツキを時雨が一層鋭いツッツキやプッシュで狙ってくる形になっていた。
異質前陣攻守という戦型上、フットワークは無論重要になる。打ち合いは凄まじく速くなり、一瞬の判断とそれを動作に移すことが生命線になるだからだ。
時雨も潮もそのことはわかっている。だが時雨は潮の何歩も先を行く。技術だけでなく、それを最大限に活かす身体能力すらもだ。
潮の打球は、どうコースを突こうが、時雨に追い付かれていた。
これは異質前陣攻守とカットマンの組み合わせの妙でもある。前陣型である時雨と、後陣型である青葉。互いが互いの領域を侵さず、どちらも万全のフットワークで打っている。
ほぼ十全なフットワークで動くことのできる時雨にとっては、潮の小手先の打球など易々と打ち返せる程度のものだった。
「おい桜」
潮が桜の耳元で短く告げる。
7‐9。瀬名高校側のリード。
時雨のサーブを桜は攻めにいかず、ネット際にツッツキで落とす。今まで見せなかった桜の打球に、若干動きが遅れた青葉が前に出てツッツキでフォア前に返す。
潮はそれを待ち受け、フォア側のネット際ぎりぎりに鋭いツッツキで差し込む。
さながら野球の投手のクロスファイヤー。鋭利な角度で突き刺さるその一打を、流石の時雨も追い付くことができずに朝代北の得点になる。
恐らく、青葉が後陣でカットした打球を同じように打ってもこうはいかなかっただろう。
桜が時雨の打球を攻めにいかず、手前に落としたことで、青葉が前に出た。それによって時雨のフットワークが一拍遅れた。一瞬の隙を狙った潮の一撃。
それを作り出すために桜に指示を出した。全てを攻めにはいかず、パートナーである潮の攻撃が有効になるように打球を導く。それを即座に行動に移せるだけの信頼が二人にはあった。
尋常ならざる成長速度を持つ桜は、中学から卓球をやっていた潮をすでに追い越しているのかもしれない。
潮がそう気付いたのは、一年生最後の大会だった。
潮は県大会の初戦で敗退し、桜は三回戦まで進んだ。
無論、卓球に相性はつきものだ。それでも結果が全てであることもまた事実。
潮は一瞬の内に、その現実に打ちのめされた。
司の厳しい練習に周りの部員が次々辞めていく中、残ったのが潮と桜の二人だった。
桜は高校から卓球を始めた初心者。司や紫が指導することもあったが、最も緊密に練習に付き合ったのが潮だった。
正直、最初は司に言われて厭々付き合っていた。誰よりも司の強さに憧れた潮は、一球でも多く司と打ち合いたかった。それでもその司から言われたとあっては断れない。
桜にはラケットの握り方から何から何まで潮が教えた。基礎ができ上がり、戦型を決める段階になって、桜は速攻型にすると自分から言い出した。
「だって、潮ちゃんと打ち合えると楽しいから」
無邪気な顔でそう言って、桜はあっという間にその戦型をものにした。
部内の試合で、潮が桜に負けることはなかった。自分が教えた相手だ。どのコースが苦手か、どんなサーブを持っているか、どんなリズムで打ってくるか、全部わかっている。
それで――ずっと桜が潮を超えることなどないと思っていた。
だが、桜は潮の上に行った。一回戦と三回戦程度の差でしかないのかもしれない。それでもその差は想像以上に広い。トーナメント形式である以上、試合が進むにつれて相手も確実に強くなるからだ。
それから一週間、潮は桜の練習相手をしなかった。なにかと理由をつけては、司と練習したいと駄々をこね、紫と練習することもあった。
一週間後、司が快活に笑って潮と桜で試合をするように勧めてきた。
司の勧めを断れる潮ではない。だが、司はそれを知っているはずなのに、この一週間潮に桜と練習をしろとは言わなかった。
試合の結果、潮は負けた。それまで知っていた桜とは違う反応が返ってきて、戸惑いだけではなく、純粋に実力の差で負けていた。
心が折れそうになる。当然のように勝てていた相手に負けた。それは気付いてしまった残酷な現実をより鮮明にする。
だが、泣いていたのは桜だった。
「桜はな、ずっと潮に勝ちたかったんだ」
司が泣きじゃくる桜をよしよしと抱き留めながら言う。
「言い方は悪いけど、潮は桜の練習相手を務めることで、桜の急成長についていくことができていた。この一週間、桜は私と紫と打ち合って、潮と打ち合う時とは違う癖を突貫工事でつけた。それについていけなくなったんだよ」
それは――ずっと前から桜のほうが潮の先を行っていて、潮がそれに食らいついていたということではないか。自分が教えてきた相手に、抜かれていた。潮はそれに気付かず、ずっと自分のほうが上だと勘違いし続けてきたのか。
「なんで――」
音が出るくらいに歯を噛む。
「じゃあなんでこいつは泣いてんすか! そんなにあたしに勝てて嬉しいかよ! 泣きたいのは――」
「嬉しいよ――嬉しいに決まってるじゃない!」
涙を溜めた目で、桜は潮を見据えた。
「私、ずっと潮ちゃんと対等に打ち合いたかった。でも、潮ちゃんはいつまでも、私のことを教え子としか見てなかった。実際、試合しても潮ちゃんには負けっぱなし。でも――やっと、勝てた! だから! 潮ちゃん!」
桜は強く潮の手を握る。
「私を、認めて――」
はっとして、潮は桜の目を覗き込んだ。
今までずっと、潮は桜など眼中になかった。勝てて当然の相手、いつまでも自分の下にしかいない相手だと思い続けてきた。
気付いていなかったのは、潮のほう。
もっと辛かったのは、桜のほう。
「――わかった」
潮は穏やかに桜の肩を小突く。
「お前には負けねえ。負けたくねえ。次は! 絶対に! あたしが勝ーつ!」
11‐9。
4連続ポイントで最初のセットを手にしたのは潮と桜だった。
「いい考えだったな、潮」
司に言われ、潮は嬉しそうに背筋をぴんと伸ばす。
この4得点、桜は積極的に攻めにいかず、青葉を前に誘い込み、潮に繋げる返球に徹底した。攻撃型の桜が攻めず、得点を決めたのは守備型の潮のツッツキ。潮の狙いすまされた鋭いツッツキは十二分に武器として通用する。
2セット目。潮からのサーブ。受けるのは青葉。
下回転のサーブを青葉はよく切れたツッツキでバック前に落とす。
桜はそれを限界まで捻り上げたバックハンドで強引に打ち抜く。
チキータ。桜にはこの武器がある。
だが時雨は即座に腕を伸ばし、先程の試合と同じく、完璧に返球する。
潮はそのレシーブの勢いを殺してネット際、センターラインの上に置きにいく。
一気に前に飛び出した青葉のレシーブは、わずかに浮いてフォア前に落ちる。
桜はそれを表ソフトのスマッシュで打ち抜いた。
決まった――と思ったのがまずかった。フォア前の浅い打球をスマッシュにいくことで台に密着した上、その考えが頭をよぎったことで足が止まる。
時雨の無慈悲な返球がフォア側に決まる。そこは潮にとっては桜の身体が壁になっている、手の出しようがない場所。
「ごめん、潮ちゃん……」
「気にすんな。あれを返す向こうがやばい」
桜の打球は、時雨にとっては打ち返すのも手慣れたものだった。フォアハンドのスマッシュ、バックハンドのチキータにプッシュ。それらがいとも容易く返ってくる。
桜の打球が速くなればなるだけ、時雨の返球も比例して速くなっていく。しかも時雨はその返球で的確にコースを突き、潮に追い付くことを許さない。
7‐11。このセットを取ったのは時雨と青葉。
3セット目、打ち合う組み合わせは1セット目と同じになる。
このセットでも桜は球を前に落とす手に出た。
青葉を前に出し、その隙を突いて潮がツッツキでコースを狙う。
だが、先程と同じようにはいかなかった。
潮のツッツキに時雨が追い付く。隙がまるでなくなっているのだ。
「青葉の奴――前に出てる」
司が忌々しげに笑う。
青葉はこのセット、桜のスマッシュを待ち受けるように後陣に下がるのではなく、台の近くに陣取っていた。
桜が球を前に落とすことが有効なのは、青葉が後陣に構えるからだ。そこから一気に前に飛び出すことでダブルスの呼吸が乱れ、時雨の隙を生み出す。だが今は前陣で桜の落とす球を待ち構えている。
桜が打ってこないことを見越した、挑発的とさえ思える陣取り。
「それを黙って見てる桜じゃない」
桜は腕を一気に振り抜く。前に出ているというなのならスマッシュを打ちにいくだけだ。
(けど、それに対応できないオバちゃんでもないんだよねー)
青葉は桜の腕の動きを見ると、一瞬で自分の主戦場である後陣へと跳ぶ。桜のスマッシュをカットすると、潮がそれをツッツキで射抜くが、時雨が追い付いて裏面打法で決める。
カットマンに対し前後に揺さぶることは有効だ。だが今の試合形式はダブルス。青葉を揺さぶっても、その隙を時雨が埋めてしまう。さらには前陣に構えて打球を見極めて後陣に下がるという今のスタイルは、1セット目で有効だった時雨の隙すらも埋めてしまう。
完成されたダブルスという面では、時雨と青葉は潮と桜のはるか上をいく。
「桜」
潮が桜に短く耳打ちする。
「できるか?」
「ぶっつけ本番だけど、やってみる」
笑い合い、構える。
桜のスマッシュを青葉は先程と同じようにカットで返す。潮はそれをプッシュで時雨のミドルを狙う。
時雨は落ち着いて打球の勢いを殺して返球すると、桜が腕を引き絞る。
青葉がそれを見て後ろに下がった。
腕を振り抜きつつ、インパクトの瞬間に力を一気に抜き、ラケットを切るように球の下に入れ、急ブレーキをかける。
桜の打球は勢いをなくして台上に落ちた。
「おいおい!」
思わず青葉が声を上げる。
いくらフットワークに長けていようが、人間は瞬時に逆方向に進むことはできない。青葉の場合は、後ろに跳んだところに台上で2バウンドする打球が飛んできた。前に出たいが、身体は言うことを聞かない。
桜の打球は台上に転がり、床に落ちた。
「ふぇ、フェイント――」
紫が呆気に取られたようにそう呟く。同じカットマンとして、色々と思うところがある。
「普通あんなことやらない――というか、やりたくてもできない。本当に――あいつは!」
ぶっつけ本番で新しいプレーを行う度胸。それを可能にする卓越したセンス。
警戒すべきは司と聖だけではない――そのことを瀬名高校にわからせるのには、充分だった。
だが、桜の奇策はそう長くは効かなかった。青葉は位置取りを台から少し離れた場所にして、前に落とされる球にもスマッシュにも柔軟に対応できるようにスタイルを変えた。
そもそも、桜のフェイントは相手が下がり始めたところに打つから有効なのであって、桜のインパクトの瞬間にその場に立ち止まっていれば、すぐに対応できる。
それに加えて打球自体は回転もほとんどかかっていない、勢いの弱いだけのものだ。下手をすれば打ち頃の球になりかねない。
フェイントが封じられたことで、桜は大して動揺しなかった。そう何度も通用するような打球でないことは打った桜自身が一番わかっている。
だがその分、青葉にスマッシュが有効になってくる。
中陣に位置を取れば、後陣の時よりもカットに余裕はなくなる。身体を沈めきれず、中途半端な体勢での返球になるため、回転は弱くなり打球は浮き上がる。
潮がそれを狙い、ドライブで打ち抜く。
しかし、その先には時雨が待ち受ける。
8‐11。流れが一瞬こちらに傾くかに思われたが、それを凌駕する堅牢な壁が立ちはだかる。
「本当に隙がないっす」
汗を拭きながら潮が舌打ちをする。
「うん……でも」
「ああ。桜にばっかいい格好はさせねえ」
砌は瀬名高校側のカウンターを11に捲り、セットカウントを1‐3になるように捲る。カウンターを床に置き、肩を落とす潮と桜と一緒にベンチに下がる。
「二人とも、よくやった」
ユニフォームに着替えた司が二人を労い、すっと表情を切り替える。
「じゃあ、しっかり見とけ」
司と青葉の試合は、あっという間に終わった。
司の凄まじい両ハンドパワードライブが、青葉を蹂躙した。まともにカットすることすら許さず、カットしようと一打前より強力なドライブが飛んでくる。2セット目の途中で、青葉の腕がじんじんと震え出したほどだ。
セットカウント3‐0。圧倒的な力の差で、2勝2敗に持ち込んだ。
「みぎ――」
ユニフォームに着替えた砌を激励しようとした司だったが、その表情を見て言葉を失った。
「そりゃ、勝ちますよね。いいんです。練習試合だから、どうせ5試合目もやるんですし」
その言葉は司に向けられたものではない。
「おい、鵜野森――」
審判を務める潮が声をかけるが、砌はじっと握ったラケットを見つめている。
「おーい、早く来いよォ」
台の向こうで五十鈴が声を上げる。それを聞いて砌は無言で台に向かう。
「ははっ、練習試合とは言え、あの時を思い出すシチュエーションだなァ。汚名返上して見せたらどうだ?」
練習のラリー中、五十鈴は酷薄な笑みを浮かべて砌を挑発する。
これに動揺したのは、瀬名高校側だった。
「ねえオバちゃん、五十鈴ちゃんってあんな子だった?」
「いや――確かに少し挑戦的なところはあるが、練習は至って真面目にやってる。試合相手を煽るなんてことは――未絵じゃあるまいし」
「ちょっと! 最後の余計じゃないですか! でも、確かに妙っすよね」
サーブは砌が取り、互いに構える。
だが五十鈴の構えは、ほとんど棒立ちだった。
「どうした? 来いよ。お前相手にわざわざ構えるまでもないって」
砌は無言でサーブを出す。五十鈴はそれを、高々と打ち上げた。
当然チャンスボールとなって砌の台でバウンドするが、砌はスマッシュを打てない。そのまま返し、同じくチャンスボールとなって五十鈴の台に浮く。五十鈴はそれを思い切りスマッシュする。
「相も変わらずポンコツってわけか」
酷薄な笑みを強め、五十鈴は遠くに飛んだ球を拾いにいく砌の背に罵声を浴びせる。
「あいつ! まともに試合する気ないのか!」
聖が怒りを露わにするが、司は落ち着いて分析する。
「あの子、砌と同じ中学って言ってたな。あれは砌の最大の弱点をわかって、あえてやってるんだろう。普通は実行には移さないけど」
「弱点? スマッシュが打てないってことですか?」
「それは実力者相手になればかなりカバーできる。現に砌は聖に勝ったことがあるんだろ? 問題は、相手がまともな試合を放棄した場合だ」
普通に試合をすれば、今のようなあからさまに高い球が上がることはほとんどないと言っていい。砌はその暗黙の了解の上で戦っているわけだが、それを破られては手の打ちようがない。
次の砌のサーブも、五十鈴は高く浮かせた。砌のレシーブを思い切り台に叩き付け、五十鈴は笑う。
「なんだった?
五十鈴はサーブから高い球を上げた。
「『全ての球を返せば、絶対に負けない』?」
砌のレシーブを直接叩くことなく、高く打ち上げる。
「嬲ってやがんのか……!」
聖が怒りを露わにするが、当の砌はそれを力なく返球する。
「ほら、御影ちゃんの真似だ」
それまで続いていた間延びした打球音が――止んだ。
「砌……?」
砌はバウンドした球を手で掴んでいた。その球とラケットを台の上に置くと、五十鈴の側のコートに歩いていく。
静かだった。静かすぎた。ゆえに誰もが、反応が遅れた。
「私を馬鹿にするのはいい。私はどうしようもないポンコツだから」
別段、普段と変わらぬ声。
「だけど、御影さんを愚弄することだけは、絶対に許さない」
「おい鵜野森!」
最初に気付いたのは審判をしていた潮だった。
砌は怒りの極致にいた。面には何も出ていないのに、その姿を見た潮は肌がちりちりと焼けるような感覚を受けた。
あまりに静かで、あまりに強い怒りだった。慌ててベンチから飛び出した司に腕を取られても、砌は五十鈴に向かっていこうとした。
「砌! 何やってんだ!」
とうとう聖に羽交い絞めにされ、それでも砌は止まろうとしなかった。
「今は試合中だ。これがどういう意味か、わかるな」
司はそう言って砌と五十鈴の視線の間に割って入った。完全に向こう側に行っていた砌の目が、ゆっくり現実に戻ってくる。
「――すみません。試合はきちんとやります。進藤、放して」
恐る恐るといった様子で聖が砌を解放すると、言葉通り砌は自分のコートに戻り、ラケットを握ってピン球を五十鈴に打って渡した。
「飯島、プレースタイルに口は出さないが、これ以上の挑発行為は見過ごせない」
「すんません。気を付けます」
青葉に小さく一礼し、五十鈴は同じ高いサーブを放った。
「砌――そうか――そこまで――」
司は絶句していた。
卓球はメンタルスポーツだ。対戦相手に怒りを覚えれば、プレーは荒くなるのが自然である。未熟な者の中には完全にキレて、試合を放棄してスマッシュを相手の顔に向けて打ち続けるような輩までいる。
相手との顔の距離が近く、少しの感情の機微さえ伝わり、それをボールに伝えることすらも容易なスポーツ。
砌は、そのプレースタイルを全く変えていない。変えずに、五十鈴に打たれ続けている。
砌の怒りは本物だ。クソ真面目とまで称した砌が、プレーを中断してまで五十鈴に掴みかかろうとした時は司は我が目を疑った。正直、今でもまだ信じられないでいる。
その身を焦がすほどの怒りを秘めながら、砌は自分のスタイルを貫いている。
怒れば怒るだけ、球を強く打ちたい、怒りをぶつけたいと願うものだ。スマッシュはそれに応える、最も簡単な手段である。
加えて、五十鈴は今、スマッシュを打つ絶好球を上げ続けている。
今の正解はあるゆる面で、スマッシュを打つことなのだ。だというのに、砌はスマッシュを打たない。
感情とプレーを完全に切り離しているのか――それとも、ここまでお膳立てされてもなお、スマッシュが打てない決定的な何かがあるのか。
0‐11。
0‐11。
0‐11。
セットカウント0‐3。
勝者は五十鈴。3勝2敗で瀬名高校の勝利。
今回はあくまで練習試合。団体戦は最後にもう一回行うが、その前に各自が個人個人で自由に試合を組む。
体育館の隅で無言で下を向いたままの砌に、声をかける者はいなかった。腫れ物には触らないというのが賢い選択であったし、砌もそれを望んでいた。
誰とも話さず、何も聞かず、何も見ず、砌は気付いた時には家に帰っていた。
翌日の月曜日、砌は学校にも行かず、家から出なかった。
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