三章 個人戦地区予選

 四月中旬。朝代市体育館。インターハイ地区予選は県予選の前に行われる、県よりももう一つ小さなブロックでの大会だ。

 朝代北高校が属するのは東部地区。朝代市と隣の伊作市が含まれる。

 鬼島駅に集合し、朝代駅まで電車、そこから徒歩で約10分。朝代市体育館のスタンド――この場所には各学校伝統の縄張りがあるので、砌と聖は司に教わった――に荷物を置いて、砌達はラケットを取り出した。格好はすぐにでも練習を始められるように家からずっとジャージ姿だ。

「砌ぃ! 練習付き合って!」

 大会の開場から開会式までの間まで、選手達は設置された台で基礎練習を行うことができる。ただ、基本的に台は足りないので4人で一台、多いところは8人以上で一台を譲り合って使うことになる。

 男子に比べて女子の競技人口は少ないのでまだ余裕があるが、その分割り当てられる台も少なくなる。砌と聖がフロアに下りた時にはすでに全ての台に人が着いていた。

「おい! こっち入れ!」

「潮ちゃん先輩! 助かります!」

 その呼び方やめろと悪態を吐きながら手招きする潮に導かれ、潮と桜がついている台に入れてもらう。

 スペースは基本的に足りない。そのため、一台には一回に4人が二人一組でそれぞれクロスに着く。4人だけならばそのまま練習をするのだが、クロスにそれより人が増えると、ミスをする度にその組みが一旦台を離れ、後ろに控える組みと入れ替わる。

 今砌達が着いている台には6人が着いていた。砌と聖は桜と潮の後ろに入ったので、隣のクロスで打っている選手達は交代の煩わしさに頭を悩まされることはない。クロスは左右で全く別の空間として隔てられ、互いに不可侵という暗黙の了解がある。

 両方のラリーが終わる度に入れ替わり立ち替わり台を移動するのははっきり言って割に合わない。それに今回の場合、同じ学校同士で交代するほうが気持ちも楽だ。

 ただ――

「おい! ラリー長すぎんぞ!」

「いや、砌が全部返すから……」

 聖が思い切り強打するが、砌はそれを勢いを殺して返球する。それがもう20回以上続いていた。

 再び強打する聖の球を砌は上に向けたラケットで弾き、ピン球を手の中に収める。

「すみません。交代しましょう」

 後ろの桜に一礼して入れ替わる。

「あら、気を使わなくてもいいのに……」

 桜は穏やかに笑いながら台に着くと、潮とラリーを開始する。

 女子シングルスはベスト32までが県予選に進むことができる。シードがなくとも3回勝てば県に進める。実力的に、朝代北の選手はほとんどが県予選まで進むだろう。

 だが、砌はわからない。

 なにせ中学三年生の市民大会で聖に勝つという偉業を成し遂げておきながら、そのあとすぐに負けたというよくわからない有様である。

 開会式が終わり、スタンドで待つ時間が始まる。

 選手の数に対し台の数が――特にトーナメント序盤は――足りないので、他の選手の試合が終わり、台が空き自分の試合が来るまでじっと待たなければならない。

 当然のように第1シードの司は二回戦まで出番がない。中学時代の成績を考慮してか四隅ではないがシード権を得ている聖も同様だ。数合わせのためにシードではないが二回戦から試合が始まるのが紫。一回戦から試合があるのは残った3人だった。

「じゃあ行ってくるね」

 アナウンスが入り、桜の名前と対戦相手の名前、試合を行う台の番号が読み上げられた。ちなみにアナウンス係は「勅使河原」の読み方に難儀し、実際に桜の名前が呼ばれるまでに相当手間取ったが、桜はいつものことだからと笑いながらその間にジャージを脱いでユニフォーム姿になっていた。

 続いて潮の名前がコールされ、その十分ほど後に砌が呼ばれた。

 台に着き、相手が来ると練習のラリーを開始する。相手のたどたどしさから、高校から卓球を始めた一年生だとすぐわかる。

 ラケットを交換し、確認する。シェークのラケットに攻撃的なラバーが張られていた。

 じゃんけんをし、サーブ権は相手が取った。

 相手のサーブ。回転のほとんどかかっていない、しかも長い甘すぎるサーブ。卓球を始めて半月ならばこんなものだろう。

 砌はそれをいつも通り勢いを殺して返す。

 相手はラケットに当てただけの返球。高い球が台に入る。砌はこれも強打せずに返す。

「――初心者と本当に上手い選手が基礎練習のラリーをすると、きちんと続く」

 スタンドで砌の試合を見ていた司がそう呟いた。

「あ、わかりますそれ。あたしも中学の頃基礎練習そんな感じでした。あれ、実際にきついのはこっちなんですよね。初心者相手だと球がどこ飛んでくるかわからないし、それを全部相手の打ちやすいとこに返さなきゃならなくて」

 聖の言葉に頷き、司は砌の試合の点数を見る。

「って、ええ!? 砌負けてる!」

 聖が驚愕の声を上げると、砌がミスをして相手が1セットを取った。

「砌は言うならば相性勝負か」

 砌は相手の球をほとんど全て綺麗に返球する。相手はそれをしゃにむに返球するが、そこは初心者特有の変則的かつ読み合いの存在しないコースに意表を突いて飛んでくる。しかも相手の返球が大きく浮いていれば、砌の返球もまた浮かぶ。そこを狙ってスマッシュを決められれば、いくら砌でも返せない。

 結局、砌は1セットこそ取ったものの、簡単に3セットを先取されて一回戦で敗北した。

 試合で負けた選手は次にその台で行われる試合の審判をしなければならない。砌はその務めを終えると、無言でスタンドに戻った。

「砌――」

 聖が声をかけようとするが、司が止める。

「お疲れ。色々参考になる試合だったよ」

「そうですか」

 特に落ち込んでいる様子はない。負けるのが当然という気持ちで戦っているのだろう。勝ち負けへの拘泥が薄い――それは砌のプレースタイルにも表れている。

「砌は団体戦向きだね」

 瞬間、砌の表情が信じられないほど曇った。

「あの! 見たでしょう? 負けたでしょう? 私、どうしようもなく弱いんです。団体戦なんかに出たら、チームに迷惑かけるだけだと……」

 砌には珍しく強い口調で司に食ってかかる。

「砌が弱いわけないってのは、聖が保証してくれてる。要は相性なのよ。私が勝てないような相手でも、砌をぶつければ勝ちを取れる可能性がある。そういう使い方を考えてる」

「困ります」

 食い下がる。

 司は砌がここまで拒否反応を示すことに驚いていた。だが動揺は面に出さず、落ち着いて砌を言い含める。

「まあ、すぐにってわけじゃない。きちんと砌の特性を把握して、練習試合で試してから。インハイ予選までには形にしたいけど、やっぱり無理だったってことになったらその時はごめん」

 そこで司の名前が呼ばれ――つまり二回戦が始まった――、ベンチのことを頼むと言い置いてフロアに下りていった。紫はその試合を見に反対側のスタンドへと向かった。

「砌!」

「あらら、なんでお前がここにいんの?」

 聖が何かを言おうとするが、その前に軽薄な調子の声が割って入った。

 鋭い目付きに、すっと通った鼻筋。スタイルがいいというよりは痩せぎすと呼んだほうがいい身体付きだが、その顔に浮かべた酷薄な笑みと合わさり不思議な魅力を醸し出している。

飯島いいじま――」

 砌が急に小さくなったようだった。

「おっかしいなァ? 確か引退の時に高校では部活に入らないって宣言してなかったけ? それがなんで試合に出てるのかなァ? 変だなァ?」

 音がするのではないかというほど歯を食いしばり、砌は俯いたまま沈黙する。

「ちょっとあんた! いきなりなに! 砌に文句があるならあたしに言え!」

「へえ、『神童』が朝北なんかに入ったっていうの、本当だったんだ」

「あたしはもうガキ――」

「で、答えろよ。なんでお前がここにいる」

「それは――」

「使えないポンコツが何してるんだって訊いてんの。見てたよさっきの。例によって一回戦負けって、ホントにポンコツだよな」

「――うん」

 俯いたまま頷く砌。

 それで、完全に切れた。

「にゃあああああ! だから! 砌に文句があるなら私に言えって言ってんでしょ! 砌が弱いっていうならあたしに勝ってから言え!」

「ああ、そういえば『神童』って、このポンコツに負けたんだったね。それで肩を持ってるわけ?」

「それから砌も! なんで黙っていいように言われてるの! あんたはあたしに勝ってるんだよ! もっと自覚を持て! で! いきなり出てきたあんた誰?」

「飯島五十鈴いすず。中学の時、そのポンコツと同じチームだった。っていうか、覚えてないの? 流石だなァ『神童』。自分より下の奴には興味ゼロか」

 五十鈴は吐き捨てるように言って、酷薄な笑みをさらに強める。

「砌を馬鹿にすんな」

「はいはいごちそうさま。でも、あんたよりあたしのほうがそいつのことはよーく知ってるよ。どれだけ使えないポンコツかってこともさァ」

「あたしは砌が強いことを知ってる」

「あたしはそいつが弱いことを知ってる」

 一触即発の空気は、聖の名前がアナウンスされたことで崩れた。

「急いだら?」

 五十鈴が言うと、聖は砌の顔を見上げる。

「急いだほうがいい」

 砌はそれだけ言って、聖から目を逸らした。

 聖はユニフォーム姿になると、ラケットを持ってフロアへ下りていく。

「いい友達ができたじゃないの」

「そんなんじゃ――」

「おい」

 スタンドの一番上で桜と様子を窺っていた潮が、我慢ができなくなったのか下りてくる。

「ウチのもんに喧嘩吹っ掛けるとはいい度胸だな」

「喧嘩のつもりはないんですけどね。昔の知り合いにちょっかいを出しに来ただけですよ」

「お前、瀬名高か?」

「ええ。瀬名高校一年の飯島です」

 潮に対しても五十鈴の笑みは消えない。

「こら潮ちゃん。よその学校と揉め事起こさないって部長との約束でしょ」

 穏やかな笑みを浮かべて桜が潮を止めに入る。

「後輩が喧嘩売られてんのを見過ごせるか」

「大丈夫です先輩。喧嘩じゃないです」

 砌はそう言って潮を押し止める。

「飯島」

「そうだな鵜野森。挨拶はした。また今度きちんと、な」

 五十鈴は最後まで笑みを消さず、ひらひらと手を振って自分の高校の陣取るスタンドへと戻っていった。

「全部は聞こえなかったけど、なんかやばい雰囲気だったんで出てきた」

「ありがとうございます。でも、本当になんでもないんです。単なる昔馴染みの会話ですから」

「砌ちゃん、本当に辛い時はきちんと辛いって言わないと駄目だよ?」

「いえ、大丈夫です。それに――飯島の言ってたことは、全部正しかったから」

 地区予選の結果、砌以外の部員は全員県予選に進んだ。決勝は司と聖が激戦を繰り広げ、司が制した。

「はい、お疲れ。砌は残念だったけど、県大会に出るチャンスはまだある」

 団体戦は地区予選がなく、県予選からスタートする。司が言っているのはそういうことだろう。

「で、団体戦のインハイ予選の前に、今のチームの運用方法を色々試してみたかったから、練習試合を組んでもらった」

「弓削先生が仕事を……?」

 紫がずっとスタンドで眠りこけていた鏡子に視線を向ける。今は帰宅の準備を終えたので、目は開いている。

「言っとくけど、私は安倍さんに言われた通りに向こうの先生に頭下げに行っただけだから。細かいとこは全部安倍さん任せね」

「ありがとうございました」

 司が頭を下げたのを見て砌達も慌てて感謝の礼をする。

「だからいいって。じゃあ引率はここまでね。家に帰るまでが試合だから気を付けるように」

 大欠伸をかましながら鏡子は体育館を出ていった。

「練習試合の相手だけど、瀬名高校に決まった」

「瀬名高!」

 瀬名高校は砌もよく知っていた。

 スポーツ推薦枠を設ける運動部に力を入れた高校で、東部地区では恐らく最も力のある高校だ。

 そして、そこに推薦枠で入ったのが五十鈴だった。

「知っての通り瀬名高は県予選で毎年ベスト4に入る強豪校だ。そんな相手と練習試合が組めるなんてそうあることじゃない」

 司はそこで聖を見て苦笑した。

「まあ要は、聖が入ったことで朝北ウチが警戒すべきチームになったってことなんだろうけど」

 高校での団体戦は5試合行い、4試合あるシングルスには全て別の選手、3試合目のダブルスにはシングルスに出た選手でもダブルス用の選手でも組める。最低で4人、最大で6人で行うのが団体戦だ。

 その中で飛び抜けて強い選手が二人いれば、シングルス二つとその二人で組んだダブルスでセットを取れば3勝で団体戦を制することができる。全国レベルの選手が二人揃った今の朝代北高校は充分に警戒すべき相手となったわけだ。

「腹立ちますね。あたしらには用なしってか」

「潮ちゃん、でもさっきの部長と聖ちゃんの試合見たでしょう?」

 確かに、地区予選ではそう見られないレベルの試合だった。それを同じ高校の二人が繰り広げているとなれば、どこだろうと警戒するのは当然だ。

「まあ、あたし達もそれなりに力は付けてる。司と聖に頼りっきりじゃなくても戦えるってとこを見せないとね」

 紫の言葉に潮と桜が頷く。

 砌は沈黙したままだった。

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