二章 入部初日

 卓球部に入部届けを出すのには存外骨が折れた。

 担任から入部届けを手渡されるその日、午前の授業を使って体力測定が行われた。

 その結果、砌はあらゆる部活から勧誘されることになった。

 砌は全てのテスト項目で上位に入り、反復横とび、20メートルシャトルランでは一番を取った。とんでもない新入生がいると、午後には上級生にまで知れ渡ってしまった。

 朝のホームルームで渡された入部届けには「卓球部」と書いたが、それを提出することができるようになる放課後まで守り抜くことは一大事だった。

 まず体力測定が終わると、クラスのすでに部活を決めている生徒から勧誘が入る。

「陸上部!」

 シャトルランの常軌を逸した記録に加え、50メートル走でも四位。

「ハンドボールに興味ない?」

 ハンドボール投げでは三位だった。

「ブラスは体力勝負だよ!」

 音楽は苦手だと言おうが向こうはお構いなしだ。

「こらー! 砌は卓球部に入るのー!」

 聖が止めに入ろうとするが、聞く耳を持たれずに押し返される。恐らく他の勧誘と同じようなものだと判断されたのだろう。

 ちなみに聖も体力測定ではかなりいい結果を残し、いくつかの項目では砌を上回ってさえいたのだが、前代未聞の好成績を残した砌の前では霞んでしまうようだった。

 放課後になり、入部届けを提出できる時間が来ると、砌は真っ直ぐに職員室に向かおうとしたのだが、そうは問屋が卸さなかった。

 噂を聞き付けた上級生達が一年三組の教室の前に集結し、砌を待ち構えていたのだ。

 流石に顔は割れていないだろうと素通りしようとしたが、クラスメートがしつこく勧誘してくるとことを目撃されてしまっては元も子もなかった。即座に砌だとばれ、猛烈な勧誘合戦が始まった。

 だが、その喧騒は一人の人物の登場によって水を打ったように静まった。

「その子、卓球部だから」

 完璧なスタイルに、人好きのする笑顔。

 安倍司がそう言いながら砌の肩に手を置くと、上級生達は完全に口を閉ざしてしまった。戦意喪失と言ってもいい。

 司が全国にも進む選手だとは聞いていたが、まさかここまで影響力を持っているとは。砌は感心するよりむしろ恐れおののいてしいまった。

「じゃ、職員室行こうか、砌」

「は、はい」

「安倍さーん! 砌ぃ! 待ってよーあたしも行くからー!」

 人の山をかき分けてなんとか教室から出てきた聖も加わり、三人は職員室に向かう。

「はい。確かに受理しましたよー」

 聖と並んで担任に入部届けを提出した砌は、ほっと胸を撫で下ろした。

 司が来てくれなければここまで辿り着けたかどうかすら怪しい。

「安倍さん、ありがとうございました」

 職員室を出て司に頭を下げる。当の司はあっけらかんと笑う。

「砌がちゃんと自分で卓球部に入るって言えば、全員黙ったと思うけど」

「事態を悪化させるだけなような気がして……」

 砌の抱く卓球部のイメージからすればそれも当然だ。だが、ことこの朝代北高校女子卓球部においてはその認識は全く異なるのだと司は胸を張った。

「誰が部長だと思ってるの? 女子卓球部ウチが他の部からなんて呼ばれてるか知りたい?」

 司はぞっとするような満面の笑顔を作り、

「地獄だよ」

 砌と聖が怖気立ったのを確認すると、今度は少し悪戯っぽく笑う。

「じゃあ地獄体験ツアー行ってみようか。体育館に集合!」

 更衣室でジャージに着替えて体育館に入ると、砌と聖以外にも三人、仮入部で卓球部に来ている生徒がいた。内二人が中学からの卓球部で、一人が初心者だった。

「よーし揃ったね。じゃあまずストレッチしたら、外周十周行くよ」

「は?」

「あのー、ちなみにここの外周って――」

「ん? 一周大体1キロってとこかな」

「い、いきなり10キロ走るんですかあ」

「そう。言っとくけど今日は体育館使えるから少なめね。体育館使えない時はプラス二十周」

 それで心が折れたのだろう。仮入部の生徒全員が仮入部を取りやめた。

「ははっ、去年を思い出すな」

 ショートカットの鋭い目をした部員が半ば軽蔑するように去っていく生徒達を見送った。

「うん。うしおちゃん、泣きながら走ってたよね」

 隣のふんわりとした雰囲気の部員が穏やかに言う。

「泣いてねーし!」

「はーい、さっさとストレッチするー」

 紫に言われて二人とも黙って身体を伸ばす。

「あの、部員ってこれだけなんですか?」

 上級生四人の行うストレッチを見ながらこの部のストレッチを覚える中、砌は司に訊ねた。

「ああ、三年は私と紫、二年は潮とさくら。それだけしか残らなかった」

「残らなかった……?」

「どいつもこいつも根性なしだったってことだよ」

 潮が吐き捨てるように言うと、司が短く注意する。

「すみません司さん!」

 妙に畏まって謝る潮を見て柔らかく笑い、司は立ち上がる。

「じゃあ、外周!」

 掛け声などはなく、ただ黙々と外周を走る。先頭を司が走り、そのすぐ後ろを紫、そこから離れた辺りを二年生の二人、その間を聖が走る形になった。決まっているわけではなく、全員が全力で走ると自然とその形になるのだ。ただ、砌はそのことに気付かなかった。

「はあー、もう駄目ぇ」

 十周を終えて体育館の前に辿り着くと、聖はへなへなと倒れ込んだ。最後に戻ってきた潮もぜいぜいと息をしながら膝に手を着いている。平気な顔をしているのは司と――もう一人いた。

「み、砌、あんた何者――」

 聖と並んで走っていた砌は、顔色一つ変えずにすっと立っていた。多少の汗はかいているが、息は全く乱れていない。司でさえ呼吸が若干荒くなっている中、まるで一人だけ何もしていないかのように平然としている。

「砌、あなたもしかして全力出してない?」

「え? 皆さんに合わせて走るものだと……」

 これには全員苦笑するしかなかった。本気を出せば司すらも追い越していってしまうのだろう。

「そういえばシャトルランでも……」

 午前中の体力測定、砌は20メートルシャトルランで常軌を逸した記録を残していた。

 スタミナは、上を目指すのなら絶対に必要になる。

 卓球の公式戦は基本的にトーナメント式になる。試合が進めば進むだけ、次の試合への待ち時間は減っていく。決勝近くになれば、ほとんど休む間もなく連戦になっていく。

 無論一試合の中だけでも、実力が伯仲すれば果てしなく長い戦いになる。

 それに食らいついていくだけのスタミナ。まずはそれを身につけるため、司はこのランニングをメニューに組み込んだ。上を目指すことを前提とした司らしい選択だと言える。

 このメニューに付き合ってきてくれた他の部員達でさえ、今こうして肩で息をしている。それを砌は平然とこなし、底なしのスタミナを見せている。

 聞けば体力測定でも総合トップの記録を出したという。これはとんでもない逸材なのではないかと司は目を輝かせる。

 惜しむらくはその特異なプレイスタイルか――と、ここまで考えて司は邪念を振り払った。

 砌には砌のやり方がある。今日まで身につけてきたその聖曰く変態型という戦型を伸ばすことを考えるべきだ。特に砌の事情は複雑な予感を臭わせる。

 だが――その実力を測ることは必要だ。

「よし。じゃあ各自ストレッチと水分補給が終わり次第基礎練習。聖は桜と、砌は潮と組んで」

 それまでの部員が四人だったので当然と言えば当然だが、女子卓球部が使える卓球台は体育館にある五台の内二台だった。

 司と紫が一台を使い、残った四人は一台をそれぞれフォアクロスとバッククロスに着いてラリーを行うことになった。

「おう一年、昨日の試合見てたぜ」

 潮が台の対角線の向こうでにやりと笑う。

「鵜野森です」

「よーし鵜野森。あたしは二年のひいらぎ潮」

「潮ちゃん、そんなに高圧的にならないの。ごめんね砌ちゃん。私は二年の勅使河原てしがわら桜です」

 そう言って砌の隣で桜がにこにこと微笑みを湛える。

「はいはーい! あたし進藤聖です! 改めてよろしくです潮ちゃん先輩にてっしー先輩!」

「うるせえ『神童』! お前は入学前から散々部に顔出してんだから厭でも覚えるわ! あとその呼び方やめろ!」

「あたしはガキじゃなーいです!」

「賑やかになりましたねえ」

 相変わらずにこにこと笑う桜も桜だと砌は呆れてしまう。

 フォア打ち、バック打ちをそれぞれ隣のクロスと交代しながら打つ。右利きの場合フォアは台の右側、バックは台の左側のほうが打ちやすい。そのため場所を交代して打ちやすい体勢で基礎練習を行う。ただ聖は部で唯一の左利きだったため、桜がフォアの時はバックで、バックの時はフォアで打っていた。

「二人共経験者なのね」

 十分ほどで基礎練習を終えた四人は一度台を離れる。個別のメニューや課題練習を行うにはどうしても四人で一台というわけにはいかないからだ。

「てっしー先輩は未経験者だったんですか?」

 聖が訊くと、桜はうんうんと頷いた。

「私は高校から卓球を始めたから、最初は潮ちゃんに手取り足取り教えてもらったの」

「別に大したことはしてねーよ。あと伊織先輩も高校からだったはず」

 それを聞いて基礎練習を終えた司と紫が会話に加わる。

「そうそう。私も司にはお世話になったわー。あ、三年の伊織紫ね。よろしく、砌」

「は、はい」

 司は何も下手な人間を門前払いしているわけではないのだ。

「いやあ、世話になったっていうんなら、紫には世話になりっぱなしだって。部員があんた以外全員辞めた時は流石に肝が冷えたし」

「ええっ?」

 砌が思わず声を上げると、司は照れるように笑った。

「昔話はあとにして、まずは練習。と、その前にちょっと、潮、砌」

 潮は引き締まった、砌は若干狼狽気味の声で返事をする。

「あなた達二人で1セット試合をして」

「こいつとですか?」

 指を差されて砌は俯く。

「まあちょっと横でじっくり砌のプレーを見たくてね。紫は桜と聖のドライブをカット!」

 隣の台の手前側に紫が着き、反対側に桜と聖が並ぶ。どうやら紫はカットマンのようなので、相手が打つドライブを返し、ラリーが終わる度に桜と聖が交代する形になるのだろう。

「司さんが言うなら」

「わかりました。けど、私弱いですよ」

「またそうやって卑屈になる! とにかく試合ね。砌が本気しか出せないのは知ってるから」

 釈然としないまま砌が台に着くと、練習のラリーは行わずにラケットの交換を行う。普通部内の試合ではラケットの確認は行わないが、初対面の二人には必要だった。

「はあ? なにこのラバー?」

 砌のラケットを見て潮が驚愕の声を上げる。

 ラバーは裏ソフト、表ソフト、粒高の三種に分けられるが、その中でも製品によって性能は千差万別だ。そのため選手は各メーカーの主なラバーの特徴を頭に入れている。

 潮から渡されたラケットは日本式の反転ペンで、表にはスピードはそれほど出ないがボールの食い込みがよく、強い回転をかけられる裏ソフトラバー、裏には一際粒の大きな粒高ラバーが張られていた。

 対する砌の渡したラケットは、値段の安い角型ペンに、これまた値段の安いコントロール系のラバーが張られていた。ペンホルダーは通常表にしかラバーを張らないので裏には保護シールが張ってある。

 コントロール系のラバーは弾性も回転も平均以下で、初心者が最初の数箇月に使うか使わないかというようなラバーだ。試合ではまずお目にかかれない。

 困惑しながらラケットを返した潮とじゃんけんをして、サーブ権は砌が取った。

 台の隣、ちょうど中心に身体が向く形で司が立ち、カウンターを持っている。部内の試合で審判や正式なカウンターがつくことはあまりないが、今回は司が二人のプレーをよく観察したいための措置だろう。

 台上でピン球を数度バウンドさせ、開いた掌に乗せる。ネットより高く投げ上げ、落ちてきたところを擦って送り出す。

 かなり短い、それも台の真ん中付近にバウンドするサーブ。コントロール系のラバーとはいえ、手入れのされていない練習用のラバーとはわけが違う。きちんと下回転がかけられ、無理に打つのは難しい。

 だが潮はそれを待っていたとばかりにサーブの瞬間にラケットを反転させると、粒高のほうのラバーでツッツキ、フォア側エンドラインぎりぎり、ネット際に鋭い角度で差し込む。

 スマッシュやパワードライブほどの速度や威力こそないが、的確にコースを突いた鋭利なツッツキ。

(ほとんど不意打ち。だけど、だからこそ脅しには充分――)

 打球の先に、ラケットが伸びている。

(なんで追い付く!?)

 瞬時にサーブを打った位置――バック側からフォアの最果てへと移動して、砌は落ち着いてツッツキで返球する。

(しかも浮かないし!)

 粒高ラバーはその性質上、自分から回転をかけることがほとんどできない。だが逆に、相手の打球の回転の影響も受けにくく、その回転を利用して逆の回転をかけて打ち返すことができる。さらに打ち方を少し工夫すれば、無回転ナックルの打球すらラリー中に生み出すことが可能だ。

 そのため、卓球の基礎を覚えていて粒高に対する知識のない相手に対しては、まともに打球を打ち返すことすら許さないことさえある。

 今のツッツキで潮は無回転のツッツキを放った。普通の感覚で打てばふわりと浮き上がってしまう。しかもコースへの出会い頭の強襲。それを砌は難なく返球してみせたのだ。

 潮は返ってきた球を打ちあぐね、ネットに引っかかってラリーが終わる。

 1‐0。不意打ちを食らわせたはずの潮が、逆に三球目で得点されたということになる。

「クソっ」

 ピン球を取ってラケットで打って砌に渡す。まだ砌のサーブだ。

 これではどちらが脅しているのかわからない。潮は心中で毒づく。

 次も先程と同じコースへのサーブ。潮は今度は深いところ、それも砌の身体の中央――ミドルに速いツッツキを放つ。高速でフォアとバックを切り替える卓球において、シェイクほどではないがペンにとってもミドルは急所。そこに対応の難しい無回転。

 砌は身体を無理矢理傾けてバックで返球する。下手にフットワークで稼げないところもミドルの強みだ。

 だが先程のような正確な打球ではない。狙い打つには充分すぎるチャンスボールとなって潮の台の上でバウンドする。

 潮は砌のインパクトの時点でラケットを反転させ、裏ソフトラバーに切り替える。そのままチャンスボールを思い切り打ち抜く。

 強烈なドライブが砌のフォア側に突き刺さる。

 だがボールの着地点にはすでに砌のラケットがあった。

 勢いを殺し、力のないボールに変えて潮に返す。

「しまっ――」

 潮はこのドライブで打ち抜けると確信していたせいで、ラケットを反転させずに構えていた。

 はっきり言って、潮は裏ソフトでの打球が苦手だった。それは中学から粒高に頼ってきてばかりいた返球技術のせいで、高校に入って司にそのことを指摘されて必死に矯正しようとしてきた。だが、まだ確実な返球を行うのならば粒高でという意識が離れない。

 そのため、裏ソフトのまま返球しなければならないという焦りに、まだ反転が間に合うのではないかという焦りが合わさり、結局まともな返球ができずにミスになってしまった。

(なんなんだよこいつ――)

 どんなコースに、どんな回転で、どんな強さで打っても確実に返ってくる。本来ならば相手を翻弄するのが取り得の潮が逆に踊らされているようだった。

(傍から見れば、踊ってるのは砌のほうなんだけど)

 司はマッチポイントに追い詰められた潮を見て、小さく笑う。

 潮がそのコントロールで砌を揺さぶり、対する砌はそれを追って台の端から端まで足を運ぶ。当の砌の打球はどれも勢いを殺した丁寧な返球で、それを打つ潮にはそれほど負担がないようにも思える。

 だが、消耗しているのは明らかに潮のほうだった。かなり荒い呼吸で、打球もどんどん精彩を欠いている。

 砌はといえば、息一つ乱さず平然と構えている。返球も相変わらずで、どんな球だろうと追い付いてしまう。

 潮のサーブ。クロスに右横回転の深い打球。砌は同じように丁寧に返す。

 深めに返ってきた打球に対し、潮は大きく腕を引く。

 サーブを打ったあと、ラケットを反転させていないのに司は気付いていた。粒高は強打には向いていない。つまり確実に三球目攻撃を決めるつもりでサーブを放ったのだ。

(勝負あり、か)

 潮の渾身のドライブを、砌は難なく返してみせた。それに対応できず、潮のミスになる。

 11‐5。砌の勝ちである。

「クソっ! なんかわけわかんないまま負けた!」

「ありがとうございました」

 砌は次の指示を待つように司の顔を見つめた。部に入って一日目の砌がどんな練習をすればいいのかわからないのは当然だ。

「じゃあ今の試合の反省会」

 司に手招きされ、潮側の台に集まる。

「まず潮、あなたは攻め急ぎすぎ。反転なんだから粘り勝たなきゃ駄目でしょ」

「すみません……」

「それに裏ソフトでの打球がまだ全然安定してないし、ラケットを反転させるタイミングも甘い。反転するならする。しないならしないでちゃんと打てるように打球を安定させる」

「はい!」

「よし。で、砌だけど――」

 自分の番が来たと背筋を伸ばす砌。

「自分でここは駄目だったと思ったプレーはあった?」

「え?」

「いやね、私があなたのプレーを見たのは昨日の試合と今の試合だけだから、まだ下手なアドバイスはできないんだよね。砌がどういうタイプかっていうのはなんとなくわかってきたけど、まずは自分で自分のプレーをどう見るか聞かせてほしい」

 砌は暫しの沈黙のあと、おずおずと口を開く。

「何も考えていませんでした」

「え?」

 司も潮もきょとんとした顔で砌を見る。

「あの、私、来た球を返すだけなんです。身体動かしてると、何も考えずに済むので……」

 完全に呆気に取られたように固まる司と潮。

「脳筋にもほどがあんだろ……」

 潮が呟くと、司がその頭をぺしりと叩く。

「砌、荻村おぎむら伊智朗いちろうのアレ、知ってる?」

「アレ?」

「『卓球はチェスをしながら100メートル走をするようなスポーツ』ってやつ」

「はあ……」

「たとえば、砌がバック側に回り込んだ状態で潮がフォア前にツッツキを打つ。この時の打球のコース、スピード、回転は事前にはわからない。そんな応酬が続くのが卓球。相手に合わせて適切な対処を行い、最適な打球を常に返し続けなければならない。砌の場合、そこは完璧」

「あ、ありがとうございます――」

「で、さっきの続きだけど、潮の打球に砌が対処して返球すると、どうしてもコースは限られる。勿論そこには相手の癖や、どこに打つのかという読み合いも含まれる。潮はそれに勝って、あらかじめ移動してからドライブをバック側にしかける。相手の打球を読み、その打球を誘導し、身体を振り回す。相手に取られない球を打つというのが、卓球において一番大切なことなんだけど――」

 苦笑いして、肩を落とす。

「追い付くんだよなあ……」

 どうしようもないといった様子で、司は頭を抱えた。

「そうなんだよ。追い付くんだよ。まあ今回は相手があまり攻撃の得意じゃない潮だったっていうのもあるんだろうけど、これは決まっただろ! っていうエースボールを拾っちゃうんだもんなあ……。これはえらいことだよ。卓球という競技に真っ向から喧嘩売るようなもんだもん」

 思考することが何より重要な卓球で、その思考をほっぽり出して、凄まじい身体能力だけで球に食らい付く。その打球も考えなしの平易な打球で、相手に自在に振り回されるというのに、それに追い付く。

 思った以上に滅茶苦茶だ。しかもスマッシュが打てないというおまけまで付いている。

「本当に何も考えてないのか?」

 潮に言われ頷きそうになる砌に司が待ったをかける。

「多分、砌の言ったことは本当だと思う。来た球を返すだけ――だけど、これまでの経験とプレー中の相手の行動から、身体が勝手にどこに打球が来るのかを判断して動いてるはず。本当に何も考えずに全部の球を返すなんて、どんな超人にも不可能だから」

「なんなんすかこいつ――獣かなんか?」

 もう一度ぺしりと叩かれる。

「ただ、問題はその判断で打った球が、全部コースもクソもない打球だってことね」

「はあ、考えてないので……」

 いや違うと司は難しい顔をする。

「昨日から思ってたんだけど、砌は試合には全力でぶつかる。でもそこに、勝とうという気がないのよ」

 潮が首を傾げる。

「それ、どう違うんですか?」

「要は、砌はクソ真面目なのね。手は絶対に抜かない。常に真剣。だけど、それだけ。勝敗には全くこだわってないの」

 違う? ――と訊かれ、砌は俯く。

「闘争心――それがすっぽり抜けてるんじゃないかな」

「やる気がない……?」

 司は首を横に振る。

「そういう問題じゃないと思う。やる気がないならそもそも練習についてこない」

 そこが難物だ。

 やる気がない相手にやる気を出させる――それが非常に難しいことは自明の理だが、砌の場合はまた違う。

 やる気は充分にある。どんなきつい練習にも食らいついてくるだろう。だが、自分が負けることをなんとも思っていない。自分のやり方で試合をして、勝てばよし、負けてもよし。そんな気概で戦っている。

 砌のプレーは言わばその性分をそのまま体現したようなものだ。自分の頭で考えず、来た球を返し続ける。もし砌に絶対に勝つという気持ちがあるのなら、あるいは返球が攻撃的なコースを突いたものに変貌するのかもしれない。

 だが、それを矯正するのは司のやっていいことではない。砌という人格を構成する深部まで踏み込むことは、部長の分際でやってはいけない。

 ならば、砌が自分で変えていけるように手助けするのがベストだろう。

「じゃあ砌にこれからの課題を一つ。自分で考えて打つようにしていって」

「考えて……」

「そう。まあ最初は自然に身体が動くほうに任せたほうがスムーズだろうけど、できる限り考えながらラリーを行うように」

「――善処します」

「よし!」

 司はにっこりと笑って、隣の台に目を向ける。

「あ、あの」

 砌は司の意識が完全に隣へ移る前に、なんとか声を上げる。

「安倍さん、ありがとうございました。その、自分のプレーをきちんと見てもらえて、考えてもらえて、ちょっとびっくりしたけど、えっと、そんなふうに真剣に向き合ってくれる人、初めてです」

 司は少し虚を突かれたが、すぐに笑顔を向けた。

 砌のあのプレースタイルだ。これまでろくな評価をされたことがなかったのだろう。それは同年代に広まった「変態型」という呼び名からも容易に察せられる。

「そんな気にしないの。この部を背負って立つからには当たり前のことだからね」

 司は紫達の練習をあと一巡で切り上げるように指示を出し、次の練習に向けて準備を始めた。


「クソっ……もう足が――」

 練習開始からおよそ三時間。砌が手元の籠からピン球を次々にフォア側バック側交互に打ち出し、潮が延々とそれをドライブで打っていくという練習が始まっておよそ二十分。その間にも他の練習が間に何回か休憩を挟みながらも続いていたので、潮の体力はそろそろ限界だった。

 現に打球には勢いがなく、ドライブというよりはなんとか返していると言ったほうが正確だった。

 腕が振れない。足が沈んでいく。中学時代には考えられなかった練習量だ。

「潮、ちゃんとドライブ打つ! その球全部なくなるまで!」

 司の叱咤が飛ぶ。籠の中にはまだ山盛りのピン球。目の前が暗くなるには充分。だが――

「はい! 司さん!」

 声を振り絞って自らを鼓舞する。腕を鋭く振り抜き、もつれそうになる足を踏ん張ってフットワークで左右に跳ぶ。

 砌が全ての球を出し終えると、潮は膝から崩れ落ちた。最後のほうはほとんど気合いだけで持っていたようなものだった。

「大丈夫ですか、柊先輩」

「――大丈夫なのはお前だけだよ」

 一足先に練習を終えた隣の台では、壁際に辿り着くだけの力も失ったように紫、桜、聖が肩で息をしている。指示を出しながら自らも練習を続けていた司も荒い息で、平然としているのは砌だけだった。

 無論、砌だけ練習量が少なかったなどというわけではない。スマッシュやドライブが打てない分、先程の潮よりも速いペースでフットワークの多球練習をぶっ続けでやらされていた。

「はい、今日はここまで。休憩したら後片付けだけ頑張ってー」

 すでに男子卓球部は練習を終え帰宅し、体育館の他の部活もほとんどが撤収している。残っているのは練習を終えてぐだぐだと雑談をしているダンス部くらいで、この時間まで練習をしているのは女子卓球部だけだった。

 ピン球を全て拾って箱にしまい、台を体育館の隅に畳んで並べ、防球フェンスを運んで畳んだ台の横に片付ける。それを終えると最後に体育館に残った部の役目として、モップを全ての床にかけた。

「地獄体験ツアー一日目、どうだった?」

 制服に着替えてから体育館に施錠して、司がそれを職員室に返しにいくというので勝手を覚えるために砌と聖はあとについていった。

「もうきついですよー。家まで帰れるか不安なくらいですよー」

「確かに、中学とは比べ物にならなかったです」

「その割には平気そうな顔してるなあ砌。聖もまだまだいけそうだし」

「いやいや、これ以上は本当死人出ますって!」

 司は苦笑し、職員室のドアをノックする。

「失礼します」

 鍵を壁のフックにかけ、司が二人を手招きする。

「先生、新入部員です」

 司が向かった先の机には、眼鏡をかけた若い教師がプリントの採点をしていた。

「お、二人ね。何人来たの?」

「この子達以外に仮入部で三人。ランニングで辞めました。二人共、顧問の弓削ゆげ先生」

「はーい、弓削鏡子きょうこ二十六歳独身。部活にはあんまり顔出せないけどよろしくねー」

 二人が慌てて挨拶をすると鏡子はへらへらと笑った。

「肩書だけの顧問だから、部の方針は完全に安倍さんに丸投げなんで。問題はこっちによこさないでねー」

 随分いい加減な顧問だとは思ったが、司は真面目な顔で「感謝してます」と言った。

 職員室を出ると砌は恐る恐る司に訊ねる。

「あの、安倍さん。卓球部って……」

 それで全てを察したのか、司は困ったように笑うと、渡り廊下にある自動販売機まで二人を連れていった。

「何飲む? おごるよ」

 聖が炭酸飲料、砌がスポーツドリンクをそれぞれ受け取ると、司はコーヒーを一息で煽ってから話し始めた。

「私が入学した時、卓球部ウチには部員がいなかったの。っていうか、受験前に調べた。それでここを選んだんだよね」


 司は強かった。

 小学生の頃から同年代で県内に敵はいなかった。中学はわざわざ力のある指導者のいる私学――片来かたき中学を選んだ。

 その指導者は「優勝請負人」という大層な異名を持つ教師で、実際に転勤する先々の中学を地区大会優勝に導くことで有名だった。

 司は彼女の指導を受け、さらに強くなった。そして彼女の弛みない指導を直に見ている内に、強い憧れを抱くようになった。

 いつの間にか司の夢は全国制覇よりも、最高の指導者になることに変わっていた。彼女以上の、勝利の女神に。

 三年生最後の大会が終わった日にそのことを彼女に打ち明けると、そんなことより試合に勝つことを考えろと一喝された。そしてそのあとに、

「私を超えたいなら、まず高校で全国に行ってみろ」

 そう言われ、その時は意味がわからなかったが、夏休み明けの始業式で全てを理解した。

 彼女は片来中学を去っていった。次の優勝を目指す学校に向かい、そこを強くするために。

 そして、彼女が向かった先は中学ではなく高校だった。

 一瞬、彼女の向かった先の高校に進学しようかと考えたが、すぐにやめた。確かにもう三年間彼女の指導を受けることができれば、それはこの上ない経験になるだろう。

 だが、あの言葉の意味は、もうはっきりとわかっていた。

 ――宣戦布告。

 同じ県内の高校ならば、全国に進むためには勝たねばならない相手である。『全国に行ってみろ』というのはつまり、彼女の指導する高校を倒してみせろということだ。

 それも、指導者として――司はそう受け取った。

 司が一から育て上げたチームで、彼女の作り上げたチームに勝つ。指導者という同じ土俵の上で戦ってみせろと挑発されているのだ。

 司はそこで進学先を全く無名かつ入部時には先輩がいなくなる朝代北高校に決めた。偏差値を5上げる猛勉強をしてまで進学校である朝代北の入試に臨んだ。

 入部してすぐに部長に就任すると、顧問の鏡子に頼んで部の方針の決定権を得て、練習を凄まじくハードなものにした。

 入部時には8人いた部員が、一箇月後には半分に、その一箇月後にはさらに半分になった。

 わずか二箇月で部員は部長の司と、紫の二人だけになってしまった。

 司は内心大いに焦った。退部した部員を引き止めようともした。

 部員が二人では、そもそも団体戦に出られない。彼女に勝つことは疎か、戦うことすらできない。

 自分は間違っているのか。そもそも指導者など無理なのか。司は自問自答を繰り返した。

 ある日、練習の途中で紫が肩で息をしながら口を開いた。

「ねえ、練習量減ってない?」

 気息奄々の紫が言うと説得力がなかったが、確かにその通りだった。最初の内の練習メニューより、徐々に練習量を減らしていたのだ。それはハードすぎる練習への自戒の念だったが、紫はそれを聞くと憤慨した。

「いや、だって、これ以上部員が減ったら……」

 司がびくびくしながら言うと、紫はそれを一笑に付した。

「もう手遅れだっての」

「え――」

「だから、あんなハードな練習初日からかまされて、こっちはもうそれに身体が慣れてるわけ。まあ、毎日筋肉痛だけど――とにかく、今更練習量減らしてんじゃないっての。それは今日まで部に残ってる奇特な私に失礼でしょ」

 紫は高校から卓球を始めた。そんな紫にこの練習は眩暈がするほどきつかったはずだ。

 気付くと、司はこれまでの経緯を全て紫に話していた。話し終えると、今度は紫が口を開く。

「四月の地区予選、あんた優勝してたでしょ。あれ、滅茶苦茶かっこいいと思った。プレー見てて、私もこんなふうになりたいって思った。あんたの憧れがその先生なら、私の憧れはあんたなの。だから、手ぇ抜くな!」

 紫はラケットを構え、司のサーブを待つ。

「大丈夫、あんたは間違ってない。だって、私がこうやってついてきてやってる!」

 それで司は完全に吹っ切れた。

 一年後、潮と桜が入って――他の入部希望者は軒並み辞めていく中――団体戦に出場できる4人が揃った。その年は県大会でベスト8止まりだったが、部員全員が確実に力を付けている。


 ――勿論、こんな込み入った話は砌と聖にはしていない。単に自分が部を一から作り上げたかったこと、その結果多くの退部者を出したことを簡潔に話した。

「だから、できればついてきてほしい。文字通り私のワンマンチームだけど、それでもよければ」

「勿論ですよ!」

 ジュースを飲み終わった聖は勢いよく頷き、砌も小さく頷く。

「よし、じゃあインハイ予選、個人はもうすぐだ。私の本命は勿論団体だけど、こっちでもいい結果残しとくことに意味はある。他の学校に警戒させとくにはいい機会だ」

「はい! 安倍さん、決勝で会いましょうね!」

 何の悪意もないが自信と信頼だけは凄まじい聖の言葉を聞いて、司と砌は苦笑する。

「砌も、上がってこいよ! リベンジしてやるから!」

 砌は曖昧に笑って、そろそろ帰るべきだと提案した。

「じゃあまた明日ね」

 司は自転車通学らしく、駐輪所に向かって去っていった。

「進藤は瀬名せな駅?」

 電車は空いているというのにぴったりと隣に座る聖に砌はとりあえず訊いておく。聖が瀬名中学出身だということは頭に入っていた。

「うん! 砌は?」

「私は――」

 などと言っている内に車内アナウンスが流れ、間もなく砂州さす駅に到着することが知らされる。

 砌はいつの間にか肩にのしかかっている聖の身体を垂直に直すと、すっと立ち上がる。

「じゃあ、私はここだから」

「あー、そっか。砂州中だったね。ん? 砂州中って――確か砌の他にも強い子いなかったっけ」

 砌はすっと背筋が冷える。

 自分は、とんでもない間違いを起こしたのではないかという疑念――むしろ確信。

 気付くと砌は別れの挨拶もせず、逃げるように駅のホームに下りていた。

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