一章 変態と神童
砌は最初にその顔がこちらを見た時から見られていることには気付いていたが、こちらから話しかけて因縁をつけられるのは御免だったので本を読むことだけに集中していた。
「やっぱり、変態だ!」
明るい声でいきなりそう言われ、砌は顔を上げないわけにはいかなかった。何故自分が突然変態だと宣告されなければならないのか。今年から花の女子高生だというのにいきなり変態呼ばわりはないだろう。
相手の顔をここでようやく見てみると、あどけなさの残る可愛らしい顔をしている。服装は砌と同じ、
「誰?」
砌は素直にそう訊いた。相手はそれを聞くと口を尖らせる。
「誰だとは酷いじゃないのー。あたしあたし。三年の市民大会であんたに負けた」
確かその大会は三回戦で負けている。ふと、二回戦で当たった第一シードの相手の顔と今目の前にいる相手の顔とが重なった。
「ああ、『神童』」
「あたしはもうガキじゃなーい!」
砌は笑いながら謝った。
「で、なんで私が変態なの」
「知らないの? 渾名だよ。あんたの戦型は変態型って呼ぶしかないでしょ? 中学ではそれなりに浸透してると思ったのになあ」
随分酷い渾名が浸透しているものだと砌は寒気を覚えた。中学で他校の生徒とほとんど関わりを持たなかったので知る機会がなかったのだろう。
「あれ? でもなんで朝北なんかに進学したの? 推薦は?」
朝代北高校は県下でも上のレベルの進学校である。砌はどの高校の卓球部が強いのかは興味がないのでほとんど知らないが、進学校の運動部が聖のレベルに合うとは思えない。
「まあ、色々あってね。けど、朝北には
「ごめん、誰?」
「ああ、安倍さん朝代地区だから知らないか。今三年生で、個人で全国にも行ってる人だよ。安倍さんとあたしとあんたで勝てば3勝だから団体戦でも全国狙えるな!」
「高校ではシングルスの選手がダブルスに出てもいいから、その安倍さんって人とあなたがシングルスで2勝して、二人がダブルス組んで1勝すれば3勝できる。私はいらないし、そもそも私は勝てないよ。弱いんだから」
「なに言ってんだよー。あんたあたしに勝っておいてその言い方はないよー。あんた強いじゃん」
「そのあとすぐに負けたでしょ。偶然偶然。それに――」
砌は大きく溜め息を吐く。
「私、高校では部活に入らないし」
「はああああ?」
あまりに大きな声だったので、乗客が何人も聖に訝しげな視線を送った。
「声大きい」
「いや待って。あんた強いのに卓球部入らないとかもったいないって」
「だから強くないって。そもそも卓球部なんて、楽したい奴や適当に遊んで終わろうって考えてる奴らばっかでしょ。中学では私達が入る前の代までは不良の溜まり場で、私達の代だってまともに練習に参加する奴らなんて半分もいなかったし」
「でも、あんたはちゃんと練習してたんだろ?」
砌は言葉に詰まる。聖の言う通りなのだが、それをすんなり認めると余計にややこしくなると思い何も言えなかった。
聖は砌の沈黙を素直に肯定と受け取った。
「朝北の部長は安倍さんだよ。部活を見学したけど、みんな真剣にやってる。というか、半端な気持ちで入った奴はみんな辞めていく。ちゃんとした部活だ」
そこで間もなく朝代北高校の最寄り駅である
「待ってよへんたーい」
聖がぴったりと砌の後ろにつき、にこにこと笑っている。
「変態はないでしょ」
「いいじゃん通り名」
「こんな酷い通り名はない。じゃあ私もあなたのこと『神童』って呼ぶよ?」
聖は思い切り顔をしかめた。
「それはやだ! あたしはもうガキじゃなーい!」
「だったら私のこともちゃんとした名前で呼んで」
「わかったよー。えっと、あれなんて読むんだった?」
「みぎり」
「オッケー、砌」
いきなり下の名前とは馴れ馴れしいと思ったが、よく考えれば最初から馴れ馴れしかったのでもう気にしないことにした。
朝代北高校の校舎は陽に焼けた灰色だが、建物自体は比較的新しいものだった。全ての教室に冷暖房が完備され、入試で訪れた時に見た感じでは廊下も広くトイレも綺麗である。
入学式が行われる体育館は前方に大きな舞台があり、ちょうど真ん中の両端に全体を二つに区切るネットが垂れている。天井には昇降式のバスケットゴールが上げられ、一番後ろの隅には卓球台と防球フェンスが見える。聖は学校に向かう道でこの体育館で卓球部は活動していると砌に伝えていた。
入学式の席は出身中学で決まるので、砌と聖は離れ離れになった。ようやく静かになったと砌は安堵した。式は何事もなく進行していき、時間通りに終わった。
体育館から外に出るとクラス表が貼ってあり、人だかりができている。隙間を見つけて表から自分の名前だけを確認し、一年三組であることを知って目当ての教室に向かう。
同じ中学からこの高校に来た生徒もいるが、親しい間柄ではなかったので実質現在この高校内での友人は皆無であった。
「変――砌ぃ!」
教室に入ると底抜けに明るい声。前を見ると可愛らしい満面の笑み。
「今変態って言いそうになったでしょ」
「『変』で踏み止まったから問題なし。同じクラスだね!」
聖は笑い、砌はげんなりと肩を落とす。
校内見学の間も、聖は砌にべったりとくっつき、しきりに卓球部への勧誘を行ってくる。砌は機械的に断り続けるが、聖の言葉は止まらない。ついには砌も一緒に教師に注意されるほどだった。
ホームルームが終わりさっさと帰ろうと下駄箱で靴に替え、駅に向かうために校門を目指す。朝代北高校では校門を入ってすぐに体育館の入り口がある。砌はそちらに特に興味を抱くでもなく、真っ直ぐに前だけを見て歩いていた。
「安倍さん! あの子です!」
どこかで聞いた覚えのある声。
「よし! 確保ォ!」
綺麗な声のあとに、こちらに駆けてくる足音が聞こえてきた。厭な予感がしてそちらを向くと、ジャージ姿の聖ともう一人、ジャージ越しでもはっきりとわかる完璧なスタイルをした女性が砌に迫ってきていた。
二人にそれぞれ右と左の腕を掴まれ、声を上げる間もなく砌は体育館に連れ込まれた。
ネットで区切られたステージの反対側、そこをさらに縦に三分の一ほどに防球フェンスで区切られたスペースに、卓球台が五台置かれていた。すでに二人の女子部員が基礎練習を始めている。
「改めて、私が三年生で部長の安倍
体育館の横の端、部員の荷物が置かれている場所に砌は座らされていた。
司は見るからに豪放磊落といった感じの笑顔を見せ、砌のすぐ前に立っていた。
「いや、あの――」
「うん。あなたの言い分はわかってる。高校では部活に入る気はないんでしょう?」
「はあ――」
「じゃあこうしましょう。今から私と1セット試合をする。それで今後の身の振り方を考えることにしよう」
「安倍さん、でもこの子ラケットもシューズも今持ってないんじゃないですか?」
聖が言うと、司は文字通り頭を抱えた。
「しまったあああ! 私の馬鹿! なんかかっこいいこと言っといてこれだ!」
「じゃ、じゃあ砌、明日また来てよ。絶対来い。来なくてもまた拐かす!」
砌は溜め息を吐いた。
「初心者用のラケットってあります?」
静かに砌が訊くと、司はきょとんとした顔をして一応あるけどと答えた。
「じゃあ、体育館シューズ取ってきます。試合はしますから、明日からはもうこんなことしないでください」
「ちょ、ちょっと、初心者用のラケットなんてはねないしラバーもつるつるで回転かけられないぞ。そんなのでまともな試合になるはずがない。わざと負けるつもりなんてのは絶対許さないからな」
「ちゃんと試合は本気でやりますよ。いいんです。私のラケットもラバーも、それと似たようなもんですから」
砌は言葉通り体育館シューズを持って戻ってきた。用意されていたラケットからペンホルダーのものを取ると、すみませんと自分の制服を指差して謝った。
「体操服は持ってなかったんで、制服で勘弁してください」
「うん。まあ私もそこまで形式にこだわるわけじゃないから、今日はそれでいい」
砌はブレザーを脱いで鞄の上に置き、ブラウス姿になると台に着いた。
「ラケット見る?」
「はい、お願いします」
司は台の横に移動し、砌に自分のラケットを手渡す。
卓球のラケットはシェークハンドとペンホルダーの二種に分けられる。
シェークハンドは文字通り握手をするようにグリップを握り、人差し指を立ててラケットの裏――バックハンド側の端に伸ばす。両面にラバーを張り、フォアハンドとバックハンドでラケットの表裏を変え、どちらでも攻撃がしやすい。
対するペンホルダーはペンを掴むように親指と人差し指でラケットの表側を握り、その二つの指の付け根の部分でグリップの下側を押さえる。残った中指以下三本の指は重ね、ラケットの裏側を支える。こちらはラケットの表にしかラバーを張らない。
シェークは卵のような丸型、ペンは長方形に近い――それでも角は緩やかに曲がっている――角型が普通だが、司のラケットはペンホルダーでありながら丸型で、両面にラバーが張ってあった。
さらに言うならペンホルダーのグリップにある出っ張りがなく、もうグリップを短くしたシェークハンドと呼んだほうが近い。
砌はこの形状のラケットを知識としては知っていたが、実際に試合をするのは初めてだった。
中国式ペン。その名の通り中国の選手が多く使用するラケットである。
両面が裏ソフトラバーだったので、砌は驚いた。
裏ソフトラバーとは最も多く使われているラバーであり、普通のラバーといえばこれを指す。
中国の選手などは両面とも裏ソフトを用いドライブ主戦型として戦うが、地区大会などではむしろ裏面に粒高とよばれるラバーを張る守備型のほうが多い。
ラケットを返し、自分のラケットの感触を確かめるためにラリーを願い出る。
砌が緩やかにサーブを出すと、司が打ち返す。これはあくまで練習なので、きちんと相手のフォア側に返球する。砌はそれを返そうとするが、慣れないラバーとラケットのためにネットを越えずにラリーが終わってしまう。
次のラリーでは感覚を合わすことに成功し、暫くラリーが続いた。司は砌のフォームを見て基礎がきちんとできていることを確認し、打球を少し強くしていく。砌はそれに合わせることなく、弱い返球を続ける。司が強く打ち過ぎて球がオーバーすると、砌はそれを拾って台に戻り口を開く。
「ラストお願いします」
そのラリーを終え、サーブ権を決めるじゃんけんを行う。司が勝ち、それぞれが台の左端に着く。
(まずはレシーブを見せてもらおうかな)
司は球を投げ上げ、思い切り球の下を擦って打ち出す。しかしそのフォームは見事にカモフラージュされ、下手な相手からはどんな回転をかけたのかがわからない。
司の出したサーブは強烈な
砌はそれを台上で突っつくように打ち、下回転をかけて短く返す。その動き通り「ツッツキ」と呼ばれる基本的な返球打法だ。
(いいツッツキね。だけど――)
司は一度自陣の真ん中辺りでバウンドしたその打球の下にフォアでラケットを入れ、掬い上げるようにラケットを振り抜く。
フリック。台上の普通ならば強打できない打球を強引に強く打ち返す打法。司の速い打球は一気に砌のフォア側の端に飛んでいく。
瞬時に、砌のラケットが伸びる。その打球をラケットの真ん中で受け止め、力を込めずに打ち返す。
しかしその打球はネットにぶつかり、相手側に返ることはなかった。
1‐0。三球目攻撃という理想的な形で得点したが、司は砌の返球にわずかな驚きを覚えていた。
(完璧に捉えてた。それにあのフットワーク――)
次のサーブ、司は先程とほとんど同じフォームで右横回転のサーブを放つ。砌は同じようにツッツキで返し、打球はバック側のサイドライン上でバウンドする。
司はその場からほとんど動かずラケットをバックハンドで大きく引くと、その打球を裏面に張ったラバーで思い切り擦り上げるように打ち抜く。
「裏面打法!」
聖が声を上げる。
ペンホルダーでは、バック側の攻撃が難しいという弱点がある。特に攻撃のメインとなる前進回転をかけて打ち出すドライブは困難であり、それを解消するために考えられたのが裏面にもラバーを張り、シェークハンドのようにそのラバーで打球するという技法である。日本、それも女子学生間ではあまりメジャーではないが、中国ではこれを極めて世界トップレベルで活躍する選手もいる。
クロスに打たれた球を、砌はバックハンドで受け止め、勢いを殺して返球する。打球は完全に勢いを失い、司の台上の真ん中辺りでバウンドする。
(なんつーブロック)
司はパワードライブには自信がある。昔から腕力は男子にも負けたことがなく、そこから放たれるドライブは女子離れした威力を持つ。特に裏面打法のドライブは、その特異さと強烈なパワーから、慣れていない相手ならば一撃必殺の打球になると自負している。しかし砌はそれを易々と、それも勢いを完全に殺して返球している。
聖が絶賛するわけがわかった気がした。技術は確かに飛び抜けている。
司は台上の球を無理に打つことなく、小さい力で返球した。相手の台上で二度以上バウンドするほどの打球で、フォア側のサイドラインのネットぎりぎりに落ちている。
砌は素早く回り込み、同じように小さく返球する。
これで砌の身体は大きくフォア側に傾いた。間髪入れず、司は返ってきた球を強引に掬い上げ、フリックで砌のバック側に叩き込む。
しかし、打球が相手側でバウンドする頃にはもう、砌のラケットが伸びていた。それも腕を伸ばしただけの無理な体勢ではなく、お手本のようなバックの打球フォームで砌は構えている。
(やっぱり――)
砌のフットワークは恐ろしく俊敏だった。台の端から端まであっという間に回り込んでしまう。
砌は力を込めず、勢いを殺して返球する。
司はそれを打ちあぐね、チャンスボールとなって砌側の台上に上がる。
しかし、砌はスマッシュを打つことなく、相変わらず勢いを殺して返球した。
高く上がった球を返せば、当然その球も高くなる。完全な打ち頃の球を、司は思い切り打ち抜いた。
流石に全力のスマッシュには反応できず、司の得点となる。
サーブ権は2ポイントごとに交代するので、次は砌のサーブだ。砌は司のバック側に勢いのないショートサービスを打つ。学校に置いてある初心者用ラケットは元の性能が一般的なものと比べると著しく低いだけでなく、ラバーの手入れもされていないし保管もぞんざいなのでまともな回転がかけられる代物ではない。なので砌にできることはといえば勢いを殺して強打されないようなコースにサーブを打つことくらいだ。
だが、相手は全国レベルの一流選手。ラケットの裏側を手首を捩じって球の下に滑り込ませると、そのまま手首の力だけで思い切り擦り上げて強打する。
(裏面打法のフリック!?)
しかもコースは真っ直ぐ砌のフォア側。砌は一気に飛びついて返球する。
(よく返した! だけど――)
返ってきた球は司の台の真ん中エンドラインぎりぎり。司は小さく腕を引くと、短く洗練されたフォームで腕を振り抜く。
強烈なドライブが砌の逆側を襲う。
砌は瞬時に体勢を立て直し、右足を強く蹴ってバック側に戻る。その動きは恐ろしく速く滑らかで、球の前に身体が戻った時にはもう完璧な体勢に戻っている。
バックハンドで球を捉え、勢いを殺して打ち返す。
(重っ――)
先程の裏面打法もそうだったが、砌が今までに対戦したどの選手よりも重いドライブだ。
「安倍さん、一体どこからあんな力が出るんだろ……」
聖は体育館の隅で司の均整の取れた身体を見ながら呟く。
「司の胸はおっぱいじゃなくて筋肉だからねー」
聖の隣で三年生の
「くぅおら紫! 一年にデマを広めてんじゃ――」
砌の打球が力なく返ってくる。高めに浮いた返球はネット近くに落ちるがスマッシュを狙えないほどではない。
「――ねえ!」
打ち抜く。
だがその球の先に、砌のラケットが伸びていた。勢いを完全に殺し、力のない打球が返ってくる。
「うっ――」
スマッシュを打った体勢から戻るのが思わず遅れた司は、身体全体で飛びついて打ち返そうとする。だが力が入りすぎ、台をオーバーして砌の得点になる。
1‐2。
ラリーを続けていく内、司は砌の特徴を把握していった。そもそも司の場合、エースドライブの威力が強すぎて長くラリーが続くということ自体があまりないため、まず砌の返球技術が飛び抜けていることがわかる。そして司がコースに打ち分けても平気で追いつくだけのフットワーク。卓球は地区大会レベルならば小手先の技術だけで勝ち抜けてしまうという部分があるが、砌の場合は技術に加えて確かな身体能力も併せ持っている。だが――
(なんで打ってこない……?)
砌の完璧な返球に対応できず、司がチャンスボールを上げてしまう場面も何度かあった。しかし砌は一切攻勢に出ず、同じような勢いのない返球しかしない。そしてチャンスボールを返球してそれがそのままチャンスボールとなって司に返ってくるので、スマッシュを決めて司の得点になるという展開になる。
司がサーブで得点は10‐6。司のマッチポイントである。
聖は砌の戦型を「変態型」と呼んでいた。なるほど一際癖のある他ではなかなかお目にかかれない代物だ。ポイントを『取られた』という感覚は湧かないが、現に6点奪われている。気を抜けば気付かない内に負けていたという事態に陥りかねない。聖が中学で負けたのもなんとなくだが頷ける。
下回転のサーブを出し、砌がそれをツッツキで短く返す。司は無理に打つことなく、同じくツッツキで、だがコースに鋭く返球する。
相手がドライブマンなら、まず間違いなくここからドライブで攻撃をしかけてくる。
ただ、砌がそんな行動に出ないのはもうわかり切っていた。砌はかなり特殊な守備型だ。
卓球の守備型でメジャーなのは、相手のドライブを台から離れたところで下回転をかけて返すカットマン。身体を沈めて文字通り切るような動作で返球する。
それと男子ではマイナーながら反転式と呼ばれる裏表にグリップの付いたペンホルダーに、裏ソフトと粒高ラバーを張って相手の攻撃をブロックし続ける異質前陣攻守。粒高とはその名の通りイボのような突起が高く突き出したラバーで、相手の打球を打つと逆の回転がかかる性質を持っている。これを利用して相手のドライブをバウンド直後に打ち返し、下回転や無回転で相手を翻弄する。
砌はそのどちらでもない。非常に特殊なタイプと呼べるだろう。
コースを突いたツッツキを同じくツッツキで返されるが、返球はエンドライン近くでバウンドする。司は腕を引いてドライブの構えを取るが、ふと思い付き腕から力を抜く。
下から上に、力なくラケットを振る。打球は見事なチャンスボールとなって砌の台上でバウンドする。
砌はスマッシュを打つ素振りも見せず、力なく打ち返す。浮いた球になって返ってきたのを、司は思い切りスマッシュで打ち抜く。
11‐6。ゲームセット。司の勝ちである。
「ありがとうございました」
小さく息を吐き、砌はそう言ってラケットを台の上に置く。
「最後の、どういうつもりなの? あんたが自分からチャンスボールを上げるなんて」
紫が言うと、司は考え込むような表情を見せる。紫はほとんど見る機会のない司の思案顔を見て、相手をなめて行ったプレーではないことを悟った。
「砌――だったっけ。あなたもしかして――」
砌は暗い顔をして一度置いたラケットを取り、床に落ちていたピン球を一つ拾い上げて台の上で大きくバウンドさせる。
腕を引き、球が頂点に達したところでラケットを振り抜く。
ラケットは、物の見事に空を切った。ピン球は虚しく台上で数度バウンドし、転がって床に落ちた。
「スマッシュが打てません。ドライブもできません。私は――ポンコツです」
最初の練習で、基礎はしっかりとできていることはわかった。基礎ができていれば、スマッシュなど容易く打てる。初心者でも大きく浮いた球を強打することはできるのだ。
だから、砌の問題はもっと根深く、複雑で、深刻だ。
「イップス……?」
スポーツ選手が陥る、ある一定の動作ができなくなる精神障害――イップス。砌の状態はそれに当てはまる。
「そんな大層なものじゃないです。ドライブが打てないのは元からで、スマッシュも――元々苦手でしたから」
元々――ということは、ある時期からイップスに陥ったということになる。
だがこの場の誰もそれを問いただすことはできなかった。砌の痛切な表情が、それを許さなかった。
「私が入っても、部に迷惑をかけるだけです」
「そんなことあるかい!」
聖が底抜けに明るい声で叫んだ。
「あんた実際あたしに勝ってるじゃないの。そんな奴、伊作市にはあんたしかいない。それがイップス如きでやめられたらこちとら商売あがったりじゃないの!」
真剣に、だが嬉々として詰め寄ってくる聖に、砌は圧倒されていた。
「いや、言ってる意味わからな――」
「よーく思い出してみなよ。最後の市民大会、あんたあたしに何回スマッシュ打った? あたしはよーく覚えてる。負けた試合は絶対に忘れないからね」
聖は右手でグーを作って砌の眼前に突き出した。
「ゼロだよ! あんたあたしに対して一回たりともスマッシュ打ってないんだよ! それであたしに勝ったんだよ! すごいよ! びっくりだよ! あんた最高だよ!」
呆気に取られている砌を見兼ねてか、司が苦笑しながら今や額が触れ合うほどまで接近している聖をひょいと抱き上げて距離を取らせる。
「この子、自分を負かした相手に異様に懐くんだよ。私も早々に苦労してる」
「はい! 安倍さんも最高ですよ!」
司は苦笑しながらよしよしと聖の頭を撫でている。
「でも、私は――」
「まあとりあえず、入ってみるだけ入ってみたら?」
聖に抱きつかれたままの司が、優しく微笑みながら言う。
「勿論、練習はみっちりやってもらうし、特別扱いもしない。使えるかどうかは私が判断する」
砌はばれないように自嘲の笑みをこぼした。
「使い物になりませんよ、私は」
「私はそうは思わない」
真っ直ぐにそう言われ、砌は思わずたじろいだ。
「今の試合、あなたは全く手を抜いていなかった。慣れないラケットとシューズという点を差し引けばね。目の前の試合に全力でぶつかれるだけの気概はある。それがわかれば充分」
手を抜けばよかったなどという後悔を抱くような砌ではない。
ようやく司から離れた聖は、つんつんと砌の制服の袖を引っ張りながら口を開く。
「そういえばまだ聞いてなかったけど、なんで高校では部活に入らないなんて決めたの?」
「ば、馬鹿! それ絶対地雷だから!」
司が慌てるが、砌は思ったほど動揺していなかった。ただ、話す義理もないだろうとは思った。
「弱いからだよ」
「あたしに勝っといてそれは理由になってないよ」
少なくとも聖の物差しではそうなる。いや、冷静に判断すれば「神童」に黒星をつけたというだけで大方の人間の見方ではそうなるだろう。
「でも、弱いんだ。どうしようもなく」
「もしもあんたのこと弱いって言う奴がいるなら」
聖はにっと笑ってみせる。
「あたしが片っ端からぶっ倒して、あんたが強いってこと証明してあげる!」
砌は暫し固まったあと、声を上げて笑い始めた。
「え? え? なに? あたしなんか変なこと言った?」
「うん、すっごい変」
気付かない内に笑いすぎて涙まで出てきていた。
「安倍さーん! あたしなにか変なこと言いました?」
「まあ、あれだ。私は実力至上主義なんて呼ばれもしたし、事実自分でもそう思うけど、気の合う仲間と一緒に部活をする楽しさを否定するつもりはない。なんなら、そういう動機で部活に入ってもいい」
司と砌の顔をきょろきょろと交互に眺めている聖を見て、砌は涙を拭う。
「ねえ、進藤」
発音の違いで名字を呼ばれたと判断したらしく、聖は砌に視線を固定する。
「あなたに付き合うなら、その、入ってもいいかと思う」
それを聞くと、聖は花が咲いたように笑って、砌の身体に思い切りぶつかってきた。
「やったー!」
聖のタックルからの抱擁に息を詰まらされ、しかも一向に離れる気配がない。司に目で助けを求めたが、にっこりと笑うだけで静観している。
失敗だったか――などと心中で毒づきつつ、口元が緩んでいることに気付かない砌だった。
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