第2話


 大学生になり何か変われるかと思ったけど、やっぱり何も変わらなかった。

 わたし佐々木真澄は、どこに行っても佐々木真澄のままだった。目標なく真面目に勉強に取り組んで、試験だけはいい。その他はなんの経験も積むこともなく4年間はすぐに終わった。そして地元には帰らず、ここでそのまま就職した。

 変わったとは言えば、この時だ。

 自分が変わりたい方向ではなかったけど、なんの因果か接客業の仕事についてしまった。就職困難な時代で選べなかったのもあるし、もしかしたら密かにまだ変わりたいと期待があったのかもしれない。

 社会に出ると人と接するのが苦手とか言う余裕もなかった。

 とにかく大変で、毎日怒られて泣いたり怒ったりして、気づくとあっという間に5年が経過していた。

 慣れたせいか、ここ最近でやっと自分の仕事について考える余裕ができた。

 改めて考えると、やっぱり自分はこの仕事に向いていないことがわかる。仕事だからと人と接することはできるようになった。気分でもないのに笑顔を作ったり大きな声を張り上げたり、嫌な人やノリや合わせることもするようになった。

 だけどやっぱり好きではないのだ。

 そう自覚してから仕事をする意味がわからなくなり、心が病んだ。

 そんな折、久しぶりに実家に帰った時に、母親から彼が結婚すると聞いた。もう何年も顔も見てないので、完全に過去の遠い人だった。それよりもその話題から、母親が自分に結婚をしろだのなんだの言う話のほうが嫌だった。

 彼のことはその日、寝るまえにちょっと思い出しただけで、また日常に埋もれてく。もう一週間も仕事を休んでいる。また復帰できるのだろうか? でも動けない自分が、心で矛盾していく。

 ただ無意味な日々が過ぎ、気づけば何も動けなくなってしまっていた。

 世のみんが幸せで、わたしだけが不幸のような気がした。

 もちろん気だけだ、わたしの境遇なんて世の中に溢れているし、わたしより不幸な人間など腐るほどいる。それでも他人なんて関係なくて、今わたしが不幸と感じていることが肝心で全てだった。

 嫌な仕事を5年我慢して、結局残ったのは、わずかな貯金だけだ。


 そのうち、なんだか家にも居づらくなったわたしは散歩して近所の神社で時間を潰すことが日課となった。外に出てるだけまだマシだなんて思いながら。

 そんなある日のことだった。

 少し見覚えのあるおばさんが参拝にきていた。

 目が合うとすぐに思いだす。彼のお母さんだ。会うのは何年ぶりだろう。驚いていると、それは向こう同じようだったらしくこちらへ近づいてくる。

「あら、真澄ちゃん? まあまあ、久しぶりねえ」

「そうですね。ご無沙汰しています」

 これでも一応社会人だ。少しがんばって挨拶する。

「こっちに帰ってきたとは聞いてたけど」

 胸に泥のようなものが浮く。

 そうか、この人はわたしが社会脱落者だと知っているのか。そう思ったら、急に怖くなった。おばさんの目がわたしを覗いている。すぐにこの場から逃げ出したい。

「じゃあ、ね。……真澄ちゃん」

 しかし意外に向こうから、別れを切りだしてきた。なんだか元気なさそうだな、とは思ったけど、わたしには関係ないし余裕もない。

 しかし次の日もそのまた次の日も、おばさんは神社に参拝していた。

 目が合うたび会釈ぐらいは返すが、とくに会話はない。

 それはわたしが拒んでいる以上に、たぶんおばさんが拒んでいる気がした。わたしの記憶にあるおばさんは、もっと社交的な性格で人と話すのが好きだったはずだ。

「なにかあったんですか?」と話しかけたのは、きっとおばさんが自分より不幸に見えたから、人間は自分より不幸な人間にしか、きっと優しくできない。

「ああ、そう。志保さんから聞いてないのね……」わたしの母親の名前を挙げた。

「隠すことじゃないから、それに真澄ちゃんにも知っていて欲しい」とおばさんは、不健康そうな白い顔で坦々と語った。

 彼の結婚がダメになったことを聞かされる。そしてその理由は、彼が医者から病気で余命宣告されていることを教えられる。

頭が真っ白になり、気づくとおばさんに尋ねていた。

「―――病院はどこですか?」

 走る、いつ以来だろうか。息を切らせて、括った髪を躍らせながらわたしは走った。家まで5分もかからない。高校生のとき使っていた自転車を引っ張り出してまたがる。

 ペダルを踏むたび、悲痛な悲鳴をわたしの代わりに上げる。それでもペダルを踏みこみ、それに応えるように自転車は加速し、チェーンが外れることもなく病院に辿りつく。

 白くて大きて立派な病院。

 だけど何故か、よけいに不安になる。

 息を切らせながら受付に向かう。

「ここにご記入お願いします」事務的な言葉。

 怪訝な視線のなか紙を記入をすると、首からかけるカードを渡され場所を説明される。礼を言い、走りたい気持ちを押え、足早にエレベーターへ向かう。

 心臓の鼓動が強いのは息が切れているからなのか、久しぶりの再会だからなのか。

 個室のドアを開けると、ベットに上半身を起こしている男の人がゆっくりとこちらを振り返った。

 ―――彼だった。一瞬、この時間に縫い付けられる。

 我に返って、自分のことを説明しないといけないことを思い出す。

「あの、あのわたし。お、覚えていないかもだけど、近くに住んでた……そ、そのあ――」

「佐々木」

 言葉を遮られる。胸に甘い味が広がり、わたしの頰は何年かぶりに笑った。


 最後に会ったのはもう10年以上まえ。

 それから一度も連絡もとっていない。ただの赤の他人、それがわたし達の10年だった。だけど再会したわたし達は不思議なほど、あの日のままだった。

 いちど、友人になった人間は何年経ってもきっと友人なのだとこの日思った。

「佐々木は変わってないなあ」

 彼はわたしの顔を眺めて、はにかむ。

 ああっ! そういえばすっぴんだ。ここ数カ月顔の手入れなんてしていない。かなりの地味子ちゃんが窓ガラスに反射していた。

「今日はたまたまだよ。化粧もせずに来たから……」

 バツが悪くて、彼が座るベットの先を見ながら答える。こういう、いざという時に見た目をちゃんとできていないことに、やっぱり精神的には変わってないなと自覚させられた。

 彼は本当に死ぬんだろうか? ふと思う。

 懐かしい顔を見て、可笑しそうに微笑む彼にはそんな面影は感じられない。わたしの記憶の彼そのままで、幼ささえ感じるのに。

「……元気そうだね」

 わたしは呟く。

「……まだ、な。でも、もうそんなに生きられないらしい」

 そう告げた彼の言葉は、窓から入ってきた風に混じって静かに空気に溶けた。



 わたしはその日から縋るように、彼の見舞いに訪れた。

 何もすることができない自分に、今できることはそれだけだった。ちゃんと化粧をして出かける。でもそれに対しての彼の反応はなかった。

 毎日、他愛もない話が続く。

 病気のこと、結婚のこと、たくさん知りたいことはあったけど、訊くことができずにいた。やはり聞くべきじゃないのだろう。普通の大人ならそうするはずだ。

 だけど彼のほうから、それらを語ってくれた。

「なんか膵臓のうらに、15cmの腫瘍があるらしい」

「それって……」

「まあ……癌だな」

 彼は子どもみたいに笑ってみせた。

 鼻がツーンと痛む。いろんな憤りを感じたけど、何に対してなのか自分でもわからない。

「まあ穏やかにそれまで過ごしたいかな」

 彼が言うには病院生活はすることがなくて辛いらしい。

「あんたなら毎日、いっぱい誰かが見舞いに来てくれるでしょ」

 クラスの中心で友達が多かった彼。きっと高校、大学、社会でも同じだったに違いない。

「最初の頃は、な。……最近は誰も来なくなったよ。みんな仕事忙しいらしい」

 初めて彼が縋るような視線をわたしに向ける。まるで忘れられたおもちゃのようだ。みんな自分の現実を生きるのに大変なんだろう。

「わたしは、毎日、暇だよ」

 そう告げることが凄く恥ずかしくて、死にそうだ。

「そうか……なら、毎日来てよ」

「うん」

 ずっと噛みあわなかった歯車があった気がした。

 もし……もっと昔に、こんな会話がわたし達にあったのなら、少しは違ったのだろうか? 彼とわたし。親愛の15せんちと死の15cm。きっと何かが繋がっている。

 わたしはこの日、会社を辞めた。


 時間が経過するのはあまりにも早い。

 社会的に停止しているわたしの日々は、ある意味充実している。長い人生のなかで、たぶんあの幼い頃ぶりに孤独という毒から逃れていた。

 一生懸命働いていた時は、必死だったけど。理由はなかった気がする。社会のみんながそうだから、わたしもそれにならっていた。でも自分の望みがなかったのだから、なんとも情けない。

 何も求めなかったから、わたしはずっと一人だったのだ。

「なんか……今日も顔色悪いね」

「また死期が近づいたかな」と彼は笑う。

「その冗談はきらい」わたしは言う。

 毎日通っていると話すこともなくなる。

 ベット脇のパイプ椅子に座り、図書館で借りてきた本を開く。彼は好きなラジオ番組を聞いている。互いに一緒にいるのに、互いの時間を生きている。彼はどうだか知らないが、わたしは十分だ。わたしが彼を求めて、彼も同じということだけで良かった。それだけで孤独は楽になる。

 たまに思いだしたように会話する。そんな日々。

 エレベーターで一緒になった看護婦が勘違いして、「奥様も毎日たいへんですね」と声を掛けられる。

「あ、はあ……」うまく否定することができなくて、やっぱり他人は苦手だなと自覚する。逃げるように彼の病室へ向かう。

「どうした? なんかニヤついているぞ」

「ない、そんなことは、ない」

 何かあるわけじゃない。何もなくても幸せと感じるそんな日々。

 でもときおり彼を見ると、まるでロウソクを眺めてる気分になる。

 ふと意識が覚醒する。いつのまにか眠っていたようだ。ベットのシーツに自分の腕を枕にしてうつ伏せに寝ていた。音もなく顔の角度を変えると、彼はぼんやりと空を眺めて、涙を流していた。

 わたしが帰ったあと彼は一人ぼっちなんだ。

 病気のこと、自分の命のこと、後悔や怒りがこの病室には溢れている。そんな夜をずっと一人で過ごしているのだ。

 わたしは月を見上げるように彼を見つめた。やがて彼はわたしに気づき、そして何も言わず涙をぬぐうこともしなかった。

 何をどうすればいいかわからない。だけど、すごく何かをしたい。幼い頃、彼の手を引いていた自分がここにいる。ふと身体が動く。

 彼の吐息を感じた。昔のように15せんちの距離に近づく。親愛のパーソナルスペース、だけどわたし達にはもっと距離はいらなかった。

 思考が縫い付けられて何も考えられない。まるで星が動くように長い時間をかけ、わたしたちの唇は触れ合いすぐに離れる。ああ、耳が熱い。

 何も言わずそのまま、病室を出て家に帰った。


 真っ暗な部屋で考える。あれでよかったのだと思う。

 あの時、わたしに溢れていた感情は、言葉にすることができなったのだから。気持ちを伝えるのは、あれでよかったのだと納得する。

 まさか28歳にして、始めてこういう経験がくるとは思わなかったけど。

 深く深く悲しい気持ちのまま、まっくらな天井に浮かぶ照明器具を眺めてわたしは涙を流し続けた。


 雨の音で目が覚める。

 明け方まで眠れなくて起きていた記憶がぼんやりある。窓から入ってくる光が薄いため、さぞかし日が沈んでいるんだなと思い、時計を眺めるとまだ8時だった。曇り空は、今の気分にちょうどいい。

 今日はこのまま寝てしまおう。幸いにも寝不足だ。

 だけど目を閉じてもいっこうに眠気は襲ってこない。むしろ水の中にいるように息苦しく、その理由もわたしはわかっていた。


「ひどい顔だな」彼は笑いながら言った。

 言葉が浮かばなくて、脇の椅子に腰かける。

 しばらく目を閉じて天井を向く。雨の音とどこかで人の音が微かに聞こえてくる。こんなにも疲れているのに、わたしの中で何かのスイッチが入ったままだった。

「―――ねぇ?」

「うん?」

「あんた、ほんとに死ぬんだよね?」

 真っ暗な目蓋には、ぼんやりと色んな色が浮かぶ。

「うん」

 目を開く。久しぶりの世界に少し酔う。

「なら、あんたが死ぬまで……わたしはあんたのために生きていい?」

「ごめん。意味がよく理解できない」

 それはそうかと思う。

「ずっと一緒にいていい? もしわたしが変なこと言って嫌われても。死ぬその日まで、わたしがあんたのそばにいたいんだけど」

「ああ……、それならいいよ」

 また顔近づけて15せんちで見つめ合い笑う。そしてまた少し近づいて、唇で口に触れる。

 彼が死ぬまでの数カ月、わたしと彼は夫婦になった。

 といっても婚姻届けを書いて出しただけで、誰にも言っていない。お互いの両親も知らない、内緒の夫婦。ああ、そう言えば幼い頃、彼とママゴトしたことを思い出す。

 彼と手を繋げる。唇に触れられる。頭を彼の身体に預けることができる。

「ああ、今日も旦那さんのお見舞いですか?」

「ええ、まあ……」

 そして嘘をつかなくてもいい。素晴らしいことだ。

 チョロチョロと岩の間から溢れる沸水のような幸せ。勢いもなくて激しさもなくて、静かで透明なだけの幸せだけど。わたしには合っている。

 神様、ありがとうございます。そう思えずにはいられない人生だ。



「ん……」

 口づけを交わして離れる。

「――ガハッ、ゴホッゴホッ!」

「なんか失礼じゃない? それ」

 続く咳。音は低く、痛みを増す。

「ちょっと、祐樹?」

 近寄って背中をさするが、よりひどくなっていく。

 何度も声かける、耳鳴りがキンキンとうるさい。ベットの脇のボタンを押して、看護婦を呼ぶ。慌ただしくなる室内、先生が呼ばれてわたしは外へ出される。誰かに家族を呼んでくれと言われる。

「……え?」そんな言葉だけしか洩れなかった。

 言った人も忙しくらしく、どこかに行ってしまう。

 ちゃんとしなきゃ、ちゃんとしなきゃ、と呟く。

 なんとか彼のお母さんと連絡を取り、一緒に彼のことを待つ。おばさんの手は震えていて、きっとわたしも震えている。その後、なんとかなったと医者の言葉を聞いて腰が抜けた。

 その日から、彼は目に見えて衰えていった。そして苦しそうにすることが多くなった。会いに行っても会えない日もあれば、機嫌が悪くて買ってきた花を投げ返された日もあったし、寝たままの日もあった。

 15cmの死の影は、確実にわたし達に忍び寄ってくる。

「おひさし……」

 病室を開けると、まるで色を失ったような彼がまた笑う。

「今日は元気そうだね」

「そうだな」

 他愛もない話をしていて、気がづくとベットに頭をうつ伏せにしてまどろんでいた。彼の手がわたしの髪を撫でる。寝ていたかもしれないし、起きていたかもしれない。

 昔の記憶だ。彼がまだわたしを『スミちゃん』と呼んでた頃。場所はたぶん家のリビング、窓から入る大きな太陽の光を布団にして彼とお昼寝をしている。目が覚めると無意識に彼の手を握っていたことを不思議に思った。そして見る彼の寝顔。

 何故か彼とずっとこうしていくんだという想い込み。

「ん……祐樹?」

 さっきまでお昼だったのに、目が覚めると薄暗い夕方。陽は半分落ちていて、街は切り絵の影のように真っ黒だ。紅いのは空に窓に、そしてベット。そこは無人だった。

 ふらふらと病室を出て彼を探す。当てもないのに屋上へたどりついた。

 重い扉を開くと風が舞い込んでくる。

 紅い空に、黒いシルエットの彼が立っていた。

 柵を越えて向こう側に。導かれるようにフラフラとそちらへ向かう。ビュウビュウと……風がうるさい。

 腰くらい白い柵を越える。触れると昼間の熱を帯びて温かく、わたしの手を少し汚した。ゆっくりと彼の真後ろまで歩いていく。

 夕陽に目が眩んで、彼がグラグラと揺れて見える。今にも下へ落ちてしまいそうだ。そして本当に彼は、まるで高い塔が崩れるように宙へと倒れていった。

「―――あ」わたしはマヌケな声を漏らし。振り返った彼と目が合った。

 しかし彼は宙へと落ちなかった。

 右手で掴んでいたフェンスを離すことができないでいた。

「なにしているのよ?」わたしの低い声。

「―――死のうと思ったんだけど」

 沈黙が結局できなかった、と語っていた。

 思いっきり泣いてやろうと思った。だけど涙は引っ込んだ。だって彼が先に子供のように号泣したのだから。

「もう嫌だっ! 苦しい苦しい苦しい苦しいよ! なんでこんなに辛い! なんでこんな目に合ってるんだ俺はよ!」

 泣き崩れる彼。

 ゆっくりと近づくと子どもように、わたしのお腹辺りにしがみ付いて怨みと妬みを泣きながら吐き出し続ける。頭を撫でるとゴワゴワとした感触。わたしが知ってる幼い彼の頭の感触とはあまりに違った。

 目の前の人間は、あまりにも無残で無様だった。外見的にも精神的にもあまりに醜悪だ。醜い、あまりにも醜いこの彼にわたしは……はっきりと母性のようなものを感じていた。

「そんなに苦しいの?」

「うんうん! もうダメだ、もうダメなんだ!」

「そんなに死にたいの?」

「ああ! もう耐えれない! 無理無理だ!」

「なら、なんで死ななかったの?」

「あ、ああああっ! こ、わくて、できな……かった」

 彼の息と涙と鼻水で、お腹に温かさを感じる。優しく彼の頭を撫でながら、沈みかけている夕陽を眺めながら告げた。


「―――なら、わたしが殺してあげる」


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