15せんちcmセンチ

見る子

第1話



 ―――サクッ、サクッ。

 振り下ろす包丁は朝陽を反射して白く煌めいている。

 朝の光は人を幸せにする。山から見下ろす街に朝陽が降り注ぎ、海は金色に輝いて空はどこまで青い。この光景を眺めて、不幸な気分になる人間なんていない。

 腕にさらに力を込めて振り下ろす。返ってくる衝撃が疲労した筋肉には辛く、腕に痛みが走り痙攣を繰りかえす。

 まだ半分くらいだ。思わず空を見上げると、透きとおった青い空にひとつだけ低い位置にある小さな白い雲。わたがしみたいと言っていた幼い彼の顔が頭に浮うかび、知らず口元が緩んだ。



 彼―――日下部祐樹との出会いは、正直覚えていない。

 家が近所で母親同士の仲が良かった彼とわたしは、物心ついた時から出会っていた。自分の中にある一番古い記憶、そこにはもう彼がいた。

 今、思うとそこは美容室だった。

 お互いの母親が仲良く髪を切りに来た美容室。二人が髪を切っている間に、彼と一緒に母親達を待っていた。母親に二人で一緒にお手て繋いで待っててね、と言われ、それが凄く重要なことだと思ったわたしは一生懸命彼の手を離さないようにしたことを覚えている。その間彼はTVに流れていた児童向けのパンのヒーローに夢中になっていた。

 見ていたアニメが終わると違う番組が始まる。幼いわたし達にはとうていわからない内容だったけど、見ていて飽きないものだった。おぼろげだけど、なんでも他人同士が近寄られると不快に感じる距離を紹介した番組だったと思う。

 子どものわたし達には難しいことはわからなかったけど、仲が良いとその距離は短くなる。そのことだけはぼんやりと理解した。

「じゅうご、せんち?」

 TVに流れる単語を拾って横の彼が呟く。もっとも仲が良ければ15せんち近づいてもいいらしい。そんな内容が紹介されていた。

 それがパーソナルスペースのことだと知ったのは、だいぶ先のことだった。

 彼がTVからこちらに振り向く。その表情はわかんない、と語っていた。なんとなく距離のことだと理解したわたしだけど、当時の語彙力ではうまく説明できなかった。

「これくらい!」と手で距離を示す。もちろん15せんちなんてわかるはずもなかったけど、振り返った彼の後ろのTV画面ではちょうど15せんちの距離を大人が手で示していた。それを内緒でマネしただけだ。

「これくらい?」

 彼はわたしをマネて笑顔で笑う。

 また二人でTVに向き直ると、トイレのマークのようなイラストの男女が顔を近づけていた。どうやらそれが15せんちらしい。それが仲良しの距離だと紹介されていた。

 見たままの距離をマネて二人で顔を近づけてみる。

「これくらい?」

 と彼が笑ったので、わたしも笑い返す。

「これくらい」

 二人で笑い合うと、わたしが好きな苺の甘くてちょっとすっぱい感じが胸に広がった。きっとそれは彼も同じ感覚を味わっている確信があって、それがまたうれしかった。

 待っている間、わたしたちは何回も『これくらい』を合図に顔を近づけて笑い合った。ツボにはまったというやつだ。

「どうしたの二人で楽しそうに?」

「ほら祐樹、ちゃんといい子にしてた?」

 互いの母親が髪を切り終わって、わたしたちの所へ戻ってきた。わたしと彼は繋いでた手を今度は母親と繋ぐ。母親たちがお金を支払っているあいだも、彼と目が合うと私たちは、「これくらいっ!」と言いあって顔を近づけて笑った。

 母親たちは不思議がっていたが、子供のなんてそういうもんだと笑っていた。

 それがわたし達二人のちょっとしたブームになり、しばらくは二人で「これくらい!」と言い合いながら顔を近づかせて笑い合っていた。それがわたしの一番古い記憶。



 幼少時は家が近くの彼とは仲良く遊んだ。

 だけどそれもずっととはいかない。

 小学生に上がり、周りに男とか女の壁ができる頃にはわたし達の間にも距離ができていた。それこそ数年前までは一緒に手を繋いで登校していたのに。

 この頃は道端で会っても声もかけない。少し寂しい気持ちもあったが、周りに合わせてそんなものなのかと納得はしていた。

 成長するといろんなものが変わってしまう。それこそ小さい頃は自信に溢れて活発だったわたしも、学校でクラスに馴染めず性格もどこか大人しく暗い性格へと変わっていた。反対に彼は、明るく友だちの多い人間へと育っていった。

 わたしは騒がしい男子たちが嫌いだったので、彼もそんな人種に変わってしまって残念だと思っていた。

 だから彼と15せんち顔を近づけて笑い合っていたことなんて、もう彼は憶えていないだろう。そしてわたしにとっても、ずいぶん遠い記憶となってしまっていた。


 そんなある日、年に一度ある地域の運動会が開催された。

 わたしが住んでいる地域には大きなグランドがあり、そこで地域のイベントとして大人も子供も参加する運動会が開かれていた。毎年、ただ参加するだけの運動会で、運動音痴のわたしには嫌なイベントだった。

 しかし今年は、わたしの親と彼の両親がこの運動会の運営に当たっていた。必然的にわたしもその手伝いに駆り出され、それは彼も同じだった。少しだけ彼とまた接する機会ができ、それをうれしいと思ったのか、今となってはもう覚えてないけどその出来事を想っていることは、きっと何かしら当時思ったのだろう。

「いいよ、一人で……」

「なにそれ」

 だけど昔みたいにいくわけはなかった。

 彼はそっけなくて、あれこれ言うわたしを快く思ってないことがありありと見て取れる。昔はスミちゃんスミちゃんと舌足らずな声で、わたしの後をついてきたのが嘘のように生意気だ。

 彼の手伝いをしようにも鬱陶しがられる。作業のことで相談するも、勝手にしろと冷たく最近声変わりした低い声で言われる。きっとクラスでも浮いているわたしのことを見下していると感じたわたしは、もう彼に話しかけることはしなかった。

 無事に運動会は終ったが、後片付けにまで駆り出される。

「真澄、この長机を祐樹くんと倉庫にしまっておいてくれ」

 父親が気軽にそんなことを言う。文句を言って断りたかったけど、忙しそうな父親は大きなテントを片づける大人たちに混じっていき、わたしは途方に暮れる。

 しかたがないので母親を探すが、お弁当のゴミなどの片づけで忙しそうだった。胸に泥のようなものが溜まる。

 カブト虫の背中みたいな色をした長机は、わたし一人では持ち上げることはできない大きさだった。だけどそんなに重さがあるわけじゃないので、端を持ち上げ引きずってゆっくりと時間をかけて倉庫まで引きずっていく。

 一個片づけると疲労が肩に重くのしかかる。これをあと10個以上片づけなきゃならない。知らずため息が漏れる。

 そんなわたしに、今さら彼が近づいてくる。

「おとん、が、手伝えって」

 机を引きずっているわたしの脇でそう言う。もちろん無視した。

「おい、おいって!」

 少し焦った様子の彼に溜飲が下がる。いい気味だ、わたしも同じような目にあったんだから自業自得だ。そう思っていたら、引きずっていた机が軽くなる。うしろを振りかえると、彼が後ろから長机を持ち上げていた。

「なによ……」

「だから手伝うって」

「いいよ。一人で」

 いつか彼に言われた言葉を返す。バツが悪そうな顔をする彼。

 一人でやると言うわたしに、手伝うと言い返す彼。二人で言い合いをしながらも机を片づけていく。癪だけど、やっぱり二人だと速く終わる。

「はぁ~、終わったな」

「なによ、今さら」

 ずっと心で思っていたことを口にする。

「なにがだよ」

「ずっとわたしのこと嫌ってきたクセに、なに今さら」

「べつに嫌ってねえし」

「話しかけたら、嫌な顔するじゃん」

「む……しょうがないだろ。女子と仲良いって思われるだろ」

 なんだそれ、そのせいでこっちはさんざん嫌な気持ちにさせられたのに。意味がわからなさすぎる。そんなことどうだっていい、男子とか女子とか。

 ため息が漏れた。

 わかっている。それができないから、わたしがクラスで浮いていることも。

「ならほっときなよ。こんなとこ見られたら、そう思われるんでしょう?」

 彼のことなんて見ずに、そう告げる。

「いまは誰もいないだろ」

「そんなにわたしといることが恥ずかしいなら、どっかいきなよ」

 クラスの根暗女と知り合いと思われたくないのだろう。いつのまにか彼にとってわたしは恥ずかしい人間となってしまっていたのだ。とんだ笑い話である。

 鼻の奥がツーンと痛んで涙が出そうになる。

 一刻も早く一人になりたかった。衝動的に走って逃げたくなったけど、倉庫の中は小さな空間だ、出口近くの彼がそこをどかないとわたしは外に出られない。

「どいてよ……」

 彼は何も言わずにただそこに立っている。埒があかないので、彼を押しのけて外に出ようとする。そこで腕を捕まれる。想像もしてなかった行動に、わたしは目を丸くした。

「これくらい!」

 彼がこれでもかというくらい不自然な笑みでそう言った。

「―――あ」

 それは彼とわたしの親愛を示す距離。

 頭の中で幼い彼の声で『15せんち?』と首を傾げる姿が浮かぶ。

「覚えてるの? っていうかなんでこのタイミングで?」

「お前これ、昔ツボだったろ。どんだけ怒ってても、これやるとやると絶対笑ってたろ」

 そうだっただろうか? 言われるとそんな気もする。

 成長して変わって離れてしまったわたし達。それでもまたあの頃みたいに15せんちの距離に近づけるのだろうか。そう思い、ふと顔を近づかせる。

 互いの息が当たる15せんち。親しい人だけが許されるパーソナルスペース。彼と目が合うとどちらも自然に笑い合う。ドキドキと鳴る心臓、そこから流れる血はきっと苺のように甘いに違いない。

 小学生の頃の思い出など、それくらい。

 あれから彼とは仲直りをしたような気はするけど、あまり話した記憶はやっぱりない。だけど当時のわたしはきっと、彼のことを嫌いではなかった。



 ―――こんなにも人は固くなるのかと感心する。人から物へと。



 中学生になり、自分の性格とうまく付き合いだした。

 相変わらず友達は少ないけど、でも一人ではなくなった。中学校は部活に入らなければならず、卓球部に入りそれなりに学校生活を送る。

 彼とは一二年は同じクラスになることはなく、たまに学校の行き帰りで顔を合わすくらい。そんな彼は、あまり背が高くないくせにバスケット部に入部した。

 同じ体育館を使う部活だ。卓球部は2階、バスケット部は一階の広いコート。

 たまに練習の合間に下を見おろすと、彼ががんばっている姿を見かける。上手いかどうかはわからないけど、相変わらず人望はありそうで何故か安心する。

 とくにこの距離になってしまって不満はなかった。人生なんてそんなものだと納得していたし、それが成長なんだと思い込んでいた。

 けど最後の三年で同じクラスになる。

 彼はやっぱりクラスの中心で、わたしは冴えない女子の端っこの少数グループだった。ただ真面目で成績が良い根暗女、それがわたしのクラスでのイメージだった。

 小学生の頃よりも男女の違いははっきりとしているのに、もう壁というものはあまりなくなっていた。男性、女性を理解したうえで互いにコミニケーションを取っている。中学生とはそんな年齢だった。

 だから彼とまた少し話すようになった。


 そして受験が近づくと、成績の良くない彼はわたしを頼った。

 塾にも通わされていたけど、いまいち成績は伸びなかったらしい。なんとか私立ではなく公立のへ行きたいと彼なりに必死だった。

 部活も引退してできた時間を二人で受験勉強した。

「なあ? 俺、受かるかなあ?」

 彼が不安そうな顔をする。

 心配性な性格は昔から変わらない。そんな彼に顔を近づかせて告げる。

「大丈夫、絶対受かる」

 昔、彼の手を引いて遊んでいた頃のような気持だった。

 わたしが言いきると彼は安心したように微笑んで、またノートに向かう。試験が間近になった頃、彼はよくこの質問をわたしにした。なんでも教師や友達や親は、『むずかしい』『ヤバい』『大丈夫なのか』、こんなことを言われ続け、不安になって勉強もなかなか捗らないらしい。

「佐々木がそう言ってうれると、なんか安心だよ」

「そう?」

 わたしは中学から掛けだしたメガネの位置を直した。


 そして彼は無事に志望校に受かり、わたし達は中学校を卒業した。

「サンキューな」卒業式の前日、登校してきたわたしに下駄箱で彼はそう告げた。わたしも何か返したと思うが、今はもう覚えていない。



 ―――肉体は疲労しきっていて、それ以上に精神が悲鳴を上げている。



 高校生活で彼とは会ったのは一回だけだった。

 たしか入学したての頃、電車通学だったわたしは地元の駅で会い、少しだけ話をした。そこで高校生から持った携帯電話の連絡先を交換した。それなりに嬉しかったことを覚えている。

 だけど結局、連絡はなかったし、することもなかった。

 次第に目の前の現実を生きることで精一杯になり、彼のことを思いだすこともなくなっていった。たまに近所で姿を見かけたり、母親から噂を聞いたりするくらいだ。

 中学の時よりもわたしは勉強三昧になった。

 目指す大学をかなりランクアップしたのが理由。なんとなくこの地元から出て行って、そして自分の価値を高めたかった。だから地元以外の大学で、そして有名な大学にこだわった。

 あれはたしか必死に受験勉強して、休憩がてら近くのコンビニへ向かう途中だった。寒くて空気が澄んでいて、陽が沈む様が綺麗な時間だった。向いからくる自転車に乗ってるのが彼だとすぐにわかった。

 とくんっ、と心臓が一回だけ強くなる。

 そして死んだように、凍りついた。

 彼のうしろには髪のきれいな女の子が座っていた。彼の腰に手を回し、甘えるように彼の背中に顔を預けている。15せんちよりも近い距離、わたしなんかよりも近い距離にいる女がそこにいた。

「まあ、そうだよな。現実ってこんなだった」わたしは一番星にそう呟く。

 そこからモヤモヤしたものを吐き出すように、忘れるように勉強に没頭した。成績は上がり、大学に受かった要因のひとつだったと思う。

 そしてわたしは新しい世界へと旅たつ。

 地元を離れるとき、見送りは誰もいなかった。わたしがこの地で築いたものなんて、きっとないに等しいのだと実感して涙が浮かんだ。



 ―――なぜかはわからない。だけどこれを取ったら、きっと魂のようなものが。






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