第3話 先延ばしの約束


「おはようございますっ!」

 早朝から元気な声が部屋に響いた。リタが部屋の扉を勢いよく開け、私の部屋に飛び込んできたのだ。様子から察するに、大分元気になったらしい。

「おはよう、リタ。もうすっかり元気だね」

 そういって、私は帽子をいつものように頭に乗せて近づくと、意外にもリタは頬を膨らませた。なにか機嫌を損ねただろか? などと一瞬頭をよぎるが、彼女は表情とは裏腹に楽しそうに口を開いた。

「なんだ、クーフさんて早起きなんですね。寝起きかなって楽しみにしてたのに」

 しかしそういう彼女の心音は弾んでいる。

「そういうリタこそ、随分早起きだね。いつもこんなに早いのかい?」

「うん、おばあちゃんと一緒だから。クーフさんも早起きなんですね!」

 リタは相変わらずニコニコと話しかけてくる。その笑顔を見ると、こちらまでつい口元がほころんでしまう。私が次の句を口にするよりも早く、ぐぅーっと音が響いた。たちまちリタはお腹を押さえ、顔を真っ赤にする。 

「昨日夕食も食べずに寝ちゃったものね。お腹が空いてるだろう?」

 私が優しく声をかけると、少女はまだ頬を赤らめたままゆっくりうなずいた。


 朝食を食べながら、私は少女と今日の行動について話し合った。

「まずは石を奪うような怪しい人がいなかったかどうかを聞いたほうがいいかなって思うんですけど……」

 リタが食後のお茶を飲みながら問う。私もお茶を飲みながら頷く。

「そうだね、人に聞いてみるのは手だと思うよ。サロフェの村は小さい。あの村に向かう人というのはかなり珍しいんじゃないかな?」

 私の言葉にリタは頷く。やはりあの村目的で来る人物というのは稀らしい。

「ただ、石自体小さいから、こんな石持ってる人いませんでした?って聞いても分からないと思うんですよ……。村に向かっていた人、いませんでしたか? って聞いたほうがいいかな?」

 少女は上目遣いで私に問う。少女の瞳を見ながら、私の頭に考えがよぎる。

「……リタ、あの石には強い力があるだろう? きっと、あの力は隠しきれないと思うんだ」

 私の言葉にリタは頷く。やはりリタにもあの石の強さは分かるらしい。遠くからでも力を感じることが出来るのだろう。

 しかしそれは、一般的な魔法術師の場合は別だろう。彼女にはあの石を守るという守護役がある。普通の人よりは力を感じるだろう。

「盗まれたのが一昨日だとしたら、盗んだやつらはおそらく昨日……この町にいたんじゃないかと思う。サロフェの村に通じる大きな道は私たちが通ってきた道だけだし、村からこの町まで、どんなに頑張っても半日以上かかる。石が盗まれたのが夜だとしたら……」

「……昨日の朝には、この町にいたって……ことですか?」

 私の伝えたかった言葉を、リタが先に口にする。私は少女の目を見て深く頷いた。

「リタ、追跡の魔法は使えるの?」

 追跡の魔法は、対象物が何処に行ったのかを指し示す魔法だ。主に人間を対象とする魔法で、その人物の魔力に反応して、矢印が動く、いうなれば方位磁石のようなものだ。しかし、追跡の魔法の場合、まずはその対象物の持つ魔力を反応させなくてはならない。犯人が誰なのか分からない以上、犯人の魔力を追跡の対称にすることは出来ないが、あの石ならば、石の放つ魔力を対象に、追跡が出来ないかと考えたのだ。

「私は……まだ追跡の魔法までは使えないんです……一応教わったけど、昨日やったときには出来なかったんです……」

 少女の心音が沈んだように聞こえる。責任を感じているのだろう。

「大丈夫だよ、リタ。村に入った人間を探すだけでも、きっと手がかりにはなるよ」

 気持ちを察し、極力優しく努めて話しかけると、少女がゆっくり目線をあげた。

「クーフさん……あの山で会ったとき、言ってましたよね……。古い神殿は、なにかを伝えたくてあんな災いが起こったんじゃないかって……。あの神殿は、私に教えていたんですね……。あの石に危機が迫っているんだって……。もっと早く気がつけばよかったのに……」

 また心音が沈む少女に、私は微笑んだ。

「大丈夫だよ。まだ間に合う」

 私の言葉に、リタの表情がようやく和らいだ。

「そうですね……。じゃあ、さっそく聞き込みしてきましょう!」

 ちょっと元気を出してリタが声を上げる。私はそんな彼女に微笑み返し、軽く首を振った。

「リタ、申し訳ないが、聞き込みは任せてもいいかい? 私はちょっと用があってね」

 私の言葉にリタがぽかんとする。ちょっと戻ったテンションがまた少し下がる。

「え、どこ行くんですか……?」

「勿論、犯人探しは私も手伝うよ。でも、それ以外にも色々とやることがあるだろう? 次の旅に向けて買出しも必要だし」

 そういって、私が微笑むと、少女が心配そうな顔になる。

「……どうしたの? 一人じゃ心配?」

 私の問いに、思いかけず少女が私を見つめ返してきた。その目がただ、幼さから来る甘えかと思いきや……若干様子が違う。

「……あの……ここでお別れ、とか……言わないですよね?」

 思わず私があっけにとられた。心配はそこだったのか。

「まさか! まだ旅は始まったばかりだろう?」

 私の言葉に、一気にリタの表情が明るくなる。

「よかった! 私、まだまだクーフさんと一緒に居たかったから……。あ、じゃ、じゃあさっそく行って来ます!待ち合わせは、またこの宿でいいですか?」

 たちまちそそくさと準備を始める少女を見て、私は思わず微笑んだ。本当にコロコロと表情が変わる。

「わかった。では、待ち合わせはこの宿だね。ああ、そうだ。もしも迷子になったら……」

「迷子になんかなりませんっ!じゃあ行ってきます!」

 私の言葉に、軽い反発心をもって返事をすると、そのまま少女は駆け出していった。


 別行動をとったのには訳があった。勿論、手分けした方が早いというメリットもあるが、それ以上に私にはやっておきたいことがあったのだ。

 もしも、石を盗んだ犯人がこの町に来ているのなら、十中八九、宿に泊まっているに違いない。石を守る術を破壊するのだって、かなりの能力は必要だ。まして、盗まれたのはおそらく夜。魔物もよく出る時間帯だ。いくら力のある術者といえども、魔物の多い山道を通るわけがない。通るとしたら必ず私たちが通ってきたような大通りのはずだ。そして休憩地点としてこの町を利用する可能性はかなり高い。そう考えて、宿を当たることにしたのだ。

 この町の宿はそう多くなかった。それらを一つ一つあたり、部屋を見せてもらった。石を盗んだ犯人なら、部屋に石が放つ魔力の残り香が見つかるはずだ。そして、私の力なら、その残り香から、残りという音を聞くことが出来ると確信していた。

 そしてこの力を発揮する場面は、あまり人に見られたくなかったのだ。術に対して勤勉であるあの少女が隣にいたのでは、術を発揮するのもはばかられるだろうから……。


 私の予想は的中した。当たった宿の二つ目で、石の残り音を感じた。おそらく犯人が泊まっていたであろう部屋を、宿の主人に頼んで見せてもらった。

 部屋の隅にある机から、わずかだがあの祠と同じ魔力を感じる。そっとその机を触れてみる。エンリン術の一つ、力を持つモノが放つ波……音を聞く能力だ。

囁くような小さな音だが、こそこそと石を取り巻く人物の音も感じる……。


 奇妙な力だった。精霊族ともマテリアル族とも違う、奇妙な魔力の音……。

 波長の良く似た男女が二人と、石にも似た強い力を放つ……少年……?

  ……光の石……。

  ……これで三つめ……

  ……残るは三つ……

 そこで音はかすれて消えた。


 気がつけばあっという間に夕方だった。宿を当たり終えた私は、次の目的地に向けて準備を整え、宿に戻った。しかしリタはまだ戻っていなかった。外を見れば大分日は傾いて、徐々に暗闇が近づいている。本当に迷子にでもなったのだろうか?

「遅くなる前には戻らせたほうがいいな……」

 彼女のことだ。手がかりが見つかるまで、夢中になって探しているのかもしれない。私は宿を出て、町に繰り出した。

 正直、人混みはあまり得意ではない。エンリン術の力でもある、力や思考が放つ波長――音が聞こえる自分にとって、人混みの中は音であふれかえっていて耳が痛い。まあ夕暮れ時で大分人が少なくなったのは、逆に好都合だった。

 私は、外界の音にあふれる中、意識を集中した。探す音は聞きなれたリタの音……。

 考えてみれば、出会ってわずか数日。こんな短期間でも、リタの音は大分私になじんでしまった。今なら、あのリタの音を探す事だって容易だった。

 現在位置から若干外れた町の隅に、彼女の音を確認する。……様子がおかしい。なにやら怒りを感じる。彼女は何かに対して、心音を荒げているのだ。

 急に心配になって、私はリタの音のする方向へ走り出した。


 町の大分はずれにきた。きれいな川の流れるほとりに彼女は居た。近づくほどに何が起こっているのか、大分見当がついた。彼女は数人の男性に囲まれて、なにか言い争っているように見えた。おそらく絡まれたのだろう。ひとまず怪我はなさそうだということだけ確認して、私はゆっくりと彼らに近づいた。

「だから、私はもう帰らなきゃいけないの!」

 リタが珍しく声を荒げている。

「いいじゃん、どうせ旅の途中なんだろ? ちょっと遊んでいきなって」

「結構あそこのカフェ、人気なんだぜ。きっと君も気に入るよ」

 そういって三人の男のうち、一人がリタの手をとる。

「離してっ」

「そんな嫌がるなって……っていてっ!」

 三人の男が慌てて、振り向く。静かに背後に近づいた私に気がつかなかったのだ。急に腕をつかまれて、男がぎょっとする。

「な、だ、だれだよ、アンタ?」

「クーフさん!」

 私の姿を確認するや否や、リタの表情が明るくなる。男が手を離した隙に、ひらりと男達から身をかわし、私のそばに駆け寄ってマントにしがみつく。

「っちぇ、ツレかよ」

「つまんねーの」

 口々に吐きながら、たちまち男達はその場を離れた。良く見れば顔立ちはまだ幼さを残す。まだ少年だったようだ。

「若いわりに、随分ガラの良くない少年達だったね」

 私は去っていく少年達を見送りながら呟いた。リタは私のマントにまだしがみついたまま、少年達を睨んでいた。よっぽど嫌だったのだろう。

「リタ、大丈夫?」

 目下の少女に優しく声をかけると、そっと上目遣いでリタは私をみた。その心音からは安堵感が伝わってくる。その様子を確認して、私も胸をなでおろした。

「心配したよ。まだ宿に戻っていなかったから」

 私が話しかけると、リタはようやくマントから手を放し、私の正面に来る。そしてまた見上げながら軽く首をかしげた。

「クーフさん……探しに来てくれたんですか?」

「当たり前だろう? 遅くなっても戻らないから、心配したよ」

 私の言葉にリタはうつむくが、その表情は嬉しそうだ。

「さ、帰ろう」

 そういって私は彼女の肩に手をあてて促した。もう日は落ちて薄暗くなってきていた。夜が近い。

「クーフさん、ありがとう」

 唐突にリタが礼を言った。私はリタをちらと横目で見てすぐ前を向くと、止まらずに答えた。

「当然じゃないか。女の子が絡まれていたら、普通助けるだろう?」

 そう答えて私が笑うと、リタは隣で怒りが再発したようだ。ブツブツと先ほどの少年達の文句を言う。

「それにしたって、あの人たちしつこ過ぎます!ちょっと聞いただけなのに、関係ない話ばっかりするから……」

 そういって憤慨する少女をちらと見た。

 長い青みがかった黒髪にスラリと伸びた細い足。白い肌に大きな藍色の瞳……。そうだ、リタはなかなかの美少女なのだ。よくよく考えれば、同年代の男性が心惹かれないわけがない。

「仕方ないよ。リタはかわいいから」

「……えっ」

 私が思わず口にした言葉に、思いがけずリタが動揺した。急に心音が乱れたことに、私は目を丸くする。

「……? どうしたの、リタ?」

 私は急に息をのむ隣の少女に声をかけた。若干頬が赤い。

「え、や……きゅ、急にクーフさん変なこと言うから……。な、何言ってるんですか、もう」

 急にリタは膨れてさっさと歩みを速めて歩き出した。追い抜かれた私は逆にあっけにとられ、少女の後ろ姿を追う。……ああ、照れているのか。彼女の気持ちを察するのに時間はかからなかった。

 私は内心苦笑していた。リタばかりではなく、私はどうも女性の扱いがあまり得意ではないらしい。褒め言葉のつもりで言った言葉が余計な誤解を招いたり、気持ちを察してとった行動に怒られてしまったり……。心音が聞こえるからといって、必ずしも人間関係がうまくいくとは限らないことを、私はよく知っていた。

「……で、でも、クーフさんもかっこいいですよね!」

 私が無言で考え込んでいると、唐突にリタが振り向いて声をかけてきた。急な褒め言葉に、私は思わず苦笑する。

「そうかい?」

「そうですよ! 結構、クーフさんってモテそうですよね。……恋人とか……いるんですか?」

 予想外の質問に私は一瞬たじろいだ。

「いや……いないよ」

 自分の心音が乱れたことを感じ、努めて落ち着いて返答する。ふーん、ともっと聞きたげな少女の思考を止めるために、私は逆に質問を投げかける。

「そういうリタは、村に恋人とかいないのかい?」

 途端、リタの心音が一気に乱れた。動揺したのだろう。急に前を向いて私に背を向けながら返事をする。

「そ、そんな人、いませんよ……」

「そうか……。そういうリタこそ、モテるんじゃないかな? きっと同年代の男の子は気に入ってしまうと思うけどな」

 何気なく言ったその言葉に、リタの音がまた乱れる。

 ……いけない、また発言を間違えたか……? そう私が後悔の念に襲われそうになった瞬間だ。リタが唐突に立ち止まった。

「……クーフさん」

 その声の調子と心音から、なにか急に彼女の緊張が張り詰めたのを感じた。私が彼女の音を探るよりも早く、リタは私に向き直り、その大きな瞳で私を見上げた。幼くはあるが整ったその顔立ち、吸い込まれそうな大きな瞳。急に真剣に見つめられ、思考が止まる。

「私……クーフさんが好きです」

 一瞬、息を飲んだ。

 まさか……この少女に想われていたとは、完全に予想していなかったのだ。

 何も答えられずにいる私の沈黙に耐えられなかったのだろう。一呼吸置いて、リタは言葉を続ける。

「きっと……私にそんな風に思われるの、迷惑、ですよね……」 

 そう言いながら、リタはうつむいた。彼女の音がどんどん沈んでいくのを感じる。なんて声をかけたらいいんだろう……こんな些細なことなのに、私は自分の音も乱れていることを感じていた。リタはうつむいたまま続ける。

「でも、言いたかったんです。言わないと……後悔しそうだったから……」

 今にも泣きそうな声に、思わず手を伸ばそうとしてひっこめた。そんな私の様子に気付くこともなく、少女は急に顔をあげてまた私をみる。少女の心音が高鳴っているのが伝わってくる。でもそれは、わずかな期待と悲しみの間で揺れているようだった。

「無理だって、わかっているけど……でも、やっぱり……」

 少女はそこから先の言葉を飲み込んだ。

「……弱ったな……」

 思わず口からこぼれてしまった。私のその言葉に、またも彼女の音が沈む。

 正直、私は戸惑っていた。理屈的に考えたら、「まだ君には早いよ」と、大人らしく諭してあげるべきなのだろう。だがその発言ははばかられた。それは彼女を傷つけたくなかったから……だけではない。予想以上に私自身の心が乱れたことが、私を混乱させていた。どうして、こんなにも私は動揺しているのだろう?

 私は沈黙してうつむく少女を見て、大きく息を吸った。わずか十数秒の間だったろうが、きっと少女には長い長い沈黙だったに違いない。

「……リタ」

 私はしゃがんで、うつむく少女の表情を覗き込んだ。案の定、瞳が潤んでいる。悟られまいと目をあわせようとしない少女に、私は優しく声をかけた。

「リタ」

 再び私は彼女の名を呼ぶ。そこでようやく少女は目を合わせてくれる。

「リタの気持ちは嬉しいよ。でも……今、君の気持ちに応えることは出来ない」

 優しく優しく答えたつもりだった。でも、予想通り彼女の瞳から見る間に大粒の涙が流れ落ちる。私は手を伸ばし、また目をそらす少女の頬に触れる。

「リタは今、年はいくつ?」

「……十四……」

 リタは震える声でそれだけ応える。

「じゃあ、まだ、君の気持ちに応えることはできないよ、今は、ね」

「……」

 私の物言いに、彼女の心音が熱くなったのを感じる。鼻をすすりながら、少女がようやく口を開く。

「やっぱり……私がまだ、子供だからですか……?」

 私はそこで首を振った。そして、涙で濡れたまつげに縁取られた大きな瞳を真剣に見つめて答えた。

「正直、君は将来が楽しみな人だ。術者としても、女性としても……」

 今はまだあどけない幼さが残るけれど、彼女は美しい。それは、外見だけではない。その心音も。見つめられて少女の頬がまた赤くなる。私は言葉を続ける。

「リタ……。『今は』君の気持ちに返事が出来ない」

 私の意味深な返答に、少女が何とか口を開いた。

「今、は……?」

「そう、今、は」

 私はそう繰り返し、微笑んで見せた。そして頬に触れていた手を放し、両手で彼女の右手と左手を引き寄せ、また見つめ返す。

「君があと二年……。……二年経って、それでもまだ私のことを想ってくれていたとしたら、そのとき、私は君に今日の返事をしよう」

 少女の心音が複雑に揺れていた。眉をわずかに寄せて、少女は困惑した表情を見せた。

「二年……」

「そう、二年。それまで、この話は先延ばし」

 そういって私は微笑み返した。リタがまだ納得がいっていないことは、心音を悟らずとも表情で分かっていた。彼女の瞳を見つめ、私は静かに声をかける。

「……納得がいかない顔だね」

「……だって……。二年って……ホントに……信じていいですか? 二年待って……それでも私の気持ちが変わらなかったら、ホントに今日のお返事、聞かせてくれるんですか?」

 期待と不安に駆られながら少女は問う。当然の反応といえば当然だろう。私は、どうしたらこの少女が私の発言を信じてくれるか、一瞬考えた。

 私は不安げに見つめてくる少女にちょっと顔を寄せた。しゃがんだ私の頭の位置は、少女の頭より少し下の位置だ。そこから鼻が触れそうになるほど顔を寄せて、私は微笑んだ。さすがにこの距離までよれば、案の定、少女の心音が激しく波打つ。私はそれには構わずに少女の目を見て答える。

「どんな返事になるかは、二年後の君次第だけど、約束するよ。この指に誓って」

 そういって私は、少女の左手に顔をよせ、小指の付け根に口付けた。北方大陸の文化に習えば、婚約した者同士が指輪をはめる、その指に。

 顔をあげれば、耳まで真っ赤にした少女が呆然と私を見つめていた。私は微笑み返し、そして立ち上がった。

「さあ、もう夜になる。宿に帰ろう」

 そう言って、少女の右手だけを放し左手を引くようにして帰途についた。

 無言でついてくるリタの心音は、まだ激しく揺れているように感じた。私は空を見上げ、静かに光る月を見ながら、少女の歩調に合わせた。


 ……ずるい約束だ。ただただ今その気持ちに答えないが為の、都合のいい約束だといわれればそのとおりだ。勿論それは自覚していた。いつもの私ならそんな約束はしなかっただろう。でもなぜか、リタの気持ちにだけは、今応えたくなかった。

 不安と期待に揺れる彼女のように、私の気持ちもまた、激しく揺らいでいたのだ。



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