第2話 Trouble’s Coming

1.

 部屋には三種類の焼香が焚きしめられており、それぞれ別の意味が持たされている。基本ベースは極上の白檀、そこへ龍脳、沈香などといった定番の香料を加えたいわゆる五種香に、七日間泥漿に浸した睡蓮の種、太古の蜥蜴を閉じ込めた琥珀、黒曜石の鏃(特に獲物の心の臓に達し残ったものが有効とされる)を砕き、聖炉でもってしたものとの組み合わせが、真言マントラ系の射影師サイコダイバーに特有の調合レシピである。

 睡蓮を混ぜたものは神経を麻痺させ経絡をひらき、琥珀を混ぜたものは身体の細胞に眠る記憶に作用し、鏃を混ぜたものは真言を通すための路を作る……若き射影師からはいつだったか、もう少し詳細な講釈を受けたことがあるが、あまり興味をそそられる内容ではなかったのでほんのさわりしか覚えていなかった。この手の儀式的手順は流派が違うというだけでどこかいんちき臭く、それらに通底する理屈のどれもこれもがこじつけのように感じてしまうものであるが、術士としてのジャンルが違う場合、そういう据わりの悪さもひとしおであった。

「それで?」

 文字通り抹香臭さでむせ返りそうな密室の中で、執行直嗣しぎょうただつぐは尋ねた。

「ま、シロでしょうな。十中八九」

 自動筆記の如き速度と淀みのなさで、帯のような長さの薄紙に何事か書き付けていた若き射影師が筆をあげて応えた。「生まれ、経歴、交友関係、思想、直近の行動。そこそこ深めに潜りましたがなーんも出てきませんわ。一言で言って……」

「ただの、一般人?」

「ですな。どこを探ってもコッチの世界のにおいは無い」

 射影師は自分の左目に突き立っている針をスゥと引き抜いた。瞳孔の中心を貫いていたそれは少なくとも大人の中指から手首の付け根ほどの長さがあった。

 寝台に寝かされていた男の顔には式が組まれた麻布が掛けられていて、その上からやはり同じものが突き刺さっているらしかった。射影師は側に寄って、麻布ごとそれを取り去った。

 寝台の上には、両の目と口を開いたまま凍りついた神崎千尋がいた。

「やってしまいましたなぁ坊ちゃま。カタギの人間に四柱棍打ち込んで拉致監禁たぁ、お偉方がしばらくうるさいですぜ」

「坊ちゃまはやめんか。こやつが龍脈を割ったのは間違いないのじゃ。一般人?こやつが持っていたブツをどう説明する」

「ま、そこですわ」

 手の腹でぐりぐりと左眼を揉みながら射影師は続けた。

「あのナイフ、隕鉄製の刀身に星泡珠の刃紋、教団メリケンどもが使っているものに似とりますな。間違いなく既製品じゃあない、プロの逸品ですわ。こいつがあれを拾ったシチュエーションは見てもらったとおり偶然としか言いようがありやせんが……問題は拾った場所です」

「というと」

「へえ。潜ってる最中もなんぞ聞き覚えがあるなと思っとりやしたが……この座標ですがね」

 薄紙を取り上げ、蛇がのたくったような草書の一部を指差す。

「……『収容所群島事件』」

「そ、例のあの島ですわ」

 射影師はぞんざいな手つきで、香炉から半分も灰になっていない焼香を掬っていく。集め終わると、あらかじめ汲み置かれていたらしい椀の水を掛け、別の受け皿へとほうった。短い悲鳴のような音とともに、甘いような、苦いような匂いがふわりと広がる。

「もちろん、出身ってだけであの大僧正様とは縁もゆかりも無ぇでしょう。大脳辺縁系ごと取っ換えられたりしてないならね。生まれ育ちを言い出したら、島民全員が事件の関係者ってことになっちまう。が、この術具があの島に落ちてたってのは……まぁ、中々意味深でしょうが?そちら方には」

「例の下手人、あの雇われ祓魔師エクソシストの、持ち物であると?」

 そこまで言っちゃいませんがね、と射影師は頬を掻いた。死体と、狂人以外の呪術的痕跡を全く残さなかった無貌の祓魔師、そんな男の手がかりになるかもしれない、否、代物が、今になって……

「なーんで今になってこんなもんが出てきちまうかねぇ。どちらにせよ、アタシにゃ関わり合いのねぇこって、後は坊ちゃまに任せますがね」

 直嗣の思案に被せるように捲し立てると、店じまいと言わんばかりに展開した術具を手際よく畳み、方陣を崩していく。まじないの追跡もサイコメトリーも射影師の領分ではない。ひとまずアタシのできることは終わりました、と一式を収めた背嚢を担ぎ戸に手をかける。

「じゃ、次の予約が入っとりますんで。報酬はいつものところにお願いしやす」

「あぁ、大儀であった」

 カタリ、と戸が閉じられる。部屋には直嗣と、気絶した千尋が残された。

 さて、と口に出してはみるものの、考えは纏まっていなかった。面倒なことになったものだ。この後始末、どうしてくれよう。

 これから見舞われることになるであろう面倒事をいくつか想像するだけでも頭痛がする。理不尽とは解りつつも、寝台の上で口を半開きにし、白目を剥いたまま硬直するこの間抜け面が、やけに気に触った。


2.

 神崎は子供の頃、空を飛ぶ夢をよく視た。

 それは毎日飽きることなく眺めていた星空のせいかもしれないし、授業中にふけっていた空想のせいかもしれなかった。はてのない闇の中を、恐ろしい速度を出して飛んでいく。自分で制御しているわけではない。四肢を放り出し、星の煌めきを浴びながら、上も下もなく飛び回るのである。

 当時、神崎は無邪気にその夢を歓迎し、暗黒と、暴力的な加速感と浮遊感を楽しんでいた。朝起きるとぐったりと疲れていることも多かったが、初恋の女の子が出てくる夢の次くらいにはお気に入りの夢だった。

 高校入学を境くらいに、空を飛ぶ夢は滅多に視なくなったように思う。単純に忘れているだけかもしれないし(なにせ夢って、そういうものでは?)、強制的に入部させられた陸上部のシゴキで毎日疲れ果てていて、夢を見る暇など無かったということもあるだろう。

 子供の頃視た夢、などという古ぼけた記憶が急に蘇ったのは、動画サイトを見るともなしに見ていた夜のことである。

 環境保全と称し、増えすぎたウニをトンカチで割って回る奇特な人物の動画を流しっぱなしにしていた。広告が流れた後、関連動画が自動再生される。下降海流ダウンカレントに捕まり、パニックになるダイバーの記録映像。目に見えない恐ろしい力に振り回され、方向感覚を一瞬にして逸失する。あらゆる抵抗が意味を為さない。どれだけ藻掻いても、身体の方向を変えることさえ自分の意志ではままならない。

 彼はものの数秒で、海上の光さえ届かない深さまで引きずり込まれてしまった。ブラックアウト寸前の混乱した頭、滲んだ視界の中で瞬いているのは巻き上げられた海泥と、自身が吐き出したエアーである。ヘッドライトによってそれらが照らされ、暗黒の中でギラギラとダイバーを取り囲んでいる。

 ああ、あの時俺は、と思った。

 俺は、こういう目に遭っていたんだな。

 普段から早寝する方では無かったが、その日は特別遅くまで夜ふかしをした。晩飯の後で飲んだエナジードリンクが切れて、脳の裏にしびれを感じるくらいの眠気が襲ってくるまで、時間を潰した。

 結局何時まで起きていたのか、もう憶えていない。かろうじて電気を消してから、ふらふらとベッドに向かい、気絶するように枕を抱えて、気づいたら昼前だった。夢は視なかった、そのはずである。


3.

「起きよ」

 直嗣の声がそう告げた瞬間、神崎の身体はバネのよく効いたおもちゃのように跳ね上がった。三度の大きな痙攣の後、停止していた呼吸や心拍があっさりと再開される。安い出来のベッドをガタガタと揺らす身体反応とは裏腹に、訪れたのはごく穏やかな覚醒だった。それこそただ単に浅い夢から覚める時のように、神崎は意識を取り戻した。

「……は?」

 間抜けな声が漏れた。目の前には見慣れた天井……体を起こし見回せば、開封後畳まれもせずそのままになったダンボールや、電源がつきっぱなしのデスクトップPC、本棚をはみ出して床に平積みされた漫画と大学のテキストたちが目に入る。見間違いようもなく、下宿先の自室であった。

 立ち上がって、見下ろした自分があの夜の格好のままであると気づいた。

 そうする意味は特になかったが、何か生理的反射に近い衝動で胸元やポケットを押さえた。ライターと、キーケースの感触があって、これもまた無意識に、服の上から握り込んだ。

 頭が回っていなかった。自分は寝ていたのか?部屋に戻ってきた記憶がない。

 勝手知ったる我が根城、のはずが、この違和感はどういうことだろう。無性に据わりが悪い……新学期に間違ったクラスの教室に入ってしまった時のような場違い感、不安感。

 机の上の時計を見やる。午前10時。一限には間違いなく間に合わない時間であった。

 背筋が凍った。「やっば……!」床に這いつくばってテキストとファイルをかき集め、口の開いたバックパックに放り込む。月曜の一限二限は必修が連続する。神崎は今日までに二度ほど寝坊をし、出席点を失っていた。

 泡を食って部屋を転がり出る。靴をつっかける頃には、焦りが違和感を思考の片隅に押しやっていた。乱暴に鍵を閉め、階段をめがけ走り出す。と、

「おぉっ……とぉー」

「うわっすいません!」

 進行方向に痩身の男が立っていた。紺のジャージに年季の入った赤い綿入り半纏、お隣の冨士見ふじみ氏であった。手にはコンビニ袋が下げられている。朝食の買い出し帰りといったところだろうか。ひらひらと手を振りながら、言う。

「やぁやぁ神崎くん。今朝は随分慌ただしいね」

「いやぁちょっと寝坊をしたみたいで……アハハ」

「あらら、やっちゃったねぇ。旅の疲れってやつかな?まぁ焦ったところで時間が巻き戻るわけでもなし、こういう時は諦めてゆっくりしちゃったらどうかな。寝坊ならまだ朝飯食べてないだろ?これをあげよう」

 ビニール袋からパック詰めされた巨大なカマボコが差し出される。冨士見氏は今どき珍しいくらい気のいい隣人だが、一度立ち話に捕まると長かった。

「ああ、いや、大丈夫です、ありがとうございます」

 神崎はヘラヘラと笑いながらかわそうとする。それじゃ、と頭を下げ、冨士見氏の脇を小走りですり抜けた。

「おやいらないか。それじゃ気をつけてね、また今度土産話でも聞かせておくれよ」

「はい、いってきます」

 会話をうっちゃりながら廊下を走り抜け、外階段を半分飛び降りるような勢いで駆け下り駐輪場を目指す。走りながら、何か引っかかるものを感じていた。冨士見氏との会話が頭の中で繰り返される。部屋の中にあった違和感と重なって、言葉にならない何かに膨れ上がっていくのを感じる。じわじわと増幅していくそれは、駐輪場の前に来て、やっとはっきりとした形を持って、神崎の腹の中にどすんと腰を下ろした。

 バイクがない。

 空の駐車スペースを視た時、神崎の心に湧き上がったのは驚きや愕然ではなく、むしろああやっぱりなという納得に近かった。

「冨士見さん!」

 叫んだ時、冨士見氏はまだ部屋に入らず、手すりにもたれかかってパック牛乳をすすっていた。「んん~?なんだい」

 アパートを振り返り、声を絞り出す。

「さっきの、旅がどうとかってのは……」

「うん?いやまぁ、ここんところ部屋が静かだったからね。君の愛車も見かけてなかったし、どっか旅行にでも行ってたのかと。あれ?そういや朝も無かったっけ。何ぃ神崎くん、誰かに盗られちゃたの~?」

 間延びした冨士見氏の返答は、神崎の耳に半分以上届いていなかった。ポケットをまさぐり、携帯を探し当てる。画面には複数のメッセージと着信履歴の通知が溜まっていた。ロックを解除し、時計を表示する。

 十一月十五日水曜日。あの夜から、丸二日経っていた。

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アンハッピー・ナイフエッジ 八郎 @qazxdews334

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