第1話 Like A Rolling Stone

1.

 神崎千尋かんざきちひろの人生は言ってみれば濁流に流される岩の一生である。誕生の瞬間こそが彼の人生の絶頂ピークであり、その後は激流と、硬く冷たい水底に割られ、砕かれ、削られて、最後には取るに足りない小石へとなり果てる。それが彼を待つ終末であった。刻一刻と小さくなっていく我が身を、しかし神崎はそこに伴う痛みすら知らず、流されるだけ流されて、むざむざと摩耗していく運命にあった。

 ところで、運命が何か巨大な流れのようなものであるなら、それを変えるのは常になにものかとの出会いである。投げ込まれた小石の波紋に運河が流れを変えることはなくとも、別の運河とかち合えばその奔流も揺さぶられよう。或いは中腹にせきでも積めばどうか?留まるか、逸れるか、或いは堰も飲み込んで、流れを増すか……かち合った何かが、その姿を変えさせる―――あたかも最初からそうだったかのように!

 これは、出会いの物語である。神崎千尋の、その転がる小石のような人生に訪れた巨大な転回の物語である。


2.

 東京には星空が無い、という言い回しはよく聞かれるが、これは一種の慣用表現であって、実際は金や幸福と同じく、場所さえ選べばあるところにはある。

 わざわざこの寒空の下、三十分もバイクを走らせてまで見に行く価値のあるものなのかはさて置き、果たして神崎の頭上にはそれがあった。満天の星空である。

 神崎はヘルメットのシールドを上げ、頭上を確かめると、ぎこちなくバイクを降りた。ここまでの走行で、体の芯まで凍えてしまっているらしかった。のろのろとタンクバックからいくつかの道具を取り出し、震えながら上着のポケットに突っ込んだ。

 エンジンを止め、鍵を苦労してバックパックにしまうと、神崎は程よく整備されているらしい林道の入り口へと立った。ジャケットの胸ポケットに差し込んだL字電灯のスイッチを、これまた苦労しながら押し込む。

 電灯が立て看板を照らした。極太の赤い矢印と共に、『獅山ししやま展望台』とある。

 来たばかりであるが、神崎は早くもこんな時間にこんなところにいることを後悔し始めていた。なけなしのバイト代で購入したガスストーブが休みの前日に届いたので、嬉しくして、勢い適当に検索したどことも知れない山に来てしまったはいいものの、山の夜は思っていたよりずっと深く、ここに来るまでに段ボールを開封した際の興奮はすっかり消沈してしまっていた。200ルーメンを誇るLED電球の青白い輝きは、しっかりと自分の行くべき道を照らし出してくれてはいるものの、その強烈な光が生み出す分厚い影の濃淡がかえって寒々しく、言葉にできない不気味さを感じさせた。

「……ふー」

 意図せず、呼吸が深くなった。山に入るのはいつぶりだろう。生まれ故郷ではよく夜に散歩したものだが、東京に出てきてからは歩くために歩くということは随分減った。あの頃は、丘上の公園に続く農道を……いや、コースは大体海沿いの道だったっけ。

「あーまったく。近所の河原でもよかったんじゃないか試すなら。えぇ?」

 緊張をほぐすため呟いた独り言は、ざわざわと音を立てる木立の間に吸い込まれて消えた。神崎は、冷え切っているはずの体が嫌な汗をかき始めていることに気づいた。

 身震いをごまかす様に、バックパックを担ぎなおす。

「よっしゃ、いきますか」

 もう一度白い息を吐いてから、山道を登りだした。駐車場には自分のバイク以外停まっていない。まさかこの時間に徒歩でここまで来ている人間もいないだろうから、少々我慢すればこの満天の星空は自分一人のものとなるだろう。

 ふと、思う。この山の中に、自分一人しか人間がいないという状況と、自分以外の誰かがいるらしいという状況、どちらがどれだけ恐ろしいだろうか。

 ……考えないほうがいいやつだ。神崎は頭を振った。


3.

 実際のところ、獣道じみて見えた山道も登り始めてしまえば何のことはなかった。頂上までわずか数分。道のりにしても、手入れが行き届いているとはとても言えなかったが、悪路というほどでもない。木立のトンネルを抜けてから間もなく、胸元の電灯が照らす細道の先に、こじんまりとした展望台が現れた。

 例えば山頂を丸く切り開いて、現れた地表をねじりつつつまみ上げたなら、こんな風になるだろう。展望台ソレは裾の広い螺旋状の小山といった見た目の、コンクリートの塊だった。とぐろ巻くなだらかなスロープに取り付けられた手すり兼柵以外に飾りっ気はなく、本当に視点を木々たちより高くする、という機能以外持たされていないようだった。

 一応スロープの入り口近くには石造りの碑が建っていて、標高であるとか、周囲の連山の名前が図絵と共に記されていた。神崎はそれを一瞥だけし、たっぷりと砂の浮いた斜面を登っていった。

 電灯は消し、手すりを頼りに螺旋のスロープをぐるぐると登る。かなり緩やかに造られているせいで、上まではそれなりにかかりそうだった。できる限り、足元を見ながら登る……もっとも月も外灯もない状況ではそもそも何も見えはしないが。頂点に着いたことを手すりの切れ目と平坦になった道の感触で知る。伏せていた顔を、空に向ける。

「はー……すげ」 

 全天、ため息が出るほど星まみれだった。

 しばらく口を開けて眺めていたが、寒さが神崎を我に返らせた。バックパックをおろし、手探りで作業を始めようとしたが、流石に暗すぎる。目が慣れた後で少々もったいないが、再び電灯のスイッチを押し込んだ。

 展望台の頂上には腰掛けになりそうなつやつやした石の円柱が等間隔で4つ置かれていた。他には何もない。明かりも屋根もないのは星を見るには都合が良かったが、ここまで殺風景だと税金をケチりすぎじゃないのかという気もしてくる。

 円柱の一つに近づくと、側面に「西」と刻まれていた。どうやら方角を示しているらしい。

 ガスストーブ、ソロポット、ペットボトルのミネラルウォーター、ライター……と、とりあえず一式取り出して並べてみる。バーナーとOD缶との接続は一応試してあるが、どうしてもおっかなびっくりといった手つきになる。

 ガスバルブを開き、コンビニで買ったライターで点火する。いささか以上に風情に欠ける音を立てながら、バーナーは青白い炎を勢いよく吐き出し始めた。

 思わず頬が緩む。水を入れたポットを火にかけ、バックパックを漁る。インスタントラーメン。大それた料理など今日の今日でやろうとは思わない。外で食えば200円しない即席麺でもごちそうである。

 湯はすぐに沸いた。注いで、三分待つ。時計を見ると時刻はそろそろ12時を回ろうとしていた。

 ストーブを消すと、急に静かになる。目の奥ではまだ閃光が散っていたが、それでもオリオン座くらいははっきりとわかる程度に、星は明るかった。

 神崎は星を見るのが好きだった。星座やそれに纏わる神話にはあまり興味を持てなかったが、飽きずに星を眺める時間は、その辺の天文少年に迫るほどだっただろう。知識はなくとも、星空は十二分に魅力的だった。

 星を見つめたまま、再びバックパックを探る。

 探し当てたのはビニールロープで封された厚紙の塊だった。開くと新聞紙が顔を出し、何重にもなったそれをほどけば、次はキッチンペーパーが出てきた。

 これも剥ぐ。それでようやく中身が出てきた。

 現れたのは、一振りのナイフであった。厳重に封印されてたのは、神崎が銃刀法に疎く、「すぐさま取り出せる状況でないならセーフ」という聞きかじった知識で、とりあえず家にあったものを手当り次第巻きつけていったせいだった。

 刃物に慣れない人間でも、それが例えばキャンプや工作で使うものでないと、ひと目で分かるようなナイフだった。黒く輝く刀身のせいか?幾重にも重なった鱗のような刃紋のせいか?革が巻かれているだけのハンドルのせいか?そのナイフには凄味があった。ただ切れ味が良いというだけでは収まらない、そんな刃物の機能とは全く別の所から発散される気配のようなものがあった。

 抜身になった刀身を星空にかざす。神崎がこれをのは故郷の海辺だった。14歳の夏、いつもどおり無意味に繰り出した夜の散歩、その日砂の中に埋まっていた非日常……

 掲げた刃先で、星をなぞる。ベテルギウス、リゲル、名も知らぬ三連星、刀身に星が隠れるたび、刃に光が宿っていくように感じる。あの頃もこうして夜な夜な散歩に持ち出しては、星の光に透かしていた。刃紋の輪郭が拍動しているかのように、光が刀身を滑っていく、懐かしい感触が右手に伝わる。

「なーんちゃってな」

 思春期真っ盛りも五年以上前の話である。今やゼミとバイトにしばき倒されくたびれた腐れ大学生に過ぎなのであるからして、そんな懐かしの感傷よりも、何より目の前の即席麺が大事だった。

 暗がりにカップに手を伸ばす。三分まではもう少し置きたいところだった。凍えた手をほぐすため、カイロ代わりにしようと思った、これがよくなかった。

 掴むところまではなんとかなった。左手を温め、ナイフと入れ替え右に渡そうとした時。

「っつぁ!」

 暗がりで注いだお湯は思ったより多かったらしい。ぎこちない腕の動きに中身がこぼれてしまった。

 ナイフを取り落してしまったが、幸いカップ麺は全損とはならなかった。もう一度しっかりとフタを止めて、丁度腰掛けている氷のように冷たい石柱で右手を冷やす。

 なんで俺はこうなんだろう、と一度電灯をつける。暗がりに手探りで刃物を探すのは流石にぞっとしない。ひとまずカップ麺を置いて、

「は?」

 ナイフが、地面に刺さっていた。刀身の三分の二程度、深々と。

「コンクリ、じゃないのか?」

 足から伝わる硬い感触は石そのものといった具合である。いやコンクリートじゃなく、これが土だったとして、こんなことになるものだろうか。今までにこんなことはなかった。切れ味に関しては普通の刃物と大差ないのである。投げつけたわけではなく、ただ腰の高さから落としただけ、それだけでこんな……

 柄を握ると、ナイフはあっけなくするりと抜けた。砂場に刺さったスコップを抜き取るような、軽い感触だった。神崎はしばらく訝しみながら刀身を睨んでいたが、ひとまず脇に寝かせて、ラーメンを啜った。

 よほどよい角度で落下すると、こうなるものなのだろうか。なんとも言えない据わりの悪さを覚えながらも、ラーメンの暖かさに手が止まらない。少し延びてしまった上に、湯の入れ過ぎでいつもよりは薄味のハズだったが、旨さは変わらなかった。

 神崎は考えることを放棄することにした。目の前で起きたことが全てだ。ラーメンと、星空に集中しよう、そう決めた。

 電灯を消す。暗闇に慣れ始めた目は再び台無しになったわけである。しかし顔を上げれば、変わらず明るく輝く星があった。

 ゆっくりまばたきをしながら目の奥の残像を消そうと努めた。涙が滲んだのか、星の瞬きもより大きくみえた。

 目を擦る。星がブレている。電灯の閃光のせいだろう。星の光を眩しいと思ったのは初めてだった。まるで夜景をみているような、強力な光でチカチカする。針穴のようだった星が、絵本で見るような五本の角を持つ星に見えた。なるほど、星が滲むとそんな風に見えるんだな、目をしばたかせながら納得する。いつもよりずっと多く星が見える。大きく、瞬きは速度を上げる。まるで降ってくるような、全て自分めがけて、落ちてくるような星空……

 一際大きく輝く3つの星が、互いを光の筋で結んだ。それと呼応するように、周りの星々も繋がり始めた。空に三角形が溢れ、神崎の視界を埋めた。

 星が結びつき作り出す図形はどんどん大きくなるようだった。その、三角形の中心に、一筋の裂け目が生じた。先程から聞こえる軋み音はこの裂け目から聞こえているのだ。鉄板が恐ろしい力で引き裂かれるような野太い音のせいで、体が縮こまって身動きができない。体が震える。手の中で容器が握り潰される。熱さを感じない。何の感触もない。裂け目が、完全に、開く。

 目。目であった。すべての図形のすべての中心に目があった。神崎は天球に浮かぶ無数の目に魅入られている。見張られている。瞠目されている。

 目の一つが、閃光を放った。衝撃があった。気づけば、地面に倒れている。

 これはなんだ。何をされてる、何が起きてる。

 遅れて、痛み。熱さ。寒さ。左肩に違和感―――何かが刺さっている、それによって地面に縫い付けられている。

 シャラシャラと鳴るそれは錫杖であった。金色に光る、今空にある星と同じく、眩く輝いている。

「――――――――ッッッ!!!!!!!!!」

 声が出なかった。息ができなかったからである。叫びは肺から空気が絞り出されただけで終わった。

 激痛に身を捩り、錫杖を掴むが、それ以上のことが何もできない。深々と突き刺さっていて、ピクリとも動かない。

 三角の連星が寄り集まり、より大きな図形を形取っていった。また、あの裂け目が生じる。

「我が一族の龍脈を方陣もなしに割る身の程知らずが出たというので来てみれば、大山鳴動して鼠一匹とはこのことよ」

 裂け目から、影が漏れ出てきた。少なくとも人の形をしていた。

「反撃無し、戦意無し、逃げも隠れもできなければ賦活をかける様子もない。お粗末に過ぎる。貴様、どこの鼠じゃ?」

 痩身の影は神崎を踏みつけながら、顔を覗き込むようにして屈んだ。

 かすれていく視界の中で、一等星じみて大きく輝く瞳だけははっきりと見えた。あるいはこれも錯覚だったかのかも知れない。とにかくこの光景を最後に、神崎の記憶はしばらく途切れることとなる。




 


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