アンハッピー・ナイフエッジ

八郎

導入 Outta My Mind

 海岸に夕景を臨みながら、こんなものか、と独白する男がいた。男はひと仕事を片付けてきたばかりであった。ひと通り為すことをなした達成感か、あるいはただ単純なる疲弊によってか、近場の岸に引き寄せられるようにして腰をおろし、もう30分もぼんやりと、穏やかに揺れる水面を眺めているのである。

 傍らには血のついたナイフがあった。よく見ると、男の着るコートにもあちこち血がついている。殆どは返り血のようであったが、脇腹の血滲みだけは彼の痛みを伴う流血であった。特に庇う様子もなく、心拍に合わせてどくどくと湧き出るに任せているせいで、薄く砂の積もった階段には血溜まりが出来つつある。

「いい加減にしないと死にますよ、それ」

 いつの間にか傍らに立ったソレが言った。ソレ、というのも、なんと形容したものか、尋常な姿の持ち主ではないのである。人の言葉を話しながらも、見た目から受ける大まかな印象は蛸に似ていた。取り敢えず手足はある。腕だけ異様に長い人物が、人間大の巨大な蛸を頭から被ればこういう見てくれになるだろうか。湿り気を感じさせる艷やかな触手が震え、独特な高音域の声が再び男に話しかけた。

「黄昏れるのもいいですけどね。もともと予定押してるとこなんですから、このタイミングで出血多量で気絶とか洒落になんないですからね。指定時間ギリギリですよギリギリ。方陣の後始末どうすんですか?」

「……」

 男は応えなかった。眉一つ動かさない。

 瀬戸内の海は一見湖と大した違いがない。細かく波の立つ海面が夕日を乱反射するさまさえ、ループする映像を延々見せられているかのようである。夕日はチカチカと男の光彩を焼いているはずだが、瞬きの仕方を忘れてしまったかのように、海から視線を外すことはなかった……もっとも、それは顔がそちらを向いているというだけで、焦点はどこにも合っていなかっただろう。

 とっくに出血性ショック死でもしてんじゃねぇかこいつ。蛸のような彼?彼女?は訝しみながらよっこらせと傍にひざまずく。てらてらと光る触手と腕で、背後から男を包み込むように取りついた。腕は男の体を袈裟に一周してなお余った。そのまま、脇腹に空いた傷穴にかぶりつく。

 先ほどの高音とは違う、低くくぐもった音が、傷口に被さるソレの口唇に相当するであろう器官から漏れた。ぞっとするような、ほとんど呻き声に近いメロディと、初めて聞く者では言語として認識することが不可能なほど複雑な音韻が、大気を陰鬱に震わせる。

 呪言であった。

 その呟きからまもなく、男の作った血だまりは広がることをやめた。どころか、その輪をにわかに縮めていく。流れ出た血が、男の体を遡って傷口に吸い込まれているのである。砂を取り残し、血液のみが巻き戻されるように、異形の口唇を介して男の肉体にとりこまれていく。蒼白だった男の顔は、加速度的に生気を取り戻していった。

「んぅ!?べっぺぺ!なんじゃこりゃまっず!」

 異形は触手を震わせて跳ね起きた。ぶっと吐き出した血反吐のなかに、どす黒い塊がある。男の傷に深々と埋まっていたのは、これだったらしい。

「うぇ~なにこれぇ…舌が痺れる」

「……布袋の螺髪らほつだ」

 初めて男が反応した。

「布袋って…あの禿でデブの?無いでしょ、髪が。意味わかんないですけど」

「そうだ。だから、効く。俺や、みたいなやつにはな」

 男は螺髪を拾い上げ、立ち上がった。空いている手で脇腹を探り、傷が塞がっているのを確かめると、もはや蛸というより海月くらげじみて頭部全体をぶるぶると震わせている異形に向かい、言った。

「決めたぞ夜魅ヨミ

「まだ口の中からえぐみが消えない…何をです?」

「戻るぞ、東京に」

「…マジですか旦那」

 夜魅と呼ばれた異形の言には、いささかの呆れが含まれていた。

「ちょちょちょ、あんなことがあった後にどの面下げて戻るってんですか!勘弁してくださいよ燃え尽き症候群ってやつですか?そりゃ旦那の気持ちもわからんではないですけど…ほらっせっかく捕まえた大型顧客はどうすんですか!」

「いい。復讐は成った。それに…もう時間がない。見ろ」

 つまんだ螺髪の弾丸を掲げる。「ご丁寧に、左巻きだ」

「はぁ…だから?」

「螺髪は悟りの証だ。正方向右巻きに捩れる清らかにして聖なる旋回、それを反転させて逆巻さかまきの真言を乗せてやがる」

「ってことは」

「体中の經絡がメチャクチャだ。二時間も経てば俺の法力は駆け出しの頃まで戻されてるだろう」

 十月にしては手厳しい風が、男と異形の間を吹き抜けていった。

「ど、どどどどどど…」

「まぁ永久にこうってわけじゃない、きっとな。戻されたならもう一度戻すまで…どれくらいかかるかはわからんが」

 肩をぐるぐると回しながら他人事のように言う。なんにせよ手持ちの装備だけではどうする事もできない。

「さて、急ごう夜魅。俺が本当にただの役立たずになる前に、なんとか〈画廊〉まで辿り着かねばならん。お前だってまで帰りたくはないだろう?」

 男はナイフを腰のホルスターにしまうと、自生するドクダミを踏み折りながら来た道をさっさと戻っていった。独特の歩法のためか、見た目からは信じられない速度で遠ざかっていく。

「このっさっきまで地蔵だったくせに…!待ってくださいよ旦那、それ笑えないですって!後始末残ってるって言いましたよね!?手伝ってくださいよちゃんと!」

 触手を揺らしながら、ソレもヒタヒタと彼の後を追った。いつの間にか夕日は対岸の島陰に隠れてしまっていた。空から赤みが消え、この小さな群島全体が宵闇に覆われるまで、もう幾ばくもないだろう。アルデヒドに由来する生っぽく酸い臭いを残して、一人の人殺しとそれに付き従う異形は海岸を去った。

 かくして、世にいう『収容所群島事件』の幕は降りた。死傷者は式布大伽藍しきふだいがらん元僧正、不破龍山ふわりゅうざん以下22名。息のあった者も例外なく心神喪失状態であり、政府お抱えの射影師サイコダイバーをもってしても記憶のサルベージは不可能であった。

 首謀者であるフリーランスの祓魔師は共の魔人と消え、公式には今日に至るまで、その足取りを知る者はいない。発覚当初こそ大伽藍の威信を傷つけたとして議会に大きく取り挙げられることもあったが、不破龍山のが明るみになってからはもっぱら、未認可祓魔師の暴発問題という文脈で例示されるのが精々となり、その後この事件が組織立って追われることはなかった。

 実に、13年前のことである。

 

 

 

 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る