№382

 私がまだ小さいとき、団地に住んでいて、周りにはいろんな家族が住んでいました。その頃はもっと人口が多くて、子供も多くて、賑やかだったんですが、うちの両親はそれが気に入らないのか、周囲に文句ばかり言っていました。

 ドアの開け閉めの音がうるさい、洗濯物の干し方が汚い、お前の子供がうちの子を虐める、などなど。

 どれも言いがかりだったと思います。私は両親の言うことの真偽はあまり考えていませんでした。というのも、家の中で二人は私に対して同じように文句を言っていたからです。それが普通だと思っていたし、理不尽に怒られても否定せずに聞いておけばすぐに優しい両親に戻るとわかっていたので言い返したことはありませんでした。

 ある日、隣の部屋に珍しく一人暮らしの人が引っ越ししてきました。向田さんという、母より少し年上くらいのおばさんでした。身なりは地味でしたが、なんだかすごく落ち着いた物腰の人で声も優しくて私はすぐに好きになりました。

 両親も最初は何かとクレームを入れに言っていましたが、すぐ仲良くなりました。

 最初は母でした。スーパーで会ったときにサッカー台の使い方が気に入らなかったらしく、その場で大声で罵り出しました。近所の人も怖がって近づかなかったし、スーパーの人はそろそろ通報してやろうかという目でチラチラみてきていました。しかし、向田さんはニコニコ笑いながら「はい、はい」と返事をしていました。それだけなのに、母からするっと怒りが抜けたようになり、それまでひと位言葉を吐いていたはずなのにいつの間にかご機嫌になっていました。

 その日の夜、夕飯の席に向田さんがいました。仕事から帰ってきた父は、最初こそめちゃくちゃに文句を言っていましたが、向田さんと向かい合って食事をしているうちに、笑顔で向田さんのコップにビールを注ぐまでになりました。

 それから毎日のように向田さんは来ました。というかほとんど一緒に住んでいました。母は向田さんと話すことに夢中になり、家事をしなくなりました。代わりに向田さんがしていました。父も仕事を休みがちになりました。それに母は文句一つ言いませんでした。気付いてなかったのかも知れません。両親も、私も、向田さんと一緒に入れることが幸せでした。

 あの日の夕飯も、向田さんが作りました。両親は美味しそうに頬張っていました。私も食べよう、としたときに窓に蛾が止っていることに気付きました。大きな白い蛾です。何となくそれが気になっていじっと見ていたら、向田さんがテーブルに促してきました。振り返ると、それまで美味しそうに見えていた夕食が生ゴミに代わっていました。酷い匂いに私は吐きました。でも両親はそれを手づかみにして口に運んでいます。笑いながら。

 向田さんは私の様子を見て、

「あら、お嬢ちゃんは気付いちゃったのね」

 と穏やかに言うと、エプロンを外して出て行きました。本当にごく普通に、出て行きました。それから向田さんには会っていません。

 両親はその数日後に食中毒で死にました。私も危なかったようですが、なんとか持ち直してこうやって生きています。

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