閉架書庫の管理人(下)

 沈黙交易は古来から行われている異なるグループ同士による交易の方法で、その名の通り互いに言葉を交わさず行うもので、なかには一切顔を合わせない場合もある。

 北海道の先住民だったアイヌは異なる土地の人々と交易していたことがわかっている。その相手は東北や日本海側の和人以外にも、海を渡ったサハリン島の先住民、さらに北のニブフとも交わしていた可能性がある。沈黙交易は彼らも盛んに行っていたと考えられる。

 鈴川が見守る中、三毛は床の上に書名が書かれたメモ用紙を置いた。先ほど、司書の綿井に見せたものと同じだが、文章が一行、加わっていて、

「後輩を紹介したい 三毛」とあった。

 そのメモ用紙の上にペットボトル――参考カウンターで渡されたガラナ飲料――を置いた。三毛は両手を床について、軽く拳を握ると、右手、左手、それぞれで二回、そのあと両手で同時に二回、床を叩いた。この手順をさらにもう一度繰り返し、計十二回。

 鈴川はひとが来やしないかと通路側に振り向いた。誰も来る気配はない。知人が、(おそらく考えがあるとはいえ)奇妙な行動をしているところは見られたくなかった。

 鈴川が視線を戻すと、本棚と本棚の間の床には三毛が座り、ガラナとメモが置かれていて、その二つに手を伸ばす白い腕があった。


「……っ!」


 鈴川は驚嘆を上げる前に口を押さえた。もう一度確認する。三毛、ガラナとメモ、腕。やはり一つ増えている。本棚の下から、透き通るような白い肌の腕が、生えている。

 腕はじりじりとガラナに詰め寄っていく。指が床を這うように探る動きをとって進んでいく。最初に中指がメモに触れ、人差し指と薬指も載ったところで、ずずっと棚の方へ引き寄せた。ガラナの重さであまり動かない。違和感を探って腕が更に前に出て、ペットボトルを掴んで引き倒した。ペットボトルの先を中指と人差し指で掴み、メモ用紙は薬指と親指で挟んで、またも後退。腕は本棚と床の間にするすると収まっていき、明らかに隙間より大きいはずの手の甲まで収まって、ペットボトルはまるで紙細工のようにくしゃりと歪んで、隙間に吸い込まれていった。

 この間、三毛は驚いた素振りもない。事実、彼はこれを何度も見た事があったからだが、後輩の鈴川はそうではない。徐々に足が後方にさがっていた。

 そんな腰が引けている鈴川に三毛は手招きをする。まだ沈黙交易は続いているので、しゃべれないのだ。鈴川は首を横に振る。三毛はもう一度手招きをする。鈴川はさらに強く拒否する。鈴川にしてみれば、ホラー映画の世界に入ってこいと言われているようなものだった。

 三毛はさらに手招きして、声には出さず、唇を動かし、


「あうっていったろ」


 鈴川は悩み、また文句を言おうと思う。しかし、ほとんど通路側に移動した位置から声を出すのは憚られた。

 仕方なく、鈴川は三毛に歩み寄って、小声で、


「だって……」


 それ以上の言葉は出なかった。冬用のブーツの上から足を掴まれたからだ。

 三毛をみると、驚いた様子でこちらを見ていたが、諦めたような顔で、

「まあ、諦めてくれ」と慰めた。

 三毛の手は先ほどと同じ白い手と握手するように繋がれていた。

 三毛と鈴川は本棚の下に引きずり込まれていった。今度はホラー映画のような冗長さはなかった。





「ワタシ、後輩を事前説明なしに連れてくるなって言ったよね?」


 閉架書庫、唯一のデスクの前で回転椅子に座る雪下ゆかなは不出来な後輩を睥睨していた。三毛はソファーに座って弁明に努めようとしたが、小柄な先輩からあふれる怒気に気付いて、

「すいませんでした」と謝った。

 気を失った鈴川は、その隣で三人掛けソファーを二人分占領するかたちで横たわっている。


「前もそうだっただろうがあ!」


 椅子を蹴倒して両腕を突き上げて発憤する雪下に、三毛は弁明として、


「いや、あの……後輩達にも、ユカノシタ先輩にも、いい刺激になるかと思いまして……」


「刺激的すぎるだろうが! あと、“ユカノシタ”って呼ぶな!」


 三毛と白猫は、この感情的なOGが在校生の頃から、“ユカノシタ”というあだ名で呼んでいた。本人からは毎度怒られるが、後輩ふたりの中で「しっくりくる」呼び名になっていて、つい出てくるものだった。


「白猫も夜叉夫も、ノリと勢いで行動しがちだな。似たもの同士だよ、お前らは」


「でも、俺は就職、決まりましたよ」


 無職の白猫と自分は違う、とでも言いたげな三毛に、


「おや、そうか。おめっとさん。卒業出来れば、の話だろうけどね」


 雪下はわざとらしく口角を釣り上げた。


「また聴き耳立ててたんですか?」


「ウワサで聞いただけだよ。名物学生がまさかの単位不足で卒業出来ないかも、というウワサ」


「ヒマだからって床の下からゴシップ拾い集めて……。そんなんだから、コロボックルじゃなくて隙間女ってウワサされるんですよ」


「ワタシは見つかるようなヘマはしないぞ? あとコロボックルじゃない、トイチセコッチャカムイだ」


 トイチセコッチャカムイはコロボックルの原形だといわれているが、その意味は「土から家に手を伸ばすカムイ」で、伝承でも住居と家の壁の間から手を伸ばしてモノをねだるカムイとして描かれる。いわゆるフキのしたの小人というイメージとはほど遠い。

 ちなみに、あだ名もこの自称に由来しているが、それでも本人からは「あけすけ」と拒否されている。


「いや、コロボックルでしょうよ。カムイなら“変身”のための模様や、そのための衣を持っているものです」


 三毛は後輩の一人である木場中を思い出していた。彼はカムイに連なるが、三毛や白猫、鈴川が人間に化けているのとは違って、人ではないものに変身できるという違いがあった。


「ここはフキの下じゃないぞ」


「穴蔵ではありますね」と視線を上に逸らした。

 閉架書庫の天井は高い。さっきまで三毛と鈴川がいた書庫の倍の高さはあり、本棚もその分高くなっている。そのかわりに広さはあまりなく、三毛と鈴川の座る来客用のスペースや雪下のデスクを除けば、ほとんど本棚だ。

 デスクの隣に脚立があって、その先には、まるで空気窓のように空いた横に長い壁の穴がある。これがこの部屋の唯一の出入り口で、三毛と鈴川はここを通って入ってきたのだった。


「へらず口だな、まったく。可愛げがない」


「どうも。飾らない物言いをするのは尊敬しているひとに対してだけですよ」


「素直に尊敬しろ!」


 雪下はメモを手にとって本棚へと歩いて行った。


「取ってきてやるから、ちょっと待ってろ」


 早足で本来の仕事に戻った先輩は本棚と本棚の間に消えていった。

 雪下ゆかなはコロボックルとして生まれた自分の出自を恨んだことはなかったが、代わりにその生き方にこだわっていた。人間ヒトの社会に適応しなければならない人外にあって、あくまで人外としての在り方にこだわったのだ。

 彼女が閉架書庫を管理するというかたちで社会と自身の生き方に折り合いをつけたことを、三毛は心から尊敬していて、それは白猫も同じだと聞いていた。


「まあ、からかい甲斐もあるんだよなあ」と呟いたところで。


「三毛さん、最低です」


 いつの間にか起きていた鈴川から、恨みのこもった目で睨まれ、三毛はまた、

「すまんかった」

 謝罪した。

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