本を借りたはいいものの……

 書架のひとつから引き出された“Frying Dragon”改め、“Лёт Дракона”は、地味な装飾の本だった。青を基調とした表紙に金字でタイトルが貼り付けられたハードカバーだが、紙自体は上白紙のようで真っ白く肌触りがなめらか。日本の書籍で一般に使われている書籍用紙ほど上等には見受けられない。

 本屋の外国書籍コーナーにあってもおかしくはないが、装飾の地味さから売れる事はなさそうな本だと三毛は感じた。


「なんでこの本、蔵書に入ったんですかね」


 質問とも疑問ともつかないかたちで三毛は呟いた。


「お前ンとこの“クレムリン”が珍しく希望を入れててね。ま、お得意の強引な説得を受ける前に入れることになったよ」


 ガラナをちびちびと飲みながら、雪下が答えた。


「へー、クラサトフ教授が……」


 “クレムリン”ことイワン・アレクセービチ・クラサトフは三毛もロシア語を習った札幌文化大学のロシア人教授である。そのあだ名は会議で大演説をぶってむりやり自分に有利な方向に議題を持っていくやり方が有名だったからで、その強引さからトップダウンに物事を進める彼の故国の政庁と掛けたのだ。


「どういう意図かはわからんけどね」


 実際にロシア政府とも関係があるスパイだ、というウワサ――というか、三毛と鈴川の指導教官である汀はそう主張しているが、推測の域を出ない。


「その辺りは聞いてみますかね、ロシア語圏での評判と一緒に」


「入れはしたけど、借りはしてないからなあ、あのオッサン」


「雪下先輩は、口悪いんですね。三毛先輩や只野先輩にそっくりです」


 鈴川の笑いを含んだ感想に、雪下は、


「ワタシが本家だよ、こいつらがマネ」と唇を尖らせた。


 三毛はテキストのページを繰って目次を開いた。


  導入

  第1章 ウチーブ・アイラニッツの龍の飛行についての研究

  第2章 ドミトリー・ソンツェフからの書簡

  第3章 タカコ・ナカシロの報告と議論

  第4章 ペテルブルクの空に緑の龍を見る

  終わりに


 ページ数は200とちょっとというところか。びっしりとキリル文字が詰まっていることを確認して、三毛は久しぶりになるロシア語との格闘に覚悟を決めた。

 導入をさっそく読み進めているところへ、雪下が思い出したように、

「白猫はどうしてる?」と訊ねた。


「夜叉夫のさっきの口ぶりじゃ、まだ無職なんだろ?」


「……みたいでした」


 雪下が本を持ってきたタイミングで紹介された鈴川だったが、まったく返事する素振りのない三毛に代わって答えた。


「なんだ、最近会ったのか?」


「昨日、いらしゃってて……」


「またあいつ、ワタシに挨拶もなしかよ」と不満の声を上げた。


「ワタシのこと、避けてるな」


「避けられるようなこと、したからじゃないですかね」


 本から目を逸らさずに三毛が言った。


「なにか聞いてるのか、夜叉夫」


「いや、それはなんとも……」と返し、

「アドナーカ、エータ、いすとりーちぇすきー……」と辿々しく文字を追う。


「白猫は何をあんなにビクビクしてるんだか。美樹ちゃんもそう思わない?」


「美樹ちゃん……?」


 困惑そのままに鈴川は呟いた。


「名前で呼んじゃダメかな?」


「ああ、いえ。構いませんけど」


「ありがと、ミキティー」


 笑顔とサムズアップと雪下は返した。


「一気に砕けた表現にしやがった……」


「うるせー、露助かぶれ。さっさと貸し出し手続きしろよ」


「それもそうですね」


 三毛は立ちあがって、雪下に学生証を渡した。札幌文化大学の学生証にはICチップが内蔵されていて、学生の身分を証明する以外にも、図書館の貸し出しにも使われているからだ。

 貸し出し手続きをおこなう雪下に、三毛は、鈴川には聞こえないように声を抑えて言った。


「白猫さんはただの化け猫じゃありませんから、どうかご容赦をお願いしますよ」


 雪下は三毛の学生証を差し出し、


「ワタシはそれ、初耳なんだが?」


 表情が固まった三毛が、「そ、そうでした?」と曖昧な返事をしながら学生証を手に取る。だが、雪下が離さない。


「どういうことか、詳しく」


「いや、それは……」


 諦めずに学生証を手元に引き寄せる。雪下はびくともしない。まっすぐに三毛を見ている。


「く、わ、し、く」


 三毛と雪下はこのあと5分少々このやりとりを続けたが、結局、モノを握られている三毛が屈することになった。


「次に来るときは、ローカルのほうのガラナにしてね」という声を背に、閉架書庫から出るころには、三毛は只野白猫に懺悔せざるを得ない状況になっていた。必然、鈴川にも聞かれてしまったからだ。


「私はちゃんと、黙っておきますから!」


 鈴川はこう言い張ったが、三毛はこの後輩の口の軽さを信用していた。

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