第2章 テキスト『Frying Dragon』
研究計画
「じゃあ、あのテキストは英訳で間違いないんですね」
「うん。こっちでも確認取れたよ」
札幌文化大学に向かうバスの車中、三毛は汀にテキスト『Frying Dragon』の詳細を確認していた。
昨今は外国の資料といっても、インターネットのおかげでいくらでも調べようがある。三毛は課題を出されたその日のうちにテキストについて調べ、札幌市内の本屋に入荷されていないことや図書館に所蔵されていないこと、さらに本書が英訳された本であり二年前に刊行された原書が大学図書館に蔵されていることを知った。
「まあ、きみにとってはいい話だったじゃないかな」
汀はコーヒーを啜って、
「ロシア語の本ならまだ読みやすいんじゃない?」
「フルマラソンがハーフマラソンになった、ぐらいの違いしかないです」
三毛は口角を釣り上げてから、誤魔化すように自分のコーヒーをひとくち飲んだ。
三毛はもともとロシア語専攻で入学し、三回生のときには半年ほどモスクワに留学している。しかし、そこでの体験が彼にトラウマじみた忌避感を植えつけ、四回生になってからは授業さえもとっていなかった。
三毛がメールでテキストについての質問を送ったのは未明のことだった。天狗に深夜まで付き合わされたうえに泥酔していたため、遅れてしまった。メールを打った後は力尽きて昼過ぎまで寝ていた。
ようよう起きてこようと布団の中で縮こまっているときに、汀からの電話。
「今から大学行くから、一緒にどう? バス停の近くのコーヒー屋で落ち合おうよ」
寒さと寝起きで口が回らないながらの返事をして、すぐに跳ね起きたのだった。
「ロシア語で大学院に行こうとしてたのに、またそんなこと言ってさあ」
「去年の夏までの話じゃないですか」
三毛が昨年に就職活動に精を出さなかったのは、たぶんに院試を前にしていたためであった。とはいえ、落選したあとの二ヶ月はほとんど呆然と過ごしていたので、言い訳できることはない。
「大学の図書館に入ってるのはさすがに驚きましたね」
三毛は話題をふたたびテキストに戻す。
「いくらうちの蔵書量が多いとはいえ、二年前にモスクワで出たベラルーシ人研究者の本なんて」
「それだけ目立つ本だったってことじゃないかなあ」
汀が最初に見せた『Frying Dragon』のレビューから、テキストの概要が二人にはわかっている。
一般的には奇書に類する本だった。
記事に寄れば、序文は「飛行は人類の英知の結晶である」から始まり、ある奇才が飛行の研究を「龍の飛行」を題材に行ったという記述で終わる。そこから、「龍の飛行」を研究し、その成果を世に示さぬまま死んだ老研究者の生涯と、残った資料から推測される「龍の飛行」が描かれている。
ここまでが本の三分の一。ここから話は変わって、著者自身が目撃した龍とその飛翔、さらには老研究者の友からの手紙が引用され、龍が中世にモンゴルと共にロシアを通じて西洋に「輸入」された経緯が描かれ、日本人の中国研究者との邂逅から龍のみならずドラゴンやナーガにまで敷衍して話が拡大していく。
もちろん、レビューでは「龍」などという荒唐無稽な存在を肯定するわけもなく、「東洋文化の超常的生命を主題としたノンフィクションノベル」と評されている。
しかし一方で、ロシア語版は「ノンフィクション/ルポルタージュ」として本書を売り出していた。また、youtubeにアップロードされていたオランダ人ジャーナリストによる著者インタビューの動画から、この本が「現実に即して描かれている」ことを著者自身が明言している。インタビューはロシア語だったが、英語字幕付きだったので汀も確認できた。
「常識で考えたら『空想』ってことで一蹴するんだろうけどねえ」
汀はまたコーヒーを一口飲むと、
「それにしてはディティールが凝ってるし、傍証も多い」
三毛は師の観察眼を信頼している。大学院生のころに留学したアメリカで、元ジャーナリストの教授のもとで培われたものだと知ってから、尊敬の念はいっそう強くしていた。
「うちのどこの書架に入ってるかで決まりますね。司書さんなら、迷わず学生の目に触れないように閉架書庫に入れてます」
「それでも読めるの?」
「ツテは使っていいって話でしたから。こういうのを管理してるひとがいるんです」
「本当に『ヒト』かい、それは?」
探るようなまなざしの汀に、三毛は、
「さあ? どうでしょう。『
二人はにやにやと笑いあった。四年間の師弟関係でたがいの冗談の範疇はわかっている。
「本題に戻るけど」と汀。
「テキストを元にしながら、最初のほう二つは書けるところまで書いてみて。僕も英語版を読んでいくから、変えたほうが良いところあったら連絡するよ」
「わかりました」と返し、三毛はふと訊ねる。
「そういえば、今日も大学に用があったんですね」
「試験期間が終わった翌日に、会議なんて入ってるもんだからさあ」
うんざりした様子で汀は答えた。
「なるほど。ご愁傷さまです」
「ほんとだよ」
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