第3話 幸福体験機
タナカは目を閉じていた。
じんわりと焼け付くような太陽を身体で受け止め、瞼を閉じていても目に染み出す光が心地よかった。
目を開けると見慣れた砂浜に風が吹き、すこしツンとした潮の匂いが鼻腔をくすぐる。
ビーチチェアから身を起こし、慣れた手つきで横のドリンクを手に取った。
それは眼前に広がる碧い海よりも青く煌めき、手に取ったときの冷たさはこれから口腔に流し込まれる液体の爽快さを十二分に期待させた。
遠くで電子音が聞こえたが、それを無視してこれから始まる時間へ思いを馳せる。
口いっぱいの薄荷の清涼感だけを濃縮して爆発させたかのような爽快感。
思わず顔の筋肉が硬直した瞬間に染み渡る南国の甘美な旨味。
緩んだ喉をキリリと引き締めつつはらわたまで刺激を与えながら落ちてゆくソーダ。
その至福への期待を邪魔するように先程よりも煩くなった電子音に苛立ちを感じながらタナカは―
手を伸ばすとそこは殺風景な狭い部屋だった。
先程まで耳を煩わせた電子音は既に止まっている。
「幸福体験機の調子が悪くなってきたな」
以前までは満足しきった状態で鳴り始めたのだが、ここしばらく中途半端な所で目を覚まさせられる事が多い。
「修理は無料だったっけ」
朝食を軽く済ませて出社へと向かった。
この会社に入れて幸運だったなとタナカは思う。
職務は充実しており、信頼できる上司のサポートも手厚いためストレスを感じることも少ない。
金銭面でも同世代よりかなり優遇されていたし、福利厚生もしっかりしていた。
不調を訴えた同僚に休暇と手当が即日支給されていたほどである。
この会社の配置換えは多い方だが業務に慣れてダレるよりはと説明されており、タナカもそれが正しいと思っていた。
事実、会社の業績は順風満帆なのだ。
何より幸福体験機の存在が大きかった。
高級外車以上の価格と維持費が必要とあって庶民が気軽に手を出せるものではない。
それをタナカは無料で支給されていた。
昼過ぎになって上司が調子はどうかと声を掛けてきた。
「仕事は順調ですが幸福機の調子が悪いみたいで修理に出そうか考えています」
一応社内のカウンセリングを受けておいた方が良い、何なら手が空き次第行ってもかまわないと言われたのでタナカは頷いた。
信頼できる上司の言う事なのだから従っておけば良いのだ。
カウンセラーによると脳が緊張してうまく機械と連携ができないのだそうだ。
休暇を取って、夢ではなく現実を体験するのが良いらしい。
上司に確認するとあっさり休暇が取れただけでなく、提携している旅行会社まで紹介してもらえた。
やはりこの会社は素晴らしい。
タナカは旅客機の中で学生時代を思い出していた。
昔からリゾート好きで学生時代は色んな場所へ行った。
それ自体も素晴らしいものだったが、何より好きだったのが思い出にひたることだった。
写真や動画ではなく目を閉じてゆっくり思い出すのだ。
その趣味が今の会社で採用された一因となっているような気もする。
昔は機械なんて使わなくとも満足できたなあと思いつつ、久々のリゾートへの期待に胸を浸けながら眠りへと就いた。
翌日タナカを待っていたのは記憶の中のサラサラで熱を持った砂浜ではなく湿気で重い砂浜であり。
海は泡立ち肌に纏わりつくようで、爽快な刺激を与えない。
あの太陽ですら消えかけの炭のように感じてしまう。
タナカは落胆と共に帰路へとついた。
翌日カウンセラーの元へ向かうと、彼女はタナカの反応を予期していたようだった。
機械を暫く断つしかない。が、開発部に転向すればより性能のいい物をテスターとして使えると言う。
タナカの選択肢は1つだった。
「タナカにはいい夢をたっぷり見てもらわないとな。」
「技術の進歩した現代でも夢を見るシステムは完全には解明されていませんものね」
「ああ、だからこそこいつらに幸福な夢を見てもらって顧客に転送する必要がある。騙したようですこし心も痛むが、この満足そうな顔をみるとそれも薄れるよ」
上司が目を向けた先には、喉を鳴らして満足そうなタナカの顔があった。
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