危機イッパツ
事件編
◎|*◎|*◎|*
一か月ほど前に、洋平からの『他に好きな人ができた』という理不尽な理由で、しかもよりによって律子の25歳の誕生日に別れてほしいと告げられた。律子は激昂し、『その女は誰よ』と問い詰めたが、洋平は『ごめん』とだけ言い続けた。そういったやり取りが続く中、律子のストレスは溜まり続けて、好きだったテレビ番組を見ることもお気に入りのバーに行くことも次第にしなくなり、ついには病院で精神安定剤や睡眠薬を処方してもらうほど神経をすり減らしていた。
そして昨日、律子は我慢の限界を迎え、結局『こちらから願い下げよ!』と洋平に言い放ち、別れることとなった。
「また彼のことを思い出してる……もう、忘れないと」
夜7時、仕事帰りの律子はそうつぶやくと家の玄関のドアを開けた。
「お姉ちゃんおかえり~。夜ご飯は~?」
間延びした声が聞こえてきたのでリビングへ行くと、社会人一年目の妹の
なんで私があなたの分までご飯を作らないといけないのよ―
律子は心の中でそう吐き捨てると、黙って浴室へ向かった。仕事の後はまずお風呂に入るのが楽しみの一つなのだ。リビングからは「ねえ、ちょっと~」と聞こえてきたがそれには構わない。
洗面所でスーツを脱ぎ、隣の浴室に入ってシャワーを浴びる。髪を洗おうとしたら、普段使っている英文しか書かれていないシンプルなデザインのシャンプーが空になっていることに気づいた。
「また私のシャンプー勝手に使ってる。これ高いのに」
妹は勝手なのだ。いつもヘラヘラとしていて自分勝手で、結局私が損な役回りを押し付けられる―
今だって、妹の分のシャンプーは別にあるし、リンスやトリートメントなどもすべて別だ。妹の使っている可愛らしいキャラクターが描かれたシャンプーはまだまだ半分以上も残っていた。
詰め替え用は洗面所の棚に入れてあるので、取りに出ようかと考えたが、そこでふと思い出した。
この手入れに時間のかかる長い髪は、洋平が綺麗だと褒めてくれたからシャンプーにもこだわっていた。だけど、もう洋平は関係ない。
だから妹の安物のものでも構わないと隣に置いてあったシャンプーを使った。
イライラした気持ちは湯船に浸かっても拭えず、リビングに出ると、「あんた、また私のシャンプー使ったでしょ!あんたの分はちゃんとあるんだから自分のを使いなさいよ!」と開口一番言ってやった。
だが、「だってそっちのシャンプー使うと髪がいい感じになるんだも~ん」とショートヘアの妹は何も気にしている様子はなかった。
本当に頭が痛くなる、そう思った律子は、次に放った妹の言葉にさらに頭を痛くした。
「あ、そう言えば、洋平くんとあたし、付き合うことになったから」
「……え?どういうこと」
「そのまんまの意味だよ~。前に洋平くんがウチに遊びに来た時あったでしょ?洋平くんカッコイイからさ、あの時ちょっと色目使ったら、あたしと付き合いたいって言いだしてさ。あたしも嬉しーって思ったから~」
「私から、奪ったの……?」
「違うでしょ~、洋平くんは『別れたい』って言って、お姉ちゃんもオッケーしたんでしょ?」
「いや、それは」
「違くないでしょ~。それに洋平くんとイッパツやった時、洋平くん言ってたよ?お姉ちゃんよりも上手だねって」
妹はにっこりと無邪気な顔で笑っている。本当に、自分は何も悪くないと思っているかのように。
どうして、私が、こんな目に、遭わないといけないの……
その時、律子の中で何かが弾けた。そしてそれが心の中で新たな形に収束していった。
―殺そう。
律子は迷わなかった。
律子は笑顔で「これからご飯作るから待っててね」と妹に告げると、自分の部屋に行き、引き出しにしまっていた睡眠薬を手掴みで取り出してリビングに戻った。そしてそれを用意したティーカップに入れ、紅茶を注ぎ、「ご飯までこれ飲んで待ってて」と妹に渡した。妹は何も疑いもせずそれを飲み、しばらくすると机の上で突っ伏して寝てしまった。
律子は妹の横まで来ると、その姿を見下ろした。
すぐに殺してやりたい衝動に襲われたけど、今ここで殺せば私は捕まる。それは嫌だ。妹のせいで私の人生をこれ以上狂わされたくない―
だから別の方法で殺そう。事故か、自殺か。どちらかに見せかけよう。妹はこんな性格だから自殺する奴とは思われない。事故に見せかけよう。でもどうやって……
そう考えていると、テレビ番組で主婦に向けた日常の危険に関する特集をしていたのが目に入った。
「これを使おう」
律子はそうつぶやくと、妹の服を脱がせて浴室まで運んだ。
そして彼女を浴槽に寄りかからせると、洗面所の棚から洗剤を2種類手に取った。そこには『まぜるな危険』と書かれている。
そう、律子が考えたのは、お風呂掃除中の塩素ガス中毒による事故死。
律子はまず台所から氷を運び、氷の山を浴室の床に築いた。その上にパッケージに入ったままの洗剤を少し斜めになるように置き、もう片方の洗剤は浴室の床に撒いた。氷が融けるとパッケージが傾き、床に撒かれた洗剤と混ざり合ってガスを発生させる―これで簡易的だが時限式の塩素ガス発生装置が完成した。
そして律子は引き出しの睡眠薬の袋をリビングのわかるところに置き、さっき来ていたスーツを着ると、行きつけのバーへと出かけた。
私のプランはこうだ。私が仕事から帰宅した後に、彼氏と別れた鬱憤を晴らすために飲みに行くことにした。その際、先に家に帰っていた妹に『お風呂に入るんだったら、お風呂掃除もついでにしといて』と言っておいたことを店のマスターに聞いてもらう。そして時間を見計らって、『普段掃除もしない妹だから、もしかしたら洗剤を混ぜてないか心配になった』とまた家に戻り、不注意で事故死してしまった妹の死体を発見すればいいだけ。状況的に塩素ガスで死んだように見えるから、たとえ検死をしてもあまり調べられずに睡眠薬のことはバレないはずだ。もしわかっても、妹は風邪気味でリビングに置いてあった睡眠薬を不注意で風邪薬と間違えて飲んでしまったのではないかと嘘をつけば理由付けはできるだろう。
そう考えていた律子の顔からは自然と笑みがこぼれた。
夜9時、律子はバーのドアを開けた。店内はすぐに一望できるほど狭い。テーブル席には数人の客と、よく手入れされているカウンターの前にも客が一人座っており、そのカウンターの向こうからマスターがこちらに気づいて笑顔を向ける。
「いらっしゃい。久しぶりだね」
「こんばんは。ええ、そうなの。彼氏と別れちゃって」
律子は苦笑いを浮かべるが、あくまで普段通りにしようと努める。マスターは「そうか。まあ座りなよ」と普段と変わらずににこやかな顔だ。
大丈夫だ―。
律子は安心すると、カウンターに座り、いつも飲むカクテルを頼んだ。
そして、彼氏と別れたことや、妹にお風呂掃除を頼んで出てきたことを会話の中に盛り込んだ。
「へえ、妹も仕事が大変なんだね」
「そうなの、いつも朝が早くて、私も起こされちゃってるわ」
「はは、仲がいいんだね」
マスターが笑うので、律子も笑った。
―本当に、それは笑える冗談だ。
時刻は夜10時過ぎ。1時間ほど経っても客の顔ぶれは変わっていなかった。
―そろそろか。
律子はふと何かに気づいたような演技をして、「やっぱり心配だから帰るわ」と言うと、マスターが「どうかしました?」と聞き返してきた。
「さっきの話なんだけど、妹にお風呂掃除頼んだでしょ?普段やらない子だから、もしかして間違って洗剤を混ぜてたりしてないか心配になっちゃって。妹は抜けてるところがあるから。だから帰るわ」
「そうか。心配なら帰ったほうがいい」
「それじゃあ」と律子が帰ろうとすると、隣で飲んでいた一人の男性客が律子に話かけてきた。酔っぱらっているのか目が少しトローンとして顔も赤い。
「勝手ながら話を聞いてしまいました。よろしければ不肖この私めが一緒に妹さんの様子を見にいきましょう。もし倒れていたりしたら大変ですからね」
「は?い、いえ……お気持ちだけで結構です」
律子は遠回しに拒絶を続けていたが、男は「市民の助けにならなければいけないのです」と言って引き下がらない。それを見かねてマスターが「お客さん。あまり迷惑をかけると警察呼ぶよ」とすごんだ。
すると中肉中背で平凡な顔の客の男は、それに怯む様子もなく、「大丈夫です」と胸をドンと叩き、背広の内側から黒い手帳を取り出した。
「私は刑事なので!」
その警察手帳には、『
その男は
このどん臭そうな男がいくら刑事でも、今偶然出会った女の家で起こったことが事故に見せかけた殺人だとは思わないはずだ。しかも妹の死亡推定時刻に警察関係者が私と一緒にいたとなれば、これは最強のアリバイになるのではないか。この状況、利用できる。この男を家の前まで連れて行き、私だけ中に入り、妹の死亡の確認と装置に使った氷の処理をした後で呼べば、きっと大丈夫だ。
律子は笑顔で刑事に答えた。
「刑事さんでしたら安心できます。では、家の前まで着いて来ていただけますか?」
◎|*◎|*◎|*
多摩ヶ丘署の刑事である真楽は、仕事帰りに寄ったバーで一人飲んでいたら、隣で「妹が事故に遭っているかもしれない」という内容が聞こえてきたので、その女性のマンションの前までやって来ていた。女性は「少し待っていてください」と真楽をマンションのエントランスに残して行った。
―妹さん、無事だといいな。
一人で考えていると、エレベーターが1階に着き、先ほどの女性が大慌てでやって来た。
「け、刑事さん!妹がお風呂で倒れていて。はやく来てもらえませんか!」
「わかりました」
真楽は女性と一緒にエレベーターに乗り込み、女性の家がある階に着くと、急いで玄関へと向かう女性の後ろをついて行った。
そのまま一緒に中に入って浴室に入ると、そこには裸の女性が倒れていた。その傍らには洗剤のパッケージが置かれている。真楽はその倒れている女性の口に手をかざし、息がないことがわかると次に指で首元に触れた。
―脈はもう、ない。
「残念ですが、妹さんはもう」
「そんな、ごめんね。私がお風呂掃除を頼まなきゃ、こんなことには……」
女性は手で顔を覆って泣いている。
真楽はスマホを取り出すと「多摩ヶ丘署の刑事の真楽と言います。マンションの一室で女性が塩素ガスによる中毒で事故死していまして。はい場所は―」と救急車を呼んだ。
真楽が電話を切るとすぐにインターホンが鳴った。
いくら何でも早くないか?
不思議に思い、泣いている女性に「出てもいいですか?」と確認を取り、玄関を開けた。
そこにいたのは救急隊員ではなかった。
立っていたのは黒髪ショートボブの美少女。薄いピンクのブレザーの上に鮮やかなピンクのケープを羽織り、綺麗なピンクの鹿追帽を被っている。首元の明るいピンクのネクタイは緩められ、濃いピンクのチェックスカートは今にも中が見えそうなくらい短い。そう、変態の権化で自称名探偵、
「な!?お前、どうしてこんなところに」
「マラ
「どちらにせよ、それはストーカーって言うんだよ?」
めめこは「いっけね!」と手のひらでおでこをペシッと叩き、小さくて可愛いピンク色の舌をペロッと出す。そして、「マラ刑事にとって、これは事件か、もしくは事後か」と一人で盛り上がっている。
真楽は眉間を指で揉みながら、「悪いが、今は付き合ってられないんだ。事故があって人が一人死んでいる」と言うと、「それは失礼しました。では事故現場を見せてください」と真楽の横を通ってまぶしいピンクのローファーを脱ぐと、それを綺麗に揃えて裸足で家の中に入ってしまった。
「おい!」
真楽が洗面所に入ると女性はすでに泣き止んでおり、こちらに顔を向けて「あの、この方は……?」と困惑している。めめこは浴室で死体に向かって手を合わせていた。
真楽たちはリビングへと移り、救急車の到着を待ちながら、バーで出会ってからマンションに来るまでの経緯を一応めめこに話した。そこで真楽はバーで出会った女性の名前が三戸律子だということ、そして亡くなった妹は三戸優奈であることを知った。
「つまりマラ刑事は、このお姉さんの話を盗み聞きした挙句、無理やりついて行ったということですね。
「律子さんのことが心配だったんだよ。ストーカーって言ったのは謝るよ」
「なにが『律子さん』ですか。どうして妹さんの仕事の大変さの話までマラ刑事が話しているのですか。それに謝られても一度傷ついた心と体は元には戻りません。男として責任を取ってください、さあ」
めめこはなぜか両手を広げている。
何が「さあ」だ。訳が分からない。それにバーでの会話を覚えていたのは職業病でもあるし、『律子さん』と呼んだのは妹の優奈さんと区別するためだ。
そんな不毛な会話を横から見つめていた律子さんが真楽に「お二人はどのような関係なのでしょうか。あと、この女性はどなたですか」と聞くので答えようとしたが、めめこが割って入った。
「ただれたオトナの関係です。そして私は悶絶必至の推理力をもつ名探偵の好色女女子です。マラ刑事にコキ使われたり罵倒されたりといった責め苦を与えられています」
「こいつは自称探偵で、警察の捜査にたびたび頭を突っ込んで邪魔をしている厄介者です」
真楽は慌てて訂正すると、律子さんはこれ以上聞かない方がいいのではと判断したようで、「そうですか、大変ですね」と簡単に言うだけだった。
まだ救急車は来ないのだろうかと真楽が考えていると、めめこが律子さんに質問した。
「気になったのですが、お姉さんはすでに一度お風呂に入られたのに、妹さんにお風呂掃除をするよう頼んだのですか」
律子さんは少し戸惑っているかのように見えた。少しの間黙っていたが、また元の表情に戻った。
「ええ、そうです。私がお風呂に入った時、汚れが気になったものですから。あとで自分でやろうと思ったのですが、彼氏とのことを思い出して、飲みに行きたくなって。妹がちょうどお風呂に入るところだったので頼んだんです。何か不自然でしたか?」
「いいえ、なるほど。そういうことだったのですね」
めめこは納得したようだった。
真楽は救急隊員にすぐに説明ができるようにと、短い時間だが起こったことを改めて確認した。
「現場の状況から見て、優奈さんは塩素ガスによる事故死でしょう」
「私のせいです。慣れない妹に掃除を頼んだから」
「自分を責めないでください」
真楽はまた泣きそうになる律子さんをなだめた。
すると、そばにいためめこも目を潤ませながら、
「そうですよ、お姉さん」
と、律子さんを優しく抱き寄せ、そのまま髪に顔を埋めるかたちとなった。
そのままの状態が続いていると、めめこの体がビクッビクッと小刻みに震え出した。
「ああ、吸い寄せられる。髪の毛食べていいですか」
そう言いながらもすでに律子さんの髪を軽くムシャムシャとしている。
真楽はめめこの頭を思いっきり引っ叩いた。
律子さんは何が起こったのかわからない顔をしている。
めめこは頭を抱えてうずくまると、フローリングの床に何かあることに気づき目を輝かせた。
「あっ、髪の毛発見!」
そのまま床の上に落ちていた長い毛髪を大事そうに何本か拾うと「いただきまーす」と、その内の一本を口に入れた。
「落ちてる髪の毛も食うな!」
「ご心配なく。長さ、艶、形状から間違いなくお姉さんの毛髪です。つまり産地が明確で安心、ということですよ」
お姉さんが目を見開く。
「……わかるの?」
「食べればわかります」
そんな当たり前ですよねという顔をされても困る。
お姉さんは引いている。まあ、引くよな。
「ごちそうさまでした」と手を合わせためめこだったが、何かに気づいたようで不思議そうな顔で小首を傾げている。
「おかしいですね、お姉さんの髪の毛」
「おかしいのは間違いなく、お前だ」
「あはは、まあ全身ピンクなので可笑しな格好と言われることはあります。いえ、ちょっと風味が違うのです」
―風味が違う?
「だとすると、ふむ……そうですね。なんとなくわかってきました」
「何がだ」
すると真楽を無視して、めめこは親指を人差し指と中指の間に挟んで握ると、その手を律子さんへと突き出した。
どうして、そのポーズを今やるんだ、何も事件は起きていないのに。それに律子さんに向けて―
そう思う真楽だったが、めめこは「それでは」と、いつもの決め台詞を口にした。
「事件解決までイッちゃいましょうか」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます