あたし1
「すみません、落としましたよぉ」
ㅤイヤホンをつけたランナーに、か弱き声は届かない。その人のポッケからこぼれたお札を拾い、確認すると、それはヨレヨレの千円札だった。ちょっとした買い物をするためにポッケへ忍ばせておいたのだろうか。たくさん走ると、ノドが渇いたりするだろうし。
ㅤだけど、自分の足音すら聴こえないランナーの耳に、今のあたしの声は届かない。追いかけたってきっと無駄だろう。
ㅤ千円札って、交番に行けば預かってもらえるのかな。どうだったかな。いつだって正しさを探すあたしの脳みそは、今もこうやってズルのない道を歩こうとする。
ㅤだけど、今のあたしには行けないな。制服から着替えた姿で、あたしは公園の中にいる。平日のお昼。本当にあたしが正しいことをしていたなら、このお金だって拾っていなかったはずだ。
ㅤあたしは、高校一年生。今もクラスメイトは教室で授業を受けているはず。毎日空っぽなあたしの席を放っておいて。見て見ぬフリをして。
ㅤいじめって、どうして起こるかわかる? ㅤあたしが言えた話じゃないけど、そこに正しさは必要ないんだ。むしろ、邪魔なだけなんだ。夢に、希望を抱いていた新生活。あたしはこれまで自分のこと、愛され上手だって思ってた。家族はいつもあたしのことを考えてくれて、習い事にプレゼント、たくさんのことを尽くしてくれた。性別関係なく友達だって、いっぱいいた。学級委員長に、生徒会長もやった。いつも明るく振舞って、裏表なく、嘘をつかない。そうやって生きてきた。
ㅤだけどそれが通じない世界があった。高校に入学した頃。あたしは、慣れない環境にも関わらず、これまで通りのあたしで、桜の色に染まっていった。
ㅤみんなは仲良くしてくれた。お互い人見知りするような状況で、どんどん声をかけていくあたしは、みんなにとって嬉しい存在だったんだろう。
「おはよう!」のたった一言で、笑顔の言葉を返してくれた。なのに、状況が変わっていったのは、みんながみんなに慣れた頃だった。
「アイツ、うざくね」
ㅤ誰が最初に言ったのかはわからない。そんなことわかったところで、何も意味がないってこと、どうしようもなくなった今ならわかる。
ㅤ同調するのがすべてみたいな空気の中で、あたしは間違いに、さらに間違いを重ねてしまった。
ㅤ一人じゃなく、誰とでも仲良くしようと振る舞うあたしのことを、嫌いになる人が現れることは構わなかった。だけどあたしは、醜い気持ちを誰かと共有しようと、最初の一言を放った犯人探しを始めてしまった。
ㅤそうなると、あたしのことを特別嫌いではなかった人のことまで、疑ってしまうようになる。話を聞こうと呼び出して、呼び出された子は他の誰かにこんなことがあったと話をする。そしたらそれまで何とも思っていなかった子たちが「アイツ、うざくね」の言葉を唱え始める。
ㅤやがて、誰が最初に言ったかわからないけど、その人物の元にも、あたしのやっていることが届いたのだろう。それは本当に、火に油を注ぐような行為だ。
「アイツ、うざくね」が耳に聴こえない大合唱になっていく。やがて目を
ㅤあたしは高校最初の夏を迎える前に、ひとりぼっちになった。犯人探しもしたけれど、決してあたしは、その子をとっちめるつもりじゃなかった。「ごめんね」と言って、「だけどそんなことしちゃダメだよ」と、
ㅤ正しさを見失ったあたしは、学校へ行かなくなった。家族には行っているフリだけ見せて、公園のトイレでカバンに詰め込んだ私服に着替える日々だった。
ㅤあたしは、いじめに負けたわけじゃない。無駄な戦いから降りたんだ。勝ち負けじゃない戦いを続けたって、仕方ない。いつか家族にもバレてしまうかもしれないけど。怒られてしまうかもしれないけど。だけどあたしはそのとき、泣きたくない。あたしが今やっていることは、正しくなくても、間違っていない。そう信じたいんだ。この叫びが、誰の耳にも聴こえないとしても。
ㅤ元々ヨレヨレだった千円札は、手のひらの中で更にグシャグシャになっていた。
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