Ⅴ ウォンシティ

「走れ走れ走れ!」

じゅうたんが路地に着地すると同時に、マクベスは二人を急き立てて手近な細い路地に駆け込んだ。青い繭は黒いもやのなかにつっこむと同時に消えてしまっていた。

マクベスはせまくて入り組んだ道を特に選んで走ったので、行き止まりのたびに後ろから追いかける二人も後戻りしなければならなかった。

一番先に銀ぎつねがへばった。彼女は壁に手をついて息を切らせた。

「マスター」

「マスターと呼ぶな。魔法使いだと気づかれる。」

マクベスは気遣わしげに上から誰かのぞいていないかを見た。

背の高い建物が、延々と立ち並んでいる。奇妙なのは、どの建物もぴったりと密着していて、なので一区画ごとに大きな建物が一つずつ建っているように見えることだった。どれも同じ白でぬられていて、同じように四角くて、同じような窓が等間隔に並んでいる。なので、移動しても場所を変わった気がしなかった。これほど統一されている街が、マークにはなんだか恐ろしかった。

ウォンシティはすごく清潔で、管理が行き届いていると、ミュゼの掃除組合では、見学者が行くほどの高評価だった。

掃除人の目から見たら確かにその通り。ごみは1つも落ちていない。でもごみを落とすような人も歩いていない。誰もいない。敷石のすきまから生えた雑草が茶色く枯れている。恐ろしい灰色の街だ。人の気配がない。そのくせ何か出てきそうな怖い感じがする。

とんでもないところに来てしまったという気がした。

誰もいないのなら、おかみさんと親方もいないという事でもある。どこかにいるはずだ。どこだろう。

マクベスは銀ぎつねを急き立てて手近な建物に入った。

マークも続いた。帽子に手を当てて、心の中でいざという時に呪文を唱える練習をした。

マクベスはやみくもに走っていたわけではなかった。

街の東、一番門から遠いところに、ひときわ大きな城らしい建物がある。偉そうにするのが好きな相手なら、あそこにいるだろう。

(ボスは三人いる。なら一人くらいはあそこにいるはずだ。)

マクベスは見つかるのを避けるために早足で歩いた。屋上まで出て隣のビルに移るのがよいだろう。

部屋が並んで、アパートのようだったがやはり人の気配がなくて何かが出てきそうで怖い。マークは開いている部屋の前を通るたびにのぞいてみた。目的のトイレがあるのが見えたので、マクベスに頼んで一つの部屋に入った。面白い形のサボテンの鉢が所狭しと並んでおり、住人が優しい人のように思えたからだ。

銀ぎつねは台所のテーブルにつっぷしてぜいぜい言っている。

マクベスはサボテンに見入った。

「これ何だかわかるか?」

「メスカルボタンです。」

マクベスは目を細めた。

「効用は?」

「幻覚を見せます。麻薬です。」

「そうだ。黒魔は奴隷を生かしておきたいにはこういうものを与える。これがあれば、すぐに死なないからな。やつらが食べ物を与えるのは本当の手下だけだ。…薬草の知識もあるな?誰に教わった?」

「大叔父が学ぶように言いました。マスター。」

「ここの住人は奴隷か下っ端の黒魔だ。どっちにしても役に立つからしばらくは生かしておきたい相手という事だ。」

マクベスはそう言ってサボテンの鉢を置いた。マークが用を足して出てきて手を洗った。彼は顔も洗って手拭いで拭いた。

「ボタン?」

「奴隷に使わせる麻薬だ。食べさせなくてもこれがあれば死ぬまで働く。」

マークはやかんを見つけた。水道もガスもある。

「お茶淹れようか?」

マークは銀ぎつねに言ったのだが、マクベスが断った。

「いや、いい。すぐに出る。長くいすぎた。見られたかもしれん。」

マクベスはあわただしく部屋を出、二人もすぐに荷物をひっかけて従った。

マークは銀ぎつねのひじに触り、リュックから水筒を出して差し出した。

「飲んで。何か食べる?」

銀ぎつねは首を振った。

「ありがとう。さっきそこの水を飲みましたから。大丈夫です。」

「瘴気が濃いから我々にはこたえるんだ。…銀ぎつね、布に魔力をしみこませて口を覆え。それからそのキラキラした銀色の光を何とかしろ。目立つ。」

マクベスは銀ぎつねをぎらりとにらみつけてからマークを自分の隣に引き寄せて早足で歩きながらしゃべった。

「聞け。ここからは別行動だ。敵の本拠地に潜入する。人間がいたら危ないし、瞬間移動は人間に使えないから。戻ってくるまでお前のことをどうするかだが…。」

「大丈夫。父と母を探しに行く。」

「とんでもない。誰もいないが、黒魔はそこらじゅうにいる。人間の子供がうろうろしていたらすぐに捕まって殺される。かといってこのビルに居るのが安全かもわからん。どこかに塗り込めるという手もあるが、黒魔に魔力をかぎつけられる可能性だってある。そうなったら閉じこもっているのは逃げることができなくて危ない。

どうしたい?穴か?かくれんぼか?」

隣で色が変わったな、と思って後ろを見ると、銀ぎつねが全身緑に染まっていた。肌から銀色の髪まで銀緑色である。銀ぎつねは濃い緑の袖を見つめながら深刻に考え込んだ。

「僕はおかみさんと親方を探しに行きたい。一人で大丈夫だ。誰か来たら隠れるし、武器だってあるし。」

マークは顔をしかめて帽子に触った。

「今は時機じゃない。隠れているのが一番いい。穴を作ってやる。黒魔を退治するまで、下手に動くな。殺されたら会えなくなるぞ。」

「一人で大丈夫。」

マクベスはマークの顔をじっと見た。

「親を探したい気持ちは買うがな。銀ぎつね、人が集まっている場所は分かるか?」

「人間の気配は分からないのです。でもこれを使えば…」

「物探しは使えない。光線で我々の位置がばれる。使えば見つかる。」

マクベスはさっと手をかざすと、マークの外套の色を変えた。ウォンシティにはどこにでもある、ほこりっぽい白壁の色になった。

「これをひっかぶって隠れたら、見つからんかもしれん。健闘を祈るぞ。とにかく死ぬなよ。逃げることをいつも考えて退路を二つ以上用意しておけ。用が済んだらすぐに戻る。どこにいても分かる。…いいか、捕まったらわしらが話していたことを何でも思い出してしゃべれ。お前が聞いたのは、シンシティの存亡にかかわる重要な会話ばかりだ。それを小出しにしろ。ただし嘘は絶対つくな。生かしておいてもらえる。捕まっていても助けてやるからとにかく死ぬようなことはするな。けがもするな。治してやれん。

わしらが行ってしばらくしたらビルから出ろ。このままここにいた方が安全なようならここにいろ。」

マークは聞いたことをぶつぶつと繰り返しながらうなずいた。そして、行こうとした銀ぎつねの袖をとらえて太いソーセージを差し出した。

銀ぎつねは首を振った。

「持ってなさい。どうせもうすぐ死ぬかもしれません。…そうなったら無駄になります。」

「でも食べてないからふらふらするんでしょ?」

銀ぎつねはふっと笑ってまだ濃い緑から直っていないマントの中を見せた。内側には黒い袋がたくさん下がってぼこぼこしていた。

「魔法使いは魔力が十分ならあまり食べなくても大丈夫なのです。それに食べ物も少しは持っています。大丈夫。」

「分かった。」マークはソーセージを引っ込めた。戻ってきてから無理にでも押し付ければいいのだ。「でも緑は目立つよ。」

マクベスは階段のところで、銀ぎつねを待っていた。二人の魔法使いは階段を登るぱたぱたという音とともに消えた。

マークが見送ってから振り返ると、やせ細って髪をふり乱した老人がいた。いきなりとびかかられ、首を絞められて悲鳴が出せない。今なら魔法使い達に聞こえるはずなのだが。しかしマークが落としたソーセージに、老人の注意は向いた。

マークは老人の目が到底正気ではないことを見て取った。さっきマクベスが麻薬になるサボテンの話をしていたことを思いだす。この老人がその持ち主かもしれない。ソーセージを見て涎をたらしている。

マークが大人しくなるとすぐにソーセージに手を伸ばした。

マークはありったけの力で老人を突き放した。人を突き飛ばすなんてそんなことはしたことがない。しかしうまく行った。老人はソーセージにかじりつきながら床に倒れた。枯れて中身の抜けてしまった朽木のようだった。マークはマクベスが食べろ食べろとしきりに言ったのに、心底感謝した。昨日からたくさん食べていたから、力が出せる。これがおとといの空きっ腹の体だったら逃げられなかった。この老人は、たぶん何日も食べていないのだ。

いそいで逃げようとして、マークはふと気が付いた。

(この人はたぶん人間だ。他の人間の居場所を知ってるかも。)

しかし何かしようと考える前に、骨と皮の老人が叫び始めた。

「人間だ!人間がここにいるぞ!食べ物も持ってる!脱走者だ!泥棒だ!」

これはマクベスと銀ぎつねに聞こえたのではないか?マークは耳を澄ませたが、誰も降りてくる気配はなかった。きっともうとっくに遠くに飛んで行ってしまったのだろう。

その辺の黒魔が集まってくるかもしれない。マークは下の階へ走った。

こんなに早く見つかるとは思っていなかった。

(マクベスはあと何て言ってたっけ?「退路2つ」って…。ここの退路って入り口の他にどこ?)

自分の足音がひどくうるさく感じる。マークは1-2階下りたところで開いている部屋を見つけて飛び込んだ。そして頭が見えないように、白い外套で覆ってドアの横の扉に後ろ向きに張り付いて息を殺した。とにかく何の音もさせなければ、見過ごしてもらえるかもしれない。

(確かに探しに行こうというのは時機じゃなかったかも。)

マークは今さらながらそう思った。そして退路二つを考えたが、台所の窓を壊して往来に派手に跳び下りてかかとを骨折する危険を冒すほかは、入ってきた入り口から出るしかない。

(まあでもこれで二つ。…だんだん慣れてきた。)

マークは少し自信がついて微笑んだ。

ジャーっという音がして斜め右にあるトイレのドアが開いた。

やせたひげ面の男が壁に張り付いているマークを見て動きを止め、じっくり眺めて、人間だと判断した。

「脱走者?」

答える代わりにマークは急いでポケットからパンの袋を出した。

ひげ面の男はそれを開けて食べた。

「うまい!」

ぺろりと平らげると、マークの襟首を捕まえて寝室に放り込み、ベッドの下に隠れていろと命じた。マークがリュックを下して潜り込むと、のぞきこんで尋ねた。

「たばこ持ってないか?」

「あるかもしれないです。」マークはリュックに手を伸ばした。

「後でいい。」

男は姿を消して音がしなくなったので、どこにいるのかマークには分からない。

マークはベッドの下から部屋の中を見回したが、前よりもさらに出口は少ない。

マークはきりきりと頭を回転させた。

まずマクベスの言ったことは正しかった。太れと言われた時には無茶苦茶言うと思ったが、そのおかげで頭のおかしいおじいさんを振り払う事ができた。今は親を探す時機ではないと言われたが、それも当たっていた。早くも危機に陥っている。隠れていろと言われたが、今隠れている。とにかく死ぬなと言っていたが、いざ悪い黒魔法使いに捕まった時、いきなり殺されたらどうやって生きていられるのだろう?

ミュゼで見た黒い怪物は、何か言ったら理解できる風ではなかった。ここに来るまでに2回襲われた黒い怪鳥に乗った黒魔法使いも、話を聞いてくれる風でなかった。問答無用で捕まえられて食べられるかかぎづめでつかまれてつぶされる気がした。

(逃げよう)

マークは決心した。捕まるなら同じだ。どうせなら逃げる途中で捕まろう。

マークはベッドの下からほこりまみれになって這い出した。窓の反対側に出て、這ったまま移動していく途中で、半ば開いている洋服ダンスを見た。視線と息遣いを感じる。ひげ男はこの中にいる。少し開いているところが芸が細かい。これなら確かめようと思わないだろう。

マークは手を伸ばして洋服ダンスの扉を少し開いた。やはりひげ男はこの中にいた。

「すみません。他の人間がどこにいるか御存じありませんか?」

マークはひそひそ声で話した。ひげ男は冷ややかな目つきでマークを見ると、ドアを元通り半閉じにしようとした。

「ベッドの下にいろ。声を出すな。」

マークはドアをつかんで離さなかった。

「たばこ持ってたか?」

マークはそれに答えなかった。カバンを開けて探っている余裕がない。それに先ほどパンをあげたのだから、その上あげようと思わなかった。

「僕の両親が捕まっているんです。僕は探しに来たんだ。」

「いつ捕まった?」

「ひと月ほど前。」

「捕まって連れて行かれたのか?」

「はい。」

「もう死んでる。」

マークは扉を閉じようとするのを止めた。

「何だ?捕まったら俺たちも死ぬことになるんだぞ?捕まりたいならお前だけでやれ。鞄は置いて行け。どうせ取り上げられる。」

「それでも知りたいんだ。」

「いいか…。」

男は説明しようとしてめんどくさくなりやめた。

「地下に連れて行かれるのを見たことがある。城の近くだ。」

扉は再び半閉じになり、もう話は終わったらしかった。これ以上話してはくれないだろう。

「ありがとう…それに助けてくれようとしてありがとうございました。」

何もあげる気はないが、お礼だけはきちんと言っておくべきだった。余裕がないのはお互い様だが、感謝を伝えるくらいは礼儀だろう。

マークは床に向き直り、ほふく前進を始めた。前よりもうまくなっている気がする。時々窓に視線を送って、怪鳥が来ていないかどうかを確認する。耳を澄ませて外からもヒトの足音がないかを確かめる。いたら全力で走って逃げるつもりだ。マクベスが退路を二つ用意しろと言っていたのを思い出した。下の階段から逃げる、もしくは上に登って屋根伝いに逃げる、どちらかだと、マークは考えた。

「おい…おい…。」

しばらくは自分に呼びかけられているのだと気が付かなかった。

「人間を探しているのなら、街の教会に行ってみろ。塔のある教会だ。そこに地下組織がある。連絡係がいるはずだ。集会の場所を教えてくれる。」

そこなら城に近づくより安全なはずだ。マークはふりむいてひそひそ声でお礼を言ったが、伝わったかどうかわからない。洋服ダンスの扉はもう何も話さなかった。

マークはほふく前進で窓際を避けて廊下に出、廊下の窓から2階分の高さを跳び下りた。親方に以前教わったように、膝を柔らかくし、顎を打たないように足をできるだけ広げ、かかとを骨折しないようにつま先で着地した。マークは身軽だったので、高所の掃除を任されることも多かったのである。

無事に下りられた。足もくじかなかったし、かかとの骨も折らなかった。どこもひどくぶつけなかった。歩ける。しかし安心している暇はない。

マークは頭から外套をかぶると、怪鳥の目の届かなさそうな細い路地を選んで、壁によりそって進んだ。どっちに進んでいるのかもわからないが、これでとりあえず上空を黒魔が通り過ぎても見つかりにくい。人間の気配は分からないのだと銀ぎつねも言っていたので、姿さえ見られなければ見つからないはずだと信じたい。教会に塔があるなら、そのうちビルのすきまに見えるはずだ。枝分かれして狭い路地はマクベスの言った「敵は一人だけ」「退路がある」状態にはぴったりだった。




マクベスと銀ぎつねは屋根に上がると、貯水槽の陰に円を描き、爆発か騒動か、黒魔の気がそれるのを待った。

来る途中で城壁のそばで爆発があり、そのおかげで見張りの注意がそれていたが、それと同じことをマクベスが期待して待つと言ったのである。

ウォンシティは気温が高く、じっとり汗ばみながら二人はあるのかないのかもわからない気そらしの瞬間を微動だにせず待っていた。全く動かない者は、見つかりにくいのである。

「どうだ。送った刺客の気配はするか?まだ残っているのか?」

「この瘴気のせいで全然眼が効かないんです。」銀ぎつねは苦しそうにせきこんだ。「こんなひどい瘴気の中でよく生きていられます。」

「生きるしかない。だがまともな神経の奴はもういないだろうな。」

マクベスは遠くの空の点のような黒魔たちをじっと見つめた。どうやらあれが兵隊や見張りをしているようだが、地上に別の部隊がいるのかもしれない。空軍が烏だったから、陸軍はヤモリでも使っているかもしれない。マクベスは大型の生き物をとても愛していたので、烏のようなありふれた生き物をただ膨らませて2・3飾りを付けただけで使うやり方を到底好きにはなれなかった。大型の生き物特有の美しさも強さもない。本物志向の癇に障るのである。

「マスター、動きが変わりました。」

同じ方向を見ていた銀ぎつねが言った。

「どう変わった?」

「複数旋回しています。左側です。攻撃する相手を見つけたのでしょう。」

「では行くか。目標はボスクラスを一体倒すこと。危なければ撤退する。」

しゅっと風切り音を立てて二人は瞬間移動した。





マクベスの術だったので方角は正確だった。瞬間移動には一度訪れて見た場所でなければいけないという制約があったが、マクベスは上空を飛んだ時に城の位置と概形を頭に入れていた。上空でも「訪れた」に入ることを彼は知っていた。彼は本丸に近い塔のてっぺんに正確に降り立った。

「急ぐぞ。魔力の気配で気づかれた。すぐに黒魔が寄ってくる。」

屋上から塔内に入る扉はふさがれていたが、銀ぎつねが敷石に魔力を通して足元に穴を開けた。

ここにも螺旋階段があった。魔法使いはどこに行っても塔を作りたがるものらしかった。そして飛べるので、飾り程度に階段がついていればいいと思っているのである。階段は狭くて急だった。段が飛んでいるのもあった。ほとんど突き出た金属棒に過ぎなかった。修理工か掃除人のためのものらしい。

マクベスは器用にトントンと弾むように下って遅れなかった。銀ぎつねは足をぶつけることを覚悟で全力で跳ねた。

「マスター!誰か来る!」

銀ぎつねは気配を察知して叫んだ。同時に3度目くらいに落っこちかけてめげずに金属棒をはい上がった。マクベスはかなり先を行っていたが始めて振り返った。

「うむ。ちょうど緑だな。」

「えっ?」

銀ぎつねは嫌な予感を感じて緑の自分を見た。

マクベスはすうっと透明になった。壁の色と同じ色に変わって見えなくなったのである。

「え?」

銀ぎつねは口の中に嫌な味を感じた。ひたすら目立つ自分の体色を思って血が凍るかと思った。マスターが透明になった今は自分一人がさらに目立つ。狙い撃ちにされてしまう。

急いで這い上がろうとしたが遅かった。四方から風切り音がする。

敵の魔法使いに囲まれる前に、銀ぎつねは目をつぶって自分から捕まっていた階段を放してまっさかさまに塔の中を落ちることを選んだ。重力に頼るほうが走るより素早く逃れられる。

(私にできる魔法は何だった?戸締り、岩を動かす、…それに覚えたての物探し、テレパス…まともにできるのはそれくらいだ。そうだ浮遊術!)

いったいどれだけ烏の兵隊がいるのか、追いかけてきたのはくちばしを持った制服を着た兵隊だった。大きな烏に乗って飛び回っているのではなく、自分が烏だ。

(ただの烏じゃない。浮遊術も瞬間移動もできるんだ。私より上だ。)

銀ぎつねはくちばしをとがらせて迫ってくる烏兵を近くまでひきつけて、魔力を送り込むと浮遊術で相手を飛ばした。

コントロールに自信がないので自分を移動させるわけにいかなかったのだ。烏兵は穴のたくさん開いた空洞の空木のようにたやすく魔力を通せた。烏兵はふっとばされて舞い上がり、階段に引っかかって止まり、銀ぎつねも反発力で飛ばされて近くの階段にとっさに腕をからめることができた。

(魔力が通しやすい。基礎なら私の方がずっと上だ。)

銀ぎつねは少し自信を取り戻した。陣を描く両手を自由にするために階段の上に座ったが、烏兵は相談をしているようでなかなか襲ってこない。作戦なんか立てられたら負ける。

銀ぎつねは下も見ずに再び飛び下りた。

飛び下りてからすぐ下に床が迫っていることに気が付いた。高所から飛び降りても銀ぎつねに損傷はない。しかしこれで距離が稼げなくなった。

銀ぎつねはダメージが少ないように転がって着地すると、ドアを探した。ドアでなくてもいい。岩でできているものなら、穴を開けられる。しかし惜しむらくは外壁と違い、内部はれんがと漆喰でできていた。待合室のようで素敵な二色のレンガタイルで幾何学模様が作られている。それはガラス質で魔力を通すことができない。しっくいには構造がないので銀ぎつねには鋼鉄のようなものだ。錆びついたドアがある。飛びついてみたが鉄の含有量が多すぎて歯が立たない。

(これでは魔法使いには開けられない!魔法使いに開けられるドアは?ないはずない。どこかにあるはず!)

銀ぎつねは急いで周りを見回した。魔法使いなら高いところにドアを設けていることも考えられる。あるいは分かりにくい魔法の入り口、合言葉や呪文がなければ開かない扉かもしれない。

あるいはこれ自体が魔法使い用の罠なのかもしれない。今の銀ぎつねは檻に閉じ込められた狐も同然だった。

銀ぎつねはドアを探すことをあきらめて、今度は隠れ場所を探した。金属の少ない天然石でできているならなんだっていい。

ふと敵の様子をうかがうと、天井の方は真っ暗で何も見えなかった。目を凝らして見直すとそれは大きな黒い魔力の網が煙を立てながら自分の方に迫ってきているからだった。網は塔の円柱とほとんど同じ大きさだった。横に開けられた通路がなければ逃げられない。捕まったらかけられるであろう様々な拷問が脳裏をよぎった。

(私が捕まったらシンシティの護りは解けてしまう。捕まる前に死ぬべきだ。)

銀ぎつねは銀のナイフをベルトから抜いた。

「ンカア ンカア ンカア」

リーダーの烏兵が合図を出した。

配下の烏兵たちは逃れられないように網の目から見える緑の魔女から目を放さず、スピードを速めた。

と、次の瞬間には金色の光が走り、一か所に集まり、魔女にしか注意を向けていなかった烏兵たちを網もまとめて黒こげにした。ぱらぱらと黒い灰や燃えた羽根が床に舞い落ちた。

マクベスは損傷を受けた金の龍の残りを体内に返すと、目をつぶってたった今増えた魔力を味わった。黒魔法使いの魔力は白魔法使いには害しかならないが、黒魔法使いを絶やすと、その分の徳が積まれて白い魔力が増えるのである。マクベスは気力と体力が四肢にみなぎるのを感じた。金の龍を黒魔に使うのは魔力をひどく消耗するが、一撃で雑魚4人を倒せたので十分おつりが来た。余韻を味わい終わってから、彼は体の色を元に戻し、銀ぎつねを探した。彼女はどこにもいなかった。灰の下に埋もれているとしても平べったすぎる。

―銀ぎつね!

彼は探す手間を省いてテレパスで呼んだ。

―マスター!瞬間移動で逃げたのですが、どこかの部屋に迷い込んでいます。隠し部屋のようです。

―今行く。

円を目的に探せば、灰の下に、ナイフでひっかいたいびつな円の一部がすぐに見つかった。彼は銀ぎつねの円を疑わしそうに眺めてから、自分の杖で新たにきれいな円を描き、銀ぎつねの居場所へワープした。


白と黒のタイルのしゃれた部屋に彼は立っていた。狭い。そして縦に長い。おそらく先ほど通った塔の部分は表向きの部屋で、ここが本当の魔法使いの居室だろうとマクベスは見当を付けた。自分の塔も隠し部屋を作って住んでいる。

銀ぎつねはマクベスを見つけるとすぐに寄ってきて後ろに控えた。どうしていいか分からないのだ。ここにも扉はない。階段だけが上へとつながっている。

「マスター、気配がします。1体だけしか感じ取れませんが、どこだか分かりにくく…。」

マクベスは返事をせずにさっさと階段へ向かった。魔法使いは上の方に住みたがる。逃げやすいし近づくものも見張りやすい。偉い魔法使いは一番高いところに住んでいるという実に分かりやすくて単純な経験則がある。自分もそうだからこの塔の持ち主もそうだろう。

銀ぎつねはおびえながら後に従った。おびえるのは壁・天井に至るまで丁寧なタイル張りで彼女の得意な岩の変形閉鎖呪文が使いにくいからである。

マクベスは転んでも落下しても髪の毛を引っ張られても殴られてもかすり傷一つ負わず、4年の間に27人の魔法使いを壁の中に塗り込めていた完璧な護りの呪文の持ち主が何をおびえることがあるのか分からなかったが、性分だろう。その呪文はおそらく着脱のできるタイプのもので、はがされると使えなくなるから前もっておびえているに相違ない。

マクベスはさっさと片付けて帰ることを画策した。

作戦の第2段階を遂行するのに銀ぎつねの戸締り呪文が必要になる。彼女の術は熟練していて魔力のロスも少なく単純だが陣の描き方は自然で本来の構造に溶け込み強力である。都市国家一つを封じるには彼女の力なくしては無理だった。こんなところで無駄死にされては困る。

階段を登るとさらに上の階が見える。そして途中階もまた市松模様の黒白のタイル張りで、豪華なひもの飾りの付いたクッションなどの調度品が置いてあり、例によって誰もいない。死骸が一体、部屋の隅に転がっているが本物なのかインテリアの一環なのかどうか分からない。動いているものがないわけではなかった。小さなサイドテーブルが置いてあり、トランプがパタンパタンという音を立てて勝手に裏返っていた。

A…Ⅱ…Ⅲ…

銀ぎつねの目は無意識に札に引き寄せられて数字を読んだ。Ⅳの札が出る前にマクベスは陣を描き、呪文を唱えて札を燃やした。

「数呪いだ。今度似たようなことがあったら速やかに札を燃やせ。眠らされていいようにされてしまうぞ。」

弟子にレクチャーしながら、マクベスは死体に歩み寄り、足でうつぶせの顔をひっくり返した。やはり死んでいる。新しい。魔法使いか人間かは定かではない。しかし体に合った制服を着ているし、餓えた様子もない。死体の掃除係の来る前に自分たちが来たようだ。

(仲間を殺すとはどういうわけだ?見張りもいないし、この部屋は立ち入り禁止で入ったら死ぬという事か?ボスクラスのいる可能性が高い。)

マクベスは銀ぎつねにもう一度気配を探らせようとしたが、振り返ると銀ぎつねはいなくなっていた。おびえた魔女が声もかけずに自分から離れていくはずがない。躊躇なくマクベスは瞬間移動を行った。


銀ぎつねは突然柔らかいものに体を包み込まれ、上の階にひっぱりあげられた。次の瞬間には本棚の並ぶ薄暗い部屋の中にいた。本棚の並ぶ通路の奥にぼんやりした明かりが見えて、大きなホタルブクロのような花が明るんでいるのが見えた。何かは分からないが、女の子がすっぽりと全身を花で覆って大きなガラス瓶の中に座っている。花の下からは黒いエナメルのつやつやした靴と、黒い魔力ですすけたレースの靴下の、物憂げに投げ出された足が見えた。

その足を見たとき、何故か銀ぎつねは心底ぞっとした。

見えたのはほんの一瞬のことで、四方八方から本が銀ぎつねの顔をめがけて飛びかかってきた。ページがぱらぱらとめくれて、銀ぎつねは何かにひっぱられて文章に目が釘付けになるのを感じた。

―数呪いだ。速やかに札を燃やせ。

マクベスに言われたことを思いだし、目をつぶってページを見ないようにしたが、そうすると耳から意味不明の単語の切れ端が聞こえる。しかもどんどん声が大きくなっていく。護りの呪文を通してさえ、心がかき乱されるのを感じた。

(マッチを持っていたはず!)

銀ぎつねはポケットを探ったが、いろいろ入れすぎているせいですぐに出てこない。最後の手段として銀のオオカミを出して本にかけられた黒魔力を中和しようとしたが、この本は魔力を通すのが難しく、烏兵の時のようにいかなかった。銀ぎつねは手足の力を失って床にへたり込んだ。

―マスター!マスター!ここに黒魔がいます!

銀ぎつねはせめて師に知らせてから捕まろうとして大音量でテレパスを使った。

―もう来ている。

マクベスは本の山の下で窒息しかかっている弟子はほっておいて花につながった瓶の中にいる黒魔法使いのそばにいた。瓶の中の少女は危険を感じて花びらをはねあげ、マクベスの顔を見た。それから本の山から炎が上がって燃え広がりつつある自分の図書館を見た。もう一人の白魔法使いの気配に紛れて気が付くのが遅れたのだ。

黒髪を切りそろえ、白い肌をしたあどけなさの残る少女は、マクベスが銀の杖を取り出し、一手で瓶の構造の脆弱な部分に杖を突き刺して瓶を壊してしまったのを見た。

「私はヴィラの一番の弟子よ。人質として使える。」

少女は自分が捕まってしまうのを悟って急いで言った。

(大ボスの名前はヴィラか。)

マクベスはその情報を頭に畳みこんだ。彼は笑って言った。

「ならばそいつを呼んだらどうだ?」

そして、肌を強いテレパスがかすめていくのを確認してから少女の左ももに銀の杖を突きたてた。小さな黒い魔力瓶をえぐりだすと、少女の姿は縮んでレースの服の山になった。本体を確認している暇はない。強い黒魔力の干渉を感じる。炎と煙で姿は見られないだろうが、逃げるのが遅れたら戦いになってしまう。

彼は魔力瓶を袖口に入れると、銀ぎつねまでの距離を測り、人間の姿では間に合わないと踏み、ほうきに変わって彼女のそばに飛んで行った。

風切り音がして、人影が瓶のそばに現れたのを目の端で見た。

(円を描いている暇はない。)

マクベスは散らばった本で心の中で円をイメージし、銀ぎつねの背中をまるめさせ、はみ出している足を円の中に入れた。瞬間移動を行う間際に、黒い煙の向こうで背の高い茶色い髪の女が自分を突き刺すように見ているのを感じた。


ヴィラは隠し図書館に入れてどこよりも安全だったはずの秘蔵っ子が殺されているのを見て唇をかんだ。服の山をかきのけると、小さなイタチが死んでいるのを見つけた。彼女はそのイタチを大事に手に持った。

体にぴったりした黒いレースの服を着ていたのだが、ポケットはついていなかったのだ。

そしてホタルブクロを点検したところ、穴が開いているのを見つけて、急いで自分の部屋にワープした。

秘蔵っ子のベイイには珍しい疫病の呪いを作らせていたのだが、国内で広まっては意味がない。疫病の呪いは惜しいが、火が浄化してくれるだろう。あれだけ煙が立ち込めていたのだから、たぶん自分も感染はしていない。いまいましいのは侵入者である。この1日2日で何度も襲撃がある。ここまで被害をこうむったのは初めてだが、今は攻撃に割いていた戦力を呼び戻し、しばらくは守りを固めた方がいいのかもしれない。我が身が危険にさらされている。

ヴィラは仲間に連絡を取った。



「銀ぎつねさん、大丈夫?」

「ああ。しばらくすれば治る。」マクベスは銀ぎつねの方は見ようともせずに銀ぎつねの代わりに言って、突然現れた魔法使いを遠巻きに伺う人々を眺め、地下墓地のほこり臭い湿っぽくて薄暗い通路を眺めた。「ここはどこだ?」

「教会だよ。あの人たちは、ああ…ええっと…重要な組織の人たち。」

マークは銀ぎつねに水を飲ませようとしたが、銀ぎつねは受け付けない。目を見開いて、きれぎれに小さな声で意味不明のことをつぶやいているから意識がないわけではない。時々体を緊張させてこぶしをきつく握りしめているのが哀れだった。

銀ぎつねは明らかにひどく痛めつけられていた。せめてもと思い、マークは優しく同じ質問を繰り返した。そして、奇妙な毒サボテンのことを思いだした。

「一体どんな目にあったの?毒?」

「囮として役に立ってくれた。おかげで目的は達せられた。それは呪いだから寝ていたら治る。」マークにはそうは思えなかった。呪いとは毒より深刻なのではないかと思われた。「何という組織だ?」

「…名前がちゃんと思い出せない。人間の抵抗組織だって。聞いたら教えてくれると思う。」

「お前が聞いてくれ。人間の紹介があるほうがいいからな。礼儀は守らないと。これは至急だ。急いでくれ。」

「うーん…。」

銀ぎつねが心配だったが、医者を見つけた方がいいという事を思いつき、マークは囲んでいる人垣の中にリーダーの姿を探した。あごが小さくて、おでこがせり出して、カマキリみたいな人だったから、間違えようがない。確か誰かがリーダーは医者だと教えてくれていた。

「どこまで話していいの?シンシティから来た魔法使いだって言っていい?」

マークは何でも秘密にしなければならないと教えられていたので、前もって小声で尋ねた。

「わしらが避難民を壁の中に閉じ込めた事は言うな。銀ぎつねが壁を閉じたこともな。術を解かれてしまうかもしれん。他は何でもしゃべって、助けに来た白魔術師だと紹介してくれ。危害を加える恐れは全くないと、お前の口からはっきり言ってくれ。」

「すみません…!」

声をかけると、マークが近づくと、人々は散らばって蜘蛛の子を散らすように逃げていく。ろうそくがそこここで吹き消されて、真っ暗になった。

マークはリュックをマクベスのそばに置き、はしっこく追いかけて追いついた。

「リーダーの人を呼んで。…ロングさんを。話があるんだ。あの人たちはシンシティの魔法使いで、悪いことはしない。いい魔法使いなんだ。僕も助けてもらったし、大勢避難民が助けてもらったんだ。ここには悪い魔法使いを倒して、戦争を終わらせるために来ているんだ。用があるから、リーダーを呼んで。…リーダーじゃない人で他にお医者さんはいない?あのおばあさんを診てほしいんだ。」

病人がいると診て治したくなるのが医者の性だった。カマキリ男は考えた末に、横道の一つから声を出した。声だけなら反響して、はっきりとどこからとは分からない。

「君を信用できるという証拠を見せてくれ。我々を売るスパイでないとどうやって証を立てる?」

マークは考えて、銀ぎつねからもらった銀の刃をリュックから出して、包んでいた布を半分ほどいた。銀の刃が、残ったろうそくを反射してきらりと光った。

「あのおばあさんの魔女を助けてくれたら、これ上げる。銀の刃。魔法使いを刺せるよ。危ないと思ったら、これで刺して逃げたらいいんじゃないの?」

銀の刃は食べ物よりも人々を惹きつけた。逃げる足音がやんで、やがて一人の中年の刃を受け取りに現れた。

「だめ。銀ぎつねさんを先に治して。誰か医者を呼んで。」

「私は看護師だよ。」

「じゃあ、銀ぎつねさんを診て、悪いかどうか教えて?ほら、触って銀かどうか確かめてよ。…まだ渡せない。銀ぎつねさんが治ってから。」

「この組織が襲われたら、あんたの両親だって探せなくなるよ。…もし本当に両親が捕まっているのならね。作り話じゃないなら。」

「作り話じゃないよ。それに襲ったりしないよ。あの人は助けてくれるんだ。シンシティでも避難民を大勢、餓え死にするところから助けたんだ。脂身とか牛乳とかを運んで。それに…。」

マークが言いきる前に、マクベスが割り込んだ。少しも汚れのない青いマント姿の少年は、ろうそくの明かりの中でも、強い印象を与えた。

「私はシンシティの宮廷魔法使いのマクベスです。奥様、紹介もなしにお許しください。私はシンシティの王の命により、あなた方捕らわれた人間達を脱出させるために参りました。白魔術師です。人間に危害を加えることはございません。」

中年の看護師は疑い深い目でマクベスを見ていたが、やがて太った体でこれほど素早く動けるのかと思うほどの素早く、マクベスの顔を突き刺した。手には銀の十字架が握られていた。マクベスはさっと体を斜めにしてかわしたが、頬に筋がついて、銀色の血がたらりと垂れた。

これを笑顔でいなせば人は信用し始める、という事はマクベスにも分かっていたのだが、プライドが高かったので、地位の低い、しかも女から傷を負ったことに我慢できず、せいぜい怒りを見せずに何もしない程度の事しかできなかった。彼は横を向いて、何度も荒々しく深呼吸をした。

看護師はマクベスの怒りを感じ取った。

「皆お逃げ!」

看護師は叫んだ。しかし本人は逃げ切れず、宙に吊り上げられた。頭が軽く天井にぶつかった。マクベスは石壁に魔力を通し、近くの通路を全て封鎖した。

(魔法使いって嫌われてるんだなあ。)

マークはのんびりと考えてはっとした。

正体をなくして倒れている銀ぎつねを振り返ると、ゆっくりと忍び寄る人影があった。

「そのおばあさんに近寄るな!」マークは叫んで、ベルトから拳銃を抜いて見よう見まねで構えた。「近寄るな!」

これで動かないでくれるといいなあ、と、マークは心からそう願った。この拳銃は弾が入っていない。撃ち方が分からないし、勝手に弾が出たら怖いので全部抜いてリュックにしまってあった。人影は信じてくれた。

マークが駆け寄る前に、人影はリュックをつかんで逃げ出した。マークはほっとした。

おそらく銀ぎつねを襲いに来た人もほっとしていたのだろうが、すぐに彼も宙に吊り上げられた。

マークは不安に駆られつつリュックを取り返した。この人はどうなるのだろうか?

マクベスの普段の行動から考えると、天井と床を何往復もして頭をぶつけられたりしないだろうか?マークは甘かった。

「そいつの目をえぐれ!マーク。片目でいい。」

片目が残るなら生活はできるからいいとか、そういう問題ではなかった。

「あああ・・・。」

マークはどう切り抜けようかと考えて時間を稼いだ。そんな用事をさせるつもりなら、近衛兵を連れてこればよかったのだ。

「早くやれ!報復は早いほど値打ちがある。…目が嫌なら耳をそぎ落としても構わんぞ。」

「ロングさん!早く出てきて!」マークは心底嫌になっておなかからわめいた。「マクベス様に謝って!この人強いから逃げてもどうせ捕まる!今出てきて!」

「私は本当のリーダーではないんだ!何の決定権もない!」

おそらく逃げようとして道がふさがっていたのだろう。通路の奥から、カマキリ男の声がした。

「でも今出ていくから、その人たちに何もしないでくれ。それに病人も診るから。」

「診る必要はない。早く出て来い。」

マクベスは二人の捕虜を壁際に移動させると、壁は二人の捕虜を飲み込んで顔だけを残して埋め込んだ。看護師の顔と銀ぎつねを殺そうとしていた痩せた男の顔は、骨壺の棚の並ぶ地下墓地に、恐怖にゆがんだ表情で、2枚のお面のように壁にかかっていた。のどがつまったのか、二人とも何も言わない。

「大丈夫だ。助けるから。安心しろ。」

カマキリのような顔の男がやってきて、捕虜にと励ましの言葉をかけたが、言っている本人には何の根拠もなかった。

「こいつがリーダーか?」

「うん。」

マークはカマキリのような顔を見てうなずいた。そして、少しでも安全なようにと、銀ぎつねの体を引きずってマクベスのそばに連れてきた。

「ウォン市奴隷解放戦線市民地下組織組織副長のロングといいます。医者です。その人をまずは…。」

ロングは言いかけて、緑色の銀ぎつねを見て言うのをやめた。ここまで緑色だと、人間と同じ内臓をしているとはとても思えない。ちょっと治せる自信がない。脈をとって口の中を開けさせただけで容態が悪化するかもしれない。堂々たる診断で信頼を得ようと思ったのだが。

「さあ話し合いだ。」

マクベスはどこからともなく、シンシティから持ってきたペルシャじゅうたんを出してほこりだらけの床に敷き詰め、あぐらをかいた。カマキリ男もじゅうたんに足を踏み入れようとして、止められた。

「まずは土下座して謝れ。それから償いの金額を決める。わしの顔にした分と、弟子を襲った分だ。わしらの話はここにいる全員に聞かせてやりたいから、全員呼び集めろ。…怖がることはない。」カマキリ男も、壁に埋め込まれた捕虜の二人も、マークも、恐怖と不信の目でマクベスを見た。

「わしはここの魔法使いどもとは違う。理屈なしに襲ったりはしない。…リーダーじゃない?関係ない。こいつらはお前の手下だろう?…仲間?一緒だ。お前の指示の下に動いたんだ。お前が責任をとってお前が払え。わしの顔が200万、弟子の分が100万。今日から3か月以内にシンシティまで持って来い。それとも取りに来てほしいのか?足代を上乗せするぞ。」

その間マークは壁に埋め込まれた男と看護師に向かってなんとか言いつくろおうとしていた。

「あの、これ弾は入ってないからね。撃つ気はなかったんだ。撃ち方も知らないし。…銀ぎつねさんを襲うのは大間違いだよ。この人いい魔法使いなんだ。」マークは銃の中を開いて見せた。「僕は本当に両親を探しに来ただけなんだけど、知らない?ミュゼの掃除組合の…そう。…あなたも?ありがとう。」

一方カマキリ顔のロングはならず者の魔法使いにとっ捕まってしまったことをひしひしと感じていた。しかしそれならそれで対応の仕方もあるというものだ。

「お金だな。分かった。限りはあるがかき集めてできる限りは用意する。だからここから退散してくれ。いくらなら出て行ってくれる?」

「出ていくときはお前達と一緒だ。早く全員を呼び集めろ。街の外に出してやる。…これについては見返りは要らない。シンシティの国王陛下のご命令だからな。恩ならシンシティに返してくれ。一か月たつ前にここを支配している黒魔術師どもからお前たちを解放してやる。街を取り戻したら、また金を稼げるだろう。」

「ここは私たちの街だ。ここから動かない。」

「いや、いますぐ避難だ。」

マクベスは鋭い目つきで刺すようにロングを見た。この威圧感があるので、子供の姿だからといって軽く見ようとはだれも思わないのである。

「それより城にいる奴隷達を解放してほしい。」

「それもやる。しかしまずはここにいる全員を避難させる。」

マクベスは少しずつ近くに寄って話に耳を傾けている人々にも、遠くで聞き耳を立てている人々にも聞こえるように張りのある声でしゃべった。

「わしらはたった今城の中のボスクラスを一人倒してきた。弟子はその時にやられてこの有様になった。しかし一人は殺した。馬鹿でなければ周辺の黒魔術師どもを呼び戻してここに集結させる。わしらを探すためにな。それに身を守るために。その時までここにいたら人間の命はない。他にも人間がいるのなら、そいつらもできる限り避難させる。」

マークは教会と地下組織のことを教えてくれたひげ面の男のことを思いだした。

「いる!僕らが最初に入ったビルの中にもいたよ。人間が隠れてた。」

マクベスは眉をしかめた。ばらばらに隠れていたら避難させにくい。

「そいつらは後回しだ。たぶん回収できない。急ぐんだ。わしらが連れて行けるのは、一度だけ。2度目の便は出せない。だからできるだけ大勢の人間を呼び集めるんだ。出てこないやつはおそらく死ぬ。」

「どこに連れて行ってくれるんだ?」

聴衆から質問の声が上がった。

「言えない。候補はいくつかあるが、スパイがいたら危ないからな。」

「ここにいる仲間たちは信頼できる。話してくれ。」

ロングは言ったが、マクベスに無視された。

「お前たちは街の外に脱出する独自のルートを持っていないのか?あるなら、それにガードをかける。魔法使いは通れないようにしてやる。」

「そんなことができるのか?」別の声が上がった。

「できる。」

ロングは気を取り直して言ってみた。

「正直あなたがスパイでないという保証はどこにもない。こんな短時間で」ロングは顔を壁に埋め込まれた二人の仲間の方へかすかに向けた。「しかもあなたのふるまいからして、信用しろという方が間違っているのではないか? ご忠告はどうもありがとう。短い期間で済むのなら、こちらで嵐が過ぎるまで隠れる手立てを考えてみるので、どうぞお引き取り頂きたい。」

しかしロングは再び無視された。マクベスは聴衆の方を向いて言った。

「何かほかに聞きたいことはあるか?家族友人がいるならすぐにつれて来い。30分で出発するぞ。しかし集まるのはここじゃないぞ。ここは魔法使いが一人でも来たら全員閉じ込められる。もっと石造りでない集合場所はないのか?」

聴衆は隣の人と相談し合い、ざわめいた。交渉は完全にロングの頭の上を通り越して行われていた。さきほど300万払う約束をさせられたばかりだというのに。しかしロングは、自分の頭の良さには自信があった。乗せられないのが正しい選択だという理性の声を、他の人々は聞き取れないのだ。

「我々は自分の意思で残っているんだ!奴隷にされた人たちを助けるために闘っている!」

「お前さっきリーダーじゃないと言ったばかりだろう?本当のリーダーはどこだ?そいつに全権を任されているのか?」

マクベスは銀色に輝きを放つ体をロングの方に傾けた。

「お前わしが黒魔術師と違う事も見分けがつかんのだろう。知識がなくても、ここに至るまでわしが誰にもけがをさせていないことくらい見抜けないで何がリーダーだ?それでいったい何人助けられたんだ?」

答え0人。しかしもちろんロングはそのことを認めるような発言をする愚か者ではなかった。

「我々は一人も損なわずに生き残ってきた。奴隷にもならず、捕まりもせず!仲間は確実に増えている。それが成果だ。そのために努力してきた。」

「一人も損なわず?」マクベスの目は驚きで円くなった。「信じられん。お前本当は黒魔の手先なんじゃないだろうな?…とにかくリーダーを呼べ。マーク、30分計ってくれ。30分経ったら信じるやつだけ助ける。…誰か早く移動場所の候補を上げてくれ。今集合場所を言わなかったら間に合わんだろう?ウォンシティから出る道もすべて説明してくれ。」

マークが時計を探して見つけられないでいると、銀ぎつねがポケットから古い腕時計を出して床に寝そべったまま差し出した。その時計はベルトが切れて腕にはめられない代物だったが、時間は正確に刻んでいた。

「上の教会はコンクリート造りだが使えるかな?」

お腹の出っ張った、はげたコック服の男が進み出た。

「コンクリか?使える。ほとんどガラスだ。」

「そこに移動しましょう。奥の控室なら30分くらい誰も入ってきません。ああ、私はジーガンです。私がウォン市奴隷解放戦線市民地下組織組織長です。」

ロングは正直組織長が名乗り出てくれてほっとした。ついでに300万の借金も彼が支払うべきではないかと思ったが、ジーガンもマクベスもその事を言い出さなかった。



一方そのころ、シンシティの上空では、黒魔術師の烏軍団が集結を始めていた。

人々はそれを窓ガラスの端から不安に眺めて、もしかしたらこのまま襲撃はないのではないかと淡い期待を抱いていたが、黒い雲のような大ガラスの群れは着実に膨らんで、ある程度まで大きくなれば襲ってくることは疑いようがなかった。

ワトスン近衛兵兵長も、城壁の物見台から、双眼鏡でその群れを眺めて冷や汗をかいていた。双眼鏡で眺めたところで、大ガラスに魔法使いらしき黒服の人間が乗っているという事くらいしか分からない。武器がなにかも分からない。分かるのは彼らが軽装で、食べ物や水らしき補給物資を持っているように見えないという事で、それは、略奪の予定できているという事を示唆していた。見ると不安が募るばかりだった。

「ワトスン兵長、いったい何をしたらよいのですか?」

さっきから焦った市民兵たちから30秒に1度くらいこの質問をされているが、何とも答えようがない。

一番いいのは降伏することだ。魔法使い相手に人間が敵うとも思えない。

「落ち着け。状況を見極めるまで何とも動きようがない。誰も外に出ないように街に知らせは送っているだろうな。いざという時の避難経路も。」

「大丈夫です。」

「なら向こうの出方を待て。火矢だけはたくさん作っているだろうな。食べ物も水もトイレも今済ませておけ。いつまで動けなくなるかわからんぞ。それから合図を出すまで絶対に撃つな。いいか、攻撃されても絶対に撃ってはいけないぞ。和平交渉をする可能性があるのだから。合図を待て。弓を使えるものはちゃんと持ち場についているだろうな?」

「しかしほとんどが女性です。学生もいます。」

「仕方ない。盾係、矢渡し係、サポートには男性を付けている。とにかく彼女たちによく伝えておくように。合図があるまで撃つな。」

これが第二の不安要素だった。城壁に出ているのは市民兵ばかりで、命令のたびに理由をいちいち説明しなければならない。訓練を受けている近衛兵は地下城に残って最後の砦を固めている。銀製の武器もほとんどがそこに貯えてある。おまけに素人の市民兵たちは浮足立って勝手な行動をとりそうな感じだ。

ワトスン兵長は心の中で銀ぎつねを呪った。

シンシティの魔法使いが外に出たという事が知られたから、途端に攻め込まれているのだ。とどめるべきだと発言の機会さえ与えられていればきつく言ったのに、大臣たちで勝手に許可を出してしまった。

シンシティは平和な国なのだ。

ここの軍隊は都市国家連合の中でも最弱で最小規模といっても過言ではない。諜報活動らしきものもやっていないし、他国の動向すらしっかり分かってはいない。ただの王様の飾り物というのがぴったりだ。

だから魔法使い達がどう攻めてくるのかほとんど情報がなくて分からない。しかし、他の都市国家の、より強く、より規模の大きな軍隊が攻め込まれて負けているのだから、シンシティも戦うだけ無駄だという事ははっきり分かる。

どうしたらよいのか、ワトスンの方が知りたい。王様はカタツムリみたいに地下城にこもって出てくる気配がない。こういう時に頼みになるはずだった他国からの避難民は全員壁の中で助けを借りることができない。

武器もない。人もない。士気もない。情報もない。君主も不在。

これで勝てるという人間はいかさま師だ。

(俺はここで死ぬんだろうか?)

ワトスンは周りの市民兵たちを見回した。

(こいつらもここで死ぬんだろうか?)

全員死ぬくらいなら最初から奴隷になるほうがましだと思われた。

しかし城にいくら旗信号を送り、モールス信号を送っても返事がない。許可がなければ勝手に和平交渉はできない。地下城に閉じこもって、城壁の方は全く見ていないという事があり得るだろうか?おおいにあり得る。

突然頭の中で声が響いた。周りの市民兵たちにも聞こえたらしく、全員がざわついた。

―シンシティの諸君、よく聞け。

我々はウォンシティの陛下のご命令により、新連合に加わるように勧告に来たものだ。再三の勧告にもかかわらず、シンシティの君主は我々の理念に賛同することを拒否した。

これをもって最後通牒とする。

我々の要求はシンシティの魔術師の身柄と王家の全員の身柄を差し出すことだ。

日が落ちる前に城壁の上に、シンシティの王家8人と、魔術師が、生きたまま並べ。一人でも欠ければ町を破壊し、国民全員を奴隷とする。

(銀ぎつねはいない。…いたらこの手で縛り上げて差し出してやるところだが。王家の8人は揃えられない。一人は壁の中に塗りこまれて出せない。)

あの陛下が自分の身柄を差し出すとも思えないし、差し出したところでそろわない。小鹿姫は壁の中に塗りこまれていて、容易に出せないのだ。条件をそろえられたところで、きっと攻撃してくるだろう。

(つまり日没までの命という事だ。…ああ、娘の顔をもっとよく見ておくんだった。)

ワトスンの脳裏に幼い一人娘の顔が浮かんだ。周りに人がいなくなったら写真を見よう。

「全員待機。日没までと言ったって、もっと早く攻撃してくるかもしれん。気を緩めるんじゃない。」

「すみません。家族の顔を見に帰りたいんですが。」

「だめだ。いつ攻撃してくるかわからない。待機だ。…今のうちに弓矢隊の訓練だ。フランクリン。」

ここにいる近衛兵は兵長とフランクリンだけだった。

フランクリンは敬礼した。

「弓矢隊の指揮を見てくれ。使い物になるようにな。特に移動のスピードを上げてくれ。弓隊は人数が少ないから固まって動け。敵の移動に合わせて移動させるんだ。それで対応するしかない。」

「分かりました。」

「よし、全員お茶の時間にする。補給係、全員にお茶だ。砂糖も配れ。…だが誰も持ち場を動いてはいけない。日没と言っておいてもっと前に攻めてくるかもしれん。お茶が済んだら俺が王宮に行ってみる。攻撃命令はフランクリンに従ってくれ。…フランクリン、ぎりぎりまで攻撃するなよ。できたら俺が帰ってくるのを待て。いつになるかわからないが。あの陛下だから。」

「分かりました。」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る