Ⅳ 闘いのはじまり
は、いつ何時敵がが攻めてくるのか分からない。それに対してなすすべもなく、ただじっとしているというのは、まともな神経の持ち主には、ひどく応える苦行である。
しかし、シンシティの王は、その苦行を難なくこなしていた。何の手立てもなかったが、かといって気にするわけでもなかった。
「気にしたら、解決するのかね?」
彼はいつもそう言っていた。無為無策は無能な王のすることであるが、地の利と魔法使いのおかげで、シンシティは唯一持ちこたえていた。そして、王様の言うとおり、対策の立てようがないときに、焦っても仕様がなかった。もしかしたら、滅びる際には、もってこいの君主かもしれなかった。
いつも寝室で浮かんでいる銀ぎつねの折り紙が、くるくる回転して宮廷魔法使いのマクベスが至急お会いしたいというメッセージを伝えた。
『公式でも、非公式でも構いません。』
王はうなずくと、ひげを剃り直し、服を着替えて、気に入らなかったのでもう一度着替えて、靴ひもの色が気に入らず、小姓を呼んで取り替えさせたが、結局違う靴を履くことにした。
服装は何よりも大事である。威厳とは服装から生まれるもので、だから王様の仕事とは、服を着ることが半分くらいではないかと、王は思っていた。
なので、至急と言われようと、この点で手を抜くわけにはいかなかった。
―本当に至急なら、メッセージだけ寄越せばよいのだ。会いたいというのが悪い。
王は鏡を覗き込んで冠の位置を慎重に直した。冠を載せる頭は先ほど美容師を呼んできれいに整えさせたところである。
すでに小1時間は経過していた。そしていつ終わるかは王様にも分からなかった。
『まだなのか?』
わんぱく坊主の姿をしたマクベスと銀ぎつねは並んで大広間に立っていた。
『まだなのか?』
マクベスはいらいらして銀ぎつねにテレパスを送信するが、銀ぎつねはテレパスを知らないので返信のしようがない。
『まだか!』
(私は王様にはいつまで待たされるか分からないと言ったはず。)
銀ぎつねはイライラをぶつけられるたびに自分に確認して、自分は何も悪くないことを確かめなければならなかった。
大広間の外ではマークが入ろうとして衛兵に止められていた。彼は大変素直な少年だったので、モップとバケツを担いで仕事に戻ることにしたが、「モップなどを持って高貴なお方の目に着くところをうろうろしてはいけない」ときつくお叱りを受けた。彼はここでも掃除夫として、働かせてもらえることになったのである。
マークも掃除夫が人目についてはいけないことくらい分かっていた。ただ、偉い人のうろつく部屋の近くだという事を、まだ知らなかっただけだ。
(この赤い制服を着た兄さんが立ってるところが、近づいてはいけない場所だな。じゃあいつ掃除すればいいんだ?早朝だろうか?夜中だろうか?誰に聞けばいいんだろう?)
そのために退屈していた魔法使いの目に入った。
器用な魔法使いは体の抜け殻を広間に立たせたまま、上半身だけの幽霊のような姿で掃除夫の少年に抱きついた。
「マーク!会いに行こうと思ってたんだ。探す手間が省けた。」
「僕もです。魔法使い様。」
近衛兵ににらまれているので、マークはとりあえずモップとバケツを柱の陰に隠して、近衛兵の表情を伺った。そして近衛兵が魔法使いに遠慮しているようなので、ここで話してもよさそうだと判断した。
「新しい服か?よかったな。」
「はい。女官頭の方が…。ああ、悪い魔法使いから助けていただいて本当にありがとうございました。」
魔法使いはお礼など耳にも入っていない様子で、銀ぎつねが上の階で探し出して女官頭に渡し、女官頭が宮廷差配に渡して、宮廷差配がマークにくれた、元は給仕少年の古服を後ろも前も点検して、旅行には耐えない、彼の美的センスにも耐えないと判断した。
「ひどい服だ。新しいのをやる。」
「え?」
「ところでお前。一緒にウォンシティに悪い魔法使いを退治しに行かないか?これから行くんだ。銀ぎつねと一緒に。」
マクベスはとびっきりの笑顔を浮かべて言った。
白髪の銀ぎつねが青くなって割って入った。彼女は上半身だけ伸びたり、体の抜け殻だけ立たせたりそんな器用なことはできなかったので、冷や汗を浮かべながら走ってきた。
「それを今言うんですか!ここで!」
「そうだ。どうせ王様の前でもいうんだから同じだ。」
「でもこの子は連れて行きません。」
「いや、この子を連れて行く。」
「ちゃんとした大人の兵士を連れて行きましょう。必要なのでしたらですが。」
「この子が必要だからこの子を連れて行く。何度も言わせるな。なぜわしがお前に言い訳せねばならん。わきまえろ。」
マクベスは力強い目で銀ぎつねをにらんだ。銀ぎつねはひるんで一歩下がったが、2秒考えて膝まづいた。
「マスター。この国には志願者は大勢おります。近衛兵は日夜その目的のために訓練しております。門の所の避難民も、声をかければ行きたくないという者は一人もいないと思います。どうぞ存分にお選び下さり…」
「この子を、連れて行く。」
「子供を連れて行くんですか! 死ぬかもしれないのに! 反対です!」
銀ぎつねは理屈もへったくれもなしに言いつのった。
「貴様それが師匠に対する態度か?」
「まだ師匠ではありません。」
「しかしやがてそうなる。その時に受ける報いを考えた上で刃向っておるのだろうな?」
銀ぎつねはすっと立ち上がってマークをかばうように立った。
「それでも反対いたします。人の命を守るのは魔法使いの義務だと存じます。」
マクベスは鼻を天井に向けてやはり2秒ほど考えた。
「お前避難民から自由に選べと言ったな。その時わしが子供を選んだらどうする。」
「反対いたします。子供を連れて行くのはかわいそうです。哀れです。少ししか生きておりませんのに。」
「ふむ。」
マクベスはよい魔法使いとも思えない悪魔的な笑いを浮かべた。
「じゃあ本人の意思を聞いてみよう。マークはどうしたい?」
銀ぎつねは歯をキリキリ食いしばりながらマークがマクベスと話し合えるように体の向きを変えた。
マークは何も答えずにマクベスの顔を見ていた。
「マーク、お前身内はミュゼにいるのか?」
「連れてかれたと思う。」
「どこに?」
「知らない。」
「助けに行こうぜ。悪い奴らをやっつけに行くんだ。一緒に行ってくれるか?」
「断りなさい。」
銀ぎつねが囁き声で割って入った。
「お前のような奴が必要なんだ。正義感の強い奴はだめだ。すぐに黒魔に取り込まれてしまうからな。
お前はあの老人の下にいて、一度も奴を恨まなかったな。そういう黒い感情を持たないやつが、必要だ。」
マークは考えるのをやめて、ふたたびマクベスの顔を見た。
マクベスは真剣な表情だった。嘘やおためごかしを言っているようには見えなかった。
「僕で役に立つかなあ?」
「立ちません!」
銀ぎつねが言った。
「立つ。お前は黙っていろ。立つから連れて行くんだ。」
マクベスが言った。
「でも何にもできないよ。戦争のことなんて。本当に何も知らないよ。」
「人間が必要になる時が来るんだ。その時に役に立つ。戦争のことは、わしたち二人がやる。」
おかみさんと親方に会えるかもしれない。マークは迷わなかった。
「掃除や料理や洗濯ならできるし…。行く。」
王は支度が整ったので、堂々と見えるように一歩ずつ踏みしめて歩いた。後ろから裾もち、履物もち、衛兵、秘書官がつき従った。
「どうなっておるか?」
謁見室の手前で、王は見張りの衛兵に尋ねた。謁見室にはのぞき窓が備わっており、王に待たされた人間がどんな態度をとるのかを見張ることができた。退屈したり、あくびしたり、直立不動を崩したものは誰でも、冷遇することに、王はしていた。そしてそれを、いい考えだとさえ思っていた。
「それが…」
王は見張りを押しのけて、自分でのぞいてみた。そして、200年以上も使われ続けてきた謁見の間に威厳を添える高価なペルシャじゅうたんが、ところどころ炎を上げているのを見た。謁見の間では銀ぎつねが逃げまどい、先ほど宮廷魔法使いに任じたマクベスが、火の玉を放って怒鳴りつけている。そのたびにじゅうたんやカーテンが燃え上がる。普段は侍女や高官が何人か居並んで王の威光を示すはずなのだが、巻き添えを食うのを避けて一人も残っていなかった。
王は玉座まで走った。
マクベスはすぐに膝まずいて臣下の礼を示した。
銀ぎつねはぜいぜい息を切らしながら、攻撃されないかを確かめ確かめ一歩ずつマクベスに近づいて、存在を悟られないようにそっと背後に膝まずいた。
逃げていた臣下たちもまた慎重に様子をうかがいながら入ってきて、じゅうたんやカーテンに着いた火をもみ消したが、当然のことながら空いた穴はふさがらなかった。
「それではまず、なぜ余の謁見室に被害を与えたのか伺おう。マクベス殿。」
「王様、臣下マクベス、重大な事柄をお知らせせねばならず、参上いたしました。このような出来事をお知らせするのは誠に遺憾ですなのですが…。」
「その前に! 宮廷魔法使いに命じる。速やかにこのじゅうたんの被害を元に戻すように。これは200年の歴史を誇るじゅうたんである。当然魔法使い殿にはすぐに直せるのであろうな?」
王様は、元に戻せなかったら解任してやるという意思を込めて魔法使いをにらみつけた。
「王様。シンシティ以外のすべての国家都市がウォンにのみこまれました。敵の力は強大で、黒魔術師も数多く…。」
「オホン。じゅうたんの被害も重要だ。直せるのであろうな?」
マクベスは頭を回転させたが、何の考えも浮かんでこなかった。以前なら愚か者の君主を丸め込む言い訳など、4つも5つも造作もなく考えついたのに、200年も本棚でじっとしていたせいか、本質にかかわらない細かい技術が抜けてしまったらしかった。
「…」
「陛下。私のはった防御壁も…」
銀ぎつねが師の危機に助け舟を出した。
「だまれ!家庭教師の分際で…」
言いさして王様はその家庭教師の分際がはった防御壁のおかげで、国の安全が保たれていることを思いだした。と同時に、火の玉を投げつけてじゅうたんを燃やせる人間を解任するのは時期が悪いという事も思い出した。
「続けるように。」
王様の目配せを受けて家令がマクベスに促した。
「時間がありませんので、結論から申し上げます。陛下。
まず私はこの国を完全に閉じ、二重三重に防御します。人の出入りは、魔法使いかそうでないかを問わず、一切なくします。
安全策を講じたうえで、私共はウォンシティへまいります。敵の闇の魔法使いを退治するまで、戻らぬ覚悟でおります。」
「ふむ。…それは必要かな?」
「必要です。陛下。」
「わしは必要だと思わぬ。お前たちは王家の周りにいて、国の中枢を守るように。」
「先ほど『天井の地図』を見てまいりましたが、敵の軍勢は多数です。この魔女程度の防壁で守られてきたのは、」
マクベスは銀ぎつねを指した。
「攻めてこられなかったためで、あれだけの軍勢で囲まれたら、終わりです。そしてこの一帯で陥落していないのはここだけです。もう時間の問題です。ここは攻撃よりほかに手はありません。」
「ふむ。ではもう少し北の方へ逃げることも考えねばならんな。ずっと考えていたのだ…遷都を。」
高官たちに動揺が走った。
マクベスは面倒になってきた。彼はあごで銀ぎつねに前に出るように促した。銀ぎつねは進み出て言葉を引き継いだ。
「陛下。ここが最も安全です。この岩山は天然の要害。鉄鉱石を多く含み、魔力も通しません。この地下城を魔法で封じれば、敵は掘り返すのに苦労することでしょう。私が二重三重に魔法をかけて封じます。」
「誰も出られなかったら困るではないか。蓄えが尽きたらどうするのだ。」
「その事なのですが…。ここシンシティは昔より山の珍しい薬草や細工物で栄えて、田畑は少ない山の街。もともとの食べ物の生産が少ないために人が増えると食べ物がすぐに足りなくなるのです。今外部との接触を断てば、さらに困窮するでしょう。人の数を減らします。師の知られざる術をもってすれば、人は齢を取ることなく眠り続けることができます。これを王家の方々にかけます。貴族の方たちも、それに仕える方たちにも、難民の方たちにも。ここを眠りの街にします。魔法が解けるまで、食べ物に困ることはございません。私たちが成功すれば戻ってきて魔法を解きます。失敗して殺されれば自動的に解けるでしょう。その時は無抵抗で開城なさるも、戦われるもご自由です…。」
5時間後、2人は望んでいたことを許可された。
マクベスは眉毛がつながるほどしかめて、ぶつぶつ言いながら早足で歩いた。
「疲れた!…魔力も少ない!…しかしまずは食事からだ!調理場はどっちだ。どこへ行けば食べ物が出る?」
疲労困憊した銀ぎつねはかすれた声で返事をして、先に立ってドアを開けたが、ちゃんと食事が出てくる自信は全くなかった。そうと分かればこの師匠は怒り狂って自分はさらに疲れることだろう。
台所は誰もいなかった。いや、よく見ると大きなエプロンをつけた少年が芋の皮をむいていた。
「おお!マーク! 料理人は?」
「おばさんは食材を取りに行ったよ。」
「飲むもの食うものは?」
「勝手にとったら怒られるんじゃないかなあ。」
銀ぎつねはマークが何回も往復していっぱいにした水桶から、3人分の水をとってやかんを火にかけた。それから力尽きてテーブルにつっぷした。
その間マクベスはさりげなく暖炉のそばに寄り、昔そこに放しておいた火の精を回収した。王宮の料理人たちは感心なことに200年間一人残らず火を絶やさずに護り続けていたようだ。
マークは正しかった。
王様、閣僚たちのお夜食用の小麦粉を取ってきた料理人は銀ぎつねに文句を言いかけたが、マクベスを見て引き下がった。星をちりばめた青い服を着た子供の魔法使いが、火の龍を飛ばして前任の魔法使いを殺そうとし、銀ぎつねが生意気だからと大広間を火の海にしたことは、台所にも伝わっていた。
「忙しいからちょっと待っとくれ。火も使うんだから!」
料理人は銀ぎつねのかけたやかんを火からおろして、忙しくクレープを焼き始め、テーブルにつっぷした魔法使いを押しのけて銀のお盆を並べた。
「手伝わない!これは難しいから、指紋をつけないどくれ。」
腰を浮かせかけたマークを、料理人は注意した。びっこの給仕係が慌てて入ってきた。マクベスは目を細めてびっこの少年を眺めた。
(あの少年は黒魔と取引するときの取引材料に使える。どちらにしろあの足では兵士になれない。持ちかけたらやると言うかもしれん。)
「陛下が遅いって怒ってらっしゃるよ。」
2人は忙しく作法に従ってお皿やカトラリーを美しく並べた。
「マークもこっちいらっしゃい。邪魔になるといけないわ。」
銀ぎつねは椅子を火の近くに持っていき、手近な計量カップにぬるま湯を注いで、マクベスとマークに渡し、自分は小さなボウルに入れてがぶ飲みした。5時間ずっと揚げ足を取り、悪口しか言わない高官相手に気を抜くことなくしゃべり続けだったので、ぬるま湯でも十分に甘露である。魔法使いには夜食がないことに腹を立てたマクベスは蛇のような眼をして、クレープの上に、慎重に少しずつ、芸術的に、ジャムをのせて、ついでにスプーンとふたに着いた分をすくって舐めている料理人を見た。
料理人は並べ終わって首をかしげた。お運び二人に、皿7枚とティーポット、紅茶カップ7客である。もう一つ手があれば十分に運べる。
「マーク、ちょっと角までそのお盆運んで。」
「マークは行かない。」
マクベスは立ち上がりかけたマークを押し戻した。
「重要な任務がある。」
「じゃあ、銀ぎつねさん。」
マクベスは立ち上がりかけた銀ぎつねの頭を杖で叩いた。
「こいつも行かない。こっちも重要だ。」
料理人はあきらめてワゴンを取ってきた。料理人の背中が消えると、マークは銀ぎつねの頭を杖でぽこぽこ叩いた。
「お前よくそれで敵地に乗り込みたいと抜かしたな。今からでも取り消せ!取り消せ!」
銀ぎつねは神妙な顔で叩かれていたが、マクベスの気がそれると素早く立ち上がってお湯を沸かし直した。
「マーク、しょうがクッキーがある。食器棚の一番上の棚の大皿の陰。」マクベスは教えた。「のど飴が左から2番目の布巾の引出しの中。他にも食糧庫にあるが、ここにはそのくらいだ。…どうした。早くとってこい。料理人が隠してるんだ。」
「見つかったら怒られるよ。」
「心配ない。明日発つから。気が付くころには旅の空だ。」
「え?もう行くの?」
料理人は居場所のないマークに、一生懸命下働きとして働けば、給仕に昇格させてやると約束してくれた。給仕になれば、きれいな制服がもらえるし、使用人の食事の席ももらえる。魔法使いの下で働いていたときには、野菜くずを取っておいてくれた。ここの料理人は、遠くの街から来た避難民の少年に対してできる親切を全部やってくれているのだ。いい人である。マークは感謝していた。
(もっと後のことだと思ったんだけどな。まさか今日で出発とは思わなかった。)
マクベスに、「ついて行くのをやめる」と言うという手もあった。でも親方とおかみさんのことを思うと、行くしかない。戻ってきたときには給仕係の職は空いていないだろう。他の避難民の少年が皮むきをしているだろう。戻ってきたら、門の前に座って物乞いをすることになるかもしれない。それでも行くのか?
マークは自分の心に尋ねてみたが、気持ちは少しも揺るがなかった。おかみさんと親方を探したい!と、心は叫んでいた。ならばこのチャンスを逃せない。もう一つの方のチャンスを捨てよう。
マークはエプロンで手を拭くと、椅子を踏み台にしてしょうがクッキーから確保した。
缶ごと魔法使いに渡すと、マクベスは平等にクッキーを配った。ヒト型をしている。ボタンの代わりに、アーモンドが載せてある。最後の一枚は3つに割り、アーモンドの乗っている部分をマークに回した。銀ぎつねは黒マントのポケットから平たい缶を出して、紅茶の葉を一つまみ、お湯に浮かべた。しばらく待つと、うっすらと茶色くなったかなというくらいにはなった。
「これがお茶か!これはお湯だ!」飲むなりマクベスは怒鳴った。「せめてミルクはないのか!」
銀ぎつねは宙をじっと見つめた。
「料理人が陛下の寝室前からワゴンを押して戻ってきます。」
「即刻移動。マーク、たぶん明日の朝迎えにくるから支度をしておけ。旅に必要なものは分かってるな。荷物はどこに置いている?」
「全部魔法使いの塔に置いてる。」
「とってきておけよ。あそこは閉鎖だ。攻めてこられたら真っ先に狙われるだろう。」
「待った!しょうがクッキー盗んだのに!僕が疑われるよ!」
「魔法使いを甘く見るなと言っておけ。」
「マクベスと銀ぎつねが持って行ったと言いなさい。缶はどこです?やることがいくつかあるから、それが終わったら出発です。」
銀ぎつねは証拠隠滅のため、缶をポケットに入れながらマクベスの後を追いかけた。
後でばれるよりはと思ってマークは魔法使いがクッキーを持って行ったことを話した。料理人は震えるほど怒ったが、強い者には巻かれろの精神が勝った。そして、明日死地に赴くマークには何のお咎めもなかった。それどころか料理人は、干からびた食べ残しのパンをくれて、手を握って無事を祈った後、後片付けを免じて旅に出る支度ができるようにしてくれた。最後の最後に布巾入れの底からのど飴を掘り出してマークのポケットに入れてくれた。
マークはなんだか、おかみさんに送り出された時を思い出した。
また辛い旅が始まるのだという事が、初めて胸に迫ってきた。
荷物と言っても、ミュゼから着てきた汚れきった、でも頑丈で雨風をしのぐのに頼りになるコートと、昨夜急いで洗濯したので、まだ生乾きのぼろの下着を、同じくミュゼからの友であるぼろぼろの黒ずんだずた袋に入れたら、それで全部だった。
大事な鑑札と風邪薬は、いつもポケットに入れているので、忘れようがない。
それに長距離を歩くときには、何より軽さが肝心であることを、マークはすでに分かっていたので、これで良いとマークは自分で自分に言った。後は靴ひもをいつもよりしっかり締めて結び直せばいいだろう。
翌朝と言っても時間も場所も聞いていなかったので、マークは暗いうちに起きて、前の日にもらっていたパンをかじりながら台所で待っていたが、魔法使いたちは現れなかった。
そのうちに料理人が出勤したので、マークはすでに旅路についているふわふわした気分のまま、水汲みや配膳を手伝った。びっこの給仕はなぜか姿を見せなかった。戦地に赴くことを言ってお別れが言いたかったのだが。
「聞いたかい? 今朝早くから新しい魔法使いと銀ぎつねさんが、避難民に何かしてるらしいよ。昨日から衛兵がたくさん門の方へ行ってる。松明ですっごく明るくなってる。」
それを聞いたマークは急いで中座の許しをもらうと、エプロンを取って荷物を引っつかみ、上に向かった。
途中で会った近衛兵に名前を聞かれたので、答えると、近衛兵は喜んでマークの腕をつかんでぐいぐい引っ張った。
「何? 何?」
「お前を連れて来いと、魔法使い様に言われたんだ。」
「うん。ついて行くからひっぱらないで。どこ行くの?」
「大門の所だ。」
近衛兵は放してくれた。マークはじっと近衛兵の顔をうかがったが、いいとも悪いとも判断がつかない。悪い人だったら走って逃げることにして、少しだけ離れて後ろから歩くことにした。まずいことに、近衛兵は時々後ろを振り返ってマークがちゃんとついてきているのかを確認するので、あまり離れるわけにはいかなかった。それでなくてもコンパスが違うので、息が切れるほど急がないと、「少しだけ」が保てない。
途中違う近衛兵とすれ違ったが、重要な任務らしく、真剣な顔をしている。
近衛兵たちが敬礼を交わしたので、マークも真似した。
マークの連れは、マークの敬礼を喜んだ。そして、少し気安くなった。
「あの人何するところ? 急いでるみたいだけど。」
「魔法使い様の伝令だな。」
「魔法使いたちは…あ、魔法使い「様」たちは、いったい何してるの?」
「避難民たちを全員眠らせて壁の中に封じ込めるんだと。壁の護りを固めるためだそうだ。」近衛兵は尊敬のまなざしで得意げに語った。「それが終わったらすぐに出発するので、魔法使い様はお急ぎだ。ほら、もっと早く歩けないか?背負ってやろうか?」
「…それって殺すってこと? 生き埋め?」
マークも避難民だ。他人事と思えない。なんだかやせほそった自分を生き埋めにされている気がした。
「いや、単に食いぶちを減らすために、なさるんだそうだ。ついでに壁の護りも硬くなるらしい。深い眠りにつくだけで、出てこられるそうだぞ。」
「出てこられなかったら? どうなるの?」
「自分で聞いてみな。俺は知らん。」
近衛兵のまなざしには、魔法使いの決断をたたえる色が浮かんでいる。食いぶちが減って喜んでいるのだろう。その気持ちはよく分かるが、できたらそんなに喜ばないでもらいたい。
マークは駆け足で急いだ。
門の前は黒山の人だかりである。みんな不安そうに、所在なさげに、ただじっと立って何かを待っている。
扉の前に、大きな円が書いてあって、これをよけるように、近衛兵が避難民も、新しく入った避難民も誘導していた。また、どうやら逃げようとしていたらしい避難民をつかんで引きずってくる者もいた。「お慈悲を! お慈悲を! 子供がいるんです! 子供がいるんです!」なるほど小さな子供が後をついて歩いている。
それが人だかりの不安をあおってこっそり抜け出す者もいて、再び連れ戻される。その繰り返しである。しかし大部分の人たちは、円を見つめて何かをじっと待っていた。
「お前はこっちで待て。」
近衛兵は、2週間ほど前に、マークが命からがらくぐった扉の陰に、マークを置いた。あの時は誰でも入れたのに、今は誰も入れない。近衛兵が二重三重にガードを固めているので、門の外には長蛇の列ができて、こちらはいつ入れてもらえるか知れないのに大人しく待っていた。
「動くなよ。あの中に紛れたら見つけにくいし、どんな目に合うかわからんぞ。」
近衛兵は厳しく注意してから、自分も避難民の囲いこえみに加わった。
「いったい何が起こるんですか?」
マークは近くの人に尋ねた。分からない時は聞くのが一番である。
「魔法使い様が…。」
「屋根の上だ!」マクベスの大声が響き渡った。群集は静まり返った。「一体どうやったら屋根の上に上がるんだ。どれだけ方向音痴なんだ!」
人々の視線が一斉に近くの家の屋根の上に向けられた。銀ぎつねは叩かれながら、必死に大きな大八車が屋根から落ちないようにとりついていた。マクベスは屋根の上で不器用に一回転して、シュッという音とともに、門の前の円の中に現れた。そして、手を一振りすると大八車は宙に浮かんでゆっくりと人ごみの頭の上を飛んで円の中に着陸した。
銀ぎつねは屋根の上で滑り落ちそうになりながら、今度は家の持ち主に必死に謝っている。
「クリック、フランクリン。準備の整っている避難民に牛乳と脂身を配ってくれ。限りがあるから、考えて配れ。しかししっかりと詰め込んでくれ。脂身の方を多めにな。牛乳は量が少ない。」マクベスは門の方を振り返って仁王立ちの衛兵に断った。「構わんだろうな。ワトソン近衛兵長。勝手に部下に命じたが、いいだろうな。」
「結構です。どうぞご自由にお使いください。」服従心をこめて近衛兵長が答えた。
「お前の方が心得ているだろう。…おい、眠らないやつには渡すなよ。足りないかもしれないんだからな。さっきも言ったが途中で栄養が足りなくなったら起きられなくなる。…避難民を並ばせてくれ。それから誰かに命じて銀ぎつねを呼んできてくれ。捕まっている。」
近衛兵長が一声かけると、近衛兵が二人、マクベスの前で敬礼してから民家へと走って行った。マクベスはうなずき返した。
「ワトソン近衛兵長、2~3時間もすれば修道院台地から牛乳と脂身の残りが届く。襲われるといけないから、途中まで出迎えに行ってくれ。道は一番大きいのを通ると言ってた。」
来て一日しかたっていないのに、この魔法使いは近衛兵の心を掌握していたし、名前もすべて覚えていた。
「銀ぎつね!」
銀ぎつねは怒る家主に貯金のほとんどを取られて憂いの残る顔であたふたと走ってきて、脂身の固まりを飲み込んだおじいさんのわきに立った。
「同時だぞ。」
「イエス、マスター」
「お前の魔法が始まったらわしが呪文をかぶせる。呪文を間違えるんじゃないぞ。復習してみろ。」
銀ぎつねは小声で呪文を復唱し、マクベスだけに見えるように陣を結んで見せた。
「うむ。強力に魔力を送れ。」
「イエス、マスター」
二人が同時に老人に魔法をかけると、老人はことんと眠りに落ちた。倒れる前に待ち構えていた近衛兵が受け止めて、城壁に開けてあった小さなくぼみに老人を入れた。
「この老人に家族はいるのか?」
「いません。」
「この穴は閉じる。銀ぎつね。」
二人の魔法使いは二人同時に魔法をかけて、穴をふさいだ。見ている群集は静まり返って不安な囁きを漏らした。マークもあんな狭い空気の少なそうなところで眠りにつくより乞食の方がいいような気がした。
「穴がふさがっても生きている。我々が死んでも生きていても、一月後には穴が開いて眠りから覚める。さっきも言った通り、この魔法にかかっていれば十日で一日分しか成長しない。脂身をしっかり食べておけば、一月は十分に持たせられる。…次の者は?」
次に押し出されたのも、やはり老人だった。次もその次も老人で、3人の子供を連れた暗い顔の若い父親を最後に、志願者はいなくなってしまった。
魔法使いも近衛兵も呼ばわったが、誰も進み出ない。
銀ぎつねがマクベスの耳に何事かを囁いた。
マクベスは考えていたが、円の中に入った。
「王宮へ行く。全員この円から出ろ。…お前も出ろ、銀ぎつね。方角をそらされたらかなわん。…ワトソン衛兵長、なるべく早く戻る。眠らない者には何もやるな。」
マクベスはシュッという音を立てて消えた。
群集はざわめきだした。威厳のある方の魔法使いが去って、残るのは、さきほど屋根を壊したという理由で怒鳴られてお金を取られていたおばあさんの魔法使いだけである。穴が狭すぎるとか、眠らせたというのは嘘ではないかとか、人々はひそひそと囁き始めた。
近衛兵は群集を抑えきれなくなってきた。腕の下をすり抜けて、街の中に逃げて行ってしまうのだ。いや、それよりも、中心にある大八車の方が、人々の注意をひきつけた。全員の目が、ぎっしりと詰め込まれた脂身と牛乳缶を一心に見つめる。
「だめだ!眠りにつくものだけだ!」「下がれ下がれ!」「近衛兵長!棒を使ってもいいですか!」近衛兵長は一度暴力を始めたら、暴動が起こりそうなのを見て取った。「だめだ使うな!」
近衛兵長は退却命令を出すタイミングを計った。ぎりぎりまで粘りたい。マクベス魔法使いがその間に帰ってきてくれるかもしれない。
無数の手が大八車に向かって突き出された。数では圧倒的に不利なので、近衛兵達はぐいぐいと押されて大八車に押し付けられた。
銀ぎつねは逃げるのに積極的で、門の下まで大八車を運ぼうとしたが、その行為はますます近衛兵たちの軽蔑を買った。
「家庭教師殿。門の外にも避難民がいるのですぞ!」
銀ぎつねは一人で何とか押そうとしたが、無理だった。浮遊術は覚えていなかったし、人が多すぎて瞬間移動は使えない。近衛兵は誰も手伝わなかった。銀ぎつねはマークを見つけた。
「マーク、お願い、手伝って!門の下まで押して!外には出さないで!」
マークは近衛兵の足の間をすり抜けて、大八車に取りつくと、銀ぎつねと力を合わせて押した。一度回ると、車輪はすんなり動いた。
開いた扉口に押し出されると、外に列を作る避難民の目にも、山積みされた食料は目に入った。外側の人々が内側の人々と同じことを思いつく前に、銀ぎつねはマークの手を引っ張り、自分のそばに引き寄せると、門に術をかけた。
銀ぎつねが手を伸ばし、印を描いて呪文を呟くと、門の両側の石壁はひっぱられて大八車を押し包んだ。もう誰も手を触れることはできない。集団の欲望は怒りに転じた。
「ひどい! 餓え死にしろというのか!」「子供がいるのに!」「もう2日も何も食べていないんだ!」「眠らせてくれなくていいから、食料だけ分けてくれ!」
「これは国王の命令なんです! 命令書もあります!」
銀ぎつねは壁に追いつめられながら抗議した。
近衛兵たちは、膨らんだ壁をよじのぼり、壁の上の見張り台へと避難した。ちびのマークもひっぱりあげられた。
しかし銀ぎつねは一人取り残された。
「いいですか!これはみなさんを助けるためなんです! 門を閉じれば食料は入って来なくなるから…」
「魔法使いの言うことなど信用できない!」
真摯で太い声が、人中から上がった。真剣さがこもっていたので、誰もが静まり返って耳を傾けた。
「俺はシロシティから来た菓子職人だ。セントシティの焼き討ちにあって、家族とは離れ離れになって逃げたが、ノーザシティに拾ってもらえて、落ちつけそうだった。でもそこも攻め込まれて、一度は捕まったんだ。攻めてきたやつらは魔法使いで、魔法で次々と町の人を生け捕りにした。それで、菓子職人はいるかと言われたときに、馬鹿な俺は手を上げてついていった。
それでどうなったと思う?
7人菓子職人がいた。それを魔法使いどもは、三人ずつ縛り上げて袋詰めにして荷車に積み上げたんだ。セントシティまで、荷車だったら1日以上かかるのに!奴らが何と言ったと思う?一人生き残っていたらいいんだとさ! 俺が何で助かったと思う? 7人目だったからだ! ほかの袋を探すか、この場で殺すかを魔法使いどもが話し合ってるすきに、走って逃げたんだ。 奴らは人間じゃない! 悪知恵もあるんだ!
ちょっとずつ引いて行ったのは、大勢の目の前でやったら自分たちの方が危ないからだ。魔法使いを信用しちゃだめだ!
おいあんた。もし信用しろというんだったら、その荷車の中身を全部おれたちに寄越せ!平等に分ける。なくなってからのことは、自分たちで考える!」
群集の空気はこの言葉に染まった。一人の老婦人の姿をした魔法使いの元にその熱気は押し寄せた。銀ぎつねが何を言っても大勢のわめき声にかき消されて誰の耳にも届かない。銀ぎつねは助けを求めて何度も見張り台の方を見上げたが、近衛兵長は助けるなと全員に厳しく小声で指示を出した。この指示はきっちりと守られた。
銀ぎつねをひっぱり上げてしまったら、今度は見張り台が危なくなる。彼らの狙いは銀ぎつねの隠した大八車である。開けることができるのが銀ぎつねだけなのは誰にでも分かる。
マークは息をつめて、身を乗り出して銀ぎつねを見つめた。あまりに乗り出したので、近衛兵がズボンをつかんで引き戻さなければならなかった。マークはひょっとして手を伸ばしたら銀ぎつねが掴めるのではないかと思ったが、腕が短すぎて難しかった。銀ぎつねが手をつかんだ瞬間に、近衛兵がマークを突き落すことも十分に考えられた。マークにはできることは何もなかった。
不思議なことに、いくら押しても銀ぎつねは押しつぶされなかった。髪の毛を引っ張ろうとした指は、つるつると滑るばかりで、何も掴めなかった。
「何か魔法を使ってるぞ!」
「火あぶりだ!」「そうだ火を使おう!」
大胆な意見が出ると、おばあさんを焼き殺すのにはためらいを感じる人々は、かかわるまいとじりじり下がった。
自分と群集の間にすき間ができると、銀ぎつねは後ろ手で壁に穴を開け、誰も追いかけてこないうちに中に入って穴を閉じてしまった。
「逃げられた!」
「銀だ! 銀は魔法を破れる。誰か銀を持ってないか!」
「ここにあるぞ!」
小さい貴重な銀のナイフは、群集の手から手へ渡されて、銀ぎつねと大八車の入っている壁の前へと送られた。一番前にいる者が、こつんこつんと石壁をたたいた。キツツキよりも気長な作業だった。しかしそれより他に方法はない。
「もっと銀はないのか?」
「ハンマーを使ったらどうだ?」
「魔法を破れるのは銀だけだ。」
試したものは納得した。蹴っても叩いても、石で殴っても、壁は傷一つつかないが、魔法のかかっていない部分では、傷もつくし、欠けたりもする。
全員が納得したところで、再びこつんこつんが始まった。
「全員で平等に分けるんだ。」
誰かが呟いた。しかしこうなると誰の目にも明らかなのは、この調子では怖い方の魔法使いが帰ってきてしまうという事である。まだ手のひらが入るほどのくぼみも開いていない。こうなると菓子職人の話が、別の角度から思い返される。魔法使いには、1つの都市国家をあっさり征服できる力があるのである。避難民の大多数は、そのことを経験済みだった。おばあさんの魔女はともかく、子供の魔法使いの方は、姿は消すし、物は飛ばすし、近衛兵はあごで使うし、間違いなく強い部類に入る。全員で分ければ大した量にならない少しばかりの食糧のために、そんな危険を冒せない。
そのとき、昼間なのに大きな影が人々の頭の上にさした。
見上げると、豪華な赤じゅうたんが浮かんでいる。怖い方の魔法使いのきかん気な顔がはしからのぞいた。
「どうした。何をやってる?」
「皆眠りたがって順番待ってるんだ!」
マークはすかさず叫んだ。
「そうか?」
マクベスは顔をしかめた。
「そう!待ちきれなかったんだ。でも列に並ぶところなんだ!ね!」
全員が押し合いへし合いしながら列を作った。ただし後ろの方に並ぼうとして、静かでし烈なおしくらまんじゅうがそこここで見られた。
マクベスは空いた円の中に威厳をもって着陸し、近衛兵たちは次々と見張り台から滑り降りて、きびきびと列の周りを囲み、逃げられなくした。
マークは銀ぎつねの入っている壁をたたいて呼びかけてみたが、どうやったら岩壁の中に「マクベスが帰ったよ」と伝えればいいのか考え付かなかった。
マクベスは知っているかもしれないと思ったが、彼は優雅に手を取ってお世辞を並べながら、じゅうたんの上から小鹿姫をエスコートしていた。
「小鹿姫様。こちらでございます。空の旅はお疲れになりませんでしたでしょうか?さあどうぞ。お好きな場所をお選び下さいませ。どうぞお好きな壁を。どこも美しさには欠けますが、お望みでしたら小鹿姫のいらっしゃるところを花で彩りましょう。…お前も降りろ。」
最後の言葉は、侍女に向けられたものである。侍女は絹の布団を抱えて困っていたが、給仕の古い制服を着たマークを見つけて、運ぶように言いつけた。マークは布団の山を頭に乗せた。こういうものを運ぶ時は彼はいつもそうする。運びやすいからだ。
しかし銀ぎつねの居場所からは動かなかった。マクベスが親指で指図すると、近衛兵が護衛につき、姫君は城壁を眺めながら侍女と近衛兵を従えて、そぞろ歩きを始めた。
「マーク。何してるんだ?」
「銀ぎつねさんがこの中にいるんだ。」
「中で何してる?」
「食料を守ってる。」マークは嘘をつかないように用心しながら言った。「マクベス…様が帰ってきたって、伝えられたら出てくると思う。」
「わしがちょっといなくなっただけで大変な騒ぎだな。」マクベスは不敵ににやついた。「この中だな。」
マクベスは銀の杖を取り出すと、先ほど避難民の男性が力を込めても表面しか削れなかった岩壁に、たった一手でその杖を突き通した。
「銀ぎつね。出て来い。」
たちまち壁が開いた。
「マスター。おかえりなさいませ。」
銀ぎつねは気丈に言ったが、恐怖は隠しきれていなかった。動揺がにじみ出ていた。
マクベスはきれいに並んだ長い人の列を眺めて、嬉しくて布団の下に手を入れてマークの前髪をくしゃくしゃにした。
「お前えらいぞ。なかなかやる。あの一言がなかったら、1日は余分にかかってた。逃げたやつらを捕まえるのにな。」
「ここにする!」小鹿姫が離れた場所から叫んだ。マクベスは大急ぎで駆け付けた。マークは急がずに従った。高価な絹の布団を落とすのはよくない。
「つるつるだし、ここにする。お花で飾ってくれるんでしょう?」
「はい。お好きな色は何色ですか?」
「うーん。ピンクがいい。」
「中も外もお飾りします。銀ぎつね! 穴だ!」
銀ぎつねは駆けつけなかった。呆然と立って小鹿姫を見つめていた。
「よく聞け! この方はシンシティの小鹿姫だ。第一王女である。そうだな、ワトソン近衛兵長。」
「そのとおりです。全員小鹿姫に敬礼!」
近衛兵達ははかちりとかかとを合わせて一斉に最敬礼した。そしてその隙に逃げようとした避難民を押し戻した。
「陛下にお話したら、安全であることを示すため、自らのご息女を眠らせるようにとおっしゃった。眠りの魔法は安全だ。食料が足りなくなる間、餓死者を出さないためにやることだ。
小鹿姫はこれから他の人と同じ一か月の眠りにつかれる。近衛兵長! 小鹿姫に避難民と同じ食事を与えてくれ。」マクベスは布団の下のマークにささやいた。「お前も来てくれ。ちょっとお姫様とやっておいてほしいことがあるんだ。」
マークはうなずいて慎重に歩を進めたが、マクベスが止まるので立ち止まった。
銀ぎつねが通せんぼしていた。銀ぎつねは地面に頭をすりつけた。
「マスター、お願いいたします。どうぞ小鹿姫をあそこに閉じ込めるのはおやめください。刺客に狙われたばかりなのです。印なんてつけたら…。」
銀ぎつねが言いきらないうちに、彼女の体は宙に浮きあがり、一直線に空に向けて飛ばされた。悲鳴を上げながら舞い上げられていく銀ぎつねを見て、「マクベス魔法使いに逆らってはいけない」ということが、誰の胸にも刻まれた。
―あと一言でも差し出がましい口をきいてみろ。城壁に叩きつけてやるからそう思え。文句が言いたいなら…。
テレパスで弟子の教育をしていたマクベスは、隣が何だか騒がしいので地上に注意を戻すと、御年8歳の小鹿姫が足を踏み鳴らしてわめいていた。
「銀ぎつねを下しなさい! 今すぐ!」
「承知いたしました。」
マクベスはうやうやしくお辞儀して、ゆるゆると銀ぎつねを下しながら善後策を練った。途中でその軌道はくの字に折れ曲がり、城壁にぶつかって弾んで落下したが、隕石のように地上に落下することはまぬがれた。
「私の家庭教師に手を出すことは、許しません。」
小鹿姫は腰に手を当てて、8歳にできる精一杯の威厳を見せた。
マクベスは銀ぎつねをにらみつけた。しかしそれは小鹿姫が思っているのとは違う理由だった。
小鹿姫はまた刺客に狙われるかもしれないが、マクベスは姫の眠る場所に印をつけておき、おとりにして城壁内のスパイをあぶりだしたかったし、刺客が間違いなく小鹿姫を狙って他の避難民がとばっちりを受けないようにしたかった。そして銀ぎつねはそれを防ぎたかった。4年間心を込めて育てた女の子を、そんな危ないところに置きたくなかったのである。しかしそれを小鹿姫の耳に入れたくないと思う点では、二人は一致していた。
―わしたちが失敗すれば王族は一人残らず殺される。城の中にいても外にいても。
城壁の中に埋まっている方がまだ安全だ。
マクベスはテレパス送信で銀ぎつねをなだめにかかった。
―捕まったらひどい殺し方をされます!王宮の中にいれば、穏やかに死ぬこともできるんです。
マクベスは銀ぎつねのテレパス送信に好評価を与えた。朝教えたばかりにしてはクリアかつうなりの少ない音声である。しかし方向感覚が間違っていた。マクベスの後ろにいたマークはぎくっとしたし、姫君は目をしばたかせた。
「ひどい死に方って?」
「お前そこらじゅうに発信してるぞ! テレパス使うな!」
「私は太った引退した大臣を眠らせるつもりで言ったんです!」
魔法使い達は声をはり上げて言いあった。
「これは陛下の決定なさったことだ。」
「私が王宮に行って陛下にお頼みします。」
「やってみろ。」
―じゅうたんをもらう方が難しかったぞ。あの王様は小鹿姫を城の中に置いときたくないんだ。また刺客に狙われたら、自分まで危険だからな。
マクベスはテレパスで言い返しておいて小鹿姫に向かっては言った。
「陛下は王族の義務を重んじていらっしゃいます。この重責も姫君ならできるとお信じになったからこそ任せられました。」
何か自分の知らないことがあるようだとぐらついていた小鹿姫も、マクベスに手を取られると、自信を取り戻した。
「うん。」
「姫君が狙われたのではありません。居場所の分かる王族が一人だけだったからです!」
銀ぎつねは理性を忘れて叫んだが、マクベスに冷ややかな目で見られると頭が冷えた。
―姫君がそんなに大事なら、今ここで残ることを選べ。お前の決断はこの国全員を危険にさらしてるんだぞ。姫君だけじゃない。わしはどっちでも構わん。
しかしぐずぐずしていたら、王様がわしらを引き留めにかかるぞ。
「よし。」マクベスは、小鹿姫の目をのぞきこみ、子供じみてはいても決意が固いので微笑んだ。「銀ぎつね。姫君の眠る穴だ。」
銀ぎつねはかすれた声でイエスとも聞こえる音声を出して、壁に手を付けた。大きな穴が開いた。広い寝台もあった。
「小鹿姫。ご立派です。姫君にお仕えできることを心から誇りに思います。お休みになる前に一つお願いしたいことが。」
「何?」
「このマークと婚約していただきたい。」
小鹿姫よりもマークの方が嫌がった。
「僕にはできない!しがない掃除夫だから!しがない!お姫様となんてとても!」
彼はしがないを強調した。
「えええ?王女の結婚は国の問題なのよ。」
小鹿姫は唇をとがらせた。
「形だけで結構です。彼はこれからウォン国へ赴く戦士です。姫君の護りの力が必要なのです。帰ってきたら、解消していただいて構いません。帰って来られないかもしれませんが。」
「あっ、そう?」推定死人に対して、姫君の正義感がつつかれた。「お父様に許可を頂かないと。」
「私が取りましょう。それに必ず解消させます。魔法使いが誓います。」マクベスは杖から火花を出した。姫君はマクベスが解消させると言ったことが気に入った。
「でもティアラはお母様がお持ちなのよ。」
「取り返します。…では。」
マクベスは金剛力でマークの手をつかむと否応なしに姫君の手を握らせた。「はい。結婚を申し込め。」
マークは目で拒否を訴えた。
「ご両親を助けに行くんだろ?婚約しなけりゃ不可能だ。」マクベスは鼻歌でも歌うように気楽に合わさった手をつついた。近衛兵がタイミングよくマークの布団を引き受けた。「連れて行かんぞ。」
「結婚してください。…でも本当には結婚しないで。」
「うん。」姫様の返事が終わると衛兵はマークの頭に布団を戻した。侍女はマークにベッドメイキングを言いつけた。婚約しても避難民の立場は何も変わらないらしかった。
「はあ…。長くかかったな。では、姫様。」
「ちょっとお待ちください。いいえ、違います。止めたいのではありません。」
銀ぎつねは赤い小さな袋を姫君のコルセットの中に押し込んだ。
「自害用です。使い方はお分かりですね。」
「うん。」
「ぎりぎりまで使われませんよう。でもいざとなったら、苦しい思いをしそうだと思ったら、飲み込んでください。眠りにつくように天国へ行けます。」
「いざとなったら飲む。」
「ぎりぎりまで飲まない。」
「でもわたしもう持ってるわ。守り刀だってあるのに。」
「取り上げられるかもしれませんからね。」
姫君が衆目の中で眠りにつき、壁が閉じられると、マクベスは約束した通りピンクの大輪の牡丹を描き、丁寧にも「小鹿姫ここに眠る」と金色の文字で書き添えた。銀ぎつねは自分が泣いているのに気が付いて驚いた。
「近衛兵長。ここに刺客が来るかもしれん。昼夜を問わず見張りを付けて、できたらアジトを突き止めて一網打尽にしてくれ。それから銀ぎつね。どうせ泣くなら若い姿で泣け。」
「若い姿だったら、決定を変えていただけるのでしょうか?」
「そんなことで判断は変えん。」
銀ぎつねはため息をついて目をこすったが、涙は銀ぎつねの意思とは関係なしに流れて止まらなかった。
「ねえ。他の人の部屋もこんな風にしてほしいな。」
マークはダメでもともとと思いながら言ってみた。
「どんな風だ?」
「広くて、床が高くて、下の方に通風孔がついているんだ。雨除けの付いた。これなら重い二酸化炭素が抜けるし、雨が降っても水が入ってこないし…。」
「よし。銀ぎつね。やれ。」
銀ぎつねは袖口で顔をこすりながら、すでに眠りについている人の部屋を直しに行った。マクベスはマークを見てどうだと言うようににっこり笑った。聞いてもらえそうなので、マークは続けて言ってみた。
「布団もあるといいな。土の上で寝ると、本当に体が痛いんだ。絶対にあるといいと思う。」
「銀ぎつね。布団だ。全員分どこで手に入る?」
銀ぎつねはよたよたと戻ってくると、耳打ちした。
「わら布団にする草を持ってくる。大きな布を集めておけ。」
マクベスは円の中に入ってシュッと消えた。銀ぎつねと近衛兵達とマークは大きな布を求めて城下町を走り回った。テーブルクロスや古いシーツが集まったが、そのうちにカーテンを使う事に気が付いて足りそうな見込みがついた。
学校のカーテンは大きな家族をのせられるくらいのベッドになってくれたし、王様の命令書を見せて説明すると、先生が針と糸を持った生徒たちを率いてわら布団づくりや飲んでもらう水を運ぶのを手伝った。そのうちに、乾ききった草の山が円の中に現れた。てっぺんにマクベスが座っていた。
そこまで準備できると、列に並ぶ人も、安心できた。
魔法使いが二人いるとあらゆる仕事は簡単に片付いた。
一日と掛からず、マクベスと銀ぎつねは、城壁の中に設備の付いた部屋を作り、ベッドの材料を工面し、避難民を眠らせて、その穴をふさいだ。
昼過ぎに「朝食」が王宮から支給されたが、魔法使いは二人とも、自分のパンをマークに差し出した。
真夜中を過ぎたころ、最後の避難民がいなくなると、マクベスと銀ぎつねは王宮に挨拶に出掛けると言って消えた。
「帰ってくるまでに太っておけ。これは命令だ。」マクベスは無茶を言った。「一緒に行きたいのなら命令に従え。」
それでマークは城門の下で、預けられたじゅうたんの上に座り、味のない脂を飲み込み、気持ち悪くなり、気持ち悪さが薄れるとまた飲み込む、という事を繰り返していた。
大勢の避難民が過ごした後なので、城壁の周りは汚れきっていた。じゅうたんのそばを離れるなと言われていたので、手伝えない。老兵が水をかけて掃除するのを見ながら脂を飲み込んで、マークは月を見上げた。眠かったが、目は冴えていた。
―もうすぐ親方とおかみさんを探しに行ける。早く二人に会いたい。
胸焼けがしていたが、心は温かい水をかけたようにじんわりと温かかった。
―親方は受けがいいし、おかみさんはお料理上手だし、丈夫だし、二人とも絶対生きてる。生きて働かされてる。
もし助けられなかったら僕も一緒に働こう。3人いたら苦しくてもきっとやっていける。
マークは奴隷の中から抜擢されて偉くなる自分を思い浮かべた。
―ミュゼにいた時よりもいいものが食べられるかもしれないよ。お金を貯めて、分厚い羊毛のコートを買おう。よそ行きの、雨を弾かないやつだ。学者先生の着てるような、シャカシャカいわない、フードの付いてない、3人分。
マークはわざと明るい未来を考えるようにしたが、もしも奴隷になるという事が、マクベス老人の下で働くよりもひどい事なら、きっとそうに違いないと思うのだが、奴隷の中から助け出さない限り、死んでしまうだろうと頭の中では考えていた。今この時に、餓え死にしかけているかもしれない、間に合わないかもしれない、そんなことを考えずに済むように、彼は明るい未来を次々に思い浮かべては、脂を飲み込んだ。
老兵だと思った人が近くに来たので、マークは邪魔にならないように立ち上がった。何一つ疑っていなかった。
しかしたちまち白いものをかぶせられて何も見えなくなった。
二人の魔法使いは地下宮殿の入り口に瞬間移動で現れた。
―伝えておいたな。やることは分かってるな。
―イエス、マスター
―場所は分かるか?
―イエス、マスター。
銀ぎつねは袖を上げてさりげなく王妃の部屋の方角を指してすぐに腕を下した。またそこら中に発信するといけないので、「イエス、マスター」しか言わないが、テレパスは進歩をしているようにマクベスは思った。この弟子は呑み込みが早いようだ。
―ところで、軍人の家の出身か?
銀ぎつねは怪訝な目で背の低い師匠を見下ろした。
―いや、命令に従う姿勢があるのでな。
銀ぎつねは過去に触れられたくなかったが、絶対の信頼を示さなければならない。彼女は目を閉じて心を落ち着かせた。滅多な事では取り乱さない自信がある。自分の心は冷たい水でできているのだと銀ぎつねは思っていた。小鹿姫が眠る時、なぜ涙が出てきたのか、自分でも分からなかった。
―魔法使いの家の出身ですが、階級制度の厳しいところで育てられたのです。…オオカミ人間の群れで。
―なるほど、階級社会だ。元の家はどうした。
―殺されました。
―よくある話だ。何という家だ?
―名字はありませんが、大叔父は細工師のアゾートと申します。
―知らん。200年以上前の名前は?
―大叔父の大叔父はジンといったそうです。
―ジンは知ってる。細工師だな。王宮にも納めていた。
―はい。
マクベスは世間話を中断して、あたりに人がいないのを確認してから、壁の隠し扉を押した。古い下りの階段が現れた。
―よし、分かれる。一人で玉座の間に向かう。お前はティアラのありかへ行け。陛下に合図は送ったな。
―はい。ですが起きていらっしゃるかどうか…。
―待たされる方が好都合だ。行け。
銀ぎつねはするっと階段の下へ消えた。
陛下に面会したマクベスは王女のティアラを強引にねだり、じゅうたんを切り取られて仕返しをしたがっている怒れる王からめでたくコピーをゲットした。彼は王妃と侍女を眠らせて今か今かと待っている銀ぎつねの元へ隠し階段で向かうと、コピーと王妃がつけている本物をすり替えて素早くずらかった。しかしながら銀ぎつねが瞬間移動術を行ったために目的地から1キロは離れた地点に降り立った。
月が明るく照らす石畳の道を、二人の魔法使いは急ぎ足で歩いた。
「にきたつに 船乗りせんと 月待てば 潮もかないぬ 今は漕ぎ出でな…この歌知ってるか?」マクベスはティアラを懐に入れて上機嫌だった。銀ぎつねは師の後を半歩遅れてついていたが、しばらくは叱られずにすみそうなのでそっと肩の力を抜いた。
「準備上々 細工は隆々 あとは疾きこと風の如しでとっとと向かうぞ。兵は拙速をたっとぶ。」銀ぎつねは半分も分からなかった。
「…ああ、本当にいい月だ。幸先がいいな。」マクベスは立ち止まって月の美しさを全身で感じた。銀ぎつねは見回りの市民兵に会釈した。戦争の色が濃くなって避難民が大量に押し寄せてからというもの、夜間外出をするものはない。兵隊は王宮にいるだけなので、市民兵が足りない兵士の代わりを務めていた。
「あ、魔女さん、連れてらっしゃった少年ですが。」「はい。」「城壁の所に居ましたが、大丈夫でしょうか?」「何か?」「あの辺物騒な連中が何人かうろついてましてね。中に入るように言ったんですが、聞かなくて。後で見たらいなくなってましたが、近くに詰所があるので、そこに行ったんだと思いますが。」
「マスター!」
マクベスも話は聞いていた。
「銀ぎつね、物探しの術だ。」マクベスは険しい顔で言った。
「…まだ習ってません。」銀ぎつねも焦っていた。
「正八面体上半分の陣、柱を四本。探したいものをイメージして中に入れろ。呪文は…」
テレパスでの指示を受けて銀ぎつねが手の中に四角錐を出すと、光の線が二本、線は一本は門外へ、もう一本はやぐらの中へと向かっていた。見張りの詰所のあるところである。
「なぜ光は二本に分かれているんだ?」
銀ぎつねはじっと考えていたが、あっと声を上げて術をやり直した。2回目は見張りの詰所だけに光が向かった。
「最初はじゅうたんに座っているマークを思い浮かべていました。じゅうたんをさしていたんでしょう。」
マークが襲われるかだまされるかして、じゅうたんがとられた。じゅうたんと一緒にいる方が悪党の頭だ。
「今度はじゅうたんを探せ。…10m横へ歩け。」
2地点から異なる角度で光を伸ばせば、交差した地点にじゅうたんと犯人がいる。それほど遠くにいるようではなかった。移動中のようだ。
「お前はマークを追え。」
マクベスはほうきに変わると、城壁を超えて飛んで行った。
市民兵が何一つ見逃すまいとして見つめているので、銀ぎつねはこれみよがしに円を描き、絶対にこの中に入らないように言いつけた。
「術の作動中に人間がこの円の中に入ると、手や足が飛びますからね。私も飛んで行ったらいいんですけど、急いでいるから。」
(方向違いをしませんように)
もし方向違いをしたら、何キロもてくてく歩く羽目になりかねない。そんなことになったら、助けるのに間に合うだろうか? 使い込んだほうきがあったらよかったのだけれど、刺客が姫君の部屋を爆破した時に吹っ飛んでしまった。
「あの、古いほうきとか、お持ちじゃありませんか?」
市民兵は首を振った。
「そうですよね。」
銀ぎつねは固く集中して、風切り音とともに消えた。
銀ぎつねは詰所の入り口で止められた。
普段はいるはずのない近衛兵たちがいる。
(おかしい。…姫君の見張りのためか、それとも何かの悪だくみが働いている…?)
銀ぎつねは無理に通ろうとした結果、連行された。中は不案内なので、そのまま引かれて行ったが、掃除用具入れに入れられて、丁寧に鍵がかけられた。一応見回してみたがマークはいない。掃除用具入れといってもスチール製だった。岩なら魔力を通して構造を変形させられるが、鉄は構造がはっきりしないうえに勝手に動きやすく、意思があって、銀ぎつねには難しすぎた。
国中に飛ばしていた銀ぎつねの眼はマクベスの言いつけで、すべて回収して、込めた若さを体に戻していた。一体をのぞいて。それはシンシティの王の寝室にあり、任務の成功失敗を継げるために残されていた。それでこの件を陛下に報告すると脅すこともできるのだが、あいにくと銀のティアラを盗んできたばかりで、逆に盗んだという報告が来ていないかを心配しなくてはならなかった。
(素直に頼んで出してくれるわけがない。交換条件になるようなものも持ってない。自力で脱出するほかない。)
早くしなければマクベス師匠が帰ってきてしまうというタイムリミットもあった。帰ってきたときにマークが助けられていなければ、怒られるだけでは済まないだろう。
銀ぎつねはぴたりと閉じてはいない掃除用具入れのすきまから、鍵の部分をのぞいてみた。南京錠が使われているようだ。扉の蝶番の方も細い光で確認してみた。浅い釘が使われている。コインかちゃんとしたドライバーがあればすぐに開くだろう。
銀ぎつねは南京錠の方が早いと判断した。そっと魔力を伸ばしてみると、幸いなことに銅の合金でできていて、ほとんどが銅製である。わずかな魔力で鍵は開いた。
銀のナイフをさしこんで鍵をはねのけ、外に出るととびかかる近衛兵たちをひきずって明るい光の方へ向かうと、見覚えのある近衛兵が酒盛りの最中だったが、銀ぎつねは近衛兵長の顔くらいしか覚えていなかったので、階級まで言い当てられなかった。
ただわかるのは、この兵隊たちは姫君の護衛をさぼっているという事だった。
「マークはどこですか?」
銀ぎつねは冷ややかに尋ねたが、覆いかぶさってくる兵隊の肉体にさえぎられて、ほとんど相手には伝わらなかった。銀ぎつねを攻撃しても無駄だという事が、この筋肉男どもには分からないらしい。
銀ぎつねは覚えたての探索魔法を使い、マークの居場所を探った。酒盛りの兵隊の後ろだ。一番偉い男の後ろだろう。大声で銀ぎつねをなじっているが、あいにく覆いかぶさる兵士の肉体にさえぎられて、普通の声にしか聞こえない。
「…お前が弟を魔法使い同士の争いに巻き込んで殺した時に、俺は言ったな。必ずこの償いはさせると…。」
普段の銀ぎつねなら、悪くなくても相手の気が済むまで謝るところだが、今は怒りに燃えていて、全員をたたきのめしてやりたいと思っていた。
「全員よく聞きなさい。これから壁沿いに歩きます。ぶつかってけがをするので今すぐ私から離れたほうがよいですよ。」
銀ぎつねは聞こえないことを承知で普通の声で言った。これで「警告」は済んだ。
「警告」済みの危害は事故とみなされて魔力にダメージはないのだと、幼いころに聞いてはいたが、危ういので使ったことはなかった。しかしそろそろ試してみるころだろう。
銀ぎつねは手始めにガツンと右側につかまっている男を壁にぶつけた。がりがりと2~3歩歩くと、怒りはなくなってしまった。せいぜい頭皮をこすった程度だが、自分は無関係の人間に何をしているのだろう。上司にそそのかされて言われた通りしているだけなのだ。姫君を助けたいなら、相手を脅かすのではなく説得しなければならないのに。これから1か月、自分がいない所で、姫君を守ってもらわなければならないのに。
しかし2~3歩で十分だった。
銀ぎつねが反撃するのは初めてのことだった。いつもはからかわれても侮辱されても叩かれても、逃げるだけの銀ぎつねが反撃した。
様子が違う事に気が付いて全員が離れた。少しうさ晴らしをしたかっただけなのに、魔法使いは怒っている。
普段おとなしい人間ほど怒ると怖い。品のある老婦人の姿に、兵隊はただでさえ遠慮を感じているのだ。
銀ぎつねは正面の男に向き直った。
「まずはマークを返していただきましょう。」
男は気を取り直した。大丈夫だ。こいつは危害を加えるやつではない。
「いや、まず俺のことを推薦してもらおうか? ん?銀ぎつね。 戦地に向かうのは子供ではなく俺の方がふさわしいだろう。」
周りの男たちは床を踏み鳴らして一斉に賛同した。
「お前は借りがあるぞ。弟の件でな。」
「マークは無事ですか?」
「ああ、無事だ、ほら。食事もしてる。」
銀ぎつねはマークが生きて動いているがおびえているのを見て取った。殴られるか、脅されるかしたのだ。避難民は少しも歓迎されていない。
「言いたいことがあるなら聞きましょう。ただし手短に願います。」
「ああ。一言でいうとだ。俺も連れて行け。」
「マスターに聞いてください。」
「お前が聞け。」
「私が決めるのではありません。以上ですか?」
「いや、こんな子供は連れて行くな。…人道に反するだろ。」
男は賛同を求めてにやりと周りを見回したが、銀ぎつねの後ろに立つ部下たちは、銀ぎつねの背中から立ち上る冷たい軽蔑を感じて、自分たちのやっていることもかなり人道に反していると思い出さないわけにいかなかった。賛同はやや控えめに行われた。
「マスターが決めました。私の決定ではありません。以上ですか?」
「お前が頼め。借りがあるんだからな。…ほら、この小さいお友達に聞かせたいか?お前のせいで死んだ俺の弟の話を。」
銀ぎつねは肩をそびやかしただけで返事をしなかった。
この男はこともあろうに理論と構築に関して誰勝るものもない魔法使いを相手に議論を挑むつもりだろうか? 優れた知力は魔法使いの第一条件である。構造と語学に関する深い理解なしでは方陣も呪文も使えるものではない。
つい昨日も5時間言い合って、大臣たちを納得させたこの銀ぎつねを言い負かすつもりか?一言だってもったいないと銀ぎつねは感じた。
「つまりあなたも弟さんと同じく、魔法使いになりたいとおっしゃるのですね? 無理です。素質が欠けています。以上。さあ、マークをお返しください。」
銀ぎつねは片腕を伸ばして一歩男に近づいたが、男は銀のナイフを取り出してマークを小脇に抱えた。
「それ以上近づくんじゃない。壁に両手をついてじっとしてろ。早く両手をつけ!」
銀ぎつねは気にせず数歩歩み寄った。石の壁にくっついてくれなければ閉鎖術がかけられない。ここは床も壁もれんがばかりであったが、男の後ろに暖炉があり、石造りだったので煙突のでっぱりにくっついてくれれば縛ることができた。
銀ぎつねは怖気づいて男が後ろに下がるか、マークを手放して自分に襲いかかってくれることを望んだ。
男は動かずに反撃した。ナイフの持ち方を変えると、銀ぎつねに投げたのだ。しかしナイフの持ち方を変えた瞬間にマークが腕に飛びついたので、ナイフは銀ぎつねをかすめただけだった。
マークは突き飛ばされ、銀ぎつねはマークをかばう位置に飛び込んだ。
「フェルム」
電光石火で銀ぎつねは閉鎖術をかけた。煙突の石壁は伸びて男の頭をがっちりつかんだ。石が薄くてそれが限界である。銀ぎつねは横目で男の部下たちをうかがったが、人望がないのか、怖気づいているのか、襲いかかっては来ない。様子を見て、どちらにも付きそうな感じだ。
これなら希望はある。銀ぎつねはマークをしっかり自分のマントの陰に隠して言葉を選んだ。
「警告します。姫君にもしものことがあれば、あなたをここに一生釘止めにします。あなた方は姫君の護衛のためにここにいるのでしょう?任務をおろそかにした罰です。…どなたか姫君の様子を…」
そのとき「助けてくれ!」というしわがれ声が聞こえた。「ヴォークト!」窓を振り返るとばたつく男の足がすっと窓の端をかすめて消えた。
ヴォークトがそういえばこの悪党の名前だったのではないかな、と思って銀ぎつねが再び男に注意すると、冷や汗を流して急に反省の色が見えた。
「そうだ、姫君の護衛はしっかりやっているとも。何を誤解しているのか知らんが、任務をおろそかにしているわけないだろう。…おい、ブラックマン、エルンスト、早く向かえ。交代の時間だぞ。」
(改心してくれたら、余計な手間をかけなくて済む!上に報告しなくても解決しそうだわ。)
銀ぎつねは期待を込めて戸口をふさぐ男どもを見たが、部下も親玉の急な心変わりに戸惑っていた。たかだか頭に石が巻きついたくらいで、翻意するだろうか?銀ぎつねは子供にさえ逆らったことがない。実際に手を下す度胸はないのだ。
ヴォークトは大演説をぶって、仲間を募った。目的はマクベス魔法使いの遠征隊に入れてもらうこと、銀ぎつねを閉じ込めて街の護りのために残し、出て行かせないことである。じゅうたんの強奪者が塀を超えるのを見逃したのは、ヴォークトが仲間と旅の前の固め杯を交わすために酒代が必要でやったまでのことである。志を抱いてやっていることなのだ。ここにいて、候補者にならなければ人質を取って銀ぎつねを罠にはめた甲斐がない。
賛同者たちは銀の得物を取り出した。ヴォークト一人に任せてはおけない。
「マクベスが見えたよ。」
マークは銀ぎつねの袖の下からこっそりと言った。
「あいつの顔色が変わったから僕も窓を見たんだ。そしたらマクベスがこっち見て笑った。たぶん応援を呼びに行ったんだ。」
銀ぎつねは迷った。これをこの裏切り者の近衛兵たちに伝えて、逃がしてやるべきだろうか?それとも、マクベスが誰か連れてくるまで、足止めしておくべきだろうか?
どうしてよいかわからない。普段の銀ぎつねなら、忘れて見逃したが、今はそれをしたら規律が乱れて姫君が危なくなることが心配だった。
「どうしたらよいと思いますか?」
銀ぎつねはマークに聞いた。マークは考えたが、それはマクベスが考えることで、自分の考えることではない、そもそも子供に意見を求めるのは間違っているという結論に達した。マークは首を振った。「分かんない。」
「殴られましたか?」
銀ぎつねはマークの頭に手をのせた。マークは傷をいやす魔法かと期待したが、単に親愛の情を示しただけだった。捕虜が必死に抗弁した。
「殴ってなどいない!食事を与えて休ませただけだ!」
「ナイフを突きつけていましたね。」
「刺してない!刺す気などなかった!話し合いをしてほしかっただけだ! な?そうだよな?」
ヴォークトは必死になってマークの眼をとらえようとした。マークは確かに殴られていない。しかしぐるぐる巻きにされて、抗議しても聞いてもらえず、階段を引きずるように歩かされた。それはいいとして、預かって守っていたものを、取られて売り払われてしまったことにプライドがひどく傷ついていた。
「うん。殴られてない。」
マークは恨みのこもった声で答えた。それは聞きようによってはかばっているようにも聞こえた。
「おかけください。今お茶淹れるから。」
気づけばまるで何事もなかったかのように、入り口近くに立っていた兵士たちが二人に椅子を勧め、酒瓶を片付け、お茶を淹れ、姫君の見張り番についての細かい改良点について熱心に話している。元気よく挨拶をして、見張り番に行く仲間を見送り、「お茶を淹れ終わったら俺も行かなくてはならないんで。」などと、仕事に忠実なことをさりげなくアピールしている。
マクベスが来るという話は聞こえてしまったようだった。そして暖炉につながれている哀れなヴォークトは「企みのリーダー」から「勝手に謀反を企んだ人」に格下げされてしまっていた。銀ぎつねを閉じ込めたり取り押さえたりしたことは…証人はいない。少なくとも銀ぎつねはしゃべる魔女ではない。マークを人質にとったのは…避難民にはよくある災難で、大きな問題にはならない。
とりあえず解決したようだと、銀ぎつねは考えた。マクベスが窓から顔をのぞかせたというだけで解決してしまった。この違いは何なのだろう。魔法の数だけではない。
銀ぎつねは自分に投げられてそれた銀のナイフを拾い上げた。
マークはお茶が飲みたかった。
「お茶だけでももらっていい?」
「だめ。いりません。」銀ぎつねは置かれたマグカップを手でさえぎった。何が盛られているのか分かったものではない。「水は持ってないのですか?」
「水筒がないんだ。」
「ふーむ。」銀ぎつねはしばらく口をつぐんでいた。さりげなく最後の兵士が出て行って、名前も顔も覚えていない銀ぎつねにはこれで誰が関わったか分からなくなった。
「ヴォークト」銀ぎつねは唯一名前の判明している男に呼びかけた。
「あなた旅支度は済んでいるのですか?」
「ああ、ある。」
「どこですか?そっくりマークに譲って下さい。逃がしてあげましょう。そして二度と弟さんの話を私にしないでください。」
銀ぎつねは銀のナイフをマークに渡し、自分もナイフを取り出して身構えた。
「どこです?」
「もちろんだ。もちろん。…これを外してくれ。取ってきてやる。」
「時間を無駄にする気ですか?謀反罪に問われるかもしれないんですよ。」
「壁にかかっている。一番右端の外套とリュックだ。」
「近衛兵の制服は脱いでください。ベルトとバッジも外して。シンシティの近衛兵を名乗られては困ります。」
銀ぎつねはナイフを口にくわえ、ヴォークトを監視しながら外套を取って調べ始めた。マークは目が離れたすきに、熱いお茶に忍び寄ってとびついた。何年も飲んでいなかったようなおいしさだ。考えてみれば飲み残しではない、自分用に淹れてもらった濃い紅茶など、何か月ぶりかだ。兵隊は角砂糖も置いて行ってくれていたので、マークはいくつかをコップにほうりこんで、ついでにいくつかをポケットに入れた。
「マーク、荷物を調べて、要らない物があったら置いて行って。あなたには重すぎると思うわ。」
銀ぎつねは財布を取り出して身分証を抜き、お金だけをヴォークトに投げた。頭を拘束されたシャツ姿の男は両手でキャッチした。
「行きなさい。『ウブリエ。』城壁の外に出たら見つかって殺されますよ。」
ヴォークトは細心の注意を払って、装備を整えていた。
リュックには何もかも入っていた。ポケットにはロープやら袋やら布製の地図やら細かい道具が整然と詰め込まれ、水筒もあったが、ほとんどは食べ物で、ヴォークトはウォンシティでは食べ物が手に入りにくいだろうと予想していたのである。リュックも頑丈で重いものを入れても縫い目が広がりもしない。ミュゼから持ってきたずた袋に未練はあったが、マークは喜んでこちらを使うことにした。いかにも民間人が使いそうな目立たない茶色で、それは外套もそうだった。
マスターが来るだろうと言うので、銀ぎつねはマークを急き立てて城壁の上に登らせ、待っている間にポケットから針の刺さった糸巻を出すと、外套を適当に肩上げした。これも見た目は派手ではないが頑丈にできていて、何日も雨風の中を歩いても、中まで染み通らないのではないかと思った。マークは嬉しかった。これなら野宿しても保護されているように感じるだろう。最後にポケットと鞘の付いた便利なベルトにマークのサイズの穴を開けて締めると完成した。
マークは銀ぎつねが荷物と交換で悪党を逃してくれたことを心から感謝した。王宮でもらえたのは給仕の古服だけで、十分嬉しかったが旅には不安だったのだ。奪い取らなかったところに、銀ぎつねの甘さを感じるが、小市民のマークももらう方が心が安らかだ。
結局銀ぎつねが許可なくとったのは、自分に向かって飛んできたのだから「くれた」と言えなくもない投げナイフだけである。そこで思い出して預かった銀のナイフを返した。
「それはあなたの物です。手ごわい相手には使ってはいけませんよ。先ほどは助かりました。」銀ぎつねはにっこりした。マークは誇らしさで胸が熱くなった。
「もう一本あります。大事に持っていなさい。」
銀ぎつねはポケットから布包みを出すと、ほどいてマークに見せた。昨日刺客に肩に打ち込まれた銀の槍の穂先で、刃だけを見ても、ヴォークトの銀のナイフよりも立派な拵えだった。
「鞘に入れてはいけません。魔法使いは銀の気配を感じるから、服の下か、カバンの中に隠すといいわ。それでも敏い魔法使いは感じるけど…。銀の刃がなぜ重要か知ってますか?」
「魔法使いを傷つけられるから? 今日誰かが言ってたよ。」
「それもあるし、魔法に傷をつけることができるのです。例えば私の作った岩穴も、銀の刃物で叩けば穴を開けることができます。
でもそれは交換に使うといいと思うわ。きっとウォンシティでは、銀の刃はひっぱりだこで、すごい値段になっているはずです。みんな欲しがるでしょう。できたら食べ物や水ではなく、自分や人の命を救うのに使うのよ。」
「それってどんな状況?」
「さあ。…わかりません。」
銀ぎつねは不安そうにマークを見つめた。マークは笑ったが、その背後に何やら叩き起こされた感じの近衛兵長をのせたじゅうたんが到着した。
マクベスは事情を知ると激怒した。
「わざと逃がしただと!」
銀ぎつねは鉄拳をくらって城壁の下に落とされかけたが、何とか縁石にしがみついて落ちるのをこらえ、よじのぼってふたたび平伏した。
「お前あいつが情報を持ってよその国に行かれたらまずいくらい分かってるんじゃないのか? わしとお前でここの城壁の守りを固めたんだぞ!」
「城壁の外には出ないように注意しておきました。殺されるからと。」
「当たり前だ。近衛兵長、もしヴォークトが城壁の外に見えたら狙撃してくれ。絶対殺してくれ。もう行くのはやめだ。お前には命を預けられん。」
銀ぎつねは平伏したままだった。反論の余地もないらしい。マークはがっかりした。
「…マーク、新しい外套か?どうやって手に入れた?」
「ヴォークトが行く前にくれたんだ。」
「そうか、あいつは役に立つこともしたんだな。ひどい事されなかったか?」
「大丈夫だよ。銀ぎつねさんが逃がす前に装備を譲るように言ってくれたんだ。…それに借りがあるって言ってたよ。ヴォークトの弟さんのことで。死んだって。」
マークはぎりぎりいっぱい銀ぎつねをかばった。マクベスは眉をピクリとさせて恐ろしい作り笑いを浮かべた。
「マーク、お前は連れて行ってやる。二人で行こう。」
マークは不安のあまり自分も行きたくないような気がした。
下にもぐった近衛兵長が上がってきた。手下を連れて、ヴォークトの置いて行った上着とバッジを持っている。彼は一瞬だけ銀ぎつねに親愛のまなざしを送った。近衛兵のままで捕まったなら彼の責任を問われるところだが、辞職した今はただの脱走兵である。
「先ほど名前を上げてくださった部下は全員持ち場で任務に就いています。ヴォークトが何をしようとしていたのか知らなかったようです。部隊長なので命令に従っただけだと言っています。もちろん事情をよく聞いたうえでですが、厳重注意と降格ですむでしょう。手が足りませんから。
それから、部隊の中でフランクリンだけは今回のことに関わりがなかったようです。あの男はとっつきにくいですから、ヴォークトも命令しなかったんでしょう。彼は重く用いてやるべきでしょうな。昇進させるように報告するつもりです。」
「そうか。処分は近衛兵長が法律の定めるところに従ってくれればいいが、城壁の外に1人も出してもらっては困る。何度も言うようだが、わしらが捕まったら、城壁にかけた魔法を解くのはたやすい事なんだ。魔法をかけたのがわしらだと知られるのは困る。」
「アイアイサー」
ワトソン衛兵長はかちりとかかとを鳴らして最敬礼をした。
「ヴォークトだけじゃない。スパイの類も絶対に出さないでくれ。外部と連絡を取ろうとする者は、鳩でも風船でもモールス信号でも絶対に阻止してくれ。」
「アイアイサー。お任せ下さい。あのじゅうたんを持って逃げようとした男も締め上げれば何か吐くでしょう。」
ワトソンは部下と連れ立って降りて行った。最後に「白の辛口がこんなところにあるとはなあ。」という相談が聞こえたが、これはおそらく酒瓶のことを言っているのだろう。
マクベスは目をつぶって考えたのち、少し明るい表情になって目を開けた。
「借りと言うのは何だ?」
「あの人の弟が魔法使いの争いに巻き込まれて死んだのです。」
「そうか、理由が何であれ次はないぞ。じゅうたんに乗れ。それとマークの服を直してやれ。左右の袖の長さが違うし丈も長すぎて変だ。」
マクベスはじゅうたんをひどいスピードで運転したので、二人は悲鳴を上げた。
「うるさい。声を出すな。気づかれる。…高度を下げるぞ。」
じゅうたんは枝や藪がつきささる森の中を木の間を縫うようにして進んだ。体を持って行かれないためには必死になってぺらぺらするじゅうたんのへりにしがみついているしかない。途中たどり着くのが遅すぎて城門の手前で途方に暮れる避難民を見たが、可哀想にと考えられるのもほんの一瞬だけである。
やがてじゅうたんは鳥が獲物の様子をうかがうように木の陰に隠れて平地の様子をうかがった。
山を抜けると後は見通しの良い平原だった。草もない裸地があり、崖や谷が続いている。岩の影がくっきりと地面に映るほど明るい月夜である。
「何か感じるか?」
マクベスは尋ねた。マークも銀ぎつねも次の衝撃に備えて必死に体を低くしてじゅうたんにしがみつく体勢を整えるのに集中していた。
「おい。」
マクベスの杖で頭をたたかれて、銀ぎつねは乱れた頭を上げた。
「分かりません。かすかに感じるような気もします。」
「気のせいだ。もっと感覚を鋭くしておけ。何もいない。…高度を上げるぞ。マークを捕まえておいてやれ。」
銀ぎつねはかろうじて左手を伸ばしてマークを押さえておこうとしたが、もしもその弱々しい力を信じて気を抜いたら途端に落っこちそうだった。
(頼むから魔法使ってほしい。)
マークは心から思ったが、銀ぎつねにはできないらしい。銀ぎつねの方がマークより落っこちかけていた。が、マークも手足をちょっとでもずらせば飛ばされそうで横目で視線を送るだけで何もできない。
じゅうたんはほとんど真上を向いて急上昇した。二人ともあっけなく滑り落ちたが、さすがに二人とも悲鳴を喉の奥で押し殺した。と、じゅうたんの端がくるりと折れ曲がって、落ちる二人を受け止めた。
びしょ濡れになって雲の中を突き抜けると、雲は月光で青白く輝き、幻の美しい海のような世界が広がっていた。マークは足を踏みだしたい誘惑に駆られた。ふわふわした金と青の綿雲が、マークの足を受け止めて、どこまでも歩いていけそうな、そんな錯覚にとらわれた。
現実的なマークは錯覚に我を忘れたりしなかった。しかしこの世ならぬ美しさに、目を放すことができなかった。
「ん?敵だ。」
悪い冗談か、さっき誰もいないと言ったじゃないかと思いながら目を上げるとばさばさと翼を広げた黒い化け物が、上に主人らしき黒い男をのせて、ばさーっと旋回し、間違いなくこちらへ向きを変えるところだった。
銀ぎつねはとっさにマークをかばって上に覆いかぶさった。銀ぎつねの水滴もくっついてマークの湿気は2倍になった。
マクベスは銀ぎつねをどけてマークの頭を出させると、王宮から許可なくかっぱらってきたティアラをマークの頭に押し込んだ。
「『護れ』と言え。」
マークは気が動転して何と言われたのか聞き取れなかった。
「繰り返せ。『ま・も・れ』」
「まぁもぉれ?」
マクベスは首をかしげて待ったが何も起きない。あと少しでかぎづめに襲われそうだ。
「叫んで!『守れ』って!呪文!人間にしか使えない呪文!」
マークよりも気の動転しきっている銀ぎつねがヒステリックにわめいた。
体の下にいるせいか、その声は大きすぎるほどはっきりとマークの耳に入った。
「守れ!」
マークはおなかから声を出して叫んだ。
頭を締め付けるティアラがかっと外れたかと思うと、ブーメランのように怪物に乗る男に向かって飛んで行き、男の頭にはまった。と、出来の良すぎるライターのようにティアラは上下から炎を吹き出して、男を丸焼けにして、またマークの頭へめがけてまっすぐ帰ってきた。
マークは思わずよけたが、忠実なティアラはかくっとカーブして、再びマークの頭にはまった。斜めにはまる角度まで、マクベスが押し込んだ時と同じだった。
先ほど人一人を焼き殺したティアラは、金属と肉の焼けるにおいがして、火傷寸前まで熱かった。しかし、マークを焼き殺そうとはしなかった。マークがあごを動かしてみると、骨の動きに合わせてさらにずれた。
主を失った巨大鳥は、-鳥と呼んでよいものか、うろこでおおわれていた。しかしかぎづめとくちばしだけは鳥らしい。-驚いてしばらく逆飛びをしたが、やがて二つの眼がまっすぐにじゅうたんの上の三人の方を向いた。
(襲ってくる!)
マークは再び護れと叫ぼうと息を吸った。が、まの字も言わないうちにマクベスにさえぎられた。
「あれはわしの獲物だ。」
マクベスはじゅうたんの上に立ち上がると、金の網を出してくちばしをまっすぐにむけてつっこんできた巨大鳥をとらえてしまった。翼を使えなくなると、巨大鳥は落ちるしかないと思われたが、そうではなかった。くちばしをかっと開くと、ひどい金切り声で叫んでじゅうたんをがくがくと揺らした。マクベスが片手を伸ばして口の中で呪文を唱えると、鳥はぱくっとくちばしを閉じて、金の網は鳥の動きを吸収できる長さに伸びた。
鳥は恐ろしいほど抵抗を試みたが、金の網に締め付けられると諦めて、恐ろしい形相でじゅうたんに乗る3名をにらみつけた。
(絶対に恨まれた。あいつ、僕らの顔を覚えたぞ。)マークは確信した。
「呪文唱えていい?あいつ、殺さないと危ないよ。」
マークはティアラを押さえた。
「だめだ。」マクベスは断固として言った。「第一にあの鳥を調べたい。第二にその魔法は有限だ。使えば使うほど減っていく。」
「何が減るの?」
「銀ぎつねの寿命が減る。」
「え?寿命?」
マークは再び悪い冗談かと思ったが、銀ぎつねは平静に見返すだけで否定しなかった。しかしその普通の表情を見る限り、寿命が減って気に病んでいるようには見えなかった。60か70歳くらいに見えるが、その年で寿命が減るのは、ほとんど死ぬという事ではないだろうか?
「なくなったら使えなくなる。だから使う時は慎重に選べ。今のはお前に使えるかどうかをテストした。王家限定のアイテムでな。だから王女と婚約させたんだ。どうやら使えるな。」
マークはすぐにティアラを外した。
「返す。持ってたら間違って使いそうだ。」
「お前のために王宮から持ちだしたんだ。持っていろ。」
「今のでどのくらい寿命が縮まったの?」
「後だ。銀ぎつね。隠れ蓑を張れ。」
「…」銀ぎつねは黙り込んだ。「それはどういう術でしょうか?」
マクベスは答える代わりに指先から細い糸を出して、繭のようにじゅうたんを包み込んでいった。銀ぎつねも合点して、糸とは呼べない、きしめんくらいの太さのひもを出して、逆方向からじゅうたんを包んだ。
二つの糸が真中で合わさり、じゅうたんがすっかりくるみこまれると、マクベスは術をかけて、空と同じ色に繭を染めた。
月の光で照らされた藍色の薄絹に包まれているようである。外の景色は影になってうっすらと見える。外からはちょっとした不審物には見えるだろうが、注意深くなければ雲か影だと見落としてもらえるかもしれない。赤いじゅうたんに人が乗っているよりは人目を引かないだろう。
「これが隠れ蓑だ。全速前進。方角はあってるか?」
「確か南東よりも北にずれていたと思います。」
「準備をしておかなかったのか?」
「地図あるよ。」
マークはリュックからハンカチに書き込まれた地図をだした。小さくて薄い羅針盤が縫い付けてある。
「よし、こっちだな。よくやった。」
「待った!これ返す!」マークはティアラを振りかざした。
「お前のために盗んできたんだ。」
「盗んだ?持ってきたって言ったじゃない!」
「持ってきたからな。嘘ではない。」
持っていたら共犯になってしまう。もっとも一味に加わっているのだから、持ってなくても共犯扱いされるだろう。一避難民の言い訳を聞いてもらえるとは思えない。もはやシンシティには帰れまい。どうしてもマクベスに悪い魔法使いを倒してもらって、ミュゼに帰るしかない。
マークはいらいらして銀ぎつねに押し付けた。
「返すよ!持ってられない!」
銀ぎつねもさも心外だという様子を示した。
「それがなければ不安であなたを連れていけません。」
「銀ぎつねさんにかかっているような魔法をかけて!その、どんなことをしても全然大丈夫な魔法!」
「これは私の大叔父がかけた魔法で、私はやり方を知らないのです。」
会ってから3日くらいしかたっていなかったが、銀ぎつねは全く頼りにならない、とシンシティの人々と同じ結論にマークも達した。
「マクベスは知ってるんじゃない?そういう魔法。知ってたらかけてください。」
「知らないから持ってきた。」
「分かった。でもこれは使えない。銀ぎつねさんの寿命が減るんでしょう?じゃあ使ったりできないよ。死んじゃうかもしれないじゃないか。」
銀ぎつねはのどから声を出して心から可笑しそうに笑った。
「私の寿命はもうそこに入れてあるんです。だからこんなおばあさんの姿なんです。もう寿命が引かれた姿だから、いくら使ったとしてもこれ以上年を取りません。」
その理屈のどこに笑うポイントがあるのか、マークは分からなかった。
「とにかく返す。持ってたらなくしそうでそれも怖い。」
「なくすことはありません。どこにあるのか、私には分かりますから。」
魔法使いどもは受け取りそうになかった。マークはティアラをじゅうたんの外に突き出した。
「じゃあ、ここから放り投げる。それで帰った時取りに来ればいい。それなら使わずに済むし、安全だから。ほら?ね?受け取って?こんなの使えないよ。」
「お前が使わなくても、どうせ王家の人間が無駄遣いする。」
「いざという時のためですよ。あなたなら無駄遣いしたりしないと信じます。必要だと思ったらためらわずに使いなさい。無駄になっても構いません。そのための物なのですから。」
「持っておけ。心配するほど使えるものではない。一人の相手にしか使えないしな。逃げ道が確保できていて、追手が少ないときにだけ使え。そうでないときは、隠してしまっておけ。下手に抵抗しても殺されるだけだ。意味は分かるな。」
マークはよく分かった。物騒な所を何度も逃げまどって、シンシティまで来たからだ。
(いざというときに呪文を唱えられたら、心強い。)
一瞬で敵を倒した強大な威力を、ティアラを握る指がはっきり感じていた。もちろん受け取ってもらえるならマークには返すつもりはあるのだが、指が渡そうとしていない。ティアラを放したがっていない。
(使わずに持っているだけなら、銀ぎつねさんの寿命は減らないんだし。)
マークは何となく説得されてしまった。
「うん。」
「こっち向け。」
マクベスはティアラをふたたびマークの頭にはめ込むと、術をかけた。ティアラはマークの黒髪と交じって見分けがつかなくなった。マクベスはティアラを髪の筋そっくりの色に変えたのだ。
「後は本物の髪の毛をかぶせて、帽子でもかぶれば完璧だろう。帽子はあるか?魔力が漏れないようにガードをかけてやる。」
帽子はあった。外套のポケットに手袋と一緒に押し込まれていた。ヴォークトは本当に気の付く男だった。来ないのは残念としか言いようがない。本当にヴォークトが来ていれば、マークよりずっと役に立っていただろう。余計な罪悪感が積み増しされていくティアラなど、持ち出す必要もなかっただろう。
なぜ自分なのかは謎だったが、マークには引き返すつもりも、誰であろうと代わってやるつもりもなかった。だから余計な詮索はしなかった。
マークは帽子を深くしっかりと頭に押し込んだ。マクベスは眉間にしわを寄せながら呪文を唱えて帽子の縁をなぞった。
「よし寝ろ。寝てる時も帽子は取るな。起きてる時もだ。鋭い魔法使いなら、魔術の気配を感じとる。帽子をとったら捕まると思え。おやすみ。しっかり体を休めておけ。」
銀ぎつねはリュックを枕になるように叩き、いそいそと寝場所をあけて、優しく笑った。
「おやすみなさい。」
マークは眠れるほど心穏やかではなかったが、とにかく目をつぶった。
「おい、外套を直してやれ。」
「そうでした。」
銀ぎつねはマークを起こしてごめんなさいと言いながら外套を脱がせたが、正直袖の長さを気にしている気分ではなかった。銀ぎつねに謝られるのが苦痛だった。
2~3時間も寝たかなと思う頃、銀ぎつねがマークを優しく揺さぶり起こした。
「もうすぐ着きますよ。」
マークは銀ぎつねの顔を見てちょっと驚いた。銀ぎつねの髪は銀髪だが、お年寄りのように髪の毛がカサカサしていない。若い人の髪がそのまま銀色になったようで、つやつやして絹のようだった。それは同じだったが、今は髪の下の顔も、灰色をしていた。わら半紙のような土気色だった。それだけでなく、たった今地獄を覗き込んだかのような空ろな表情が浮かんでいた。
「トイレ行きたいな。もうすぐ降りられる?」
「それはもう少しかかりますが…。これをどうぞ。」
銀ぎつねはポケットから紙包みを取り出した。手を出すと、干し棗が手の上にいくつも落とされた。銀ぎつねのポケットには何でも入っている。
「あなたは食料を持ってはいますが、途中でとられるかもしれません。たぶんですが、向こうの人は餓えていますから。今のうちに、食べられるだけ食べておくといいです。」
食糧はとっておきたいと、マークも思っていた。おかみさんと親方と、それに2人の知り合いの人たちに、必要かもしれない。脂身のせいで胸焼けのするマークはありがたく棗をかじった。胸がすっとする気がする。
気が付いて、携帯食料の包みを、ずた袋や外套のポケット、ズボンのポケット、靴下にまでに分けて押し込んだ。これで全部を取られることはない。
「銀ぎつねさん、何かあったの?顔が変だよ。」
「妻にしてやると言ったらそんな顔をしてな。名誉な事なのに喜ばないつもりだ!7番目にしてやると言うのに!」
マクベスが進路方向を見つめたまま怒った声を上げた。
「7番目?」
「その顔を続けるならこのまま帰るぞ!黒魔なんぞほっておけば自滅する! もう少したってから来た方が戦略的にいいんだ!」
「シンシティがこれ以上避難民を受け入れられません。耕作地が少ないんです。」
銀ぎつねはかすれた声で答えた。
「すこしたってからなら、避難民と交換で土地が手に入る。人間を殺しつくしたら奴らはお互いに殺し合いを始めるから、その時をねらえばいいんだ!わしに口答えするならすぐ帰る!」
銀ぎつねは口をつぐんで争わなかった。マークはいろいろ争いたいポイントがあったがやめた。
「7番目って何?」
マークは小声で尋ねた。
「マスターは9人奥さんをもらうそうです。その7番目です。」
「何で結婚の話になったの?」
「私にも分かりません。」
「でもマクベスは小っちゃいよ?」
「あれは子供の姿をしているだけで、本当はかなりの年齢なんです。」
マークはマクベスの背中を見た。明らかに気を悪くしている。背中を見て分かる。
我ながら卑怯だとは思ったがマークは黙っていた。確かに災難だとマークも思うが、銀ぎつねは何とかするだろう、7番目だろうとなんだろうと。マクベスに機嫌を損ねられたら、おかみさんと親方を助けられない。マクベスでないとダメなのだ。銀ぎつねでは無理なのは、マークにもわかる。
マークは銀ぎつねから眼をそらして、じゅうたんの後ろにある鳥を探したが、見えなかった。
「大きな鳥はどこに行ったの?」
「調べたらただのカラスだったんで焼き鳥にした。」
マクベスは不機嫌そうに答えた。
話題が続かない。無理に続けることもない。マークは体操して着地に備えた。
「近い。銀ぎつね、運転代われ。」
銀ぎつねはギクッとした。その理由はすぐにわかった。銀ぎつねは運転が下手だった。
じゅうたんは急降下して、地面をかすったのち上昇して、斜めにかしぎながら進路を目指した。
「落ちる!」
「浮遊術が壊滅的に下手だ。昨日からずっとこれだ。」
マクベスはマークと自分を浮かせて、安全を保ったが、銀ぎつねは無事では済まなかった。運転手は落ちかけたが慣れた様子で縁をつかみ、じゅうたんは逆さにひっくり返ったがそれでも一路敵地を目指していた。
マクベスが両手を出して手首をくるりと回すと、じゅうたんは一回転して水平を保ち、快適に運転した。
「上昇しろ。」
マクベスがうまくバランスを保ってじゅうたんを抑えているので、銀ぎつねは浮遊術の出力を上げるだけで、じゅうたんはぐんぐんと空高く上った。
月明かりに照らされて、城壁に囲まれた白い建物の街が見える。森や池もあるらしいが、詳しいことは分からなかった。黒いもやに覆われてかすかにしか見えない。遠くて小さいが、黒い点がそこかしこに羽虫のように飛び回っているのが見える。小さな火の手が上がるのも見える。
マークはミュゼが襲われた時のことを思いだして、泣きだしたいような気持になった。あの小さな黒い点は、みんな黒い化け物だろう。ミュゼの廃墟をうろついていた、巨大グモのような人間を襲う生き物の仲間なのだ。おかみさんと親方は生きているのだろうか?
「黒魔の気配は?」
「そこら中から感じます。」
銀ぎつねの声は震えている。
「数は?」
「…近くにいるのは10…20か30。眼を飛ばしますか?」
「いや。放ったやつらは中にいるのか?」
「3人は確実です。後の人たちは分かりません。何しろ気配が弱すぎて。ひどい瘴気があの街を分厚く覆ってます。」
「もう着いていていいころだ。魔力の使い過ぎで行き倒れたか。」
「捕まったかもしれません。」
「そうだとしても口を割ることはないはずだ。もうしばらく待つか。」
マクベスは腕組みをして目を閉じ、沈思黙考した。
「早めに潜入する。ボスの居場所も探らにゃならん。中に入ればお前の眼の位置も分かるだろう。」
「こっちに気付いたようです!こっちに来る!」
マークの目にも見えた。小さな黒い点がいくつか、見覚えのある旋回を始めた。方向転換が終われば、シンシティを出たところで襲われたのと似たような奴が、襲ってくるという事だ。
「さっき爆発が起こったのを見たな?その真反対の側につっこめ。全速!向きはわしが調整する。」
マクベスも銀ぎつねも両手を出し、二人がかりで集中力を高めている。マークはリュックを担ぎ直し、コートの前をしっかりかきあわせて体を低くした。
青い繭に包まれたじゅうたんは、流れ星のようにカーブを描いて、ウォンシティの上空へ落ちていった。
了
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