Ⅱ シンシティ

 今日死ぬか、明日死ぬかと思いながら、マークは歩いていた。空腹のせいで、短い道のりがとてもこたえる。しかもその道を超えていて、遠くに見えていた目印の所まで来ても、目的地とは言い難い。

 マークは自分が餓え死にしかかっているのは分かっていたが、とにかく人がいて、子供を哀れんで食べ物をくれる所まで、辿りつかねばならない。すなわち平和で、また食べ物に余裕のある国まで。

 しかし行けども行けども、戦争を越したばかりか、城壁が閉ざされて武器が並べられているか、下手したら捕まりそうな謎の怪物がバサバサ飛んで、征服後を思わせる、暗い空気に満ちていたりした。次の街へ向かうことを選ぶしかなかった。

 マークが知らなかっただけだった。ミュゼとウォン市や、近くの街以外は平和だと思い込んでいたが、違っていた。地平線に続くまで、どこもかしこも征服戦争の真っただ中で、戦争だらけだった。

 マークは川底に下りて、あまりおいしいとは言えない水を飲んだ。水を飲むしかないのに、それもあまり飲みたくない。唇が乾いて、のどがせまくなっている。

―もうここで死んでしまってもいい。

 そんな気持ちでマークは川べりの草に寝ころんだ。

絶望だけではなく、もう歩かなくていいのだという安堵感が、マークを満たした。

彼が覚悟を決めたのにはそれなりに理由があった。

一、 もうとても動けない。

二、 動けても次の都市までだ。

三、 そしてその次の都市は、さっき川に下りようとするとき山のすきまに見えたのだけれど、煙が上がっていて、火事と戦争に巻き込まれているように見える。

 寝ころぶマークを避けるように、大荷物を背負った避難民らしき女性が、水を飲み、水筒をいっぱいにしてから、山の方へ向かう山道を登って、森の中に消えてしまった。

 マークはしばらく迷っていたが、何とか起き上がり、ほうきを杖にして同じ道を上って行った。栄養失調で行き倒れになるとしても、人の大勢いる所でなるほうがよい。


 避難民らしき親子の後を、マークはすぐに見失った。

 疲れ切ってほとんど体力のない13歳の少年より、大荷物を背負った母親と二人の子供のほうが、はるかに足が速かった。マークは母親が振り向いて、自分に食べ物をくれるか、もしくはゆっくり歩いて一緒に目的地まで歩いてくれないかとほんの少し希望を持っていたのだが、母親のほうは、よれよれの、頼りの少ないまだ子供に入る少年が、後ろにいるのを気が付かず、あるいは気にしている余裕はなく、山道を登って行き、見えなくなった。「だけどこっちで間違ってない」マークは自分に言い聞かせた。細い山道は、大勢の足で踏みならされて、道でなさそうな木の間まで、道になっていた。

 「皆ここに逃げてきているんだ。」そして戻ってくる人の姿は見えない。と、いうことは、ここは安全な場所なんだ。マークは何も考えず、ひたすら、右足、左足、と、自分に言い聞かせて、山道をたどった。巨木の壁に隠されていた建物が見えてきてからも、マークは自分が限界だ、心臓を口から吐き出すかもしれない、そのくらい気持ち悪いと思うまで、歩かなければならなかった。

 門にたどり着き、ろくに調べもしない門兵に入れてもらって、―不用心すぎると思ったが、ありがたかった。-マークはまだ歩かなければならないことを知った。街路の端にずらりと、避難民が物乞いをしていたのだ。門の前には三重ぐらいに、普通の服を着た市民が、ただほこりにまみれて疲れ切った人々が、誰かに助けてもらうのを待っていた。

 「誰も助けてくれないんだ」助けてほしいと思っていたが、こんな形ではない。それに、待っていても無駄みたいだ。「僕は物乞いはしない。働けるんだ。」ほうきはある、ミュゼの、掃除夫の許可証も背中の風呂敷包みに入れてある。水回り以外の掃除は、床のワックスがけでも、窓拭きでも、かなり難しい作業まで、任せてもらっていた。どこに行ってもプロとして通用するはずだ。もちろんごみ拾いみたいな初心者の仕事とて、嫌うものではない。マークはほうきを杖にして、最後の力をふりしぼった。

 とりあえず、一番お金がかかっていそうな、丸塔の付いた、右の丘のてっぺんに建つ家を目指すことにした。このあたりで、一番高いところに建っている。造りも丸塔と背の高い塔がついていて、珍しい。たぶん一番お金持ちが住んでいる。あそこなら、少年一人、雇う余裕があるだろう。あそこでだめなら、他にどこを目指せばよいのか。断られても、あたりの事情に詳しそうだ。何か教えてもらえるかもしれない。真っ白で殺風景な色をしているのも、マークの確信を深めた。あの無難な色は、ミュゼではお役所にしか使われていない。「きっとあそこなら僕を助けてくれる。」こんなに避難民が集まっているのだ。このあたりの家はこれ以上助けられない。あたるだけ無駄だ。だめだったら、ここに戻ってきて行き倒れよう。

物乞い元市民達から眼をそらして、マークはまっすぐ建物だけを見て、とりあえずそっちの方向を目指した。当然道など知らない。見ていればいずれ辿りつくだろう。

 マークは本当に自分は今にも死ぬかもしれないと思うほど、歩かなければならなかった。道に迷って、行き止まりにぶつかり、引き返さなければならなかったが、歩き続けねばならなかった。荷物が重たい。置いていけたら楽なのだが、一番重たいのは水だ。他は着替えとかで、軽い。歩くには水が必要だ。ただ、その水がさっきから全然飲みたくない。のどがからからなのに、1滴も飲みたくない。これは本当に死ぬかもしれない。今すぐにでも引き返して、避難民たちの間で寝そべるほうがいいのかもしれない。しかしマークの心が、こちらのほうがうまくいきそうだと言っている。いつだって心の声のほうが正しかった。

 マークの推理は間違っていなかった。白い建物には塀がめぐらされ、物々しい警護の兵隊が歩哨に建っていた。街の門の警備がざるだったのは、一番大事なところは、しっかり警護しているから、ということだったようだ。「ここなら掃除の仕事がありそうだ」マークは希望を抱いた。真面目に掃除する兵隊なんて、聞いたこともない。学者先生の中で一番横柄な人より、人に掃除させたがるに決まっている。が、衛兵は門前払いを食わせた。ここの警備は厳しかった。しかし奥に酒瓶を持って赤くなっている兵士がいた。その兵士は、マークがちょうど青年と子供の間くらいの、体は大きくなっているが、心はまだ子供から脱し切れていない、魅惑の年齢であるのを見て、にやにやした。働いて、一人前に社会に出てきたマークには、その兵士が危ないこと、近づいてはいけないことはよくわかった。しかし、今は中に入れてもらえて、食べ物をもらえるなら、他のことはどうでもよいと思った。

(とにかく食べ物だ。先にもらって何とか逃げ出そう。)

マークは決めた。そして、門兵が厳しい顔で、「あいつに近づくな。お前もよせ。」と、止めたにもかかわらず、そのだらしのない兵隊が手を握った時、自分からついていった。

(とにかく中に入れた。)マークは思った。(食べ物!)

「これ、そこの坊主」

(また誰かおせっかいを焼くのか…。何か食べるまで、こいつから離れないぞ!)と、マークは聞こえないふりをした。が、兵士はわざわざ膝をついて挨拶した。マークも真似ざるを得なかった。

「これそこの。城内のものか。」

「返事しな。」

赤ら顔がマークをつついた。

「いいえ。別の街から来ました。ミュゼというところです。」

「そうか、魔法使いの見習いかね?」

老人はマークのほうきに異様な凝視を注ぎながら言った。

「ミュゼにも確か魔法使いがいたが。」

避難している間、何度も同じことを聞かれたが、マークは絶対に真実を述べることにしていた。たとえその嘘で、変態から逃れられるかもしれないとしても。「魔法使いです」と言ったら、次は、「何か魔法を使え」と、言われるに決まっていた。あるいは、「火あぶりにしろ」と、言われるかもしれない。

 ただ、目の前の老人は、三角帽をかぶり、長い黒のワンピースを着て、どちらかといえば、魔法使い寄りのようだったが。

「いえ、掃除夫の仕事を探してきました。ミュゼの街で、親方は捕まって、僕は何とか逃げ出してきたんです。掃除夫の鑑札はあります。ミュゼ市長の印もあります。どんな掃除でもやれます。掃除以外も、何でもやります。スープとパンさえいただけるんなら。」

マークはすらすら答えた。この数日間、何度も同じことを言って、あちこちの家のドアを叩いたのだ。空腹がこたえた。倒れそうだった。しかし置き去りにしてきたおかみさんと老人たちのことを思い出し、ぐっとこらえた。もう子供ではない。

 老人は王宮付き魔法使いマクベスと名乗った。長い白ひげをしごきつつ、マークのことをあれこれ尋ねた。得心がいくと、赤ら顔の手からマークをひったくって、自分の雑用小僧にする、と、赤ら顔に言いつけた。

「わしは大魔法使いのマクベスじゃ。よく勤めたら、魔術の秘儀の一つを教えてやらんこともない。わしの奥儀は、どんなつまらん物でも、一国を滅ぼす値打ちがあるのじゃ。」

マークはその意味するところを正確に理解した。このおじいさんに、役に立つ魔法を教えてくれる気はたぶんない。給金を支払うつもりはさらにない。

「食べさせてもらえますか?」

マークは、一番肝心なところを確認した。マクベス老人はその点を約束してくれたので、マークは老人のために働くことを決めた。赤ら顔はいつの間にか消えていた。

(あいつの手から僕を助けた。この点だけはいんちきじゃない。)

マークは内心感謝した。そして、マクベス老人の、今にも崩れそうな、危なっかしい塔へついて行った。

 らせん階段を延々と登って、てっぺんの書斎が、老人の居室兼仕事部屋だった。

 何故か細長い部屋の壁際に本棚、片側いっぱいにベッドが、もう片側いっぱいに机が置いてあり、ひどく狭苦しかった。何もない床は、3人も立てばなくなるほど小さかった。

「ここがわしの仕事部屋じゃ。そこがお前の部屋じゃ。」

マークの部屋は、ドアの外にある、部屋というよりも、後から作った棚のような不自然なでっぱりに過ぎなかった。しかしマークは気にしなかった。寝る場所と食べ物があるなら、今のマークが、何を気にするだろう? 仕事が見つかったのだ。埃っぽい場所だが、クモとほこりは商売仲間のようなものだった。

「荷物を置いて、少し休みなさい。その前に、わしのために水を汲んできてくれ。」

マクベス老人は、ベッドわきの大きな蛇口の付いた給水器を指差した。(きっとからっぽだ。)マークは予想した。それをいっぱいにするのは、ひどく骨が折れそうだった。この螺旋階段を上り下りしなければならないのだ。

「水汲みの場所は、誰かに聞きなさい。空っぽにならないように、いつもいっぱいにしておくように。風呂に入る時は、台所に行って、お湯をもらって来てくれ。魔法の前に、身ぎれいにしておく必要があるでな。

 窓拭きができるといったな。ここの階段を全部きれいに掃き清めて、それから、窓拭きにかかってくれ。天井までの壁についたすすも全部きれいに落としなさい。分かったな。」

マクベス老人は、まるで簡単な事でも言うように軽く言った。

「怠けるのは許さん。いつも見張っていると思いなさい。」

(天井までって言っても、階段で使おうと思ったら足の長さの変えられる、特別製の梯子がいる。それにここの窓はすごく高い。こんなところの窓まで届くはしごなんてあるもんか!)

「魔法は教えてもらえるんでしょうか?ちょっと空を飛べたら、掃除が楽になるんですが。」

マークは言ってみた。

「まだ早い!」

疲れやすいお年寄りはひと寝入りするために、ベッドにもぐりこんで、いびきをかき始めた。マークは、かび臭い、ほこりっぽい、長い間掃除をしなかった、古い建物のにおいをかぎ、大きないびきを聞きながら、しばらく突っ立っていた。古い建物も、湿気のこもりやすい石造りの建物も、どれもきれいに掃除するのは骨なのだ。ほこりっぽいにおいが抜けない。どちらにも当てはまるのなら、どんなに頑張ろうが、絶対に満足のいく出来にはなるまい。別に構わないのだが、この老人は、その事に構いそうだ。

(くよくよしたって仕方ない。とにかく、今日は食事ができるんだ。)

マークはベッド脇にある重たい水桶をつかんだ。通りがけに、給水器をゆすってみたが、案の定空っぽだった。洗面器には、濁った水が浮いている。

マークは人のいないのを確認して、洗面器の水を窓からほりなげて空っぽにした。そして、きれいに洗うために、ぬめぬめする洗面器を水桶の中に放り込んで、長い螺旋階段を下りて行った。誰かが仕事を教えてくれるだろう。台所があるのなら、野菜の切れ端でもねだってみよう。

 マークの最初に思った通り、思った以上に、老人はよくない主人だった。

 まず、食べ物が少なかった。そして、仕事が重労働ばかりだった。

 水桶を運ぶのは、きつい仕事だったし、長い螺旋階段を掃き清めるのは、水を運ぶのと同じくらい、大変な労働だった。食べ物の少なさが、そのきつさに拍車をかけた。

 仕事の終わりに親方の家に帰って、スープを食べて、ゆっくり寝られるわけではないと、仕事はすごくつらくて、時間が長く感じる、ということを、マークは学んだ。

「お前はまだ窓をきれいにしていないのか? 階段が暗くてかなわん。」

「お前はまだ壁を磨いておらんのか? ミュゼの掃除人というのは、怠け者じゃな。」

マークは、この街の門のところで物乞いをしていた避難民のことを思い浮かべて耐えた。

(あいつらよりもましだ。)

マクベス老人は、確かに重要人物のようだった。この建物が、離宮であるということを、マークはほどなく知ったが、ここでも食べ物は不足していた。兵士たちでさえ、おなかいっぱい食べられているとは言えなかった。しかし、マクベス老人のためには、パンとスープの他に、メインのお皿が、サラダ付きで運ばれてきた。老人は旺盛に食べた。そして、その食べ残しが、マークの食事なのだった。そして、それはほとんど食べるものがないということだった。マークはお皿や鍋をピカピカになるまでなめて、給仕係や料理係と仲良くなり、昼間の空いているときに台所の水汲みや掃除を手伝って、捨てるいたんだ野菜か、干からびた野菜をもらった。とにかく食べ物が当たるのだから、歩いてさすらっていた頃よりはましだとも言えたし、屈辱だともいえた。プロの仕事をしているのに、一人前の食べ物さえもらえないのだという事実が、マークのプライドをひどく傷つけた。毎日けなされることも、マークの疲労を深めた。マークは自分の部屋、(もしくはでっぱり)で、ベルトをきつく締めて、ミュゼにいたころのおかみさんや、おかみさんのスープ、たくさん入れてくれたこと、カイヨー親方が仕事のきつい日は、休憩時間にパンを切ってくれたことを思い出した。幸せな思い出を食べながら、マークは生きていた。しかしその思い出も、いずれは食い尽くされて、心がゆがんでいく日が来るに違いなかった。マークがその日もベルトを締めようとすると、もう締める穴がないということが分かった。

 マークはバックルを外して、金具を使って、新しい穴を開けて、さらにベルトが締まるようにした。

かすれた小声で、掃除夫の歌を口ずさみかけて、耳を澄ませた。マクベス老人のいびきが聞こえる。大丈夫だ。

「掃除するのは ろくでもない仕事

朝早くから 日が落ちるまで

掃いたり拭いたり磨いたり

暗くなったら ビールで乾杯

手をきれいにして 肉入りシチュー」

マークはふんふんと小声で3回うなって、寝返りを打った。彼は特に、「掃いたり」のところが好きだった。親からもらった竹ぼうきが使えるからだ。竹ぼうきは、庭掃除の、それも落ち葉を掃き集める秋にしか使えないのだ。しかし今は、「肉入りシチュー」のところが、とりわけ胸に迫った。

これだけ痩せたということは、体が軽くなったということだから、新しい窓拭きの方法をためしてみられる。

 それから、どうしても、マクベス老人のいないときに、あの本棚の本をとって読まなければならない。魔法の本でなくても構わない。何か気を紛らわせるものがなければ、とてもやっていけない。

 彼はぎゅっと目をつむって、苦労して眠りについた。こんなに疲れているのに、眠ろうとするのが、毎日大変になってくる気がした。



翌朝マークは、水汲みを済ませると、台所から、丈夫なひもと、細いたこ糸を分けてもらって、新しい方法を試すことにした。

古い崩れかけの塔、周りの人は、「魔法使いの塔」と呼んで、怖がりもし、頼りもしていたが、マークには関係ない。大変掃除しにくいということだけが、重要である。  一番てっぺんにステンドグラスが並んでいて、階段の明り取りになっている。これが汚れているので、階段がうす暗く、老人は動きにくいのだ。

ちょうど螺旋階段の、窓と階段の間くらいに、ろうそく台がある。老人が、「これに火を灯したら、明るくなる!」ということを、思いつかないようにマークは祈っていた。その仕事もマークがやるに決まっているが、毎日点けたり消したり取り替えたりは勘弁してほしい。

ともかくマークは、そのろうそく台に小石を結んだタコ糸を投げかけて、するするひいて、丈夫なひもを渡すことに成功した。次いで、そのひもに体重をかけてみたが、軽くなっているせいか、ろうそく台は十分にマークの体重を支えられるようだった。

マークは顔をしかめて考えていたが、思い切って一気にひもをよじ登った。

一息に登って、ろうそく台の上に、うずくまった。大丈夫のようだが、そろそろと立ち上がる。腕を伸ばせば、汚れた窓に届く。腰につけた雑巾で、そーっとこすり、次いで裏面でそーっとこすると、雑巾は真っ黒になった。

そしてマークは跳び下りた。

うまくいった。が、もっと簡単な方法がある気がする。例えば、長い棒の先に雑巾をつけて拭くとか。大変な割に、きれいになった気がしない。掃除は、楽にできる、ということも重要なのだ。第一、外の面はどうするのだ。外のほうが汚れているぞ…。

(ステンドグラスじゃ、スクイーパーは使えないしな。やっぱり雑巾で地道にこすらないと。それにそもそもスクイーパーが、ここにあるのか?)

マークはひもを丸めて束ねて、ポケットにしまった。長い棒を探さないといけない。少なくとも3メートルくらいはいりそうだ。でもそこらじゅうに兵隊がいて、あんまりうろうろできない。そんな棒は見つかりそうもない。見つからなければ、またこの方法で、ステンドグラスを磨くことになるだろう。マークは数えた。ステンドグラスは5枚ある。それも、階段がらせんでどんどん下がっているせいで、右の窓ほど、掃除は難しい。どうやったら、一番右の窓拭きができるのか、まったく見当もつかない。

老人は寝ている。たぶんまだしばらく起きないだろう。

マークはそっと駆け上がって、老人の本棚からあまり目立たなさそうな小汚めの本を抜き取り、抜いたとわからないように、本の隙間を均等にした。老人が本を触るのを見たことがないし、本の上にも、本棚の棚板の上にも、こんなにほこりがかぶっているのだから、見てないときも触ってない。マークは借りた本を毛布の下に折れたり、曲がったりしないように気を付けて隠した。そして、この部屋の掃除もするべきだと心に留めておいた。はたきとモップがいる。

そして、朝ごはんの前に、窓拭きを1枚でも仕上げようと、とにかく棒を探しに行った。

塔は、ほとんど母屋の離宮とくっつくほど近くにあったが、塔と離宮の間は、通路もなく、ドアもなく、母屋と、塔の、分厚い2重の壁で隔てられていた。そして、台所もまた、母屋のはずれにあったので、マークは母屋をぐるりと廻らなければならない。離宮は外にも高い塀があって、外界と隔てられていたが、母屋もぐるりと隙間なく生垣と呼ぶに高めの木が生い茂っていて、中を覗こうにもできないくらい、葉がびっしりとついている。毎日マークは生垣沿いを歩いて水を運ぶ。

これがネズミモチと呼ばれる常緑樹で、秋ではなく、夏に葉が落ちることを、マークは知っている。掃除夫だからだ。そして、その落ち葉を自分が、つまり本人は動かずに、マークを使って掃除したほうがよいかもしれないなどと、マクベス老人が思いつかないことを望んでいた。剪定作業まで必要になる。庭師の手伝いだって、落ち葉と枝を運ぶ重労働である。特に枝は、細くても重たい。壁にすれば楽なのに。

(なんて不自由な作りの家だ! 絶対えらい設計師が考えたに違いない。上等な家は、みんなこうだ。)

 マークが生垣に関して考えることは、それだけだった。中を覗こうとは、思わなかった。これがなかったら、台所まで中庭を横切っていけて、水汲みが楽だとは思っていたが、中の人に全く興味はなかった。中の人がいなければ、台所まで直線距離で行けるのに、と、思ったことはあるが。今も幼い女の子の声がしていたが、マークの耳には入らなかった。

 白いボールが生垣の外にポンと弾き飛ばされてきた。

 マークはそのボールを追いかけた。中の人が出てくる前に、ボールを、中に入れてやろうと思ったのだった。使用人として、ボールを取ってくるべきだし、掃除人として、姿を見られるべきではない、と、マークは考えた。

 始終おなかが減って疲れているので、動作は昔のように素早く、とはいかなかった。マークは緩慢にボールに歩み寄って、諦めたようにボールを拾い、投げる元気がないので、生垣の中に押し込もうと、振り返った。

 と、見たこともない生き物が、顔の前にいた。

 真っ白で、パタパタしているが、ちょうちょよりもずっと大きい。けれど鳥と呼ぶには平べったすぎる。不格好な折り紙、といったほうが当たっている。

 理解しようとしてもマークの知識では理解できない。シン市にいる新種の大型蝶だろうか? 真っ白で人造物のようだが。わずかに光っている。

「誰ですか?」

 年を取った上品な女性の声が生垣の中から響いた。マークはいないふりをしてボールを押し込もうとした。

「見慣れない顔ですが、何者ですか?名乗りなさい。」

顔なんか見えるわけない、と、マークはボールを押し込んで棒さがしの続きに出掛けようとした。偉い人は、ボールが勝手に戻ってきたと、思ってくれるものだ。掃除夫が持って来ようと、風に乗って舞い戻ってこようが、全く同じように考えるのだ。

 が、運悪く食器のかごを抱えた給仕係と出くわしてしまった。マクベス老人に朝食の皿を届けに行く途中である。

「そこから少し行ったところに、隙間があります。子供なら、入れます。いらっしゃい。怪しいものでないのなら、ちゃんと顔を出して名乗りなさい。」

「家庭教師の先生が呼んでるぞ。」

顔なじみの給仕係は、隙間のあるほうへあごをしゃくって見せた。

マークはためらった。汚れたお皿は彼の貴重な栄養源だ。給仕係は情けのある青年で、マークが何をためらっているのか、正確に察して、しかもそのことを口にしなかった。

「汚れた皿はいつも通り、台所までお前が運んで来いな。てっぺんの部屋に置いておくから。

 早く行って来い。家庭教師の先生は、魔法使いらしいぞ。」

マークはうなずいて、生垣に沿って歩いた。隙間らしきものは見つかった。マークは汚れたハンカチで手と顔を拭いてよれよれのズボンの中に、シャツを入れてから、その隙間に体を横にして入った。相当体をぺったんこにしないと入れなかった。

 中に入ると、外よりも強い光がさしているような気がした。

 光の強さは生垣の外も中も一緒だったが、目に入るものの美しさが違った。

 彼の眼に入ったのは、きれいに整えられた緑一色の芝生の上の、赤いビロードの服を着た茶色の髪の小さな女の子だった。茶色の髪に銀色の、高価そうな銀の細工のティアラを着けている。マークが拾った白のボールを持っている。

(お姫様だ!)

ティアラを着けているのだから、王家の人間に違いない。その子は何を思ったのか、マークにボールを投げつけた。ボールはマークの胴体にあたってあらぬ方向へ飛んだ。

そのボールを銀色の服を着た老婦人が拾った。

「人にボールをぶつけてはいけません。けがをしたらどうしますか?」

「一緒に遊ぼうと思っただけだもん。ボールくらい受け止められると思ったんだもん。」

「初めに遊んでもいいですか、と聞いてからですよ。」

しかし、お姫様は突っ立って何の反応もしないマークをしばらく見て、興味を失った。しゃがみ込むと、棒きれで、地面をひっかいた。

「あなたのことは知っていますよ。魔法使いの塔の周りに、よくいますね。何をしているのですか?」

老婦人はマクベスの周りを1周しながら言った。

(ズボンのお尻が真っ黒なのも、服が汚れてぼろなのも、見えてるはずだ。避難民でなければ何に見える?)

マークはほつれた髪を指で直した。うっかり、櫛を持ってこなかったせいで、日毎にひどくなる。

「魔法使いのマクベスさんのところで、掃除したり、水汲みしたり、身の回りのお世話をしています。」

「そうですか・・・」

マークはおばあさんの目に、助けてくれそうな憐れみを見た。しかしこれまでの経験から、あまり期待はしなかった。案の定、おばあさんは、すぐに目を伏せてしまった。

「もう行ってよいですよ。ご苦労でした。」

(なんだ、これだけなら、何のために呼んだんだ?)

マークは疲労感を覚えて、帰ろうとすると、幼子の姫様が、マークの手をつかんで、行かせまいとした。

「一緒に遊びたい!」

お姫様は、銀服のおばあさんに向かって訴えた。

「そうですね。少し、小鹿様と遊んでくれますか?時間があるなら。」

時間はない。早く魔法使いの老人のところへ行きたい。朝ごはんを食べたい。まだ始まっているかわからないし、いつ始まるかわからないが、とにかく用事が済んだのなら解放してほしい。しかしかろうじて置いてもらっている身の上で、この館の偉い人らしいご婦人とお嬢さんの頼みを、断れないこともマークには分かっていた。

 銀服のおばあさんは、ポケットから、銀貨を一枚取り出した。

「少ないですが、あなたが遊んでくれるなら、これをあげましょう。その間私は少し休めます。」

(前払い? 信用していいかもわからない相手に? このおばあさん、ちょっとお人好しだな。)

マークは、自分がいつだって払ってもらった以上の仕事をすることをよく分かっていた。この人も後悔しない。だから正直者の笑顔で(不正直者がどんな笑顔をするのかマークは知らないが)遠慮なく受け取った。

今この館で、お金がそんなに役に立つとは思えない。たぶんこれと引き換えに、肉きれ一枚、買うことはできないだろう。食べ物のほうがずっと値打ちがある。

しかし貯金は悪くない。おかみさんの持たせてくれた銭箱の中身は、布で平たくくるくる巻きにして、おなかに巻いてある。マークはマクベス老人も、戦争の真っただ中にあるこの国の使用人も、だれも信用していなかったので、肌身離さず身に着けていた。その巻いてある小銭が、一枚増えるのだ。節約して使わないようにすれば、きっと役に立つだろう。いずれおかみさんや、親方にまた会えた時にでも。

マークは小銭をポケットに入れる間に、それだけのことを考えた。

「わかりました。休んどいてください。お嬢さんは、僕が見てます。」

「小鹿様が危なくないようにだけ、気を付けてくださいね。」

銀服のおばあさんは、笑ってうなずいて、中に入った。

 本当にお人好しらしかった。マークが信用できる人間かどうかも分からないのに、大事なお嬢さんと二人っきりにするとは。もちろん、自分が信頼のおける人間であることを、マークはよく分かっているが。

ボール遊びのしたいお姫様と残されたが、お姫様はさっそく、ボール遊びのルールを説明した。

「私がボールを投げるから、全部拾って投げ返してね。地面につかないで長い間続けられるようにするの。」

そして、いきなりあらぬ方向へボールを放り投げた。

「早く拾って!」

想像したよりきつい仕事の予感がした。マークはなぜ銀服のおばあさんがこのお姫様をあっさり人任せにしたかったのかよく分かった気がした。

 彼の子供時代は、労働と、合間の休憩で構成されていたので、ボールで遊びたいという気持ちも、これが楽しいという気持ちも、理解を超えていたが、仕事である以上、ボールが地面に着く前に拾うように工夫するのが、彼の務めというものだろう。

 マークは生垣のそばで球を拾い上げたが、そのとき、不格好な白い折り紙が、パタパタと近くの木の枝にとまるのを見た。「家庭教師は魔法使いだ。」と、給仕係に言われたことを思い出した。あれはたぶん銀服のおばあさんの魔法の産物だろう。あんな生き物は図鑑でも見たことがない。

マークは首をかしげたが、それは彼の仕事ではないので、ボールをうまく受け取ることに集中した。

 お姫様はあらぬ方向に投げていたが、マークはやがて、プロのゴールキーパー並みに、全方向のボールを受け取り、お姫様がおなかの前にそろえた両手の上に、ふんわりと投げ返すことができるようにまでなった。

「なんかつまんない。別のことしよう!」

自分よりうまいマークに嫌になったお姫様が言い出したころ、銀服のおばあさんが、休めてすっきりした、という顔で、現れた。女性の給仕も現れてテーブルの支度を始めた。ティーポットや、お菓子を運んで、丁寧に並べ始める。当然マークの席はない。

しかし銀服のおばあさんは、マークに立ったまま、彩色のある、すてきなカップに入れたミルク紅茶と、おそらくはおばあさんの分であるふんわりしたシードケーキを食べさせてくれた。1時間ばかりスポーツをしたマークには、どちらもぜひとも必要な栄養だった。そして、お姫様と銀服のおばあさんが、お茶の席につく前に、マークを解放した。「まともな雇い主だ。」と、マークは思った。彼は来た時と同じ、生垣のすき間を通って元いた道に返った。

先ほどまでいた緑の芝生が、とてもきれいだったように思われた。

給仕係が残してくれているであろう、マクベス老人の食べ残しのお皿をなめるのも、なんだか今日はやりたくない思いがした。

マークはけだるい体をゆっくりゆっくりと塔のほうへ歩いた。

今までの疲れが出たのか、久しぶりにまともに報酬のある仕事をして、張っていた気が抜けたのか、すっかり体調を崩していた。


「無理をするなよ」と、給仕係はぽんと肩を叩いてくれたが、彼としても、それ以上のことはできなかった。料理人は今は水汲みはしなくてよい、と言ってくれたが、マークはやらないわけにはいかなかった。自分がやらなければ、給仕係の青年が、水汲みをやることになる。給仕係はお仕着せがぬれるといって、やりたがらない。でも本当は片足を引きずるから、重たいものが持ちにくいのだ。給仕係も料理人もいつも便宜を図ってくれている。いいと言ってくれたからと言って、掃除人がこれしきの事で休むわけにいかない。ミュゼの掃除組合で一番信頼厚い、カイヨー親方の鑑札を見せたのなら、なおさらだった。

マクベス老人の塔でも同じだった。

マクベス老人には、わざわざ体調が悪いと、言おうとさえ思わなかった。彼は体調が悪いなどと言おうものなら、怒り出しそうな主に見えた。

マークはますます痛くなる頭と、すぐにでも寝ころびたいようなだるい体を引きずりながら、借りてきたほうきで長い螺旋階段を掃いて、ブラシで塔の石段を水でこすった。老人が珍しく部屋を出るというので、はたきをかけて、布団を干した。それからまた、らせん階段の壁磨きに戻った。

「遅い!」

一日が終わってマクベス老人の部屋に行くと、魔法使いは足を踏み鳴らして言った。マークは怒りたくなる気力すら湧いてこなかった。怒るという感情は、元気な時にしか出てこない。

マークは螺旋階段を全部掃き清めたこと、自分の身長の高さまでは半分の壁を磨いたことを説明しようとしたが、階段を上った後で、声が出てこなかった。彼は意味不明の手振りで、何とか説明しようとした。おかみさんがいつも飲ませてくれた薬がとても欲しい。暖炉の横の、オレンジの引出しの中にあるはずだ。今でもあるだろうか。一度戻って取ってきてもいいだろうか。ミュゼにもう誰もいなくて安全なら。

「まあよい。」

気の変わりやすい老人は言った。

「そろそろ食事の時間じゃ。」

哀れな給仕係が足を引きずりながら食事を運んでくる音がした。給仕係は両手にお盆を持ったうえで、両腕にお茶とスープのポットをさげて現れた。

「お食、事を、お持ち、しま、した。」

息切れしながらも給仕係は見事に言ってのけた。

「うむ、遅い!」

わがままな老人はすでに席について待ち構えていた。

給仕係はマークに手伝わせて、机にテーブルクロスをひき、しわ1つないように手でぴんとさせた。そして、マークに取り次いでもらいながら、肉の皿、魚の皿、サラダの皿、シチュー、パンの皿、デザートの寒天ゼリーを作法に従って並べた。

その間にマークは教わっていた通りに、ナプキンを折って、魔法使いの真ん前にクジャクの羽のように飾り付けた。

給仕係は香りを付けたきれいなお茶を、グラスに注いだ。

「魔法でこの重たい食器を全部呼び寄せていただけると助かるんですがね。そんな風にしていた魔法使いもいたそうで。」

彼は皮肉を込めて言った。

マクベス老人は、ナプキンをつけながら、給仕係をにらみつけ、壁に立てかけてある杖のほうに手を伸ばした。

給仕係は、死にかけながら螺旋階段を上ってきた後とは思えないスピードで、階段を駆け下りて見えなくなった。

マークは後を引き継いで、ポットの位置を正しく直した。

「あいつまた、魔法をかけてやり損なったわい。まあよい、マーク、下がってよし。」

マークは一歩下がって、壁際に立って、存在感を消した。

熱でもうろうとしているので、いつものように、この国に来てからお目にかかったこともないほどの量の食べ物を、老人が食い尽くしていくのを、見なくてもよかった。

マクベス老人は、スープを半皿と、パンを半切れ、お茶だけはたっぷりと、残して食事を終えた。

マークが全部の汚れ物をまとめて、汚れたテーブルクロスを引きあげて、元通りの机に直して、出てくると、給仕係が螺旋階段の陰から顔をのぞかせた。

「魔法使いは寝たのか?」

マークがうなずくと、給仕係はコップを差し出した。空に見えたが、砂糖が底に、スプーン1杯ほど入っていた。

「料理人からだよ。汚れた皿はいつものように持ってきてくれ。」

マークは眼だけで笑って、感謝を表した。口をきくのも疲れていたのだ。本当はお皿も全部持って行って、負担を減らしてほしかったが、汚れたお皿を舐められなくなってしまう。

温いお茶を入れると、甘いお茶になって、少しマークの体を温めてくれた。

自分でもどうやったのか分からないが、マークはちゃんと汚れた食器を台所まで返しに行って、また螺旋階段を上り、自分のでっぱりにまでたどり着き、毛布に倒れこんだ。頭がずきずきする。明日まで寝ていても治りそうもない。薬が欲しい。

背中にごつごつしたものが当たって、見ると、魔法使いの部屋から持ち出した本だった。

『マクベス大魔法使いの偉業』一番読みたくない本のような気がしたが、少しでも気を散らす役目になればと、ともかく1ページ目を開いてみた。

「この本を最初に読んだものを僕の後継者とする マクベス」

(ってことは、あのマクベスおじいさんとは別人だ。人に譲るような人には思えないし。)

マークは考えた。そして、熱くなる目をかろうじて開けて、2行目を読んだ。

「わしの偉大なる偉業は数々あるが、そのもっともつまらないものから順に書き記すと、わしが宮廷魔法使いとなって1年目、城で火事が起こり、四つ谷から水を飛ばして火事を消した。大きな虹がかかって面白かった。花火も飛ばした。」

この荒唐無稽さは、あのマクベス老人が言いそうないかさま話に近いが、火事が起こったすぐ後に花火を飛ばすほど無神経だろうか?ともかく、マークは現実を忘れさせてくれる、冒険小説を求めていたのだが、これは違うようだ。熱を押してまで読む物語ではない。これは返して、もっと面白い小説を、今度本棚から取ってこよう。

マークは明日起きられるか、心配しながら熱に浮かされて気を失った。


その晩、マークは夢を見た。

マークは空を飛んでいた。避難するときも一緒に持ってきた、大事なほうきにまたがって。夜だが月でとても明るい。

黒雲の中を抜けると、視界が開け、男の子が前を飛んでいくのが見える。銀ぎつねのおばあさんが着ていたのと同じような銀色のマントを着て、無造作に刈り込んだ黒髪の男の子だ。

マークと男の子は、抜きつ抜かれつしながら、どんどんと遠くへ飛んでいく。

やがて男の子がボールを出した。昼間、小鹿お嬢さんが遊んでいたような白いボールだ。マークのほうへ放って寄越す。マークは昼間と違って、わざと、男の子からずれた所へ放り投げる。男の子は宙返りして、ほうきのふさで叩いて返して、大笑いした。

宙返りくらいできそうな気がして、マークがやってみると、ちょうどその時に強い風が吹いて、しっかり柄にしがみつく羽目になった。ボールはどこかに落ちて行ってしまった。横目で見ると、男の子も柄にしがみついている。

「風が強いなあ。」

夢に出てくる割には、一度も会ったことのない男の子だった。ミュゼの街でも、マークは同い年の男の子と遊んだことがあまりなかった。子供なのに働く掃除夫は、少し距離を置かれていた。だから、この初めて見る男の子と、一緒に遊んでいることが、とても楽しかった。

「ボールなくしてごめん。」

「いいよ!どうせ人のもんだ。」

人のものだったら余計悪いような気がしたが、男の子が笑って気にしていないようだったので、マークも嬉しかった。

「気になるなら取りに行くか!」

男の子は、にやっとするが早いか、ほうきの柄を真下に下げて急降下した。マークにはそんな芸当はできそうもなかったので、くるくると斜めにらせんを描きながら男の子を追いかけた。

男の子は、焚火をたいて、マークを待っていてくれた。

雲の中をくぐったせいで、全身ぐっしょりと濡れている。忘れていた熱がぶり返して、マークは悪寒で震えて、火の間近に寄って両手をかざした。

「あんまり近寄るなよ。危ないぞ。服を脱いだらどうだ?」

男の子はてきぱきと立ち上がって、マークのぼろ服を脱がせた。弱っていた生地が、びりっと裂ける音がした。男の子は、その服を自分のほうきの柄に引っ掛けて、斜めに火にかざした。優しい気持ちはとても伝わってくるのだが、濡らした後火にあぶったりして、一張羅がますますぼろになってしまうことは間違いない。

(もうおかみさんも、親方もいない。どうやったら、新しい服なんて買えるだろう?)

マークは震えながらそんなことを考えた。

男の子は落ち葉を手にはさんで持ってきて、盛大に火を燃え上がらせた。

(その前に、どうやったらこの病気を治せるだろう?)

いや、その前に、明日の朝はちゃんと仕事場に戻っているんだろうか?ここどこだ?

(いやいや。)マークは首を振って自分を安心させた。(これは夢だ。河原でたき火をしているわけない。僕は、あの棚部屋で寝ているんだ。)

男の子は深刻そうなしわを浮かべて、マークの顔をのぞき込んでいる。夢ついでにマークは言ってみた。

「君、魔法使い?」

「そうだ。」

男の子は唇をひんまげて得意そうな笑みを浮かべた。聞くまでもないことだ。そうでなければほうきで空を飛ぶわけない。

「だったらミュゼの、僕の家の、風邪薬とってきてくれないかなあ? あれ飲めば治るんだけど。」

男の子は首をかしげて考えていたが、膝を打った。

「まあ、そのくらいならできるかもしれないな。よし、お前いいこと言ったぞ。それはミュゼのどこにあるんだ。」

「ミュゼの、中央広場の、北の裏通りの、カイヨー親方の家。暖炉脇のオレンジの引出しの中。」

「映像として思い浮かべろ。」

男の子は、突然、緑の、蛇のような人間でない目つきになってマークをねめつけた。

「イメージしろ。お前の心を頼りに探すから。・・・うむ。よし。『アプレ』」

魔法使いの少年は、優雅な手つきで空中に図形を描いた。と、その手にオレンジの引出しが掴まれていた。

繰り返し求めていたものを、目の前に置かれると、うれしくて涙で引出しが曇った。マークは飛びついて、なじみの、しかし、思い出よりも、ずっと濃いオレンジだった引出しを開けた。薬はまだ残っていた。熊印の風邪薬を急いで口に放り込むと、つばで飲み下した。

「よし、これであとはよく寝れば治るぞ。」

マークは自分の毛布に戻っていることを期待して、河原の石の上に横になった。

「おい、お礼はないのか?」

不満そうな夢の住人はほっておいて、ひたすら目をつぶった。


マークはいつもの時間に目を覚ました。薄ぼんやりした日の光の色で、それが分かった。

(いやだ。もう目を覚ましたくない。このまま病気になって、クビになって、道端に放り出されて、そのまま死んじまいたい!)

マークは思い余って考えたが、薄暗闇の中で目を開けて、じっくり自分の体調を点検してみると、明らかに昨日よりもよくなっていた。一度よくなり始めると、はじけるような14歳の生命力で、元気がぐんぐん湧いてくる。

(まだクビになりそうもないな…。)

マークはいやいや起きた。

(口の中が変だ。)

慣れた薬の味がする。襟を引っ張ると、肩が裂けて前よりもぼろ服になっている。移動の多い掃除夫として、大事なものはすぐにポケットに入れる癖がついているが、夢の中で2~3包取っておいた、熊印の薬の袋がポケットに入っている。

他のことはともかく、薬のことだけは、芯からありがたかった。ので、夢のことも、彼は容認することにした。怪しいからと言って、むやみに人に話したり、にんにくを首から下げたりするような、対抗措置は取らないことにした。しかし、今日は塔の外で寝たほうがいいかもしれない。この場所がよくないのだろう。

彼は、熊印の風邪薬をピリッと破って、飲み込んだ。今度は昨日魔法使いが飲み残した香り高いお茶を、ペットボトルに入れてとっておいたので、気持ちよく胃の中へ流し込むことができた。これですっかりよくなるだろう。


マークが、水桶を抱えて、給仕係と、なんたらかんたらとマクベス老人や風邪の具合について話をするのを、王女の部屋のベッド脇で、魔女の銀ぎつねも聞いていた。

(やっぱりあの老人と話をするべきだろうか・・・。)

昨日から彼女はずっと考え続けていた。マクベス老人と話をして、もっとまともな食事を与えるように言うべきだろうかどうか。昨日から答えは出ていた。「できない。」ほかにも避難民はいる。その中で、マークの地位は恵まれているとさえいえる。他の避難民を助けない以上、マークにだけ手を差し伸べるのは間違っている。口出しはできない。そんなことをしたら、老人は何かの理由をつけて、少年を追い出してしまうだろう。追い出されたら、早晩少年は死んでしまうだろう。口を出すなら、自分が引き取らなければならない。しかし引き取れる食べ物はない。よって、口は出せない。

それなのに、ずっと心に引っかかって、考え続けてしまうのだった。あの螺旋階段を上っていき、老人と話し合い(正確には一方的に、この食糧難に、子供を飢えさせて自分は飽食することの是非を問い)、子供にまともな食料を与えるように脅しをかける。そして少年は太り始めて健康になる。

この空想があまりにも魅力的なので、繰り返し銀ぎつねは考えてしまうのだった。 (戦争のせいだ。そのせいでいつも何もできていない気がするからだ。実際はそんなでもないのに。・・・だめだめ。一時的な同情では、かえってあの子を不幸にしてしまう。)

「ドミノ」

小鹿王女が魔女を呼んだ。

「今日もあの男の子来る?」

「来るかどうかは分かりません。通りがかったら、呼んでみましょう。」

「うん」

小鹿王女は喜んで天蓋カーテンを閉めて、ネグリジェからドレスに着替えをした。終わると、銀ぎつねが髪をとかして、またティアラを乗せた。

「とれていましたよ。」

銀ぎつねは厳しく言った。

「絶対に、寝るときでも外してはいけません。お命にかかわることです。」

「寝てたらずれちゃうの。」

「ずれても、外したらだめです。命がなくなると思いなさい。」

普段はなんでも聞いてくれるの銀ぎつねの厳しい顔つきに、小鹿王女は神妙な顔をして、泣くのをこらえた。もう何度もこのことは言われているのだが、寝ていても外すなというのは、むちゃな要求だと思っていたので、従う気になれない。

「今度外れているのを見つけたら、叩きます。」

銀ぎつねは厳しく言って、その後、自分でも厳しすぎたと思った。そこで、とりわけ愛情をこめて優しく言った。

「いざというときは?」

「『まもれ!』」

銀ぎつねはびくっと体を震わせた。分身の「眼」の1体が焼かれている! 銀ぎつねはすぐにたくさん散らばらせている分身たちに意識を飛ばしたが、王女の窓の前に置いている1体以外の、どの眼も、全く見えなかった。

すべての分身が、本体の自分に一切気づかれることなく、消されてしまったと、思うほかない。どの分身も、彼女の1か月分の命を融かしてあったのに。

(魔法使いが入り込んだ!)

超非常事態だった。銀ぎつねは、それほどすごい魔法使いと渡り合えるほどの呪文知りではない。

彼女は小鹿王女の手を引っ掴み、窓近くの壁に穴を開けた。

「『ウブリエ』」

壁は分厚かった。8歳の女の子なら入れる。小鹿王女を押し込んでささやいた。

「静かにしているんですよ!」

「『フェルム』『シール』」

壁は閉じた。閉鎖は彼女の得意呪文である。シンシティを守っている木の壁も、母屋を守る生垣も、銀ぎつねのフェルム呪文で閉じられて、『シール(封印)』で鍵をかけてある。 

向こうの魔法使いが出てきても、どんな封印を押したのかを知る銀ぎつねにしか開けられない。王女を出そうとすれば、魔法の効かない銀製の道具で壁に穴をコツコツあけるか、銀ぎつね本人が開けるしかない。分厚い壁だから、王女が物音を立てたところで誰も気づくまい。

銀ぎつねは、わずかな早口の呪文と、封印のしるしの中に、自分が死んでも解けないくらいの強力な魔力を込めた。これでもし自分が死んでも、王女は向こう3年は閉じ込められたままだろう。

それはかえって王女を殺すことになるのではないかと思う余裕が、彼女にはなかった。 

彼女は天蓋ベッドのカーテンを閉じると、ここにも強力な閉鎖呪文をかけた。

兵隊が流れ込んできて、銀ぎつねが呪文を唱える前に、銀製の槍を打ち込んだ。銀ぎつねは仰向けに倒れて石化した。 

刺客達は石像になった銀ぎつねを踏み越えて、王女のベッドに迫ったが、カーテンを引くことができなかった。何かにさえぎられて、カーテンを揺らすこともかなわない。

刺客たちは素早く話し合った。5分以内に帰れなければ、離宮の兵隊に囲まれて生きて出られまいと、全員の意識共有はできている。すぐに結論を出した。

見張りの者は出てきた者はいないという。

部屋をあら捜ししたが、女の子が隠れているようなスペースはない。

王女を生かしたまま連れてこいという命令だった。人質として。

しかし連れて行けないのなら、代わりに一定の成果を出さないと、どんなひどい目にあわされるかわからない。刺客のほとんどは、人質を取られていた。

王女はこのベッドの中か、それともこの部屋のどこかに隠れている。隠し部屋か、隠し通路があるかもしれないが、探している余裕はない。

結論。このベッドを全員で運んでいく。全員なら何とか持てる。(王女がもしかしたら中にいるかもしれない。国の魔法使いなら、これを開ける方法を知っているだろう。)

そして、この部屋および周りの部屋には火をかける。(これで隠れていたとしても王女は焼け死ぬことだろう。)

そして彼らは大窓を発破して、ベッドを通らせられるようにし、じゅうたんやタペストリーに、火をつけた。誰も出てこない。

お神輿のように大ベッドを担いで、えっさほいさとできたばかりの発破穴を通り抜け、最後の一人が、手りゅう弾を投げ込んだ。後は、追手からできるだけ早く遠ざかるのだ。200キロはある、造りのがっしりしたアンティークの天蓋ベッドを担ぎつつ。

王女の隠れていた穴は、銀ぎつねの閉鎖呪文のおかげで、構造が安定していて、

壊れることはなかった。また、分厚い石の壁は、火の熱も通さなかった。王女は助かったが、やはり息をひそめて穴の中にいるしかなかった。

 助かったかどうかわからないし、出られないのだ。しかしいつまで生き埋めになっていればいいのか?それでも王女はじっと息を凝らしていつまでも静かにしていた。



 マークはマクベス老人の朝食の後片づけをしていた。

「窓はいつきれいになるのだ? 掃除しかしていないくせに、悠長なことだな。」

「一つは拭き終わったんで、残りは今日からでも。」

マークは頭を下げた。そして、お皿をなめるところを誰にも見られたくなかったので、自分のでっぱり部屋に引き取った。

また頭が痛くなり始める気がした。彼は大事を取って、貴重な薬をまた飲んだ。

(とにかく長い棒を探そう。)

お皿をきれいになめ終わったマークは、お皿の籠を持って、重みで体を斜めにしながら、らせん階段を下りた。

(料理人と給仕係に聞いたって、知らないって言うだろうな…。)

マークの後ろから、ほうきが飛び上がって、ひょこひょことついて行った。

そしてそれを、油断ならないマクベス老人が盗み見ていた。

 魔法使いの塔は、何年かぶりに、本当に魔法が始まっていた。





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