第6話 虚乳

 おはよう、佐藤・プルルン・栄介だ。


 爆乳が降って来たのは、もう数時間前のこと。

 銀子姉さんの一存で、マルセルの佐藤家への居候は決まった。

 今は銀子姉さんの部屋で安んじて就寝している。


 マルセルの世界について、根ほり葉ほり聞きだそうとした僕だったが、彼女はすでに夢うつつ、舟を漕ぎ、ほとんど目が開いてなかった。

 見知らぬ異世界に来て、副交感神経を高めていらっしゃるとは、なかなか豪気なやつだ。


 「……、……、……、私は、もう、……いいんだ。もう……。ユータ。」


 何かそんなような寝言をこぼして、ほとんど気絶するように食卓に突っ伏してしまった。

 ユータというのは明らかに男の名であり、しかも日本人っぽい。

 爆乳だけあって処女じゃないようだ。

 僕の守備範囲からは大きくそれた。

 これからは視姦専門のDHに据え置こう。

 

 しかし、マルセルはやはり異世界人というよりも不審者だ。

 異世界に来て、こんな落ち着き払って寝る奴があるだろうか。

 明日は一緒に警察に行く。

 もしかしたら巷で有名なちょっと変な人なのかもしれない。

 異世界の存在を信じるのはそれからでも遅くないだろう。


 銀子姉さんがマルセルを連れて行き、桃實はフラストレーション発散のため自転車に乗ってどこかへ行ってしまった。

 桃實は城前じょうぜん学園では薙刀部に入っているが、地域の自転車クラブチームにも参加しており、連盟の強化選手にもなっている逸材だ。

 学園卒業後はスペインのプロチームと契約するらしい。

 僕と違って優秀で何よりだし、刹那的な生き方は桃實らしい。


 リビングに残った僕は美知留と二人、テレビの前のソファに並んで座り、なぜか映画を見つつ朝を迎えていた。

 今日は土曜日、だから構わないという話らしいが、気まずいことこの上ない。

 僕は一度だけ、台所でさかなの準備をしながら彼女に話を振った。


 「美知留、お前の目から見て、マルセルとかいう女はどう思う?」

 「う~ん。原宿系の外人さん?が、酔いの千鳥足に連れられて、いつの間にかこの家に迷い込んじゃった、そうじゃないかと思うんだよ。だから、ノリ悪いのはよろしくないよ、栄ちゃん。」


 原宿からここまで歩いてきたとしたら、酔いなど疾うに覚めている。

 むしろ夜が明けている。


 「……でたな八方美人。あいつが珍奇な強盗だったらどうする?」

 「はっぽう、八宝菜、栄ちゃんの八宝菜、また食べたいなぁ。クックドゥードゥルドゥー使わない本格的なやつ。」

 「美知留、もう酔ってるのか。それはニワトリの鳴き声であって、そもそも八宝菜に鶏肉は使わない。」

 「酔ってないんじゃないかな。だって覚えてるよ。私がちょっとクラスで浮いちゃったとき、『八方美人の末は四面楚歌だ』って栄ちゃんに言われたこと。でもねでもね、私はね、それでいいの。私はね、虞姫ぐきになりたいんだよ。貞操を守るためだけに自ら命を落として、その地面に染み込んだ血がひなげしの花になる、なんて、女の子が抱く最上の夢だと思うんだよ。」


 美知留は死んだふりをするようにベッドの背に凭れる。

 一般的な女の子はそんな物騒な夢を抱かないと思うのだが、僕は男なので乙女心は分からない。

 それから美知留は何やら指揮でもするように、両の人差し指を意味もなく振っている…………。 


 締め切ったカーテンの隙間から一条の暁光ぎょうこうが漏れ射り、朝の訪れを告げている。

 対流する埃が、水蒸気のように影に吸い込まれては消えていった。


 目の前の小さなテーブルには、空いた日本酒とワインの瓶がある。

 僕は一杯ずつ。

 後は全て美知留の喉を通っていった。

 彼女に欠点があるとすれば、唯一、九州男児も総毛だつほどの酒豪であるということだろう。

 美知留は他所ではほとんど飲まないので、その醜態を世間様に晒すことは滅多にない。

 僕にしか見せない瑕疵かしだと言えば聞えはいいが、これは明らかに媚態びたいを含んだ迂遠な当てつけなのだ。


 まだ僕のことが好きだと言う、主張。

 それを僕がうざったらしく感じていることも、賢い彼女は知っている。


 本当に、芯が強くて、惚れてしまいそうになるほど、良い女だ。


 「いま面倒くさいって思ってるでしょう。わたし分かってるんだから。」


 美知留の口癖。

 そして往々にして当たっているのが恐ろしい。


 美知留は、その酒の強さを買われ、たまにママの店で給仕をしているが、その人気は果てしなく、たった三時間の出勤で平日営業日三日分の収益を叩き出す。

 噂を聞きつけたキャバクラ業界からの誘いは後を絶たず、美知留のバックにはヤのつく職業の人たちが死屍累々として群がっている。

 どうやら美知留の取り合いで抗争の危機も高まっているらしく、彼女の家の前にはいつもパトカーが止まっているほどだ。


 そんな彼女が、テレビの画面を見ながら、頬を染め管を捲いている。

 美知留は自分の膝を抱いて、そこに顎を乗せ、前後に揺れながら悪態をついた。


 「どうして、この子は親身になってくれる〇〇君になびかないのかなぁ。いらいらしちゃうよ。」


 あくまでテレビ画面をみたままむくれている。


 「知らん。」

 「おかしいと思わない、栄ちゃん?だって、彼はもう三年も音信不通なんだよ?それに比べて〇〇君は優しくて、いつも傍にいてくれて、それに仕事だってちゃんとしてる。誕生日だって祝ってくれるし、熱を出したら飛んで来てくれる。」

 「そうだな。」

 「ヒロインは、何か決定的に間違ってると思うんだよ。」

 「僕はそう思わない。恋人は花霞の向こうにいるように、霞んで見える方が魅力的なのかもしれない。」

 「それって、過去を見てるってこと?」

 「いや、まあ、この場合そうとも言えるな。過去の記憶が汚点を隠してしまうんだろう。」

 「そしたら、この人は一生勝てないってこと?どんなにいい人でも?」


 美知留の攻撃に、僕はたじたじとなる。

 「わたしに勝機はあるのか」と、そう直球勝負してこないあたり、美知留も策士とうか、恋愛巧者だ。


 「……いや、勝つ方法はあるさ。」

 「何?」

 「ヒロインの前で、自殺すればいい。そうすれば、今度は自分が過去になれる。」

 「それじゃあ一生が終わっちゃてると思うんだよ。負けてると思うんだよ。」

 

 僕は酷いことを言ったわけだが、美知留はただじゃれつくように僕の頬を力なく殴った。

 そして仕方なく開けたビールの缶に口をつける。

 「ビールは全てノンアルコール」とは、美知留の数少ない失言の一つだ。

 今も不貞腐れて三百五十ミリを一息に煽る。


 自殺という言葉をあえて持ち出したのは、今度は僕の当てつけだ。

 僕が自殺する決意を固めた、その大きな要因は美知留の存在にある。


 世の中には、大食いの出来る奴がいる。

 足の速い奴がいる。

 頭の良い奴がいる。

 つまりは才能というものだ。

 ならば、恋愛をする才能だって、恋愛の天才だっている。


 おそらく、美知留はそれだ。

 彼女は、物心ついたときにはもう、若きウェルテルとなってシャルロッテを見染めた。

 世界も、その法則も全て塵芥のごとく捨て去ってしまうことの出来る人間。

 なにもかもを見ずに、ただ愛する人だけで世界を構成できる人間。


 それが美知留であり、考え得る限り日本最高の嫁候補を前にして、恋に落ちなかったのが自分だ。

 僕の心は腐りきっていると、そう確信させた張本人。


 美知留は僕の自殺未遂を知ったとき、口をかんしたまま、僕の頬を殴った。それも平手打ちじゃなく、拳で。

 泣きも笑いもせず、ただ無表情で殴り続け、あの姉が止めるまで、拳を腫らしてまで腕を振り続けた。


 だから思うのだ。

 彼女は虞姫になりたいと言ったが、おそらくそれは嘘だ。

 彼女は僕を生かし、逃がすために、僕の代わりに剣を握って、凱歌を歌うまで諦めないだろう。

 恋は山を抜き、愛は世をおおう。

 抜山蓋世。

 美知留はそういう奴だ。


 僕は彼女に殴られたときの痛みを思い出したように、自分の頬に触れる。

 映画は佳境に入り、行方をくらましていたメインの男がヒロインの元に戻って来た。

 こういう作品の場合、割を食うのはいつも幼馴染系真面目純朴青年だ。

 その末尾を「少女」に変えれば美知留ということになる。

 そう、これも当てつけ。

 僕らのコミュニケーションはこうしていつもややこしい。

 それでも、以前の関係よりは幾分かましだ。


 そうして美知留と背中で殴り合いをしつつ、映画のエンドロールを見ていると、玄関が開く音がした。

 鍵につけられた鈴が鳴り、僕はママの帰宅を知る。

 

 「あら、美知留ちゃん、おはよう。栄ちゃんも、こんな時間まで珍しいねえ。」


 時刻は朝の六時になっていた。

 ようやく、現実的な僕の生活が戻って来たような気がした。

 


 


 

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