第5話 合乳

 紆余曲折を経て、どうも、佐藤・プルルン・栄介です。


 我が家の一階、リビングに集まった一同。

 その表情は一様に硬い。

 森閑として張り詰めた空気に、家鳴りすら鮮明に僕の耳へと届く。


 リビングの背景描写はほどほどにしよう。


 なにせ、ちょっと裕福な家庭のそれを想起して頂ければ十分なのだ。

 アイランドキッチンと、一枚板の食卓テーブルは、十人が余裕を持って座れる大きなもの、それから壁にかけられた大型テレビと、観葉植物。あとは諸々、本だの、オーディオ機器だの、食器棚だの、好きな所に好きなように配置してくれればいい。

 

 食卓はいま、俯瞰するとこうなる。


 銀子〈姉〉・桃實〈妹〉

 =====================

 マルセル〈爆乳〉・僕・美知留〈幼馴染〉


 僕の隣は、桃實が座る前に美知留が制した。

 その時点で紛争の起こること必至だった訳だが、驚くほど桃實はあっさりと退いた。

 曇りのない美知留の笑みに、妹の胸中に住まう魔物もひるんだらしい。

 二人の間に会話はない。

 


 長谷川美知留。

 姉妹と違ってショートカットの爽やかな髪型。

 背が異様に低く、百三十センチ後半、いや、それすら怪しまれるほど。

 足のサイズは判明しており、およそ十九センチとのこと。

 小学生もかくや、といった小ささで、纏足てんそくなどという因習にでも倣ったのかと疑わずにはいられない。

 ついこの間まで、一歩進むたび「ぷぅぷぅ」鳴く靴を履いていた。

 今でも無理をすれば履けるそうな。


 その美知留は、僕の嘘を糾弾せず、あまつさえ便乗してくれた。

 つまり、少なくとも桃實の前では、美知留は僕の婚約者として振る舞ってくれると確約してくれた。

 仏も逃げ出すほどの善良な心。


 僕はこんな時、ふと思うのだ。

 美知留を愛せないのなら、僕はこれから、誰とも恋に落ちることはないのではないか、と。

 僕は屑だが、美知留に対する評価には堅強な自信がある。

 その自信は、翻って自分の自尊心を傷つける。

 だから僕はあまり美知留と関わりたくなかった。


 だが目下話の主軸はそこにない。

 今はマルセルとかいう、不法侵入者の裁判中である。


 美知留は姉の銀子が電話で呼んだ。

 といっても美知留はお隣さんだ。

 なにやら騒がしい佐藤家に勘が働き、すでにパジャマから服に着替え、準備万端だったらしい。

 加えて美知留は薄っすらと化粧までしている。

 それが僕の良心をさいなんで止まなかったが、とりあえず一連の概要は説明してやった。


 裁判と言っても、会話は一方的なものにならざるを得ない。

 僕はてっきりそう思っていたが、ここで新たな事実が姉の口から開示される。


 どうやらマルセルは日本語の文章を読解できたらしい。

 しかもだ。

 彼女の書いた字が、僕らにも読める。

 むしろ日本語を書いているようにしかみえない。

 つまりだ。

 互いに相手が、自分の母国語を書いているように、瞳には映っている。あるいは脳がそう理解しているということ。

 つまり、そこから導かれるコミュニケーションの手段は、マルセルが口語、僕らが筆談、ということになる。


 ……いやいや、自分で解説しといてなんだが、ちょっと都合が良すぎやしないか?


 意味不明な現象に突っ込むのも不毛なことと思うが、それにしても、だ。

 マルセルの表情を見る限り、彼女にも理解不能なことが起こっているらしい。

 少なくとも、魔法がどうのという話ではないようだ。


 「そうだな、まず、謝罪しよう。えいすけ、と言ったな。すまなかった。」


 姉の服を借り、ジーパン・Tシャツ姿となったマルセルが、僕に向かって拳を額に添える。

 どうやらそれが謝罪の意を持つ身体言語らしい。

 僕も見よう見まねで答える。

 言うなれば、お焼香する所作に近い。

 おっぱいを触ったことは、完全に僕の悪心だ。

 それは謝るべきことだし、彼女の非にできるものではない。


 「ここは私の世界、ヤマナラ、ではない。異国にも、こんな風変りな建物や品々はあるはずがない。ここが私の夢でないならば、つまり、不届きものはえいすけではなく、この私だったという訳だ。」


 マルセルはちらとらとテレビの方を気にしながら言う。

 テレビに驚くくだりはもう姉とやったらしく、それによってここが異世界だと確信したらしい。

 くそ。

 見慣れぬ異世界の技術に困惑する爆乳美少女。

 メインのイベントを、僕はどうやら見逃したらしい。


 それでも、ほんの最後の一コマにはありつけた。

 僕が、皮肉な笑みを湛えた美知留を連れて、リビングに入った時、マルセルはまるで猫のような手つきで、恐る恐るテレビの画面に触れようとしていた。

 「大丈夫なのか?」と、姉に聞き、姉が先に画面に触れるのを見、またそろそろと手を伸ばし、寸前で弾かれた様に引っ込める。


 それを延々と、こちらがじれったくなるまで続け、結局触れずに席についた。

 科学的なことは何も分からないらしく、用途と機能だけをいわば対症的に、姉が伝えたようだった。


 そんなこともあったが、概ね、マルセルの理解力というか、柔軟な思考には炯眼けいがん恐れ入るといった感じだ。

 なんというか、美知留と同じで人間力が高い。


 「それで、だ。ここは日本、そして日本は地球という世界の一国。そこまでは銀子のおかげで理解した。分からぬのは、ここが、私の世界と、どこで繋がっているのかということだ。海の向こう、だと、私は思ったが、それも違うらしい。」


 マルセルは、パソコンの画面に示された世界地図を見て言う。

 腰が引けて、椅子も心持ちテーブルから離れている。

 まだ画面系は怖いらしい。

 

 僕はマルセルの青竹色の瞳を横目に見ながら、彼女の言葉を咀嚼する。


 彼女が外人だとして、日本を知らない可能性はある。

 が、そんな奴が僕の部屋にいるはずもない。

 ならば狂言。

 そう考えれば、日本語を話し、読み、ただし聞くことだけが出来ないといった矛盾は解決する。

 そう勘ぐってはみるものの、マルセルの挙動は、演技にしては堂に入りすぎている。

 それに意味も目的もない。

 仮に強盗だとして、阿保みたいに馬鹿でかい剣をびているのは謎だ。

 謎過ぎて、ちょっと笑えてくる。

 コスプレ強盗、そんな犯罪は無論、流行ってなどいない。


 「もーもー牛乳」


 マルセルの着ているピンクのシャツは、姉が乳製品メーカーの懸賞で当てたものだ。

 デフォルメされた牛のキャラクターが、自らのおっぱいからミルクを飲んでいるという、昨今の苦情文化を恐れぬデザイン。

 そんなものを着た、おそらく僕と同年代と思われるマルセルが、己の背丈と変わらぬ大剣を抱えているのだから、笑いたくもなるだろう。


 まだ信じ切ったわけではない。

 が、マルセルが何かしら嘘を吐いている確率は、どうにも低いように思われてならない。

 彼女は異世界から来た。

 異世界は、存在する。

 それが宇宙のどこかにある世界なのか、そうでないのか。そんな問題は、一宇の下で解決できるはずもない。


 ――夢。

 その見解を持ち出したら議論にならない。

 胡蝶の夢は、反証不可能なので、人は沈黙するしかないのだ。

 僕の夢か、マルセルの夢か、それとも銀子の……。

 そう、こんな思考は愉快だが無意味だ。

 いつまでも、人は主観の檻からは脱せない。


 僕はマルセルに水を向ける。

 パソコンのメモに文字を打って。


 「マルセルさん。何が起こったのか、どうしてあなたがここにいるのか、どうやったら帰れるのか、僕にはてんでわからない。」


 「……明日には帰れているのかも知れないし、酷な事を言うようだが、もう帰れないのかもしれない。もしろ、後者の可能性を想定する必要があるように、僕は思う。」


 「……そして、あなたはこちらの世界のことについて、もっと知る必要がある。僕もそちらの世界のことについて知りたい。つきましては、まず、現実的なことから相談したいと思う。まずは雨露をしのぐ場所を確保しなくてはならない。」


 僕は逐一、マルセルの顔を確かめながら、ノートパソコンに文字を打ちこんでいく。

 少し冷たい言い方、文章になってしまっただろうか。

 僕はその辺の匙加減が苦手だ。

 

 「これ以上、迷惑はかけられない、と言いたいところだが、正直外に出るのは怖い。」


 マルセルは素直に言う。

 素直というか、合理的だ。


 「もちろん承知している。だから、当分の間、この家に住んでもいい。ただし、条件がある。」

 「なんでも受け入れよう。」

 「まず、僕はまだ、あなたのことを完全に信じた訳ではない。そのため、その剣は佐藤家で預かる。」

 「構わない。」


 ここまでは、マルセルの態度からして想定の内だ。


 「次に、あなたは魔法が使えるのか?」

 「使える。いや、使えたのだが、ここでは難しいらしい。魔力を込めた宝玉も、さきほどえいすけに使ったので全てだ。」

 「なるほど。そこで、だ…………あ、姉上。」


 僕は戦々恐々としながら、姉の意向を窺う。

 なぜか肩肘ついて、さっきから僕のことを睨んでらっしゃるのだ。

 無地で紺色の、シルク生地のパジャマ。

 上下セパレート、下はガウチョパンツのようで、くびれた腰とへそがこれ見よがしに露わになっている。

 モデル体型の姉にはよく似合ってらっしゃるが、お腹は冷えないのだろうか、心配になる。

 モデル体系というからには、姉は貧乳だ。

 都合が良いので、ここで一つ、胸の大きさで女子たちの序列をつけてみよう。


 マルセル>>美知留≧桃實>>>>>>>>栄介≧銀子


 だ。

 哀れ姉上。

 僕は貧乳も守備範囲なので問題ない。むしろ選択肢を増やしてくれてありがとうと言いたい。

 巨乳を見たいときは妹、貧乳を見たいときは姉を見ればいいのだ。

 完璧な布陣。

 しいていえば通常サイズが欲しい。


 失礼すぎることを考えていたら、案の定、姉に噛みつかれる。


 「私の蟯虫ぎょうちゅう、なに出しゃばっているの?勝手に仕切らないでちょうだい。」

 「姉上のさもしい胸のことを考えていましたっ!ごめんなさい!」


 しくじった。

 全然、違うことで姉上は怒っていらっしゃったのだ。

 おっぱいに要らぬ罪を被せてしまった。

 貧乳でも、おっぱいはおっぱいだ。


 「へえ、私が貧乳。」

 「言葉の綾です。」

 「へえ。」

 「はい。」

 「どう綾なのかしら。」

 「……さもしい、さも、い、むね、さも、むね、駄目だっ!くそっ!こんな時に限ってギャグの一つも出やしねえ!」

 「はい極刑。」


 冤罪ではないので甘んじて受けることにしよう。

 姉がおもむろに席を立つ。

 僕は秒速で姉上の席に駆け寄り、椅子をどけ、ブリッジする。

 僕の腹に姉のお尻が乗る。

 隣の席の桃實が、僕の顔を見下ろしている。

 なぜか恍惚とした顔で、僕の鼻を摘んで左右に振った。

 ただでさえ呼吸が苦しいのでやめて欲しい。


 姉妹に虐められる僕を、美知留がどうにか助けようと逡巡している。


 「……あの、銀子ねえさん。お客様もいることだし、その、あまりそういった不埒なことは、ちょっと。」

 「口を挟まないでくれるかしら、凡婦ぼんぷ。」

 

 姉、銀子を従わせることが出来るのはママのみだ。

 姉が美知留を呼び出したのは、鬱陶しい僕と桃實の見張り役を期待したからで、普段から懇意に付き合っているわけではない。

 むしろ佐藤家と長谷川家は冷戦状態にある。

 いや、佐藤家が隣国の北の国みたいに暴走しているだけだ。


 美知留は膝に手を置いたまま、足の指先を擦り合わせている。

 僕は彼女のフリルスカートの中を観察しながら、家族を代表して申し訳なく思うこととする。


 姉は、僕という椅子に座って足を組みながら、パソコンを優雅に抱え、メッセージを綴る。

 それを対面のマルセルに見せると、彼女の顔はゆっくりと綻んでいった。

 無言の鶴声かくせい

 マルセルの居候は決定したらしい。


 「ありがとうございます。」


 と、マルセルは破顔したまま、また額に拳を置く。

 それから彼女は立ち上がって、ぎこちなくお辞儀をした。

 その赤い髪が薔薇の花弁のようにふっと広がり、天井を仰ぎ見ている僕の視界にもちらと映った。

 お辞儀は美知留が家に入るときにでも見たのだろう。

 学習能力が高くて何よりだ。

 

 僕は腹筋に限界を感じつつ、これからの日々を思う。

 突然訪れた非日常に、高揚する自分がいる。


 ここではない世界。

 そこには、僕の求めたおっぱいがあるかもしれない。

 なかば諦めかけていた希望が、また新たな芽を出す。

 生きる意味。

 そんなものが、心の泥濘の奥底に、ほんの少しだけ光っては消えた。

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