第3話 愛華② 友はそこに

 30分ほど電車に揺られれば、学校最寄りの駅に到着する。その瞬間に無気力な人の群れに飲まれて消えていきたい、という衝動に駆られた。しかして半年近くの登校に慣らされた体は、機械のように己の学校に向いた。校門に差し掛かればすでに朝練を終えた生徒たちとすれ違う。私とは違ったキラキラとした「青春」ってやつを謳歌している人たち。その眩しい姿から逃げるように与えられている席に着き、鞄から本を取り出す。これが私の青春である。『愛の花』について調べるうち、図書館や本屋に入り浸るようになり、必然的に本が好きになった。それまで辛かったひとりでいる時間は全て読書の時間となり、私は本の虫になった。仕事で滅多に帰ってこない父親からすると娘の行動は誇らしいことだったらしく、バカみたいに本を買うお金を援助してくれた。おかげで本だらけの部屋で本まみれの生活をしている。しかし、そうすることで孤独を感じる時間は減ったが、結局孤独でいることには変わりがない。広い部屋でひとり、という事実は変わらない。学校でだってそうだ。学校やクラスという集団に属してはいるが、真の意味で共同生活ができているのか、と問われると首肯かねるところである。私を取り囲む環境は、群れの生活が多い。学校につけばまずクラス中の人々と挨拶を交わし、鞄を開ける間もなく世間話を始める。その内容と言えば朝練が疲れただの、昨日のテレビは面白かっただの、一晩中起きていただの、今日の放課後は遊びに行こうだの…くだらない話をしては馬鹿みたいに笑ったり同情しあったりしている。もっと有益な話をしたっていいだろうとも思うのだが、私は意見したところで何か変わるとは思わない。それ以前にそこに加わる気もさらさらない。放置するのが一番だ。聞きたくもないクラスメイト達の言葉はするすると耳へ、そして脳へと入って来て、私の集中力を乱すだけ乱して霧散していく。

鬱陶しいことこの上ない。

これこそ雑音。

教師が出席を取りに来るまであと10分。

それまでの辛抱だ。

私はいつものように本の世界へ入ることだけに集中した。


  ○  ○  ○


ようやく午前中の授業を終え、私はお弁当と読みかけの本を持って教室を出た。向かうは図書室にある司書室。この学校にある安全地帯のひとつだ。学食へと駆けていく男子とすれ違い、部活へ向かうテニス部員がしょっているラケットを避け、まだ誰もいない図書室を足早に通り抜ける。貸出カウンター奥の扉を開ければ、そこは異世界のような場所だ。部屋には埃っぽい香りとたくさんの本。資料保存のために調整された温度・湿度。そして中央に座る部屋の主。

「失礼します。」

ノックもなしに開けたのに、全く驚いた様子のない司書の椎名先生が回転イスをくるりと回した。

「園田は今日もお早い到着で。」

そう言って立ち上がった先生を見上げながら、私はいつも通りの質問を投げかけた。

「ここでお弁当を食べていいですか。」

するといつもの通り先生は、窓際のソファを指差して「どうぞ」と言った。

椎名先生はこの図書室及び司書室の主、もとい司書教諭。若く見える(若いとはいってない)男性の先生だ。長身でけだるげな雰囲気が一部の生徒に人気だが、野暮ったい眼鏡や何故か着ている白衣、そして何より歯にもの着せぬ話し方がダメらしい。私からすればそのくらいはっきりものを言ってくれる人の方が信用できると思うのだが、大人に対して優しさとコネばかりをねだっている生徒たちからしたら都合が悪いらしい。ただ、私もその人たちと話をしたことがあるわけではないので、あくまで盗み聞いた情報と私の憶測である。

ともかく、私にとっての椎名先生は他の先生とは違う存在だ。毎日司書室でお弁当を食べる私を詮索をすることもなく、他の教師と比べて接しやすい。例えるならば、昼休み限定の友達みたいな関係。滅多に人の来ないこの司書室では、図書室を利用する生徒でさえ私のことを知る人も少ない。身を隠すには絶好の場所である。

私は指し示されたソファで弁当を広げた。冷凍食品だらけのおかずの中には申し訳程度の野菜炒めと卵焼き(毎日これだけは自分で作っている)という高校生ならよくやるメニュー。椎名先生はと言えば、おにぎりを2つ食べてお茶を飲む程度。利用者から呼び出されてもいつでも出られるようにと軽食にしているようだ。しかし残念なことに、この学校の生徒にはそんな熱心な人は来ない。貸し出しは紙に名前と本の題名を書くだけだし、利用者はせいぜい冷房暖房目当てに昼寝に来るか、勉強する受験生くらいである。というわけで、先生は食事を終えると司書らしく読書を始める。そして私の日課はさっさとお弁当を食べ終え、その横で同じく本を広げることだ。邪魔が入ることはなく、耳を撫でるのは、外で練習している部活動の声。時には先生と読書談義をしたりして有意義に過ごす。雑音だらけの教室とは違う。最高の時間だ。今日持って来た文庫はあと50ぺージしかない。きっとこの休み中に読み終わるだろう。

そうして静かな読書タイムが始まった。


  ○  ○  ○


しかし、今日は司書室の扉の向こうに影が見えた。

滅多に現れない訪問者がである。

私は思わず本を閉じ、身構えた。

「失礼します。」

コンコン…という控えめなノックと共に扉が開く。

そこにいたのは国語教師の野上先生だった。

「椎名先生。今、お時間よろしいですか?」

「おや…野上先生。珍しいお客様ですね。」

「えぇ…まぁ……。探したいものがありまして。」

野上咲也先生。

2つ隣のクラス担任だ。担当している教科は現代文。26歳と言っていたから教師歴はおそらく4年目。若さを売りにするような授業をする先生だ。生徒から…主に同じようなはつらつとした人種からの人気が高い気がする。私からすると苦手な部類に入る先生だった。

「どうぞ。ちょうど暇をしていたところです。」

椎名先生はそう言って本を閉じた。急須にお茶を入れ、もう出がらしだろう茶葉から薄いお茶を提供する。野上先生はそんなことも知らずに器を受け取り、少し啜ってから顔をしかめた。それが味から来たものなのか、熱さから来たものなのか、ぱっと見では分からない。しかし、椎名先生がニヤニヤと笑っているところを見ると、きっと両方だろう。この男は大人に対しても生徒に対しても少しいじわるなことをして楽しむきらいがあるのだ。

「お…美味しいお茶ですね。」

「えぇ。静岡から取り寄せているこだわりの茶葉なんです。」

飲み干した茶碗を流しに置いた野上先生は、私の姿を見つけると少し首をひねった後、「えっと…園田……?何でここに?」と私の名前を言い当てた。この熱血教師のことだ。きっと受け持ちの生徒の名前は憶えているのだろう。それでもクラスの中で影の薄い私のことははっきりと覚えていなかったらしい。そんな野上先生に、私はもう一度自己紹介してやった。

「1-Aの園田です。今日は図書委員の担当日なんです。」

…とお決まりの嘘を吐くが、椎名先生は否定することはない。図書委員であることは事実だが、利用者の少ないこの図書室では委員の仕事などないも同然。担当日なんて存在しないのだ。

そこまで言うと、ようやく自分の記憶に合点がいったらしい。

野上先生はあからさまに元気になった。

「そうかそうか。それはご苦労様。園田。」

そう言って野上先生は椎名先生の側にあった丸椅子を引っ張り出した。どうやら私の座っているソファの隣には来る気がないらしい。お互いに苦手意識を持たれているのだろう。願ったり叶ったりだ。

「それで、ご用件は何でしょうか?」

さっさと読書を再開させたいらしい椎名先生が野上先生を促す。今までの経験から思うに、椎名先生も野上先生みたいなタイプの人間が好きではない。自分のペースを乱されることを嫌うのだ。常に図書室の主として常駐している椎名先生は、他の教師どころか人間と接する機会自体が少ない。人によっては気が狂いそうになるだろうその環境にも順応し、何年も仕事をしているところを見れば、なんとなく察しはつく。ひとりが苦痛でない人なのだ。

それはともかくとして野上先生は椎名先生よりも若い。きっとそこが一番気に食わないに違いない。こんなことを言ったら司書室から出禁にでもされそうだが…。

「あぁ、実は授業には関係のない事なんですが、植物について調べたいのです。つきましては、椎名先生のお力をお借りしたく…。」

「私は植物学者ではないので、植物図鑑を紹介する程度しかできませんが、それでもよろしければ。」

「ははは。そんなご謙遜を…。」

皮肉を言われ慣れている私ならともかく、普段椎名先生と接することのない野上先生はたじたじである。

とはいえ、私も助けることはしないが。

「実は、先日友人から種をもらったんです。その時にちゃんとした名前を聞きそびれてしまって、どう育てたものやら困っているのです。」

「……怪しい植物じゃないでしょうね?大麻だとか…。」

「ま…まさか……!信頼できる人からもらったものです。」

「それなら何故植物の名前も分からないのですか?そもそも、その信頼できる人に直接聞けばいいじゃないですか。」

ごもっともである。

一発解決。

こんなところに来ずとも簡単に答えにたどり着くことが出来る。

私は本を読むふりをしながら椎名先生の意見に賛同していた。

そうしないということは、何か事情があるのだろう。

そう疑うのが人間と、よくあるミステリー小説の展開である。

「それもそうなんですが…。」

「ほら、聞けないような相手なんじゃないですか。」

「違う!違いますよ!ただ説明書には『』とだけ…。」

思わず体が硬直した。

』?

聞き間違いではないか?

それはいつか母親が私に残していった花の名前と同じ。

いや、まだ確定するのは早い。

あの植物は特別な花で、母が私に残してくれた唯一の存在なのだ。

そう簡単に同じ植物の持ち主に会ってたまるか。

私は静かに深呼吸をし、次の言葉を待った。

「説明書?それに『愛の花』とは随分仰々しい名前ですね。」

何かの冗談だと思っている椎名先生は半ば笑っている。一方発言者である野上先生もその自覚はあるようで、恥ずかしそうにしていた。

「珍しい種だそうで、育成キットも一式もらったんです。その中に説明書と『愛の花』についての説明が…。」

「『愛の花』といえばバラのことではないのですか?花言葉が『愛』ですし。」

「分かりません。友人も珍しい種をもらった、とだけ…。説明書には「人間の愛が必要です」と書いてあって、あとは「毎日水をやってください」とあるだけなんですよ。」

「今その種は持っていますか?」

「いえ、もう植えてしまいました。説明書の通りに植えたので大丈夫だとは思いますが…。」

「では、その説明書はここにあります?」

「え…えっと……。自宅に置いてきました。」

「そうですか…。それは参りましたね。」

つまらなそうに腕を組んだ椎名先生とは対照的に、私は興奮と困惑の感情の真っただ中にいた。

同じ。同じだ。

私が持っている『愛の花』と同じ。

愛が必要な花。

人の愛で育つ花。

こんな偶然があるのだろうか。

「とりあえず、育成キットになっていて説明書までついているならその通りにしていれば大丈夫なのでは?育てるところまで育ててみればいいでじゃないですか。その方が手掛かりも多いでしょうに。」

「恥ずかしながら、今まで植物なんて育てたことがなくてですね。何がよくて何が悪いのか、加減が分からんのです。説明書通りにいけば、土と水と愛があればいいんでしょうが、もしものことがあったらと思うと…。どうにかなりませんか?」

「愛…ねぇ……。」

椎名先生は少し鼻で笑ってから「その種の写真もないんですね?」と聞いた。「ないです」という想像通りの言葉を聞くと、椎名先生はあからさまにげんなりした顔をした。

「それでは、種形状や特徴を覚えていませんか?」

「……指先に乗るくらいの大きさの黒い種だったとしか。何せもらってすぐに埋めてしまったので。」

それを聞いた椎名先生は今度は小さくため息を吐いた。

これはお手上げである。

私も別の期待をしていた分、体から力が抜けてしまう。まぁ今まで散々花屋や植物図鑑で調べ続けても見つからない『愛の花』がこんなにも簡単に見つかるはずがない、ということは重々分かっている。だが、この教師はよくもまぁ調これでは確かめようがないじゃないか。いったいぜんたいどうやって調べようとしたのだろう。子どもの私から見ても大人とは思えない思考だ。こんな教師に日々授業をされているかと思うとやるせない。

そんなこちらの反応に気付いているのか、それとも無意識か。野上先生はすがるような目で椎名先生を見つめている。見つめられている当人は腕組みをして椅子に踏ん反り返った後、勢いをつけて立ち上がった。

「ちょっと待っていてください。」

しばらくすると、椎名先生は植物図鑑と花言葉の図鑑、そして植物の飼育法図鑑を手に戻ってきた。どれも厚くて重いハードカバーである。それをドサドサ机に置くと、さすがの野上先生も「うわっ…」と声を漏らしていた。

「聞いたところ、本人にしか分からない要素が多いようなので、ご自分で一通りの可能性に当たってみるのがいいでしょう。この3冊をお貸ししますので、調べてみてください。司書ができるのは利用者が求めていると思われる資料をお渡しするだけですから。」

思いっきり皮肉が込められているにも関わらず、椎名先生の言葉を聞いた野上先生は嬉しそうにお礼を言って、何度もお辞儀をしながら部屋を出ていった。

ちょうど休み時間が終わる鐘が鳴り始める頃であった。

「あれは恋人絡みだな…。」

野上先生の去った扉をにらみながら、椎名先生は冷えてしまったお茶をすする。

私は自分の分の茶碗を洗い、ついでに次の犠牲者が出る前に急須の中の茶葉を変えてやった。

「そんなこと分かるんですか?」

「朝礼の時も雰囲気というかオーラ?…が変わった気がしてたんだよ。幸せオーラっての?うまくいってるみたいじゃないか。それに『愛の花』ときたもんだ。友人からそんなもの送られたら気色悪くて仕方ないとは思わないか?大人の癖に嘘が下手な奴だ。どうせ彼女だろ彼女。」

「それであんな態度を…?」

あんな態度とは懇切丁寧とは言えない皮肉満載の言動についてである。

「俺をそんな可哀そうな人間としてみるな。それとこれとは違う。」

弁解されるとますますそう見えてくるという事実を、この司書は分かっているのだろうか。

「俺は必要最低限の情報もないのに仕事を押し付けようとしている態度が気に入らなかったんだ。助けてくださーい!って…お前まで学生気分でどうするんだか。恋人ができて精神年齢まで狂っちまったか?」

「前者の主張はともかく、後者はただの嫉妬なんじゃ…?」

「お前も出禁にされたいか?」

「野上先生は。」

「つまらん洒落は聞きたくない。」

「そうじゃなくてですね…。」

私は新しく入れたお茶を渡してやった。

熱めに入れてやったにも関わらず、椎名先生は涼しい顔をしている。

「野上先生は適齢期じゃないですか。恋人ができることで浮かれるのはしょうがないですよ。恋は盲目って言うし。」

「それにしてもだ。若いうちに許されることと許されないことがあるんだよ。愛に溺れて正常が分からなくなっちまった暁にはそれは人間じゃない。ただの欲に溺れた猿だ。下手すりゃ猿以下だ。仮にも恋人のためというなら、コミュニケーションもかねて仲良くその植物について語り合えばいいものを…。これだから最近の若者は…。」

「貶したいのかアドバイスしてあげたいのかはっきりしてください。…というか、先生って何歳なんですか?」

お茶をすすりながらぶつぶつと文句を言う姿はまるでじじい…。

「今じじくさいとか思ったか?」

「先生。私授業なのでもう行きます。また明日。」

私はいつか妖怪にでもなりそうな年齢不詳司書教師に背を向けて教室に向かった。

結局、持ってきた文庫は昼休み中に読み終えることはできなかった。

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