第26話 Engelchen

「さて、何から話したもんかね」


 短くなった煙草を灰皿に押し付け、おっさんは白煙混じりの溜息をついてからそう言った。


 おっさんが話したのは、まず、今日子さんのことだった。


 今日子さんは一昨日の晩、意識を取り戻したらしい。現在は検査をしているということだそうだ。それが無事に終われば退院だという話だった。


 だが、”あの時”俺とエルが覚えた違和感は的中していた。


「そうだ、あの時見ただろう、今日子は俺の妻にしては妙に”若く”なかったか?」


 そうやって、おっさんは質問を投げかけてくる。


 そういうことだ。おっさんの奥さんである今日子さんは十年前から何も変わっていなかったのだ。老化していない、そして、何も経験していない、例えるなら十年間冷凍保存をし、神社で助けたあの時から今日子さんは再び動き出したような感じらしい。それならば当然、記憶も十年前の事件があった日から更新されていない。


「俺は思ったよ、ああ、この人はもう別人なんだって。いや、俺が別人になってしまった、と言った方が正しいんだろうな」


 果たして、もし、大切な人との時間が十年もズレてしまったとしたら、俺はどう思うのだろうか。


 大切な人にとっては昨日の出来事が、自分にとってはもう、思い出すことが出来るかどうか、いや、大抵のことは思い出せないだろう。そうなってしまったらと、考えるだけで恐ろしくなる。


 記憶を共有してこそ、人はお互いを認め合うことが出来る。


 思い出を共有してこそ、人は愛し合えるのだ。


 もちろん、おっさんだって、今日子さんだって、お互いのことを愛しているだろう。だが……、その愛がお互いに十字架を背負わせるだろう。形の合わない愛は時として相手を傷つける。俺にはわからない、もし俺がおっさんなら全てを諦めてしまっているかもしれない。


 おっさんの話を聞きながら、俺はふと妹のことを思い出した。もし、妹がこのまま目覚めない、あるいは目覚めても記憶を失っていたら……。魔導書を取り返した今でもそんな嫌な思考が頭をよぎる。


「だからな、俺は決めたんだよ。失った十年分、いや、それ以上に今日子のことを愛するってな」


 そう言うおっさんの顔は笑っているようでもあり、悲しんでいるようでもあり、おっさん自身、どんな顔をしたらいいのかわからないようだった。だが、おっさんのその言葉だけはしっかりと、前を見据えていた。


「おっさん、それは松ば……、日和には言ったのか?」


 今日子さんは松原にとっては母親だ。このことを知れば松原だっておっさんのようにショックを受けるに違いない。


「……いいや、まだだ。だが、退院したら言うつもりだ。事実を伝えてから、それから始まるんだよ、俺達は」


 おっさんは、今日子さんと、松原と、これからまた家族としてスタートを切るつもりなのだ。十年という長い歳月を取り戻すために。


「今日子は、こんなに年老いた俺のことを一目でわかってくれたんだ。娘が成長してデカくなっていたって、すぐに分かるだろうさ」


 おっさんはそう付け加えて、煙草の箱を取り出した。


「そうだ、越生くんはもう二十歳なんだっけ」


「まぁ」


「どうだ、一本」


 おっさんは煙草を一本、差し出してくる。確かにもう喫煙できる年齢ではあるが……、煙草は苦手なんだよな。


「じゃあ、一本だけ」


 物は試し、吸ってみることにした。


「こうするんだ、咥えてる時は吸いながら」


 俺が物珍しく煙草を眺めていると、おっさんが箱から一本取り出し、レクチャーしてくれた。ライターを借りて、同じことをする。


「うえっ、なんじゃこりゃ!」


 俺がむせ返っていると、おっさんは「ま、そうなるわな」と笑った。そうなるってわかってるなら教えてくれよ。


「それにしてもおっさん、煙草なんて吸ってたんだな」


 まぁ、吸っているような雰囲気ではあるが。


「あんな事件が起きて、そんでもって一人で全部やってかなきゃならなくなって、こいつに頼らざるを得なかったってわけよ。だから、こいつも今日でおしまいだ。どうだ、越生くん。気に入ったならこの箱とライターやるぞ? いらないなら捨てるだけだから」


 少し前に初めて会ったばかりなはずなのに、この人は別人になったのかと思うほどに成長してるなと、そう思った。煙草か、俺はそんなものに頼るつもりはないな。


「遠慮しておくよ」


「そうかい」


 そう言っておっさんは、最後の紫煙を燻らせた。


「それじゃ、そろそろ退院するお二人さんを迎えに行きますか。ま、あのピエロ関連の細かい話はまた後でゆっくり話そう。かと言って、そんなに進展はないんだがな」


「わかった。ところでこの火、どうやって消すんだ?」


「一思いに灰皿に押し付けるんだ、熱いからって怖がるなよ。かえって危険だからな」


 こうして俺達は屋上を後にする。


 まぁ、なんてことない非日常の一部分だ。俺はこれからきっと、エルと一緒に魔術を身に付け、時折こんなことに出くわしながら、松原や青梅とバカやって、晴香ちゃんとも仲良くして……。


 そんな”非日常な日常”が待ち受けているのだろう。その中に、目を覚ました妹も入ってくるのだろう。


 双葉よ、何をいつまで寝ているんだ、学校の出席日数だって足りなくなりそうだ。世界はお前が思うよりもずっと面白いぞ、お前の夢の中より、きっと面白い。それは今まで隠されていただけなんだ。だから早く起きてくれよ。


 いつの間にか、妹が起きたら聞きたいことよりも、話したいことのほうが多くなってしまっていた。そうだな、まずは、このタブレットに住み着いた、天使の話をしよう。

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