第14話 縁日に漂う雲Ⅱ


「ねぇお母さん、今度はあのわたあめが食べたいな」


 お父さんの帰りを待つのは退屈だったので、気の向くままにあたしは近くにあった綿菓子屋を指差した。


「あらあら、いい匂い。食べたいわね」


「でも甘いものばっかりだね」


「そうねぇ、和也さんが来る前に食べちゃいましょ?内緒にしてれば怒られないわ」


「うん、ナイショ」


 そう言って、あたしとお母さんは人差し指を口に当てて微笑んだ。お母さんは話し方はおっとりとしているけれどやることはどこかお茶目だった。


 僥倖にも、綿菓子屋さんは二、三人しか人が並んでいなかった。あたし達が並ぶと後ろに沢山人が並んだ。


「あらまぁ、運が良かったわね、もうこんなに並んでる」


「ほんとだね」


 綿菓子は作り置きをせず、注文を受けてから作られているようで、ゆっくりと列が消化されていった。


「……いらっしゃい」


「わたあめ一つください!」


 あたしは元気よく屋台のおばちゃんに言う。


「はいよ、ちょっと待っててね」


 屋台のおばちゃんはちょっと魔女みたいな風貌だった。何と言っても頭に被ったとんがり帽が目に付いた。何かの仮装なのかなと思った。それにしても神社でこれはちょっと場違いだった。


 当時のあたしは変なおばちゃんだなぁくらいにしか思わなかった。


「はい、わたあめだよ、出来立てのうちに食べちゃいなさい」


「ありがとう!」


 あたしはお礼をし、お母さんが五百円を支払っていた。


「日和、ここで食べるのは人が多すぎて迷惑になるから、少し静かなところに行きましょう」


 お母さんは提案した。たしかに唯でさえ狭く、人の多い道の真ん中で食べるのは迷惑だった。


「そうだね、お母さん、これ持って」


 さっきの金魚も持っていると手が塞がって手が繋げないので、お母さんに綿菓子を渡した。


 縁日から少しだけ離れた所、神社の本殿の裏にベンチがあった。あたしとお母さんはそこに座って休憩も兼ねて綿菓子を食べることにした。お母さんは携帯電話でお父さんに「本殿の裏で休憩してるね」と連絡していた。


「さて、頂きましょうか」


 パク、と悪戯な顔をしたお母さんが先に綿菓子を頬張ってしまう。


「あーっ!お母さん先に食べないで!」


 またしてもあたしは口を尖らすが、


「あれ」


「お母さん?」


「日和……、それ、食べちゃダメ……」


 突然、お母さんが青い顔をしてベンチに横になってしまった。


「お母さん?どうしたの?大丈夫?」


 わたしはお母さんを揺さぶったが、返事がない。


「お母さん!ねぇ、起きて!」


 ――。


 全く反応がなかった。え、どういうこと?当時幼かったあたしは何が起こったのか全く分からず、ただ目の前で倒れているお母さんを呆然と眺めているだけだった。


「おかあ……さん?」


 手から落ちた金魚を入れたポリ袋が破け、金魚がピチピチと土の上をを跳ねていた。


 あたしはお父さんがやって来るまでただただその金魚を見つめていた。



・・・



「おい!日和、今日子!大丈夫か!」


 お父さんが走って駆けつけてきた。金魚はもう動いていなかった。


「今日子、大丈夫か、しっかりしろ、今日子!」


 お父さんの呼びかけにも反応はなかった。


 お母さんは冷たかった。息をしてたのかどうかはわからなかった。


「日和、俺が今日子を背負う。だから日和は一人で走れるか?」


「どうして、ねぇ、お父さん、お母さんはどうなっちゃったの?」


「お母さんは大丈夫だ、それより縁日の様子がおかしいんだ。綿菓子を持った人が次々と倒れてるんだ」


 綿菓子?それって……。


「よし、今から背負うから日和はちょっと離れ――」


「えっ……」


 あたしとお父さんは目を疑った。さっきまで目の前にいたお母さんがいないのだ。目の前から突然姿を消した、と言うよりも、元よりそこに姿はなかった、といった感覚を覚えた。


 あたしもお父さんも、声が出なかった。


 お母さんが消えた――。


 どんな感情よりも先に現れたのはたったの二文字。


 ――『恐怖』。


 そこには巾着と、食べかけの綿菓子だけが残っていた。


 あたしとお父さんは状況を理解するまでその場に立ち尽くしていたのだった。


「……おい、日和。逃げるぞ」


「えっ、お母さんは、お母さんはどこ?」


 お父さんはなんとか正気を保っていた。あたしはパニック状態になっていた、頭の中は真っ白で、目の前は真っ暗だった。


 目の前から忽然と大切な人が消えた。それにもかかわらずお父さんは「逃げる」というのだ。


 しかし、それ以外何をしろというのだ。


 人は時に冷淡で残酷な選択を迫られるのだ。

 

 当時小学三年生だったあたしは、そんなに難しいことを考えられなかったが、感覚で知ってしまった。


「お、かぁさんっ……」


 目から涙がポロポロ流れた。あたしはお母さんの持っていた巾着袋を握りしめた。


「日和、行くぞ」


 お父さんがあたしを抱き上げる。あたしは何も出来なかった。お父さんに抱き上げられたまま、離れていくベンチをずっと見ていた。握りしめる巾着からはお母さんの香りがした。



・・・



 あのベンチから家へ帰るまでには、もう一度縁日を通らなくてはいけない。


「日和、目を瞑ってるんだ。お父さんが良いぞって言うまで目を開けちゃダメだからな」


「……うん」


 そう言われてあたしは目をギュッと閉じた。


 少し遠くから沢山の人の声が聞こえてきた。


 賑わいではない。悲鳴だ。


 沢山の足音と悲鳴が近づいて来る。


 それはやがて間近に聞こえてきた。


「痛っ――」


 誰かの肩があたしの頬を打った。あたしは思わず目を開けた。


 そこに広がっていたのは。


 ――地獄。


 そんな言葉が妥当だろうか。


 目の前に広がるのは逃げ惑う人々の姿だった。


 誰ひとりとして何が起きているのかわかっていなかった。なぜ自分は逃げているのか、何から逃げているのかわからない。


 ――。


 ――「無知」という恐怖。


 ただそこにいた人が倒れ、消えていく。持っていた綿菓子だけがそこに残る。縁日の地面に落ちる綿菓子はあたしに雲を連想させた。


「お、おとうさん」


 あたしはわけがわからなくて、お父さんのことを呼ぶしかなかった。


「日和、大丈夫だ、もう少しでここから出られるからな」


「うん……」


 お父さんの温もりと、お母さんの巾着に残る香りがあたしを落ち着けてくれた。


「日和、鳥居が見えてきたぞ。もうすぐだからな」


「うんっ」


 掛けてくれるお父さんの声にしがみつくように返事をした。


 鳥居を潜る前に、例の綿菓子屋がちらりと見えた。とんがり帽子を被った魔女のようなおばさんは逃げ惑うこともせず、そこに佇んでいた。おばさんはこっちを見ているような気がした。あたしは怖くなって目を伏せた。


「あれっ?」


 鳥居を潜るとそこは日常の風景が広がっているのだった。あれだけ悲鳴を上げている人がいたというのに、神社の外に出ると何も聞こえてこないのだった。


 あたし達のように外に出てきた人達も、同じように困惑している。悲鳴を上げながら出てきた人達も、外の異常なほどの静けさに驚き、大人しくなった。しかし、神社の中で起きた事態を思い出し、悲鳴は外でも上がるようになった。


 中には神社に戻ろうとする人もいた。しかし、鳥居を潜ろうとすると外側に戻ってきてしまうのだった。


「どうなってんだよ!」


「えっ……」


 と、荒々しい声から弱々しい声まで、色々な感情を乗せてた声が聞こえてきた。神社とここは完全に切り離されてしまっているのだった。


「日和、帰ろう。今すぐ家に帰ろう」


 お父さんは耐えられなくなっていた。少し声が震えていた。


「うん……帰りたい」


 あたし達は家に着くまで一言も話さなかった。


 家に着いてから、すぐに布団に入った。一人で寝るなんてとても出来なかったので、お父さんと同じ布団に入った。あたしもお父さんも一睡もできなかった。


 気が付くと涙が流れていた。起きた出来事についていけず、何も理解してないくせに、涙だけは全てを知っているのだった。


 あたしは一晩中、お母さんが残した巾着袋を離さなかった。

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