第2話 目覚めた日

 ピピピピピピ……


 遠いところから聞こえてくる規則的な電子音、それが 「聞こえてくる」から「聞こえる」になるまで少々時間を要した。


「うおっ!?なんだもうこんな時間じゃないか!遅刻するぞ!?」


 毎朝六時半には起きて、妹の双葉の弁当を作り、身支度をして、つまり七時半には家を出なければならない。アナログ時計が指し示す時刻は七時だ。これでは弁当を作っている暇はない。双葉には悪いが今日は購買でパンを買ってもらうことにする。


 朝の三十分は夕方の十分に等しいくらい目まぐるしい。すまん妹よ…と台所のテーブルにメモ書きと千円札を置き、慌てて家を出る。


 ああそうか、今日は月曜だから昨日までの休日の余韻が抜けきれてないんだなー。よく夜更かしはするが滅多に寝坊をしない俺だが、寝坊をしたときにこうして反省をする癖があるからだろう。もう四月下旬だ、暖かくなってきたからだろうか?ともかく「春眠暁を覚えず」とはよく言ったものだ。駅までダッシュする五分間でそんなことを考えていた。


「ああ、やっちまった、双葉を起こしてくるの忘れた!」


 駅が見えてきた頃、妹のことを思い出してしまった。妹はとても朝に弱く、誰かに起こしてもらわないと起きられないのだ。そのため家から自転車で十分程度でいける高校に通っているが、それでも一年間で遅刻回数は二十を超えてしまっている。それでも先生達から呆れられず、むしろ期待されているのは彼女がいわゆる”天才”だからだろう。


 そしてなぜ兄が妹の面倒を見ているかというと、両親は外資系企業に勤めており、現在は二人共海外で暮らしているからだ。全くもって薄情な両親だ。大学の入学式の朝に突然、「もうお兄ちゃんも大人だし、この家を任せるわ、可愛い娘をよろしくね~」なんて言われて早二年。俺は可愛くないか、そうか。


 なんとか電車に乗る事ができた。地方は電車に一本乗り遅れるだけで十五分待ちが当たり前だからな。非凡な妹を起こすより、平凡な自分が講義に遅れるほうがリスクが大きい。愛する妹を養えなくなってしまうからな。一応家に電話しとくか。


「おい、双葉、起きてるか?起きてるなら電話に出てくれ、それから家をでるときはちゃんと鍵をしろよ。おーいおーい」


 昨日のうちに終わらなかったノルマに対して苛ついているのか、職場の雰囲気にストレスを感じているのか、リーマン達が俺を睨んでくるので留守電を入れて電話を切った。電車内での通話は御法度だ。咄嗟にやってしまったので申し訳無さがこみ上げてくる。まぁ、朝の殺伐とした電車内では咎めるものは誰も居ないだろう。ましてや月曜の朝だ、誰も目で訴える以外、注意する体力などまずない。


 電車に四十分くらい揺られて、環状線に乗り換えて五分。その後徒歩で十分。ようやく俺が通う大学に辿り着いた。ここは都内でも指折りの私立系総合大学だ。俺はそこの二年生、理学部の化学科に所属している。とにかく一限目は有機化学だ。全く、一限目から講義をするなんて、暇な教授もいたもんだ。


 講義開始二十分前。教室に誰もいないのはおかしい。声が小さいことで有名な教授の講義だから、前の方の席を取ろうとする成績優秀者達なら既にいてもいい頃だ。一番前は実は首が凝って講義を聴くのに余分なエネルギーを浪費してしまうことを知っている俺は四列目の席に腰掛けた。


 講義開始十分前。おかしい。本来なら大学生になってまで集団登校している奴らでさえ来る時間なのに、教室にいるのは俺だけだ、どういうことだ?


 講義開始五分前。遂に教授がやってきた。いつもなら談笑が飛び交う講義前だが、今は静寂に包まれている。教授は動揺することもなく、いつもの様にプロジェクターの準備をしていた。なんだよ!なんなんだ!おかしい。俺がおかしいのか?これは夢なのか?それとも講義を受ける奴ら全員雀荘にでも行ってるのか?


「それでは講義を始めますかね」


 遂に始まってしまった。教室には俺以外誰もいない。


「まずは出席を取らせていただきます。えーと、はい、全員いますね」


 ああ、この教授も狂っている……。一人を全員などと数えたりはしない。


「あの、この教室には俺しかいないんですが……?」


「そうですよ?この講義を受けているのはあなただけになりますね」


「そんなはずはない、先週までは百人くらいいたじゃないか!」


「先週?なんのことです?この講義、”対人戦闘魔法基礎”は今日が第一回ですよ、越生一月クン」


 タイジンセントウまほ……なんだって?


 俺は左の頬をつねった。痛かった。



 ・・・



 ピロリロピロリロリーン。


「んん、なんだよもう。こんな朝から電話ぁ?」


 寝ぼけ眼を擦りながら、時計を見る。七時四十分。ああ、遅い。さてはお兄ちゃん、起こし忘れたな。あの兄のことだし、どうせ夜遅くまでネットサーフィンでもして寝坊したんだろう。


「今日は寝坊して弁当を作れんかった。すまん妹よ、これでパンでも買ってくれ…って」


 食卓にはメモ書きと千円札がおいてある、それに食器もだ。よほど慌てて出ていったのだろう。食器はせめて流しに置いといてほしいんだけど。水につけておかないとお米がバリバリにくっついちゃうんだから。


 渋々食器を洗ってから、電話を確認すると、やはりお兄ちゃんから留守電が入っていた。


「起こしてくれたのはありがたいんだけど、先週土曜日まで修学旅行があったから今日は振替で学校お休みなんだよね~、二度寝しよーっと!」


 そんなわけで、二度寝を決心したのだけれど、一応妹思いの兄の伝言を聞いておくことにした。留守番電話サービス一!しりとりで禁止されてるやつね!


「おい、双葉、起きてるか?起きてるなら電話に出てくれ、それから家をでるときはちゃんと鍵をしろよ。おーいおーい」


 お兄ちゃんが話をしているのと同時にガタンゴトン、と電車の音がしたってことはやっぱり車内かぁ、こっちまで恥ずかしくなってきたよぉ……。


 と、とにかく今大事なのは睡眠!十二時に目覚ましをセットしてっと。カーテンよし!お布団よし!枕よし!さて、おやすみ!



 ピロリロピロリロリーン。


「ってええ?!また電話?お兄ちゃん、どんだけシスコンなのよ、もうっ!」


 バタバタと階段を降りて、プリプリしながらリビングまでいく私、可愛い。じゃなくて、とりあえず受話器を取って、


「起きてますっ!今日は学校お休みだから二度寝するのっ!いい?お兄ちゃんはシスコン過ぎるのっ!やめてよね!この間なんか、クラスメイトに、お前んとこの兄貴に、あ、君双葉の友達だよね?双葉、ちゃんとお弁当食べてる?とか聞かれたって言われて、そりゃあもう赤面したわよ!ダイエットなんかしてな――」


 私がまくし立てるのを遮るタイミングで受話器の向こうから声がした。


「こんにちは、ラインハイト王立図書館です。越生双葉さん、ですね?」


 ラインハル…なんて?王立?そんな王国あったっけ……


「は?はい……」


「あなたが借りている本が二冊程あるのですが、延滞期間が一ヶ月を超えましたのでご連絡させていただきました」


「どういうこと?私、本なんて借りたことないんだけど……」


 そう、私は本なんて借りない。大体の本ならパラパラとページをめくれば内容を理解できてしまうからだ。まず借りる必要がない。


「……そうですね、あなたは本を借りていないかも知れません。でも借りているのです」


 どういうこと?借りてるのに借りてない?新手の詐欺電話とかかなぁ……ひょっとして私、もう寝てるのかも?夢の中かな?


 私は冷たい手を頬に当てた。どうやら二度寝に成功しているわけではないみたいだ。

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