第4話 犬の森のヘンちゃん
ヘンちゃんが暗くなってから出発したのは、人間の目をさけやすくするためです。また悪い人間に捕まったらと思うと気が気じゃありません。
そんなふうに思っていたせいかヘンちゃんは人けのない方へ進んでいて、何日かたったころは人間の家がまばらにしかないところへさしかかっていました。
道の幅がせまくて、すれ違うときの車はぶつかりそうになります。夜になって人間たちが明かりを消す時間も、野良猫たちと暮らしていた町より早いようです。
ヘンちゃんの気持ちを軽くしたのは、この辺りに木が多いこと。電柱の見間違いではなく、本物の木です。いくらか離れたところには山も見えて、緑色に染まっています。木があって森を作っているのなら、もしかするとアフリカの森かもしれない……なんてヘンちゃんは考えていました。
鳥たちに尋ねても、アフリカの森を知っているという答えはやっぱりありません。アフリカなんてところまで来ているわけがないので当たり前ですけど、今のヘンちゃんには「もしかしたら?」ということだけが最後の希望でした。
今日は空がくもっています。風に冷たさがあるなと思いながら道路を一歩一歩進んでいると、木の下でうろうろしている動物がいました。
犬です。耳がたれていて、体はヘンちゃんと似た茶色。大きさはヘンちゃんよりずっと上。木をじっと見上げています。
「何してるの?」
話しかけると、犬は困った様子で答えました。
「あれを持ってかえりたいんだけど、あたし木登りできないから。ちょうどいい風が吹いてくれたら落ちてくるかもしれないのに。そううまくはいかないわね」
ヘンちゃんも木の上を見てみました。白くてひらひらしたものが引っかかっています。布でしょうか。
「じゃあ、ぼくが取ってきてあげるよ」
ヘンちゃんは軽々と木に登って、白いもののそばまで行きました。猫のようにツメが鋭いので、木登りくらい簡単です。
引っかかっていたものは人間が使うハンカチでした。ヘンちゃんがくわえてから降りると、犬はしっぽを振りながら迎えてくれました。
「ありがとう! ご主人様の大事なハンカチが風に飛ばされちゃって、困ってたのよ。それにしても、木に登れるなんて便利なツメね。暖かい日は木の上で昼寝とかできて楽しそう!」
犬は、はずむようにペラペラと話しかけてきます。
「あたしはポチ
「ぼくはヘンちゃん。その……アフリカの森をさがしてるんだ。多分、そこに仲間がいるはずだから」
「つまり、今は一匹で暮らしてるってこと? それならあたしたちのところに来ない? 一匹じゃつまんないし、あたしたちは木登りできる子がいると助かるのよ。そうだったらいいのになって前から思ってたの」
ヘンちゃんはどう答えるか悩みました。誘ってもらえたことはうれしくても、今までどうなってきたかを考えるとためらってしまいます。
「ぼく……大きな声でほえたりするんだ。嫌じゃない?」
「何いってるのよ。あたしたち犬はみんなそうよ。むしろほえることは大事な役目の一つだし。怪しいやつがご主人様に近づいたときは、ほえて追っ払うの」
ポチ子は、わんわんとほえてみせました。ヘンちゃんと同じくらい大きな声です。
「ぼくと同じようにできるってことは、ポチ子がぼくの仲間? でも、住んでるところはアフリカの森なの?」
「あたしたちを飼ってくれてるご主人様は森さんっていうのよ。名前も
「森? アリカ? じゃあ、今度こそ……やった!」
ヘンちゃんの中にあった不安はポチ子の一言で吹き飛んでしまいました。
ポチ子が住んでいるのは、二匹が出会ったところの近くでした。木造の大きな家で、かなり古いようです。
柵がこわれて穴になったところを通ると、そこは広々としたお庭。木が何本か生えていて、花壇が作ってあります。ポチ子がヘンちゃんを連れていったのは、片隅にある物置です。
大きめの犬小屋として使っているみたいで、中にはたくさんの犬がいました。ポチ子より大きな二頭はお父さんとお母さん。ヘンちゃんと同じくらいの八頭は弟や妹です。
「ポチ子、またお出かけしていたのかい。ご主人様を心配させないようにね」
ポチ子はハンカチをお父さんのそばに置きました。
「これが飛ばされたから、追っかけていったのよ。木の枝に引っかかっちゃったけど、この子が簡単に取ってくれて助かったわ。ヘンちゃんっていって、木登りがうまいのよ」
ポチ子が振り返ったとき、ヘンちゃんは子犬たちからもみくちゃにされていました。体中のにおいをかがれたりなめられたりじゃれつかれたり。お父さんは、落ち着いたまなざしでヘンちゃんを観察します。
「見たことのない動物だね。何ていうんだい?」
「ぼく、イヌネコネズミヘンナモンダ……だよ。ちょっと、くすぐったいよ!」
「へえ、犬って付くじゃないか。それに、木登りができるのはすごいことだね」
ポチ子はうれしそうにしっぽを振りました。
「でしょ? 仲間がいないみたいだし、ここで暮らしてもらったらいいと思うのよ。弟や妹とも仲よくなれそうじゃないの」
お父さんとお母さんは、しばらく相談してから答えました。
「木登りできる子がいてくれたらありがたいよ。ご主人様は目が悪いから、ヘンちゃんがまざったとしてもわからないだろうね」
「ご主人様のお世話をする人間が来たときは、見つからないように隠れておいた方がいいかもしれないわね」
ヘンちゃんは犬一家と一緒に暮らし始めました。
お父さんがいったとおり、飼い主の森さんは目の不自由なおばあさん。一人暮らしで、歩くときは杖を持ちます。
森さんはぼんやりとしか周りが見えず、ヘンちゃんが犬一家と似た茶色で子犬に近い大きさなので、違う動物がいるなんて思いませんでした。もちろんヘンちゃんの分だけドッグフードが多く必要になりましたけど、それも「子犬たちは育ち盛りだからたくさん食べたがっている」と考えたのです。
ヘンちゃんが犬たちとの生活で一番の楽しみにしたのは、森さんが遊んでくれることでした。
森さんはときどきお庭まで出てきて、フリスビーを投げてくれます。ポチ子の話によると、別の場所で暮らしているお孫さんが「犬を遊ばせるのにいい」と教えていったからだそうです。
森さんは手先が器用で、きれいな花壇をお庭に作ったりもできます。でも足はふらつきがちで、あまり体が丈夫そうに見えません。
ただしフリスビーはお孫さんのマネをしているうちになれたみたいで、意外と遠くまで飛ばせます。犬たちはそれを追いかけて、最初に取った犬が森さんへ持っていってなでなでしてもらうのです。
ヘンちゃんは田中さんと同じことをしたと思い出しながら、犬たちと一緒にフリスビーを追いかけます。田中さんとやっていたときにはライバルなんかいなかったので、どうしても走り方がのんびり。なかなか勝てません。
でも、あるときヘンちゃんはたまたまフリスビーを取れて、森さんに持っていくことができました。もしかしたら、なでなでのときに犬じゃないって気づかれるかも……そんな心配もしましたけど、なでてもらってすぐ子犬たちにまぎれ込んだお陰なのかばれた様子はありませんでした。ヘンちゃんはそうやって久しぶりに人間からなでてもらえたので、犬たちと同じように森さんが大好きになったのです。
困ったこともあります。森さんは、目が悪いせいでときどきフリスビーを変な方向に投げてしまうのです。するとフリスビーは木の枝に引っかかります。
森さんはフリスビーが木の上にあるところも見えません。ただし犬たちがなかなかフリスビーを持ってこなければ、「また木の上かい」とつぶやいて木をゆさぶったりします。それでも大抵は落ちてこなくて、杖やほうきでさぐったり近所の人に頼んだり。フリスビーが森さんの手に戻るまで、犬たちは待ちぼうけです。
でも、ヘンちゃんさえいれば大丈夫。木にひょいひょい登って、フリスビーを落とせるからです。森さんは茶色いものが木を伝っていくところくらいならぼんやりと見えるみたいで、「犬でも頑張れば木に登れるんだねぇ」といいます。ヘンちゃんは自分が役に立っていると思うとうれしくなるのでした。
ヘンちゃんが犬一家と暮らし始めてから一週間くらいたったある日は大雨でした。でも一晩明けると青空が広がって、お庭から山がはっきり見えるいい朝になりました。
朝ご飯はドッグフード。ヘンちゃんはポチ子たちとそれを食べてから犬小屋でくつろいでいました。犬は昼行性といって明るいうちに目を覚まして行動する動物なので、ヘンちゃんは野ネズミの群れにいたときと逆で昼間起きて夜眠る生活です。
「ヘンちゃん、今朝のドッグフードどうだった? 缶詰に入ってるのは高級品で、他の家に住んでる犬からうらやましがられることもあるのよ」
「うん。おい
「よかった! あたしもあれ大好きなのよ。軟らかくてジューシーで……缶をパッカンって開けるでしょ? あの音を聞くだけでよだれが出ちゃうのよね」
「ここのご飯って、
「そうね。ご主人様ってば、あたしたちにお金かけちゃうから。フリスビーもヘンちゃんのお陰で中断しなくなったし、いうことなしよ!」
「喜んで
ヘンちゃんは今までのことを考えると不安もわいてきますが、無理やり押し込めました。ポチ子はヘンちゃんの顔をのぞき込んできます。
「声、おかしくない? カゼ? 病気になると、病院に連れてかれちゃうのよね。注射をされることもあるし。あれは思い出すだけでもゾッとするわ。あたしたちの中で一番勇気があるお父さんでさえ、注射の前では子犬と同じなのよ」
「こ、怖いね……
ヘンちゃんは犬小屋からそそくさと出ました。どうして声がおかしいのか、自分ではわかっています。
(困ったな。前歯が伸びちゃって、口が閉じにくいよ)
イヌネコネズミヘンナモンダはネズミと同じで前歯が一生伸び続けます。だから硬いものをかじってすり減らさないといけません。
普段なら硬いものを食べることで勝手に減ります。でもここに来てからの食べ物は軟らかいお肉ばかり。ヘンちゃんには問題があります。
(このまま伸びたらご飯を食べることもできなくなっちゃう。何かかじろう。家をかじったら怒られるよね。木ならいいかな)
ヘンちゃんはお庭にある木へ駆けていきました。
(おいしくなさそうだけど、いただきまーす)
カリカリカリカリ……
ヘンちゃんは一生懸命かじりました。ここのところ軟らかいものばかり食べていたので、何となく安心します。随分たって、ヘンちゃんはようやく木から口を離しました。
「やっと前歯がきれいになったよ。これでしばらくは大丈夫かな」
ふうっと一息つきましたけど、おどろきのあまりに飛び上がってしまいました。こっちにつかつかと近づいてくる人がいます。
「さっきからネズミのかじる音が聞こえる!」
森さんでした。いつもゆっくり歩くのに、今だけはやけに早足。そんなスピードを出せたんだと思えるくらいです。しかもヘンちゃんのそばで立ち止まるなり杖を武器みたいに構えて、鋭い視線で辺りを見渡します。
「ネズミどもめ、どこだ! 昔、うちの子犬が耳をかじられて……あのときのうらみは忘れちゃいないんだよ!」
ヘンちゃんがたじろいでいるなか、森さんは辺りにあるものを一つ一つなで回していきます。そのうちヘンちゃんがかじった木に触って、白い眉をつり上げました。
「この手触りは、かじったあと! やっぱりネズミおるんかーっ!」
ブンブン!
すごい勢いで杖を振り回します。いつも優しい森さんとは別人みたいです。
「ネズミ、出てこんかーっ! 今すぐ叩きつぶしてやるよーっ!」
お庭を歩きながら杖であちこちなぎ払います。せっかくの花壇も踏み荒らして、お庭がひどい有様になっていきます。
あまりの大騒ぎなので、犬たちも様子を見に来ました。みんな森さんの姿にビクッとします。
「もしかして、ネズミを見た?」
ポチ子がつぶやいている一方、子犬たちはおびえていました。お父さんは恐る恐る森さんへ近づいていきます。気を付けないと杖で叩かれてしまうので危ないです。
「ご主人様、落ち着いてください! 母さん、近所の人間を呼んでくるんだ!」
お母さんが駆けていって、お父さんはどうにかなだめようと森さんに呼びかけます。
「ネズミが迷惑なのはわかります! でも私たちは大丈夫ですから安心してください!」
「お前たちをかじらせたりしないから、心配しなくていいよ! ネズミー!」
森さんはなかなか静まってくれません。お年寄りは急に体を動かすと具合が悪くなることもあるので、早く止めてあげないといけません。
大人しくなったのは、おとなりのおばさんが来てくれた後。それまでヘンちゃんも子犬たちもおびえていることしかできませんでした。
森さんが静かになった後、ヘンちゃんはこうなったきっかけを犬たちの前で説明することになりました。話を聞き終えたお父さんは、ため息を一つ。
「申し訳ないけど……ご主人様があそこまで怒る原因を放っておいたりできない。キミをここに置いてあげることはもうできないよ」
ヘンちゃんは説明を始める前からこうなる気がしていました。でも、心構えができていたなんてことはありえません。野ネズミたちのときよりも、野良猫たちのときよりも、重い気持ちになっていました。
「ちょっと待って。ご主人様の方が気にしすぎだと思うわ」
すぐにポチ子がお父さんを止めました。
「家をかじったんなら怒られて当たり前だけど、ヘンちゃんがかじったのはお庭の木じゃないの。そのくらい大目に見てくれてもいいでしょ?」
「ポチ子、ご主人様はやり過ぎかもしれないけど、私たちのためにネズミを追い払おうとしてくれているんだ」
「たしかに、ネズミはあたしたちの食べ物だってかすめ取るから迷惑だけどね……」
ポチ子は困り顔になりました。ネズミが嫌だとは思っているみたいです。
「ご主人様は、ヘンちゃんがかじったあとをまた見たらあたしたちのためにさっきみたいなことを繰り返すかも……じゃあ、ヘンちゃんは歯が伸びたら外まで行ってかじるものをさがすって決まりにしたら? ご主人様から見られないところでやるんならいいでしょ」
お父さんはしばらく考えてから首を振りました。
「私たちは飼い犬で、ご主人様のことが第一だ。ご主人様を怒らせる可能性があるものは放っておけないんだよ」
そのことを出されると、ポチ子はいい返せませんでした。飼い犬には飼い犬のルールがあるのでしょう。
ヘンちゃんが周りを見ると、子犬たちはまだしっぽをおなかにくっつけています。怖がっているときの仕草です。やさしい森さんがあんなふうになるのは、犬一家にとって恐ろしいことというわけ。
だから、ヘンちゃんはやっぱりこういうしかありませんでした。
「うん、わかった……ぼく、出ていくから」
夕方になる前、ヘンちゃんは犬たちと暮らしていたお庭から出発しようとしていました。
犬たちは森さんのご機嫌を直すことでいそがしい様子。見送りなんかしてくれません。ポチ子以外は。
「ごめんなさい。せっかく一緒にいてくれてたのに」
ポチ子は悲しそうな声をかけてきました。でもヘンちゃんはポチ子がどんな顔をしているのか見ていませんでした。ずっとうつむいていたからです。
「大丈夫……きっと、次こそ……アフリカの森にたどりつけるから……そこに、仲間がいるから……」
そう答えたけど、言葉が自分から出たなんて少しも思えません。自分と同じ声をした誰かがいっているんじゃないかという気までしました。
「キミの幸せを祈ってるわ。せめてこれを持ってって」
ポチ子が差し出したものは、あの高級ドッグフード。
今までいろいろなお弁当をもらってきたヘンちゃんでしたけど、それは受け取りませんでした。歯が伸びすぎた原因だから? そうじゃなくて、心にもやのようなものがかかって食欲なんかすっかりなくなってしまっていたからです。
「アフリカの森、どこかな……」
ヘンちゃんはうわごとのようにつぶやいて、ポチ子の心配げな視線を背中に浴びつつ犬たちのお庭からも旅立ったのです。
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