第3話 小竜と少年

 まだ日の光が差し込まない明朝。

 朝五時に起床して、丘の上にある自宅の裏で座禅をしていた。

 小高い丘の上は、独特の薄寒さと僅かな湿気が火照った肌を冷やす。

 頭の上から糸が伸びて天に吊られる感覚で伸びた背筋には無駄な緊張はなく、しかして弛緩するわけでもない。

 両の手は膝の上に乗せて在り方を整えた体は、この二年間毎日欠かさず行ってきた工程を繰り返す。

 鼻から息を吸い、肺に冷えた空気で満たす。満たされれば、息をゆっくりと吐いていく。

 急がず、慌てず、ひたすらに無心で呼吸を繰り返す。

 ただ呼吸を繰り返すだけで、全身から汗が湯気となって上る。

 温まった体と比例するように冴えわたった思考が、より朝の空気を鮮明にしていく。

 頭の先から四肢の末端まで活性化すると、次の段階に移る。

 首の後ろ頸椎七番の辺りへ意識を向け、形の無い流体である“気”を制御下に置く。

 瞑想によって活性化し存在が明確になった気を左右に動かし、動作確認すると準備完了。

 首の後ろにあった気を首から右肩へ移動させる。右肩から上腕外側、前腕外側、手の甲まで伝われば、指先で折り返し掌から脇へ進める。

 気を体の中で右回りに一周させると、再び首の後ろへと戻ってくる。

 人体の正中線から右半身に気が伝わる時は息を吐き、正中線から左半身に熱が伝わる時は息を吸う。

 気が始まりへ辿り着けば、また全身の輪郭をなぞる様に気を送る。

 何度も何度も。

 瞼の裏に山間から差し込む暖かい日の光が感じるまで、気を循環させる工程を続けていた。

 辺りを包む空気が変化したのを境に、気を巡らせることをやめる。

 激しい運動を行ったわけでもないのに、全身から湯気が立ち上っていた。

 気を巡らせた事によって、全身の細胞が活性化した現象『内気功』が正しく行われた証拠だ。

 気の循環で精神的な疲労を感じたが、体は十分な活力が満ちていた。

 ぐぅぅぅ。

『朝の修練は終わったようだな』

 空腹を訴える腹の音に、眠気のある声が掛けられる。

 小鳥の様に小さな赤い翼竜。

 二年前の覚醒からずっと一緒にいる“小竜”だった。

 毎朝の訓練を始める時間は眠っているので、ハンドタオルを敷いた籠の中に入って朝の訓練に付いてくる。

「腹の音を目覚まし代わりにするのはどうかと思うよ」

 ハンドタオルに包まった小竜を籠から取り出し、定位置の頭の上に乗せて家の中に入る。

 家の台所も兼ねた店の厨房からは、規則正しい包丁の音と空腹に響く美味しそうな匂いが漂ってきた。

 匂いに釣られて厨房を覗くと母さんが、朝ご飯の準備をしていた。

「母さんおはよう」

「おはようティファ、小竜。お風呂沸かしてあるから、汗を流してらっしゃい」

 小竜はまだ眠いのか軽く翼を挙げるだけの返事を返す。いつもの事なので母さんは気にせずに手元の作業に戻った。

 俺も空腹が騒ぎ出す前に汗を流しに行く。

 脱衣所で手早く汗と朝露に湿った衣服を脱ぎ、洗濯籠に放り込むと小竜を脇に抱えて浴室に入った。

 家族全員が風呂を好むため、浴槽に張ったお湯は常に適温で保たれていた。

 脇に抱えていた小竜は、湯を張った手桶に下ろし縁に頭を置いた。

 霊体である小竜が、果たして溺れるのか定かではない。

 湯の心地良さに小さい目を細めて寛いでいる小竜の姿は、毎日見ていても飽きることはない。

 小竜の完全な目覚めまでまだ掛かるので、先にシャワーを浴びる。石鹸とシャンプーで汗を完全に流してから浴槽に入る。

 大人が五人入っても余裕で入れる浴槽は、五歳児の俺からすれば大浴槽だ。

 手桶に浸かっていた小竜を抱えるようにしてお湯を堪能する。思わず湯の心地良さにゆっくりしてしまう。


 五年前。

 致死率100%の不治の病に侵されていた俺は、父さんがとある存在を狩ってきたことで死の運命は捻じ曲げられた。

 竜種。

 世界の端末。星の抑止力。呼び名は数あれど、世界調和を乱すならば神すら殺すこの世の調停者にして、力の権化。

 その中でも更に曰くつきの竜を父さんは狩って来た。俺の命を救う為だけに。

 結果だけを言えば、俺の命は繋がった。

 但し心を持たない人形として、だが。

 それから三年、今から二年前。

 両親の友人である鍛冶師が、父さんが狩った竜種を元に一つの防具を作り出した。

 赤竜の鎧。

 滅びの代名詞となっていた赤竜の素材だけで作られた防具と人形(おれ)の対面により、二つの存在が生まれた。

 一つは俺という“自我”。もう一つは、赤竜の鎧の核である“竜結晶”から再誕した小竜。

 二つの魂が共鳴する“共鳴り”と呼ばれる現象によって、俺と小竜が生まれた。

 家族は皆喜んでくれたが、俺も小竜も問題があった。

 俺は三歳の肉体に十三歳の精神が宿り、小竜は名前と記憶を持っていなかった。

 俺の方は共鳴りの影響から考え見るに誤差の範囲と診断され、名前を持たない竜には母さんが“小竜”と仮の名を付けた。

 以来、片時も離れずに共に過ごしている。


『小僧あまりゆっくりしていると食い損ねるぞ』

「そうだな。でも内気功やった後のお風呂はやっぱり最高に気持ちいいんだよ」

 程よい疲労とお風呂の心地良さは眠気を誘うが、視線を感じて下を見ると抱えていた小竜がジト目で見ている。その顔も可愛いです。

『だから貴様が風呂で寝ないように、我が共に入っているのであろう。この二年で体は大きくなったが、五歳児の大きさでは溺れる危険があるからな』

 思わず苦笑してしまう。両親から一人で風呂に入る条件が小竜と必ず入ることを言い含められていた。

「そろそろ出ようか」

『もう少し』

 先ほどまでと真逆の事を言う小竜を無視して風呂から上がる。俺に抱きかかえられていた小竜に選択肢は存在しない。

 小竜の原型は火竜なのに小竜は風呂好きだ。

 器である肉体が無い状態での入浴は大丈夫なのか?と、いつも浮かぶ疑問を風呂の中に置いていく。お腹減ったんだよ。

 脱衣場の備え付けのタオルで水気を拭き取り、新しい服に袖を通す。

 さっき覗いたときに薫ってきた匂いに期待を膨らませながら、食堂に向く足取りはとても軽かった。


 食堂に着くと丁度全員揃っていた。

「おはよう父さん、ソウル、ハート」

「おはようティファ、小竜」

「「オネニィ、しょうりゅうおはよ!」」

 今日は朝の修練に居なかった父さんと、俺が覚醒して少ししてから生まれた双子の妹達が席に座っていた。

 双子の妹が自分の事を“オネニィ”と呼ぶのは、性別が判別し辛い幼児とは言え、俺の外見がどう見ても少女だからだろうか?

 兄ちゃんの下半身はちゃんと男だぞ?せめて名前で呼んでくれ。

「はいはい。みんな揃ったからご飯にするわよ」

 厨房にいた母さんが戻ってくると、小竜は頭の上から降りてテーブルの上に座った。

 一つだけ主がいない椅子は、寮生の中等部に進学した姉の席だ。

 全員が席に着くと視線はテーブルの上に釘付けになる。

 今日は白米と焼き魚、汁物、惣菜が三つだった。

 そのどれもが食欲をそそり、食事の時を今か今かと待ちわびて手を合掌してしまう。

「戴きます!」

 全員が両手を合わせて、父さんの言葉を皆が復唱するとようやくご飯が食べれる。

 手が無い翼竜型の小竜も翼腕の先を合わせてから食べ始める。

 一匹丸々の焼き魚や惣菜を一口一口しっかり噛み締めて味わうが、空腹だったためにあっという間に腹の中に消えていく。

 一口食べる度に鍛錬で消耗した気が、全身に満たされていく。

 この二年間で標準以下の体型と体力だった自分が、五歳児の標準より“ちょっと小さい”までになれたのは、気の鍛錬だけでなく母さんの食事のお陰でもある。

 母さんの作った料理は特別で、食べた人に活力や特殊な効果を与える。

 ストラトス家が経営する料理屋銀の匙は、その効果を求めてやってくるお客さんで高い値段でありながらも賑わう。

 そんな特別な料理を毎日三食と間食を二年間続けていれば、成長不良だった体でもここまで大きくなれる。

 横で一心不乱によそわれたご飯を食べている小竜の後ろ姿が目に入る。左右に振っている尻尾が可愛らしくて最高です。

「そろそろ魔術を覚えてもいいな」

「へ?」

 食べながら俺の方をじっと見ていた父さんの言葉に、思わず変な声が出てしまった。

 この世には“見えない質量”が存在する。

 一般的な呼称を気と魔力と言い、科学的には暗黒物質ダークマター暗黒熱量ダークエネルギーと呼ばれる不可視存在。

 日常生活から交通、情報、防衛、産業と様々な分野で利用されている。

 身近なところで言えば、気を用いて行う内功と呼ばれる鍛錬。

 魔力ならば、朝入った風呂を沸かす湯沸かし器など。

 気は肉体や物質を頑丈にする性質、魔力は”魔術”と呼ばれる様々な現象に変わるエネルギーの性質を持っている。

 二つに共通するのは物理法則とは異なった法則を有する点であり、どちらも万物に宿っている事だろう。

 もちろん俺の体にも、目の前で食べている食材にも、だ。

「まだ早くないかしら、漸く体が出来てきたばかりなのに」

「体はまだ小さいが、気の修練で体も丈夫になっているから問題ないだろ。精神年齢も規定値を超えている」

 父さんと母さんは俺をそっちのけで話をしているが、正直心の中は期待で高ぶっていた。

 赤竜の鎧。

 魔術を用いた鍛冶によって製造された防具。

 鍛冶師曰く、神ならざる者が神ならざる業を持って、神を屠るに至る防具を作ってしまったと言わしめる威容に、自我が目覚めたばかりの俺は耽溺した。

 毎日暇があれば鎧を眺めていた俺は、赤竜の鎧に匹敵する鎧を自分でも作りたいと思うまで時間は掛からなかった。

 俺は赤竜の鎧の製作者である鍛冶師、コルネに俺の夢を語る。

「フフン、赤竜の鎧に匹敵する物を作りたいだって?面白いね。私だってこの領域の作品を作れるようになるまで数百年単位での下積みがあって漸くだ。そもそも鍛冶技能が高い妖精種闇精族ドヴェルグの更に上位種ハイである私と人間種人間族の短命種でしかない君には土台無理な話だ」

 三歳児の俺に、コルネは真正面から目を逸らさず言葉を紡ぐ。

「種族が違い、適性が違い、質が違い、量が違い、経験が違い、時間じゅみょうが違う。それこそ今から毎日死に物狂いで修練を続けて、人生の全てを費やして死期の間際に漸く私の足元へ届くかどうかだ。やめておきたまえ、それはきっと真っ当な人生ではない」

 聞く人によれば酷な事を言われたと思うだろう。

 だが、その言葉を聞いて逆にやる気が漲った自分は、どうやら普通ではないらしい。

 正直自分がどんな顔をしていたか分からないが、俺の顔を見て引きつっていたコルネの顔がとても印象に残っている。

「――もし本当に私の領域まで来ようと思っているなら、極力早く魂の洗礼を…君は共鳴りだから既に覚醒済みだったな。それならば超自然学を学び、知識を吸収し、技術と魔術を身に着けることを薦める。それでも限りなく零に近い可能性であることには変わりないけどね」

 コルネと話した内容と俺の夢を父さんと母さんに相談したら、条件付きで応援してくれることになった。

 魔術を扱うには、魔力を認識しなければならない。だが、肉眼でいくら目を凝らしても魔力は視認することは不可能。

 魔力を認識できるのは、魔力で構成された魂の感覚を目覚めさせなければならないのだ。

 そして本来ならば人は魂の洗礼と呼ばれる施術を施されて、漸く魔力を認識する。

 だが、何事にも例外はつき物だ。

 生まれつき魂が覚醒状態の者もいるが、俺の場合は小竜との共鳴りによって覚醒した。

 実は自我が目覚めたのは良いのだが、共鳴りという現象は自我も存在しない無垢な魂にとって刺激が強過ぎたらしい。

 本来なら覚醒と休息を自在に切り替えれるはずなのだが、俺の魂は休息状態にならない暴走覚醒と呼ばれる状態にある。

 この状態を例えるならば、常に加熱し続けているエンジンだ。

 休むことの無い炉は過負荷が発生し、自己保存の為に強制停止する。

 つまり魂が強制睡眠状態となり、俺の意識が落ちるのだ。

 意識を失うだけなら問題はなかったのだが、魂の熱暴走は魂だけでなくみず肉体うつわまで深刻な障害が発生する危険性があった。

 そこで魂の熱を冷ます為に、気の習得が必須となった。

 気は水の性質を持ち、魂の熱暴走を抑えてくれる。魂が炉ならば気は冷却機構とも言える。

 魂の熱を押さえ込めるほどの気を体内に留める事と、魔術の使用に耐えられる肉体を得る。

 この二つが両親からの条件だった。

 しかし、三歳の精神では気の操作など不可能。

 だが、十三歳の精神ならば大人の言っている意味を理解できる。

 二年間の気術の修練によって過熱暴走していた俺の魂は二日三日と頻度が伸び、今では一か月に一回気絶するだけで済むようになった。

 気の習得は、母さんの料理と相まって体の成長が促された。

 多分だが母さんの料理のお陰で俺は生き延びた気がする。気の習得だけでは俺は死んでいたのではないだろうか?

 だが、二年間の努力のお陰で父さんから許しが貰えた。

 食事の手が止まってしまうほど期待に胸が膨らむ。次の検診はいつだっけなと思いながら、止まっていた食事を再び始めた。



「おい大丈夫か?」

 主治医のカドゥケイオ、通称ドクが俺の顔を覗き込んできた。

 ドクがなにかを心配している。

 そこで漸く自分の異常に気がついた。

 呼吸は凍ったように止まり、指先は氷水につけたように冷たく白い。

 かみ締めていた噛み合わせを緩め、ゆっくりと全身の力を抜く。

 直前までの記憶が曖昧で―――

「もう一度言うが、ティファの魔術適性はネフィルト式屍霊術だけだ」

 ドクの言葉に、俺の中は再び嵐の様に荒れ狂う。

 纏まらない思考は、ここに至るまでの経緯を並べる。

 朝の食事の後直ぐにドクの診療所に来て、魔術適性を調べてもらった。

 結果は――二度も聞かされれば分かる。

 分かっていた事ではあった。

 コルネにも言われて知っていた。

 しかし、明確な事実として突きつけられるとくるものがある。

 コルネが紅竜の鎧の制作に使っていた魔術は、闇と火の精霊術。

 だから、コルネに弟子入りするために、闇と火の精霊術の適性がある事を望んでいた。

 魔術は、魂に“術式”を読み込ませ演算処理する事で行使できる技術だ。

 記録媒体であり、演算装置であり、エネルギーである魂は理論上使えない魔術は存在しない

 しかし、魔術には適性が存在する。

 術式を魂に記録しようと意思が決める。

 魂の演算を行い術式を駆動しようと意思を通す。

 エネルギーを式に沿って事象に変換しようと意思を定める。

 つまり魔術の全ての始まりは精神なのだ。

 精神が苦手とする物は覚えにくい。精神が嫌うモノは計算し辛く。意思が拒絶する事象は現れない。

 それが“魔術適性”の正体。

 精神は魂と魄が混じる事で生まれる。だから、この魂とこのいのちである限り、ティファニア・ストラトスには一生精霊術は使えない。

 それどころか適性を必要としないはずの陰陽魔術すら使えない。

「ティファ。君には精霊術の適性は一切なかった。しかも屍霊術も飛び抜けて適性があるわけでもない」

 だが、と言葉が続く。

「君の目指している夢に辿り着く可能性があるのも、また屍霊術だけだろうな。どうする?」

 どうする?とはつまり俺が夢を諦めるかについてだろう。

 望んだコルネと同じ闇と火の精霊術の適性は無かった。闇精族でなくても両適性がある人間族は存在する。ただ自分はそうではなかっただけだ。

 ドクの言葉が頭の中で響く。

 響きは頭から首へと伝わり、全身の末端まで震わせる。

 震えは凍ったような指先に血を送り出し、体中を駆け巡る血の熱に全身が沸騰しそうだった。

 大人たちが驚いたような顔している。

 皆の視線は自分の顔に集まっていた。

 顔に触れると気付かないうちに笑っていたようだ。

 答えなど決まっている。

 だからどうした、だ。

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