第2話 二つの目覚め

 ティファニア・ストラトスがこの世に生まれたのは、三年前だったと記録されている。

 ただティファが普通の子と異なったのは、生きる為に必要な決定的に足りない物があった。

 それは自己。

 自我も、心も、人格も、精神も宿さない人形のような赤子。

 毎日入力される出来事を、ただ記録するだけの記録媒体。

 言葉を理解し、周りを理解し、人を理解すると記録媒体は機械のように動く人形へとなった。

 親と呼ばれる二人、姉と呼ぶ一人、幾人も訪れる見知らぬ誰か。

 外から入力される刺激に、決められた行動を実行する入れ物。

 そんな繰り返しの日々。

 だが、生の匂いが一切ない人生が唐突に終わりを告げる。

 父親が連れてきた女が出した一つの存在。

 知識では防具と呼ばれる存在が、視界に映った瞬間白黒の世界に赤い純色が広がった。

 レンズに写される映像に、規律正しく繰り返されていた鼓動が雑音を鳴らす。

 概念で理解していた“赤”が、鮮烈なまでに記録媒体のうずいの中枢をかき乱す。

 未知の刺激に、産まれたばかり感覚こころが面を上げた。

 確かな知識があるわけではない。

 明確な答えがあるわけでもない。

 ただこの身体にこの命は正しいのかと


 問いかけてしまった。


 ズキッ

 頭に走った痛みに顔の筋肉が引きつる。

 ――の身体に――の知識は――しい。

 ギシッ

 一度生じた違和感は止まることを知らず、一つの感覚が浮かび上がる度に記録媒体を圧迫する。

 ―の魂に―の身体は―さい。

 ギリッ

 殻が軋み痛みのあまり、レンズの映像が明滅を繰り返す。

 ―――の魄に―の身体は――られない。

 ミシッ

 ―の魂と―――の魄は―――れない。

 ザリッ

 交わらないはずのナニカが軋み上げる。どうやっても交わらない二つが互いに擦り切れ削れる感覚。

 ティファには存在しない知識と経験、人格が全てを――する。

 破裂する程の内から発せられる痛みによって、レンズに移る景色が暗く閉ざされていた。

 風景全てが暗闇に落ちても、鮮烈なまでの赤は光となって残っていた。赤い光は禍々しい程の光量で暗闇を照らし出す。

 チリチリチリチリ。

 深く垂れ込む黒が、鮮やかな赤に燃やされていく。

 チリチリチリチリチリチリ。

 記録した覚えのない経験が、燃やされていく。

 チリチリチリチリチリチリチリチリ。

 記録にない場所の記憶が、燃えていく。

 チリチリチリチリチリチリチリチリチリチリ。

 知らない思いが、燃えていく。

 チリチリチリチリチリチリチリチリチリチリチリチリ。

 視界は赤く紅く朱く炎で燃やされるように熱い。

 自分の中にあった不要情報が燃やされ消えていく。

 赤い炎を眺めていると酷かった痛みが嘘のようになくなっていた。

 痛みが無くなると徐々に赤い炎は静まり、元の風景が戻ってくる。

 そこは暗転する前の部屋であるはずなのに、どこか見知らぬ所に来たような錯覚。

 場所も同じ、周りにいる人も同じ、配置されている物も変わりはない。

 しかし、そこには明確な違いがあった。

 外からの刺激に促され、自律して動くことの無かった人形が衝動のまま動く。

 掻き立てる衝動に、自分の現状を理解できない。

 規律正しく刻んでいた心臓は、存在を主張するように力強く鼓動し、水のように温かった指先に熱が伝わる。

 少しでも“赤”に近づこうと、抱き留めた腕から抜け出し地面を這っていく。

 体は覚束ないながらも、身体の重さがないように動く。

 近くで見る“赤”は、どこか喜んでいるような光に変わっていた。

 その光を見ると“自分”も嬉しい感覚になる。

 不意に今まで概念でしかなかったモノたちが全身を襲った。

 レンズに映る色の無かった景色は、“赤”に照らされ世界に色が着いた。

 無味無臭だった空気には匂いを感じ、手足からは冷たくも暖かい感触が伝わる。

 耳から伝わる振動に意味があることを知る。

 圧倒的なまでの情報量に混乱し、生まれてから一度も機能していなかった器官が初めて震えた。

「ぁつ」

 機能していなかった喉は、生まれて初めて出す大きな音に痛みを覚えた。

 その痛みを感じると、喉はより強く音を振り絞った。

 この日、この世界に生まれて三年の時を経てティファニア・ストラトスはようやく産声を上げたのだった。


『喧しい!』

 響き渡る雑音に導かれるように、霧散していた自我が形を成す。

 幸せな夢に浸っていたような幸福感から強制的に目覚めさせられた感覚に、苛立ちと怒りが沸き上がる。

 我の声に驚き静寂が訪れたが、声を出した我も混乱の極致だった。

 記憶がない/当然である過去がないのだから。

 名がない/当然である生まれたばかりなのだから。

 実感がない/当然である身体がないのだから。

 全ての疑問が、瞬時に内なる知識が答えを出す。

 そしてこちらを見つめる巨大な存在たちが、ヒトであると知る。

 そこに感覚と知識の齟齬が生まれる。

 ヒトとはこんなにも巨大であっただろうか?

 ヒトと呼ばれる生き物が、我の手ほどの大きさで足元にいくつも転がっている。

 ヒトと呼ばれる生き物が、我に針を向けて何かを叫ぶ。

 その全てが一瞬で炎の海に沈み消えていた。

 一瞬のノイズが、見たことの無い風景を幻視させる。

 無いはずの肉体が吐き気を覚える。

 吐くことも出来ぬ不快感が、不意に香った花の香で幻と消えた。

 ヒトの雌が抱いている子供から香ってくる。

 子供はただじっとこちらを黙って見つめている。

 白い髪に紫水晶のような瞳が印象的であった。

 匂いに釣られるように、気が付けば飛び立っていた。

 慣れぬ翼腕を緩やかに羽ばたかせるだけで、子供が差し出した腕まで届いた。

 やはり匂いは、この子供から発せられているようだった。

 柔らかく、爽やかであり、甘く、落ち着く匂い。

 無い嗅覚が感じる幻覚に、苛立ちや不快感など嘘のように消えていた。

 この場にいる誰からも感じぬ初めての感覚と蓄積されていない知識に、魂が歓喜していることに驚く。

 気を抜けば溢れる感情が、聲となって漏れそうになるのを耐える。

 理由などない。ただヒトに聞かせてはならないという矜持。

 その矜持も子供から香る匂いを嗅いでいると、どうでもいいと思えてきてしまう。

 子供に近づくほど匂いは強くなる。気が付けば誘蛾灯に引き寄せられる虫の様に子供の口元まで寄っていた。

 不意の暗転。

 何が起こったのか理解が追い付かない。いや分かっているが理解したくない。

 首のあたりまで包む生暖かく柔らかい湿ったナニカ。

 首にあたる僅かに硬いナニカ。

 顔や角を確かめるように蠢くナニカ。

 率直に言って咥えられているらしい。蠢く舌がまるで一つの生き物のように顔を蹂躙する。

 首に当たる小さい歯は甘噛みするように優しく、しかし逃がさないように捉えている。

『―――――――――ッ!?』

 理性が現実を受け入れると、咆哮にもならない音が出ていた。

 身を捩り腕をつこうとするが、手がないため意味を成さない。

 口腔の外からざわつく気配が伝わってくると、キュポンと子供の口から引き抜かれた。

『な、な、なにをするこの愚か者!』

 抗議の声を聞いて、不思議そうに首を傾げる子供。

 何気に子供を抱えているヒトの雌に非難の目を向けている。

『おい!そこの雌ではなく貴様の事だ人の子供!自分ではないみたいな顔をするな!』

 駄目である。これは完全に何故怒っているか分かっていない感じだ。

 寧ろ当然の事をして何怒ってるんだとすら、思っていそうである。

 思い浮かぶ限りの言葉を連ねるが、涼しい顔のままだ。

「うちの子がごめんなさいね。えっとお名前は?」

 声が頭上から降ってくる。あまりの出来事に気が動転していたのか、我を掴む主に気が付かなかった。

 持ち上げ視線を合わすヒトの雌。

 果たしてそれを不敬と言うべきか、畏敬と言うべきか。

 ふと、先ほど見た幻視を思い出した。あの映像に映るヒトは目に恐怖を宿していた。

 そして我はそんなヒトを…。

『我は、我の名は…』

 知らぬ知識に促され、言葉が紡がれた。

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