夏色潜水艦

せてぃ

夏色潜水艦

 別に文句はないけれど、そんな理由で他人を巻き込むのは、如何なものだ? というか、何様だ?

 流れる車窓の景色に、わたしは小さなため息を漏らす。本当は大きなため息をつきたいところ。でも、はしゃぐ周りの雰囲気に気を使ってできない。それがわたし。

 電車の中は、強すぎる冷房と、人いきれが鬩ぎ合っていた。混み合った車内できゃあきゃあとはしゃぐ女子たちの浴衣姿が、同年代のわたしの目にも、鮮やかに映える。浴衣の赤、青、白、黄色。思い思いに結い上げた髪の茶色、栗色。同じ女なのに、真っ黒な重たい髪を背中まで流し、地味なカーキ色のTシャツに濃い紺のジーンズ、一応ファッションを気にしてみた白いサンダルという出で立ちのわたしとは、雲泥の差だった。まだ目的地に着いてもいないと言うのに、そのはしゃぎようはどうだ? 今からそんなに騒いでいて大丈夫なのか? 実際に目の前で一発目の花火が上がった時、それ以上に騒げるのか?

 などと、赤の他人の心配をしてみても、それがただの愚痴でしかないことは、誰よりも自分自身が一番よくわかっている。それがわたし。やはり小さなため息を吐く。

 車窓から見える街並みと、高く背を伸ばした入道雲の間に、青い海が見えた。車内が一瞬甲高い声でざわめく。ここは遠足の貸し切り列車か?

「さゆ、やっぱ、無理やり付き合せちまったか?」

 ほとんど耳元で聞こえた声に、びくり、とする。身体は動かなかっただろうか。驚いたように見せたくない。いや、それよりも、やはり気乗りしていない空気が出てしまっていたのだろうか。様々な形の心配が一瞬にして頭の中を駆け抜け、わたしができたのは、そのすべてにまったく興味のない様子で、声の方に顔を向けるだけだった。

 通勤電車とは無縁。早起きなんて考えたこともない大学生活だけど、おそらく満員電車と言うのは、こういうものなのだろう、ということはわかる。七人掛けの座席の前にぶら下がったつり革に掴まり、自分の居場所を必死で確保しなければ、立っている事すらままならない。そんな状況だ。そうした中で、隣に立っているのが知り合いならば、いくらか心強い。それは事実だ。

 但し、今日はこいつでないほうがいい。

「今さらそれを言うのか、貴様は」

 わたしはゆっくりと視線を上下に動かして、そいつの姿を改めてみた。無地の淡いピンクのポロシャツに、膝丈で切った黒いジーンズ。履きつぶした黒いコンバースのスニーカー。まるで近所のコンビニにでも出かけるかのような格好で、男はわたしの横に立っていた。それ自体が笑っているような作りの顔には、苦笑いが浮かんでいる。しかし、おお、そんな顔もできるのか、などと、喜んでやれる気分ではない。

「ああ、やっぱりそうでしたか、小島さゆりお嬢様」

「フルネームやめろ。痴漢として駅員に引き渡すぞ」

 わたしはわざと強く睨みつけた後、また車窓の景色に目を戻した。きらきらと輝く青い海が、少しずつ近くなっている。

 また小さなため息。今度は本当に小さな。隣の男に、絶対に聞こえないようなやつ。それでも、吐き出さずにはいられなかった。

 夏。炎天下。入道雲。海。浴衣。そして花火大会。どれもこれも、わたしには最も縁遠いものだった。

 それを、この男は……!


 ちょっと頼みごとがあるんだよ。大橋崇からメールが来たのは一週間前だ。といっても、彼とは毎日メールのやり取りをしている。それは崇という男、今わたしの横に立ってへらへら笑っているこの男とわたしが、個人的にどうこう関係があるというわけではない。決してない。断じて、ない。

 わたしたちは、ただアルバイト先が同じ、というだけの話だ。それに、何もそうして連絡を取り合っているのは、大橋崇とだけではない。

 今、この電車には、同じバイト先で知り合った友人が六人乗っている。混み合った車内ではぐれてしまい、こいつとだけいるような様子になってしまっているのが、非常に不本意ではあるのだが、目的地に着けば、また合流して行動することになるだろう。男二人女四人の計六人。中でも私を含めた男二人に女二人、わたし、大橋崇、中野亮介、藤原友美の四人は、ほとんど毎日のように連絡を取り合い、食事を共にし、遊びを共にする仲間だった。

 考えてみると、どうしてそういう関係になったのか、よくわからない。通っている先はばらばらだが、皆四年制大学に通っていることと、二十代前半で、年齢が近かったことはあるだろう。でもそのきっかけがなんだったのかがわからない。思い出せないのだ。きっと飲み会か何かで意気投合したのが最初なのだろうが、もう何十年も前からこうして一緒にいたような気さえしている。そんな仲だ。

 だからといって、わたしたち四人の間で、男女としての付き合いがあるかというと、そうではない。わたしなんかより遥かに容姿端麗で、最先端の清楚系ファッションをきちんと着こなし、しかも性格もいい友美には、当然通っている大学に彼氏がいるし、亮介にも彼女がいる。但し、彼の場合は何人も、だが。

 一度だけ、一人暮らしをしている部屋に、複数の女性が同時に来てしまったことがあったらしく、その時は窓から逃げたらしい。その話は、今でもわたしと友美と崇の間では笑いの種だ。わたしの年齢では見たこともないけど、中野亮介は、そんな往年のトレンディドラマの登場人物みたいな男だ。飯は抜いても、酒と煙草と女は切らさない、ロックンロールを地で行く男だ。わたしたちと遊んでいるのは、そういった男女関係の面倒くささから解放されることを目的としているらしい。自分で種を蒔いておいて、そんな風にいけしゃあしゃあと言ってのけるのが、中野亮介という男だ。その女性関係の汚さがなければ、わたしの目から見ても、確かにいい男だとは思う。気が利くし、少し日本人離れした彫りの深い顔立ちもいい。引き締まった身体には決まってワイシャツを身に着けているが、そのセンスもいい。だから友達付き合いはしていられる。が、当然男女として付き合う気にはなれない。

 そして今、わたしの横でへらへらと笑っている大橋崇にも、ちゃんとした交際相手がいる。こんな適当が服を着て歩いているような男と付き合う女だから、相当に適当な人間なのだろう、と勝手に思っていたら、一度だけ見かけたその子は、誰がどう見ても優等生タイプの、可愛い女の子だった。どうやら世の中には、世の中を知らないまま男にだまされる人間がいるらしい。

 それでも、彼女との交際は順調のようで、わたしたちと遊んでいても、時折抜け出していく。そんな無理をしてまでこっちに付き合う必要はない、と言っているのに、事あるごとに顔を出す。それでどうやって交際を順調に進めているのか、まったくわからない。相手のあの彼女は、この男のどこに惚れているのだ? 人を油断させる、優しい顔か? すらりと長い手足か? 話し上手なところか? いやいや、彼が纏っている、少し気だるい、間の抜けたような空気か? もしかしたらファッションセンスの良さか? それともあれか、メールしたら必ず十分以内に返信が来る、意外なまめさか?

 ……なんだか、こいつのいいところを上げている自分が、だんだんばからしくなってきた。わたしは意味もなく崇の方を見て、また少し睨んでから、視線を窓の外へ戻した。入道雲が二つになり、互いの高さを競い合うように背を伸ばしていた。白い表面に、夏の日差しが反射して、きらきらと眩しい。

 そんな三人に、恋愛ごととはしばらく無縁のわたしを加えた四人の関係を、わたしたち以外の人にどう説明すればいいのか。たぶん、わたしが感じている通りには理解してもらえないだろう。単に友達、では何か足りないような気がする。家族、ではさすがに大げさだ。だから、仲間、というのが一番正しいような気がする。別に敵対する存在があるわけではないし、一緒になって何かと戦っているわけでもない。それでも、仲間、と呼ぶのが、言葉としては一番正しいと思っていた。

 わたしたちは皆、地方から東京へ出てきていたが、特にわたしは、一緒に地元から来た友人もいなかった。大学は女子の多い学科だったし、わたしの性格的に自分から男に媚を売るタイプではないので、出会いを求めて何かそういう会に参加したりするわけでもない。そうしていれば、当然のように彼氏なんてできるはずもない。確かに、地元の高校に通っていた頃には、お付き合いをした男子もいた。だから別にそういう気がないわけではないのだ。ただ、こちらから、たとえ想っていたとしても、何か行動に移そうとは、なかなか思わない性格なのだ。そんな大学生活の中でできた仲間だ。たぶんわたしは、四人の中でも特にこの仲間に依存しているのだろう。特別意味のある仲間だと思っているのだろう。

 だからなんだろう。今日、今、この瞬間も、妙に腹立たしいのは。

 一週間前の大橋崇のメールにあった頼みごと、というのは、今日のことだった。

 神奈川県は横須賀で、大きな花火大会がある。それに行きたいと思うんだけど。

 そんなもん、あの可愛い彼女と行って来いよボケ。そうは思ったのだが、メールの文面はそれだけで終わっていなかった。

「そろそろ着きそうですよ、小島さゆりお嬢様」

「お嬢様やめろ。足に縄つけて窓から逆さ吊りにするぞ」

 いつも通りのやり取りの後、わたしはやはり訊いてみることにした。関係ない、と言えばそれまでだけれど、やはり訊かずにはいられなかった。

「……ねえ、どっちなの」

「どっちって?」

「あの二人の、どっちなの? 亮介の事を好きになった、っていうのは」

「あれ、言ってなかったけ?」

 わざとらしく頭の後ろを掻く。言ってないわ、ボケ。

「加奈子さんの方だよ。今日、頑張るらしい」

 ……はあ、まあ、頑張ってください。結局、そうとしか言いようのないことはわかっていた。そしてその通りだった。また小さく吐き出したため息は、冷房の空気をかき回す。

 今日はいつもの四人に、同行者が二人いる。この二人も同じアルバイト先のメンバーだ。その二人のうちの一人が、今日の花火大会企画の発案者らしい。

 中野くんって、カッコいいよね。彼女、いるのかな。船木加奈子さんが崇にそう言って来たのは、一カ月ほど前だそうだ。

 はっきり言っておこう。わたしはこの船木加奈子さんが苦手だった。嫌いなのではない。苦手なのだ。あくまでも。

 性格的にどうこう、という以前に、そもそも触れ合ったことがない。わたしは彼女が苦手、というよりも、彼女や彼女に同道しているもう一人、西宮茜さんのような、『ザ・ギャル』といった生き物全般が苦手だった。わたし自身がその生き物に連なることは絶対にないし、わたしの人生に最も縁遠い種族だと思っている。

 その異文化民族が、である。あろうことか、自分の欲望の達成のため、わたしたち四人の仲間を丸ごと駆り出し、公然とデート紛いのことをしたいと頼んで来たのだ。亮介がロックンロール男子であることは、この際どうでもいい。加奈子さんが告白し、亮介が二つ返事応じて、泣くことになろうが、亮介がまた窓から逃げることになろうが、正直、わたしにはどうでもいい話だ。第一、他人として聞く分には、それこそ往年のドラマみたいで面白い。

 ただ、わたしたち四人を巻き込んで、という考えが気に入らなかった。そんなもん、自分でどうにかすればいいだろう。群れることが嫌いで、そういう風に見られるのも嫌いだったわたしには、どうしても耐え難かった。さすがに顔には出さないし、話かけられれば、普段通り、当たり障りなく応対した。それでも、それとなく避けている。結果が、この電車の中だ。いくら満員でも、集団行動しているメンバーの姿が見えなくなるほど離れることは、普通ない。

 そして、同じ考えで、もう一人許せないのが、こいつだ。

「あのさあ」

「ん?」

 相変わらずのにやけ顔。この笑顔のせいで、確かに普段からこの男の考えていることは分かり辛い。しかし、それでもわたしたちは、十分にわかりあってきた。そのはずだ。それが今日は、本当に何を考えているのか、さっぱりわからない。わたしの想いを十分の一でも汲み取っているのだろうか?

「なんでOKしたの、今日」

 やはりわたしは、この仲間に対する依存度が高すぎるのだろう。友美も、亮介も、崇も、四人で一緒にいる以外の生活を持っている。こうして腹を立てているわたしにだって、大学に行けば、少ないながらも、心の通っていると思える友達がいる。それと同じことなのだ。腹を立てる必要などない。そう頭のどこかではわかっている。それでも、どうしてもムカッ腹が立つ。わたしたち四人の仲間を、自分の目的の達成のために引っ張り出した加奈子さんの考えにも、それを頼まれて、平然と了承した崇の考えにも。

「なんでって?」

「だから……好きなら花火大会でも海でも、二人で行かせればいいじゃない。なんでわたしらが付き合わなきゃいけないの、って訊いてんの」

 ああ、そのことか、と合点したように、崇の表情から笑顔が一瞬消えた。そして斜め上を見て、そのまま少し、言葉を考えているようだった。

 そうしてる間に、電車が一度、大きく揺れた。線路のポイント部分を通過したのだろう。目を窓の外に向けると、電車が減速し、駅に入って行こうとしていた。目的の横須賀駅だ。

「面白そうだから、かな」

 大きく揺れた車内で、周囲の見知らぬ人たちに押され、ぶつかられながら、崇の言葉を聞いた。さんざん考えた挙句の言葉がそれである。本当にこの男は、何を考えているのかわからない。わたしは改めて崇に目を向けた。

にこにことした表情は、心底今日と言う一日を楽しんでいるように見えた。どうやら言葉に嘘偽りはないらしい。

 本当に、この男は……!


「うわ、すごいっ! みて!」

 横須賀駅の改札を通り抜けると、すぐ傍まで海が迫っていた。海、といってもどこまでも広がる外海ではなく、入り江をきっちりと整備した港の景色だったけれど、見慣れない海辺の街を感じさせるその光景には、さすがのわたしでも、おお、と感嘆を漏らした。でも、だからと言って加奈子さんのように浴衣の袖を振り回して、走り出すようなことはしない。する必要がない。第一、見て、と言われても、もう見ているし。

 改札からの花火大会の会場へ向かう人の流れを無視して、海沿いの遊歩道へ向かって走り出した彼女と西宮さんを追って、まず亮介が、遅れて友美がそちらに足を向けた。ああいうタイプの人には、気がつくとこうして主導権を握られるんだ。わたしはまた息を吐き出し、同じ方へと踏み出した。足下を見ながら歩いたのは、せめてもの反抗だ。

「おおー、すごいねえ。海だ、海」

 すぐ真横で、崇が大声を上げている。加奈子さんに答えたのだろう。感情のこもっていない、棒読みのセリフ。本当に面白いのか?

「あれ! あれってなに!」

 加奈子さんはさらにはしゃぐ。確か、わたしよりも三つか四つ年上のフリーターのはずだ。でも一見すると、わたしよりも三つか四つは年下に見える。ギャルメイクのせいもあるが、それ以前に、行動や仕草、発言が子供じみているのだ。

 その加奈子さんに追いついた亮介が、彼女に応じ始める。

「船、だね」

「ええー、船! 初めて見た!」

 いや、それは絶対にないだろう。かわいいつもりか?

「初めて?」

「あ、ううん、あんな感じの船、初めて見た!」

 だったら初めからそう言えよ。かわいいつもりか?

「あんな大きな、灰色した船、初めて見たよー!」

 大きな灰色した船? かわいいつもりか?

 ……いちいち癪に障る、と思いながら聞き流していた彼女の言葉だったが、その部分だけはわたしも引っ掛かった。大きな灰色をした船。それは確かにわたしもあまり見たことがない。

 視線を上げると、遊歩道の手すりに身を乗りだし、遠くを指差す加奈子さんの姿があった。彼女の指差す先に、視線を運ぶ。

 運河のようにも見える港の対岸に、その灰色の船は横付けされていた。確かに全体、余すところなく灰色一色に塗り上げられている。船体の中ほどには、塔のような建物がそびえ立っている。アンテナだろうか。何本もの棒状のものがその建物から伸びていて、全体にごてごてとしている。箸やらスプーンやらフォークやらがまとめて突っ込まれた箸立てのように見えなくもない。船首には白い文字で数字が描かれている。鋭角な字体だ。それが何を意味するのか、わからなかったけれど、何か、とても硬いものを感じた。

 なんだか、この船。どこかで見たことがあるような気がする。実際に目で見たことはないのに、どこかで……

「ああ、自衛隊の船だね」

 亮介がさらりという。それにいちいちオーバーなリアクションと大きすぎる声で応じる加奈子さんと西宮さんの声は無視して、わたしは合点の行く思いでその船を見つめた。

 そうだ。ニュースで見たことがあるのだ。自衛隊の船はこういう色で、こういう形をしていた。横須賀は古くからの軍港だ、というのは高校の歴史の授業で聞いたことがある。今もアメリカ海軍が港にしているし、日本の自衛隊も港を持っている。街で推しているグルメはカレーで、そこに『海軍カレー』と名をつけているのも、そのせいだ、とは、やはり授業の知識。教師の無駄話ほど、頭に残っていたりするから、不思議だ。

「え、じゃあ、あれは?」

 あれは、あれは、と加奈子さんは繰り返す。子供か。ツッコみたいところを抑えつつ、亮介とのやり取りを見守る。

「あの黒いのは?」

 黒いの? 無数の文句を浮かべながらも、わたしはまた釣られてしまっている。視線が彼女の指差す先を向く。

 灰色の船が二隻。その向こうに、確かに黒いものが見えた。黒く、大きく、丸みを帯びたもの。一瞬、クジラに見えた。テレビで見たことのある、巨大で真っ黒なクジラの姿。でも、待て。こんなところにクジラがいるはずがない。そもそも、あんな巨体を、じっと落ち着けているクジラがいるはずがない。

「ああ、潜水艦だね。珍しい」

 落ち着いた声で亮介が言う。ところでこの男、なんでそんなことに詳しいんだ?

 ええ、センスイカン? 実際のところ、知っているかどうかはともかく、とぼけた声を出して見せる加奈子さん。かわいいつもり、なんだろうなあ。

「なんか、あのままほっとけば、上手く行きそうだな」

 崇がわたしに顔を寄せ、小声でそう言った。急すぎて、不意を突かれた。思いの外近くにいたことにも驚いた。わたしは思わず彼の方に顔を向けた。鼻のすぐ先に、彼の顎がある。その上にある口が、笑みの形に開かれる。

 まったく予期せず、直前まで目にしていたものが、そこに重なった。真っ黒な潜水艦。クジラを思わせる巨体。崇。今日は何を考えているのかさっぱりわからない、掴ませない、笑顔。

 潜水艦みたいだ。

 そう思った。

 人の手の届かない深海に、真っ黒な巨体を隠して這い進む姿。それが今日の、本心の読めない崇によく似ている気がした。

 潜水艦男。

 なんだかやけにしっくりきた。

「そう思いませんか、小島さゆりお嬢様」

「お嬢様やめろ。潜水艦の魚雷に巻きつけて、深海に射出するぞ」

 こんな風にして、まったく関係性のないもの同士が、イメージを結ぶことは稀にある。それにしても、あまりにも的確な表現もあったものだ、と我ながら感心してしまった。

 潜水艦男のへらへらとした笑い顔に冷たく言い放ったわたしは、改札口から続く人の流れに視線を移した。花火大会会場へ続いている人の波。その先に見える青空に背を伸ばした入道雲が、わずかに赤みを帯び始めていた。夕暮れにはまだ早い時間。それでも確実に、その時間は近づいている。


 ……で、どうしてこういう状況になったのかが、わからない。

 わたしたち六人は、大きな人の流れに加わり、花火大会の会場の三笠公園へと向かった。人の波は途中、同じように他方面から来たいくつかの波と合流し、交通整理された車道全面を埋め尽くすまでに成長した。覚悟はしていたが、とんでもない人の量だった。そもそも人ごみの苦手なわたしは、酔っぱらったようになって、くらくらする頭を幾度か押さえなければならなかった。

 公園に到着し、打ち上げ場所がわかると、わたしたちはさらに見やすい場所を、と会場内を移動した。どうやら打ち上げは海の上で行うらしい。わたしたちは加奈子さん先導で、少しでも海岸線に近づこうとして、会場の奥へ奥へと移動した。

 そして、気がついた時には、こうなっていた。

「まずいな、はぐれた」

 いかんともしがたい人の圧迫感に、頭を押さえながら歩いていた自分の油断を後悔したが、もう遅い。気がつくと、わたしはみんなとはぐれていた。

 いや、こいつ以外のみんなと。

「いやあ、困りましたね、小島さゆりお嬢様」

 少しも困っている様子がない声。こんな状況になっても、まだ深海の中か、この潜水艦男が。

「お嬢様やめろ。……って、本当にまずいんじゃないの?」

 辺りを見回す。さきほどまでは眩しいほどだった陽の光も、今は傾き、空は深く濃い青から紫に変わっていた。すでに薄暗い中で、見渡す限りのこの人だ。とてもじゃないが、はぐれた相手を探すことなど、できそうにない。

 噎せ返る人いきれに、わたしはまた少し、酔っぱらったような、ふらふらとする感覚に襲われた。海が近いので、潮の香りも混ざっているのだろう。濃厚すぎる、夏の香りが、わたしに纏わりついて離れない。

「とてもじゃないけど、見つけられないよ」

 その時だった。どん、どん、どん、とお腹に響く大きな音が三度聞こえた。花火大会の始まりを告げる、音だけの花火だ。

「見つけるなら、早くしないと……」

「しかたないな」

 というと、潜水艦男は周囲をきょろきょろと見回した後、

「あそこでいいや。座れそう」

 と、言い出した。

「さゆ、こっちこっち」

 は?

 わたしの困惑を他所に、崇は人々の隙間に見つけたわずかな空間に身体を滑り込ませ、アスファルトの地面にぺたん、と座り込んだ。

「早く早く。花火、始まるぜ?」

 なんだ、この変わり身の速さは。電光石火もいいところだ。端から探す気がなかったんじゃないのか?

 いろいろと言ってやりたい事が思い浮かんだが、人ごみの中で一人、突っ立っているわけにもいかない。わたしは崇の傍まで歩み寄ると、その隣に腰を下ろした。

 ちょうどその時、一つ目の花火が上がった。大玉のスターマイン。わたしでも知っているほど有名な花火だ。群青のキャンバスに、赤い大きな円が広がった。始まりを告げるには、最もふさわしい、迫力と美しさ。一瞬、息を呑んだ。

 考えてみれば、こんなに近くで打ち上げ花火を見るのは、初めてだ。子供の頃、花火大会に連れて行ってもらったことは何度かあるが、これほど近くで見たことはない。

 その後も花火は上がり続けた。赤、青、緑、白、黄色。柳の様に舞い降りるもの。それ自体が星や花の形をして開くもの。さまざまな花火が、色とりどりに咲く。連続して打ち上がれば、その音と光の力強さに圧倒され、目を奪われた。瞬きも忘れて、子供の様に空を見上げていた。頭のどこかで、早くはぐれたみんなと合流しなければ、とは考えていた。それでも、空から目を離すことはしなかった。

「きれいだなー」

 隣で間の抜けた声がする。ちらっと横目で見てみると、崇が口を半開きにしながら、わたしと同じように空を見上げていた。その姿は、まるっきり子供だった。それまでの苛立ちも忘れて、わたしは思わず微笑んでしまった。そうして苛立ちが遠のき、同じ空を見上げて、同じ感想を抱いているとわかると、ふいに普段通りの想いが蘇った。

 やっぱり、わたしたちは、仲間だ。

 と、そう思った時だった。無邪気な顔をした崇の向こうに、見知った人影を見た気がした。わたしは慌ててそちらを見た。凝視した。

 花火の瞬きの中、無数の人垣の向こうで、亮介、友美、それに加奈子さんと西宮さんが、こちらを見ている姿が見えた。距離は三十メートルぐらいだろうか。四人は花火が上がっているのに、こちらを見ていた。わたしと目が合った。間違いない。向こうも気づいている。

「崇、ちょっと」

 わたしは崇の肩に手を置いて、そのことを知らせようと揺さ振った。しかし、花火に見入った崇の反応は鈍い。いつまでも深い海の中にいる場合じゃないぞ、潜水艦!

「崇、あれあれ、亮介たちじゃない?」

 わたしがそう言って、彼らの方を指差そうとした時だった。亮介たちが、わたしたちに笑いかけた。花火見物の歓声にかき消されて、声は聞こえない。でも、明らかに何か言っている。なんだ?

「ちょっと、崇、いたよ、みんな、あそこに……」

 わたしはお尻の横に手をついて、立ち上がろうとした。花火が上がっている最中に、人ごみの中を移動するのは、少し気が引けた。でも、ここで遠慮してしまうと、またはぐれてしまうかもしれない。みんないたなら、今一緒になっておかなければ。

「ほら、崇、行くよ。みんな……」

 もう一度、崇に声をかけた。手と足に力を入れて、立ち上がる。その瞬間だ。わたしの左手に、何か温かいものが触れた。湿気を帯びたそれは、わたしの手の甲をそっと包むように、添えるように乗っていた。まるで立ち上がろうとするわたしを引き留めるようでもあった。

「知ってるよ」

 わたしは崇を見た。夜空に咲く、赤や青や白や黄色の光を見つめたまま、崇はそう言った。その手が、わたしの手に添えられている。うっすらと汗ばんだ手。夏の熱とは違う、彼の温度を伝える湿気だった。

 知ってる? 何を?

 崇の向こうに見える亮介たちは、まだ何か言っている。オーバーな動作で、何かを煽る様に……

「知ってる」

 だから、何を?

「何を?」

「おれ、先月、彼女と別れたんだ」

 は?

「好きな人ができたんだ。それを正直に伝えて来た」

 何? え? なんて……?

 大きな花火が上がった。

 そういう音がして、身体が震えた。

 でも音は、どこか遠くに聞こえた。

「さゆ、そういうことなんだ」

 崇がわたしを見る。上がり続ける花火の、色とりどりの耀きが、彼の顔を染めている。いつになく真剣な顔。その肩越しに、亮介たちの姿。

 やられた。

 わたしの頭に、今日一日の崇たちの姿が思い浮かんだ。

 考えてみれば、おかしいことはあった。満員電車だったからといって、なんでこいつと二人っきりになったのか。横須賀駅に着いた後だって、友美がこちらに近づくことはあまりなかったような気がする。いや、そもそもからして、今日は加奈子さんが、加奈子さんのために企画した一日のはずだった。その目的のためだけならば、亮介だけがいれば十分だったはずだ。わたしと友美までついてくる必要はなかった。いつもの仲間が、いつも通りに呼ばれた。それだけだと思って、何も疑わなかった自分が、この瞬間になって不思議だった。

 今日は加奈子さんが、加奈子さんの目的を達成するために企画した一日。

 でも、わたしの知らないところで、他の、別の誰かの目的があったのだとしたら?

 亮介と友美が何か言っている。何かを煽るようなジェスチャー。

 ああ、くそう。やりやがったな。

 触れ合った手の甲が、熱い。わたしの掌まで、汗ばんでくる。

「さゆ」

 いつもと同じ呼び方。いつもと同じ声。いつもと同じ瞳が、すぐそばにある。鮮やかな彩に照らされて、少しだけ違う影を刻む彼は今、とても大切なことを口にしようとしている。

 潜水艦男。

 ふいにそのフレーズが頭の中を過ぎった。

 完全な不意打ちだ。真っ暗な海底から突然浮上してきた真っ黒な潜水艦。そいつがいきなり魚雷を撃ち込んできた。

 どーん、と響く、花火の音。

 辺りに広がる歓声が、遠い。

 彼の唇が、動く。

 たまらず見上げた空に見えた花火の輪が、ピンクのハート形だった、なんて。


 ……偶然だ。

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夏色潜水艦 せてぃ @sethy

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