現地への帰還

第8話 素面です

 もちろん今日は商店街に飲み歩きに来たわけではない。横目に通り過ごすいつもの酒場にはまだ暖簾も下がっていない。


 5月とはいえ太陽に高く照らされれば汗ばむ陽気になりそうな空の下、開店前の朝早くにこの金座商店街を歩き続ける。


「おーい、鮭さん。今朝は朝酒からスタートかい?」


 香ばしい匂いに振り向くとパン屋『ルパン・デ・パパン』の若オーナーが店先に貼り紙をするところだった。


「だったらいいんだけどね。今日はこの後も素面の予定だよ」


 自然と悔しそうに頭が傾く自分に悔しい気持ちになる。


「なら、朝メシにパン食べてってよ」


「申し訳ない。今朝はモーニング食べる予定なんで」


 そう言いながら、俺は片手でお猪口を持つ形を作って、また今度酒場で、と盃を傾ける仕草をしながら立ち去った。


 確か、パン屋の若オーナーが貼っていた紙には『まるごと街飲み酒場 開催』の装飾文字が印字されていた。・・・・商店街の新たな催しかな?と気にはなったが「そうだ!」と思い出した。これから行く商店街会長に聞けばいいではないか?ついでに。そして、向かっている先の工芸店へと先を急いだ。


「おはようございます!」


『田村屋工芸店』と両開きのガラス戸に半分に分けて書かれている前で、そのガラス戸を拭いている女性に挨拶する。


「会長在宅ですか?」


「あら、鮭太郎さん朝早くに。主人なら神社に散歩よ」


 機敏に拭き掃除するままに威勢のよい声で答えてくれたのは、商店街会長のおかみさんの秋江さんだ。


「あー、そうですか。じゃあ俺も神社に行ってみます」


 待って、と手にしている雑巾が飛んで来る勢いで呼び止められて、


「もうすぐ戻ってくる頃よ、上がって待ってて。朝ごはんまだでしょ?一緒に食べましょ」と言っているうちに、


「おーっ?鮭太郎。なんだこんな朝っぱらから」


 俺の背後から商店街会長の田村幡宣、通称幡さんが顔を覗かせ、秋江さんを驚かせていた。


「会長が昨日言ったじゃないですか?明日朝早くにうちへ来いって、話したいことあるからって」


 会長のさして汗もかいていないのに頬をタオルで拭く様子は、昨日の出来事を思い出しているようだ。もう片方の手にはビニールの袋を提げている。


「あなた!昨日も飲んで帰ってきて、また記憶忘れたの?」


 秋江さんに問い詰められて、


「あたぼうよ!宵越しの銭は持たねぇ、ならぬ、宵越しの記憶は持たねぇさ」


 何故かべらんめぇ口調で答える会長。でも、宵越しの記憶はって、毎日、記憶保存しないですか?


「中華飯店で夕べ会って飲んだじゃないですか?商店街入口の」


「中華飯店?・・・・あ、あぁ!『酒家軒』で。そういえば飲んだなぁ、会合の戻りに」


「そこで帰り際に言ったんでしょ」


 秋江さんと顔を向き合った俺は、やれやれと手のひらを返し大袈裟にため息をついてみせた。その時、「グーッ」と俺の腹がなる。心なしか甘く香ばしい匂いが漂ってくる。


「立ち話も何だから鮭太郎さん、中に入って、入って。忘れずに主人が朝食のパン買ってきたみたいだから」


「よーし、話は朝メシの後々。ほら、そこの『ルパン・デ・パパン』で焼きたて買ってきたぞ」


 会長が手に提げていたビニール袋をわざと見えるように揺らしながら工芸店へと入っていった。せっかくなので頂くとしましょう。というよりも、俺が通りかかったパン屋のその時に、散歩帰りの会長、中で焼きたて買っていたんですね、トホホ。


「鮭太郎!早く来い、モーニング無くなるぞ!」

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