5(夜の神社)

 夜花の家から電話があったのは、同じ日の夜中のこと。

「君に、娘から伝言を頼まれている」

 夜花かと思ったら、それは低い男の声だった。夜花の父親だろう、たぶん。暗い口調でぼそぼそとしゃべる人だった。

「この時間までに家に帰らなかったら、君に伝えて欲しいと言われている。娘は今、〝カラスの鳴く場所〟にいるそうだ。そこに来て欲しい、と」

 わかりました、と答えると、電話はぷつんと切れる。まるでCDの自動再生が終わったみたいな感じだった。

 ぼくは受話器を戻すと、少し考えてみる。夜花の言うのが、例の鎮守の森だとはわかる。でもどうして、彼女はぼくをそんな場所に呼び出したりするんだろう。それも自分ではなく、父親を使って。伝言の内容からして、夜花自身は家にはいないようだった。

 彼女に何かあったんだろうか?

「…………」

 何にせよ、行ってみないことには話にならない。ぼくは懐中電灯を持って、家を出た。自転車に乗って森に向かう。

 時刻は七時を回っていた。さすがに日はすっかり沈んでいる。街灯が霞のように暗闇を照らして、その親玉みたいな月が夜空に浮かんでいた。車は走っていない、人もいない。とても静かだ。

 森までやって来ると、ぼくは懐中電灯をつけて境内に入った。夜の神社はことのほか不気味だった。でも月明かりで意外と明るく、お社や木の端が白っぽく浮かびあがっている。

 参道の中ほどあたり、そこに誰かがいる。

 懐中電灯を向けると、それはヤギくんだった。

 ヤギくんは手と足を縛られて、口にはガムテープを貼られて地面に転がっている。ぼくのことに気づいたのか、ヤギくんはしきりに体を動かして、もごもご唸った。

「どうしたの、ヤギくん?」

 ぼくは途方にくれてしまった。いったい、ヤギくんは何をやっているんだろう。そういう趣味があったなんて聞いていない。

 でもヤギくんは口を塞がれているので、意味のある言葉はしゃべれなかった。後ろ手に拘束されているので、いも虫みたいに体を動かすことしかできない。

 と、その時、不意に声が聞こえた。

 明かりを向けると、夜花だった。右眼の眼帯が妙に白々とまぶしい。白い穴でも空いているみたいだった。

「犯人?」

 ぼくはオウム返しに訊いてしまう。

「そう、ヤギくんがオオカミくんを行方不明にして、カワホリくんを惨殺した犯人」

「どうしてヤギくんが?」

 ぼくは驚いた。

「ヤギくんはね、たまたま犯人の相棒と知りあいだったの。それでね、無理矢理、協力させられちゃったんだよ。私たちを一人ずつ殺していく計画を」

 地面の上で、ヤギくんはばたばたと激しく身をよじった。「うー、うー」と唸って、鼻水が垂れる。

 腎臓の病気でいつもむくんだヤギくんの身体は、今や本当にいも虫そっくりだった。顔を真っ赤にして、その目が必死にぼくを見つめている。その目は見覚えのある何かに似ていた。

「だからね、私たちは先にヤギくんを殺さなくちゃいけないんだ。だって、そうしないと私たちのほうが殺されちゃうから。かわいそうだけど仕方ないよね。ウサくんなら、わかるでしょ?」

 ヤギくんの鼻息がいっそう荒くなって、ふごふごと口元が動いた。

「これ、貸してあげる」

 夜花はそう言って、ぼくの手にずっしりと重い何かを握らせる。何だか覚えのある重量感だと思ったら、それは夜花がいつも持ち歩いているナイフだった。

「それでヤギくんを刺して」

 母親が子供に囁くみたいな口調。

 ぼくはナイフの重みを確かめるように右手を見つめる。その時、ガムテープの粘着がゆるんだらしく、ヤギくんの声が聞こえた。

「違うんだ、僕じゃない。僕じゃないよ。僕はただ、彼女が取り引きするって言うからここに来たんだ。君が犯人だからいっしょに協力しようって、そう言われただけなんだ」

「聞いちゃだめだよ、ウサくん」

「僕じゃない、僕じゃないよ。ねえ、信じて」

「あの時、私に何したか覚えてるよね?」

 夜花の甘い声がぼくのすぐ耳元で聞こえた。

? 四人とも、私に同じことしたよね? みんな、気持ちよさそうだったよね?」

「だって、それは彼女がそうしろって言ったんじゃないか」

 地面から悲鳴が聞こえる。

 夜花はいつかの時と同じような表情を浮かべて言った。


 ――その時、ぼくの右手が動いてヤギくんの胸を刺した。


 同時に、ぼくの手から懐中電灯が地面に落ちて消える。

 ヤギくんはきょとんとした顔をして、それから自分の胸に刺さった金属に目をやった。ナイフは柄のところまで深々と突きささって、それはまるでヤギくんの体から生えているみたいに見えた。まだ痛みがないせいか、ヤギくんは自分に何が起きたのか理解できていないらしい。

 ぼくはナイフの柄を摑みなおすと、ぐりぐりと動かしながら引き抜く。別に痛くしようとしたわけじゃなくて、肉に挟まれて抜きにくかったせいだ。ぼくはその感触にふと、調理実習で切断した鳥のもも肉のことを思いだしていた。

 傷口から栓が抜けてしまうと、穴からは勢いよく血が噴きだす。まるでバスタブから水が流れていくみたいだった。ヤギくんは、「あ、あ」とつぶやくことしかできずに、自分の体から何が流れだしているのかも正確にはわかっていないみたいだった。

 やがて声も聞こえなくなり、ヤギくんの体はひくひくと痙攣する。それも終わると、ヤギくんはすっかり動かなくなった。

 死んだ。

「ウサくん、私のほうを見て」

 言われて、ぼくは振り向く。

 するとそこには、夜花の顔がびっくりするほど近くにあった。唇が、何かの拍子に触れてしまいそうなくらい。残った左目に、ぼくが映っているのがわかる。夜花の息がかかる。心臓がどきどきして、下腹部が変に熱い。

「ねえ、ウサくん」

「うん」

「ごめんね」

 次の瞬間、ぼくの目に何か熱いものがかかった。思わず、目を押さえる。指のあいだから何かどろりとしたものが零れ落ちた。

「夜花?」

 目を開けようとしてみたけど、目蓋が開かない。

 いや、違う。

 目蓋は開いているのだ。

 暗くて何も見えないのは、単にだった。

 それでようやく、ぼくは目を押さえる直前のことを思いだす。あの時、視界の端にちらりと横切ったのは、夜花の持つナイフだった。ぼくの目は、そのナイフで潰されてしまったのだろう。

「どうして……?」

 ぼくは見えない夜花を求めて、手をのばした。

 けれどその手は、何も摑めない。

「これはお呪いの続きなんだよ」

 夜花の声が、聞こえる。ぼくがそっちに行こうとすると、(たぶん)ヤギくんの死体にけつまずいて石畳の上に転ぶ。顎を強かに打ちつけて、口の中に血の味が広がった。

「あの時の、カラスのお呪い。本当はあれで終わりじゃなかったの。あのあと、を殺さなくちゃいけなかったんだよ」

「三匹の動物?」

 オオカミ、カワホリ、ヤギ――

「カワホリは動物じゃないよ」

 ぼくは力なく言った。

「知らないの? カワホリってコウモリのことなんだよ、宇佐美くん」

 ……そんなこと、知るわけがない。

「そのためだけに、三人を?」

「もう一つあるよ」

 夜花の声は楽しそうだった。

「あのお呪いはね、幸福を授けてくれるけど、いっしょに不幸も持ってきちゃうんだ。だからね、私の代わりに不幸になってくれる人が必要だったの」

「それも三人の役目だったっていうの?」

 見えないけれど、たぶん夜花はうなずいたんだろう。

「不幸を先どりしておく必要があったの。それに幸福の独り占めも。だからかわいそうだけど、お呪いの続きもふくめて三人には死んでもらおうと思ってたんだ」

?」

 ぼくは訊いた。

「知ってたんだ」

「君のことをずっと見てたからね」

「うん、そうだね。最初から、ずっと。いや、もっとずっと前からかな」

 ぼくは這いつくばったまま、手探り状態で地面を進んだ。

「ずっと前って?」

「お母さんを殺したとき」

 夜花の声はいつもの永久凍土ふうだった。

「私は生まれてくるために、お母さんを殺さなくちゃいけなかったの。ちゃんとわかってたんだよ。そんなことしたらお母さんが死んじゃうって。でもね、私は自分の幸福のためにお母さんを犠牲にしたんだ。代わりに右目を失くして、お父さんもちょっと変になっちゃったけど。だからね、私は幸福にならなくちゃいけないんだ。お母さんを殺したぶんまで」

 そのセリフを聞いていると、ぼくは何だか夜花が〝人を殺すとそのぶん幸せになれる〟と言っているように聞こえた。

「ぼくも殺すの?」

 目を開けてるのに見えないなんて不思議だ。脳内麻薬だかなんだかのせいか、痛みはない。ぼくは手の下の固い石畳を頼りに進む。

「ううん、ウサくんは殺さないよ」

 声を目あてに、ぼくは体の向きを変えた。

「ウサくんはね、これから私の代わりに不幸になっていくの。その代わりに、私は幸福になれるんだよ。ウサくんは私の幸福のためのストックなの。ウサくんなら、やってくれるよね?」

 ぼくが手をのばすと、その手は何かをつかんだ。やわらかくて、少しひんやりとして、驚くほど小さい。

 ――夜花の手だ。

 途端に、あの時と同じ全身のしびれるような快感がぼくの下半身からあふれた。ぼくは横溢する多幸感の中で、とろんとした気持ちになっていた。

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