足りなかった15センチ

ハル

第1話 野島の夏

 肌にべったりとまとわりつく湿気と、燦々と燃える太陽。風は無い。真夏の空の下で、野島賢太郎は広い外野の中央からマウンド上のエース橘を見つめていた。九回裏ツーアウト二塁。スコアは3対3の同点。この回をなんとか凌げば、延長戦に持ち込める。未だノーヒットの野島賢太郎にも名誉挽回のチャンスが巡ってくる。

 マウンド上の橘はすでに肩で息をしていた。それも無理はない。今大会ずっと一人で投げ抜いてきたのだ。弱小の公立高校がベスト8まで勝ち上がるにはそれしかなかった。例年二回戦敗退。そんな高校には場違いの実力を持つ橘。max145キロの直球を持ち、切れ味鋭いスライダーとタイミングを外すチェンジアップ。そりゃスカウトだって来る。そんな橘も限界に見えた。こんな風景を今までテレビ越しの甲子園で幾度となく見た。体力を回復するため、牽制を繰り返す橘を見ながら野島はそんなことを思った。

 名門とは言えない高校の看板投手が甲子園で戦う。けれど常連の名門校の打線の迫力に押され、なんとか少ない点数で抑えるも、終盤に体力が尽きる。観客の誰もが思う。

「もう限界だ。投手を変えろ」

ブルペンでは自信なさげな背番号10が投球練習をする。監督はその様子をちらりと見る。そしてベンチの選手を一人呼ぶのだ。交代はしない。続投を選ぶ。伝令をマウンドに走らせるだけだ。マウンドのエースは止まらない汗をユニフォームで拭いながら、伝令の言葉に頷く。しばらくの会話ののち、伝令は帰り、試合は再開される。そして大方の予想どおり名門校の打線に捉えられ、エースは涙を流しながら土を持ち帰ることになる。

 野島の中には諦めに近い感情も浮かび始める。県ベスト8。正直ここまでこれると思っていなかった。元々甲子園なんて目指してなかった。本気で練習したのもこの冬からだった。

「俺、本気で甲子園目指したい」

1月のミーティングで橘がそう言った。こんな高校の中、一人腐らず練習をし続けていた橘。プロを目指してるからだと誰もが思っていた。けれどそんな橘が言った言葉は野島を含む多くのチームメイトの心を動かした。野島が本気になったのはそれからだった。それに反し、今戦っている高校は甲子園に5回以上出場経験が有る私立の名門。スポーツ推薦で入学した部員がほとんどだ。きっと入学直後から本気で野球をしてきたにちがいない。そんな奴らを相手に橘の力に頼って勝とうなんて甘い話だろう。

 けれど野島は諦めきれなかった。もう一試合橘と野球がしたい。いや、もっと、甲子園で橘と野球がしたかった。野島の視線の先のマウンドで、セットポジションの橘が右腕をしならせてボールを放った。次の瞬間乾いた音が球場に響く。はっとして空を見上げる。白球が高く舞い上がった。来た。野島は体を半身にしてセンターから左中間方向へ走りだす。風は無い。けれどボールにスピンがかかって予想以上に伸びる。湿気の多い重い空気が野島の邪魔をする。足が上手く動かない。ボールは段々落ちてくる。届け。届け。そう願いながら野島は力を振り絞って跳んだ。左手のグラブを精一杯広げながら跳ぶ。

 野島の後ろでボールがドンとバウンドした。届かなかった。グラブの15センチ先をボールが通り過ぎていった。着地の勢いでグラウンドに倒れこむ。ツーアウトだった。ランナーは打った瞬間走る。つまりこのボールを落とした時点で負けだ。もう橘と野球ができない。夏が終わったのだ。野島は起き上がれなかった。


 ドアが勢い良く開く音で野島は我に返った。誰もいない朝のグラウンドを眺めていた。隣の席で窓際の木下楓が机に突っ伏して寝ているおかげでグランドがよく見えた。9月の残暑がそこにはあって、あの日とほとんど変わらない暑さがあるように思えた。

「じゃあはじめるぞー」

数学教師の遠藤がしゃがれた声を教室に響かせる。陸上部の顧問である遠藤は色黒でいつもタバコの匂いをまとっていた。

「おい、木下。教科書は」

クラスメイトが鞄から教科書や筆記用具を取り出している中、木下楓は状況が飲み込めない様子でキョロキョロしていた。

「あれ、一時間目って現代文じゃ」

「聞いてないのか、明日の数学と入れ替わったって。青井先生今日休みだから」

「えー。まじで。私昨日休んでたから知らないもんそんなの」

「あーそういや休んでたな。まあいい。適当に誰かに見せてもらえ」

「はあ」

よりによって遠藤とかさいあく。木下が小さくそう呟いたのが聞こえた。遠藤は一部の生徒を極端に贔屓するため、生徒からの人望が薄かった。

「ケン、見せて」

木下が手を合わせてごめんという素振りを見せながら野島に囁いた。

「ああ」

野島は目を合わせずに少し机を寄せて、教科書を木下の席側に広げて置いた。

「ありがと」

そう言って木下も机を寄せた。5センチ程度の隙間を残して。野島にとって木下はちょっと気になるクラスメイトだった。少し不真面目で少し真面目。そこそこ明るくてそこそこまとも。ちょうどいい安心感のある魅力が木下にはあった。

「じゃあ今日も昨日の続きで三角関数やっていくぞ」

遠藤が授業を始める。野島は筆箱からシャープペンシルと消しゴム、そして定規を取り出そうとする。そこで気がつく。昨日の夜家で宿題をした時に、その時使っていた筆記用具を一式机の上に置きっぱなしにしてしまった。幸いシャーペンと消しゴムは筆箱に二つずつ入っている。けれど定規は一本しかなかった。今日はフリーハンドで書くか。

「教科書のお返しに使っていいよ」

その言葉とともに横から差し出されたのは一本の15センチ定規だった。木下はその定規を、机同士を橋渡しするように置いた。

「お、おう。ありがとな」

 授業が始まる。遠藤が昨日の復習と言って、半角と倍角の公式を黒板に書き始めた。けれど野崎はそんな公式よりも、二つの机にまたがって置かれた15センチ定規に意識を取られていた。まるで朝鮮半島の北緯38度線みたいだ、なんてことを野島は考えていた。別に木下と戦っているわけじゃない。ただお互いが干渉できるギリギリの場所にまたがって置かれたその定規は、大きな緊張感を孕んでいた。しかも15センチという距離が余計にその緊張感を増長させる。寄せきれない机とそれを繋ぐ定規。喋りはするけれど特別仲が良いわけじゃない野島と木下。部活が終わり、後は受験が待っているだけの高校生活。大学、専門学校、就職、いろんな未来が混在するこの教室。あらゆる関係性をこの机と15センチ定規が映し出しているような気がした。ただきっと木下はそんなこと考えてない。いつだって勘繰るのは男の方なんだ。

 野島はそんな意味のない思考を振り払って、遠藤が指定した教科書の問題に取り掛かった。隣では木下の手が全く動いていなかった。少しだけ木下の表情を伺う。眉間に皺を寄せて教科書の文字を睨んでいた。すると野島の視線に気がついたのか、助けを求めるような視線とともに、

「全然意味わかんないんだけどわかる?」

というささやきが耳に入った。

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足りなかった15センチ ハル @yusukumorishima

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