第39話

 「学校行くの?」テーブルに向って勉強をしていたミリアが、ふと、不安気に寝室から出てきたリョウを見上げた。


 リョウはスーツ姿に髪を一つに縛り上げ、黒く染めていた。


 「もうミリア、0点取ってないよ? 猫の絵も、描いてない。勉強、頑張ってる。」そう言ってリョウに近寄り、唇を震わせ見上げる。


 「ああ、ああ。……今日は学校じゃねえんだ。心配すんな。その……、」しかしその後が続かない。ミリアはひたと自分を見据えている。


 葬式――、ではあまりに縁起が悪い。結婚式――、ではほとんど交友関係は知られているのだから、誰が結婚するのと問われたら、困る。就職活動――、では今更サラリーマンになるなぞ、ミリアは絶対に信じないばかりか、大笑いするであろう。要人との会食――、俺はいつからそんなにやんごとなき身分になったのだ? リョウは全てにおいて観念したとばかりに、ごくりと生唾を飲み込み、つい、うっかり、「見合いに行ってくるんだ。」と言った。


 ミリアは突然立ち上がり、リョウを抱き締めると「否! 絶対否! 行かないでぇ。」と泣き叫ぶ。リョウは嗚呼これも間違いだったか、とたじろいだ。「あと、たった一年だから! たったの、一年ぽっちり! 待ってよう!」と、ミリアは拳で胸を何度も叩いた。何が、一年だ。リョウは呆れる。


 「わ、わかった。まあ、とりあえず行くだけだから。相手の顔を見てくるだけだ。ちょっと、離せ。離せってば。じゃあ、行ってくる。」


 いやあー、という絶望の叫びを後ろに聞きながら、リョウは急いで玄関を飛び出した。




 なんて酷いことをするのだろう、とミリアは教科書ぶん投げて、身を伏して泣いた。こんなに勉強を毎日頑張っているのに……。先だっては、リョウが作ったばかりの新曲にソロだって入れたのに……。昨今ライブの予定が入らないのは、自分に受験勉強に専念させるためであって、すなわち、バンドを停滞させているのは、自分だという自覚があるからこそ、必死に勉強にも、作曲にも励んでいるのに……。


 だから前回のテストなんかでは、クラスで上から十番目だったのだ。このままいけばS高校は確実と、担任の先生も太鼓判を押してくれた。だのに、だのに、だのに――、見合いなんて、許せない。


 ミリアは真っ赤になった瞳を上げ、睨むようにしてパソコンデスクの上に飾られたリョウの写真を見据えた。そして、我知らずほう、と長い息を洩らした。


 なんて素晴らしいのだろうと思う。紛れもなく、リョウは、世界で一番かっこいい。誰にも、負けない。特に、この、ステージ上でのリョウときたら圧巻だ。獣王とでも称すべき威厳と、孤高と、垣間見える色気と。リョウの誰よりも近くにいられる自分を、何よりも誇らしく思う。絶対にこの座を手放してなるものか、と思う。


 ミリアは今度は不機嫌そうにギターを手に取ると、軽く爪弾き、そして教科書をもう一度テーブルの上に開くと、目でその内容を追った。そしてもう一度、ちらとリョウの写真を眺めた。そして、にっこりと微笑んだ。




 ミリアの所属事務所から出てきたリョウは、疲弊と、無力感と、それから落胆とで暫くバイクに跨った切り、上半身を凭れ掛けたまま、動けなくなった。


 自分の、保護者としての不適格ぶりがまざまざと明らかになって――。


 先ほどの痛烈な弁護士の一言一言が蘇る。第一に、親権が、ないこと。これはあの女からも教師からも社長からも言われた、その通りである。虐待をしようが蒸発をしようが、親である限りは親権を剝奪できないという事実にリョウは打ちのめされた。更に、そこで自分がミリアに対して持っているのは、未成年後見人というわけのわからぬ身分でしかないことも、明らかになった。それをフルに活用したとして、親権の一部である監護権とやらを得ることがせいぜいだという事実。ここに九年に及ばんとする養育実績とやらを持ち込んだとしても、未婚であること、定まった収入がないこと、家が狭くミリアの自室がないこと、更にミリアを夜の九時以降までライブに出演させ、労働基準法に違反させていることなど、弁護士はズカズカとリョウの保護者としての不適格ぶりを指摘していった。




 「でも日頃お世話になっている社長から、直々に頭を下げられましてね。よほどミリアさんの将来性を見込んでいるのでしょう。」リョウとそれ程年齢も変わらぬように見える男性弁護士は、明らかに不機嫌な口調で、眼鏡の蔓をくい、と持ち上げながら言った。「調査官には絶対に、自分に不利になるようなことは口にしないで下さいね。たとえば、貧乏なこと、それによってミリアさんの給料を生活費に充てていること。」


 「充ててねえっすよ。」リョウは職質を受ける以上のストレスを覚えながら慌てて反論する。「あいつが嫁に行く時にそっくり渡すって、決めてますから。そもそも幾ら入ってんのだかさえも、知らねえし。」


 「そうですか、では、そこを徹底して主張して下さいね。……それからミリアさんを夜中まで労働させていること。」


 「だって、しょうがねえじゃないっすか。」リョウはそう言って両の拳を机に叩き付ける。「あいつぐらい弾ける代わりが、いねえんだから。でも、さすがに受験まではライブの予定、入れてませんよ。」


 「じゃあ、そこを強調して下さい。あくまでも受験勉強を優先させ、ライブも早めの時間帯に終わらせていると。……それからあなたが、異様なぐらいに髪を伸ばしていて、更に未婚で、収入も安定せず……、」


 「だってしょうがないでしょう。」弁護士が言い終わらぬうちに、リョウは再び机を叩いて言った。俺はデスメタルバンドのリーダーやってるんすから。あんたみてえに七三にしてフロントに立てっつうんですか? どうやってヘドバンするんすか?」さすがにやけになってリョウは訴える。


 「全く、デスメタルバンドとか、ヘドバンとか、何なんですかそれは。」


 「お前、いい歳して知らねえの?」リョウは頓狂な声を上げ、そして、頭を巡らす。「ほら、X JAPAN的な。」


 「知りませんねえ。」弁護士は再び眼鏡の蔓を持ち上げる。


 リョウは目を見開き、身を乗り出した。「マジで? ……どんな人生送ったら、そうなんの?」


 「こっちが聞きたいですよ。……ともかく、収入は急にはどうにもならないかもしれませんが、それでも十分にミリアさんの生活には足りているとアピールして下さいよ。絶対に穴の開いた靴下なんか、見える所に置いておかないでくださいよ?」


 「はあ? そんなのねえよ! それになあ、食材はスーパー半額ばっかだけど、ちゃあんとミリアには俺が作って食わせてる。今までバイトで鍛えてきたからな。余裕だ。……それに俺はな、ミリアが寝坊した時には弁当だって作って持たしてやってんだぞ。お前、人参をさ、花の形にこう、切るの持ってっか? 俺はなあ、ちゃあんと持ってるからな! 百均だけど。……それに学校で必要なモンだって買ってやってるし。まあ、そんな、贅沢はさせられんねえけどさ。」


 「ならばよし。あとは、見た目。見た目、何とかしてください。」


 「どうやって!」思わずリョウは叫んだ。「三十三年間俺は正真正銘この面で生きているんだよ!」


 「存じております。なので、面はよいです。その頭ですね。女性だってそんなに伸ばしている方はいませんよ。」


 「んなの俺だって目開けて街中歩いてんだ、知ってるよ。」


 「じゃあ、あなたぐらいの年齢の男性がどのような頭をしているかも、ご存知ですよね。調査官や裁判官に対する印象は大切ですよ。もう、これ以上は言いません。」


 リョウは肩を竦めた。




 リョウはたった今会社の一室で行われた弁護士との面会を思い返し、暗澹たる気持ちになる。しかし何とかそれを振り払い、ゆっくりと頭を擡げると、バックミラーに映った自分の顔をぼうっと眺めた。数多の警察官がこぞって職務質問をしたがるこの顔付き。たしかにこの面提げて裁判所なんぞに赴いたら、話を聞くまでも無くミリアを奪われること必定。


 リョウは慌てて顔を両手で激しく擦った。


 ――それだけは、避けねばならない。


 しかし、そもそも、あの女は一体何をそこまでミリアに執着するのであろうか、とリョウは訝る。ミリアは確かに美人に育った。それは疑いない。それをもって、これから、もしかすると、モデルとして金を稼ぐようになるのかもしれない。でもそんなことは、どうだっていいことじゃないか。


 それよりも、ミリアが日常的に見せる美味しいものを食べた時の笑顔だったり、リョウと呼び掛ける時の微笑みだったり、ライブ前に見せる凛々しい横顔だったり、はたまたつい先ほど見せたわがままな泣き顔だったり……。あれらは、まだ、絶対に、失いたくは、ない。


 リョウは眼光鋭く輝かすとアクセルを吹かし、そのまま家路を急いだ。

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