第32話

 さすがにミリアに執着を見せていた女も、バイクの後部座席にフルフェイスのヘルメットを被って乗ったミリアの姿や、タクシーの後部座席に身を潜めるミリアの姿は認識できなかったらしい。ミリアが登下校中に妙な視線を感ずることは、とんとなくなった。しかし毎日片道730円の、都合によっては往復1460円のタクシー代は、少なくともリョウにとっては痛手になるはずに相違ない。それだけがミリアの懸念となった。だからミリアは、雑誌モデル以外にも何か仕事はないかと社長に談判し、カットモデルやら新聞広告のモデルを入れてもらうこととした。

 リョウはミリアがモデルをすることには、口でこそ賛同はしなかったが、出来上がった写真は全て丁寧にファイルにスクラップし、パソコンデスクの隣に飾られた。

 「お前、受験生なんだからさあ、忙しい時は断っていいんだからな? ってか、最近、仕事増えてね?」

 「ミリア、人気なの。」と言ってミリアは微笑む。

 「まあ、人気なのはいいけどよ……。」リョウは考え込んで、「でも、こういうのは高校行ってからもその先でも、これからいくらだってできんだからよ。今、お前がやるべきことは、勉強だろ?」

 そこにインターホンが鳴る。

 「ユウヤだ。」ミリアが嬉しげに言い、立ち上がった。


 ユウヤを出迎えに行ったミリアがなかなか戻ってこないのを不審に思ったリョウは、「何してんだよ。そんな所でしゃべくってねえで早く入れよ。」と言いながら玄関まで出向いた。

 しかしそこで目に入ったのは、ユウヤではない、見たことのない女である。女はミリアの腕を掴みながら、「どうして、避けるの。」などとヒステリックに叱り付けている。

 「おい、あんた何だ!」慌ててリョウはミリアの身を引き剥がした。

 女は三十恰好、しかし黄色のワンピースに籠のバッグなんぞを持ち、かなりの若作りをしている。リョウは息を呑んだ。女の顔つきがミリアに酷似していることに気付いて。

 「リョウ、この人。駅とか公園、いた人。」ミリアは泣きそうになりながらリョウの背に身を隠す。

 「あ、ああ。」

 ストーカーでは無かった。それはミリアの母親、だったのである。リョウは生唾を飲み込んだ。

 「あんた、リョウスケの前妻の子でしょ。」女は血走った眼でリョウを睨み上げる。いつものように考えるより先に怒鳴り散らすことができず、そればかりか遠慮の気持ちが擡げるのは、ひとえにその顔付きがあまりにミリアに似ているからに他ならない。

 ミリアは気付かないのであろうか。リョウは満身の震え出すのを感じた。ミリアを生んだ人、それというだけで自分は丁重に扱わねばならないと思わされる。そんな脅迫に似た緊張がリョウを襲う。

 「私は、ミリアの母親です。ミリアを、迎えに来ました。」

 「は? 迎え?」リョウは息も荒々しく、頓狂な声を出す。

 「子供は、親と暮らすべきなの。親権は親である私にだけ、あります。」女は妙にはっきりと断言する。「血の半分しかつながっていない、いい年した兄ではなくて。」

 「いや、そうかもしれねえけどよ、」リョウは停止しかかった思考を必死に巡らす。「今の今まで俺とミリアは一緒に過ごしてきた。それをいきなりぶち壊す気かよ。それに、長年ミリアを放っておいたあんたが突然権利だなんだか知らねえが、しゃあしゃあと出て来て、一体どういう了見なんだ。」

 リョウは次第に、自分の正当性を思い出し、次第に怒りを増幅させていく。

 「ずっと、探していた。」女の押し殺すような声が響く。「でもなかなか探し出せなかった。あんたが邪魔立てしてたから。」

 リョウは首を傾げる。「あんた、何言ってんだよ。あのクソ親父がくたばった時、ミリアがどうして俺の所に来たのかわかってるはずだろ? お前が迎えに来ねえどころか、行方くらましてたからだろが。」

 女はふっと皮肉な笑みを浮かべる。

 「私はあの男の暴力を受けて、シェルターに避難をしていたの。私もミリア同様に、あの男の犠牲者だったのよ。何の関係もないあんたに、解る筈もないだろうけれど。」

 女の目に嫌な輝きが宿り始める。

 「まあ、いいわ。今日はミリアに会いたかっただけだから。今度、話はきちっとさせてもらう。あなたも、ミリアも、私のことを随分勘違いしているようだから。」

 女はそう言ってスカートを翻すとつかつかとヒールの音も高く戻って行った。

 リョウは唖然としてその後姿を見つめ、ミリアはミリアで慌てて部屋の奥に走り去り、ベッドの奥に座り込み、身を震わせた。

 リョウは我に返ると鍵を閉め、ミリアに歩み寄る。

 ミリアはやけに白くなった顔で、震えている。

 リョウはベッドに上がると、ミリアをそっと抱き締めた。額に頬を寄せる。

 「大丈夫だから。」

 「あんなのが、ママ? あんなのが……?」

 リョウは深々と溜息を吐く。アルコール中毒の暴力的な父親に、ヒステリックで自己中心的な母親、ミリアが絶望するのも無理もない。しかし自分の母親を知らないリョウには、どう慰めてよいものか、わからない。

 もし自分の母親という人間が現れ、会いたいとでも言われたらどうかと問われたならば、無論興味は無いの一言に尽きる。ただしミリアは女の子だ。母親に対する憧れ、と言ったものが本当にないのだろうか。美桜と、美桜の母親と一緒にお菓子を作っただ、髪の毛を編み込みに結ってもらっただ、あれ程楽しそうに言っていたではないか。もしかしたら自分という存在に遠慮をしている可能性は、なかろうか。リョウは訝る。――いや、無い。ミリアは腕の中で現に今、これ程震えているではないか。これが、何よりの証拠だ。リョウは少しずつ自信を回復していく。自分が、ミリアの、保護者だ。学校へだって呼び出されればすぐさま駆けつけるし、ミリアが欲するものは何だって与えるのだし、何よりも自分が世界で一番ミリアを愛している。それだけがリョウの矜持となった。

 しかし自分がミリアと共にいられる法的理由は存在するのであろうか。

 リョウはそれを思えば否応なしに、ずっしりと心が重くなるのを感じる。血の半分しか同じでは無い、中途半端な兄に過ぎないという事実に、疲弊感に似た重さが全身を絡め取る。

 ミリアはミリアで、正直、今までも自分の母親がどんな人であるのか、興味を持っていたのは事実だ。それは、はっきりと自覚のされるところである。父親から聞いて、長らく母親は自分を極めて利己的な理由で捨てたのだと思い込んでいたけれど、どうやらそうではないというのなら、尚更だ。でもそんなことを言ったら、何よりも、リョウを傷つけることになる――。リョウの優しさを、愛を、仇で返すことになる――。

 ミリアはリョウがそれ程裕福ではないのに関わらず、そして幼な子なんぞ恐らく最もその扱いを不得手とするのに関わらず、自分を今日まで必死に育ててくれたことを、知っていた。だからミリアはリョウを裏切ることだけはしたくなかった。それは単なる義理ではない。ミリアはそれにはリョウを愛し過ぎていた。

 クラスの女の子たちが、同年代の誰それやアイドルに恋心を抱く気持ちなぞ、全く知れなかった。それらはミリアにとって何の興味関心も引き出さなかった。赤い髪を腰まで伸ばし、それを激しく振り乱しながらギターを弾き、咆哮するリョウだけが好きだった。しかし一方で、クラスの女の子たちが休日、彼氏とどこへ行った、何をしただと話している内容には痛烈なまでの羨望を感じた。いつか、自分も、リョウと――と、思うのである。

 だからミリアは母親を憎んだ。リョウを愛するために、憎んだ。

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