第33話

 母親、という人はそれから一月経ち、二月経っても来なかった。次第にミリアは母親のことなぞ忘れかけてきた。リョウとの会話においても母親のことは自ずと出してはいけないようになっていたし、登下校を気遣う以外には、日々勉強とギターに没頭するという、平生通りの生活に戻っていた。


 ミリアはある日、帰宅するなりリョウの新曲にどんなソロを入れたものかと、ギターを弾きながら一人懸案していた。リョウは大抵曲中にソロを二か所作り、その一方をミリアに任せたから。ミリアは深々と思い出す。過去の痛ましい出来事の数々を。本来であれば隠蔽することでしか前に進めなかった経験を、リョウがいるから正視できるようになっていた。だからそれをリョウの曲に、籠める。

 リョウは直接的にミリアのために創った曲だとは、『BLOOD STAIN CHILD』以来口にしたことはなかったが、今回の新曲も、ミリアは「これは公園で延々と感じ続けた空腹と孤独感だ」とか、「これは父親に死んでほしいと一種支配されるように思い込んだ憎悪だ」とか、そんな思いをリョウが代弁し作曲してくれているように感じられてならなかった。自分とリョウは、繋がっている。ミリアはそう実感して、嬉しかった。

 ミリアはパソコンはわからないので、リョウが大昔に使っていたという小さな録音機を手に、そのボタンを押し、思いついたソロフレーズを奏でていく。「パパが死にますように。」あの時願った記憶を、そのまま曲に、籠める。

 突然インターホンが鳴った。

 先日リョウがバンドTシャツを追加発注したことを聞いていたので、ミリアは録音機を切り、ギターを置くと、印鑑を持ってドアを開けた。

 するとそこには、―-一母親が、いた。

 「……ミリア、ちゃん。」

 そう呼ばれ、ミリアは動けなくなる。

 隠れなければならない、咄嗟にそう思った。しかしリョウは不在だ。今日のレッスンは何時に帰ってくるだろう、夕ご飯までには帰るはずだけれど。リョウはどうやって撃退をするつもりであったのだろう。ミリアは頭が真っ白になる。

 「この間は、ごめんね。本当に……。お母さん、ミリアちゃんとお話がしたいばかりに、感情的になってしまって。とても反省したの。」女、否、母親の瞳から大粒の涙が零れ落ちる。それから腕が伸び、ミリアの肩を掴み、更に強く、抱き寄せられた。ミリアの背にはぞっと鳥肌が立った。リョウとは違う。リョウに抱きすくめられるのは、あんなにも嬉しいのに。ミリアはぶる、と大きく一つ身を震わせた。

 「ずっとずっと、ミリアちゃんを一人にしてきて、こんなこと、今更言えた義理では無いけれど、でも、ミリアちゃんと一緒に暮らすために、お母さん、努力したの。おうちをね、建てたのよ。」

 ミリアは慌てて首を横に振った。

 「ミリアちゃんのお部屋もあるの。一度、見に来ない? きっと気に入るはずよ。」

 リョウといたい。言おうとして声が出ない。ミリアが今感じているのは幸福を根底から覆そうとする、とてつもない、恐怖だった。そこに、リョウの腕が伸び、ミリアを母親から無理矢理引き離した。

 「何やってんだ!」息も荒くリョウは怒鳴った。

 ミリアはそのまま部屋の奥へと走り込んだ。悪寒と嗚咽と、様々な負の感情が噴き出す。

 「ミリアちゃん!」

 そう叫び、部屋の中へと入ろうとした女を、リョウは容易に制した。リョウは幾分息を切らせ、上気した顔で女を見下ろす。

 「ミリアに手ぇ出すんじゃねえ。」

 「放して。私はミリアの母親よ。」

 「放ったらかしにし続けた母親が今更、何の用だ。」押し潰すような声でリョウは言った。

 「あなたこそ、何なの? 私は母親。扶養義務があるのは、こっち。」女はリョウを睨んだ。

 「俺はミリアとずっと暮らしてきた。」

 「だから、何なの? 私はずっとミリアを探していたの。あなたが、違法に隠していたから!」

 「……見ろよ。」リョウは部屋の奥を顎で示す。「あいつ、あんたから一目散に逃げてったじゃねえか。それで、わかんねえのか?」

 「……洗脳してるのね。」女は顔を顰めてリョウに向き直る。「こんな、こんな、長髪の怪しい男に、年頃の女の子が引っかかってるなんてあり得ない。警察に通報します。」

 「しろよ。」リョウは自信に満ちた声で言った。「俺は、あの糞野郎が死んでから、ミリアとずっと一緒に暮らしてきた。ガリガリでボロボロの服着た、言葉もろくに喋れねえあいつと、ずっと、一緒に暮らしてきた。この日本でなあ、あそこまで追い詰めるって相当だぞ。あんたにどんな理由があったかは知らねえが、糞野郎からあんただけ巧く逃げ切って、よく呑気にミリアを八年間も放置出来たもんだよ。あんたご自慢の母親、っつう肩書は所詮その程度か。」

 女の顔色が変わる。そして肩で何度も荒々しい呼吸を繰り返し、低く呟いた。

 「……あんたら、ヤッてるんでしょ。」女は鼻梁に皴を寄せ、下卑た笑みを浮かべる。「っていうか、あんた、ロリコンなんでしょ。そんな見た目だもんねえ……。貧乏な癖してミリアを渡さないってさあ、血も半分しか違わないし、可愛いモデルの子、自分の好きなように調教して夜な夜なヤッてるんでしょ。それを邪魔されたくなくて、必死なんでしょ。」

 今度はリョウの顔色が変わる。そればかりではない、頭が真っ白になり、体が崩れ落ちそうになる。リョウの横をすり抜けてそこに飛び出してきたのは、ミリアだった。ミリアはその勢いのまま、「死ね!」と叫ぶと拳を振り上げ、無茶苦茶に女を叩き始めた。それが女の顔に当たる、肩に当たる、腹に当たる。

 「死ね! クソが。……クソが! リョウのこと、よくも、よくも!」

 ミリアはかつて誰もが聞いたことのないひしゃげた声を発し、再び今度はより本格的に女に殴りかかろうとし、リョウがさすがに抑えた。女がひるみ後退していたところを、リョウが扉を勢いよく閉めた。即座にガチャリと鍵を掛ける。女のヒステリックな叫び声が上がった。リョウはミリアを抱き上げ、リビングに入る。すぐさま窓とカーテンも閉めた。

 ミリアは物凄い形相をしていた。今にも泣き喚きそうでもあり、怒りに気が触れているようでもあった。リョウはとりあえず立ったまま、ミリアを後ろから抱えるようにして落ち着かせる。息が荒い。

 「落ち着け。……大丈夫だから。」ミリアの肩が激しく上下している。外で扉を激しく叩く音がする。リョウは舌打ちをして玄関を見た。

 「ぶん殴ってやる。」ミリアが満身に力を籠め、押し殺したような声で言う。

 「いいから。」

 「リョウを、リョウを……。」

 「俺は大丈夫だから。」

 何度も肩を撫でている内に、ミリアの体を突き動かす無理な緊張と怒りとが和らいでいく。いつの間にか女の叫びやドアを叩く音もなくなっていた。


 ミリアはぐったりとソファに横たわっていた。あの血が自分の半分を占めているという事実に、容赦なく吐き気を覚えた。もう、全てが厭だった。全ての血を抜いてしまいたい。そして何もかもをやり直したい。後は、何も考えたくなかった。

 リョウも疲弊はしていたが、夕飯の時刻も近づいていたので、手早くお好み焼きを作るとミリアと自分の前にそれぞれ置いた。

 「ほら、お好み焼き。」

 ミリアは横たわったまま、目だけで肯く。

 「少しぐれえ、食べねえと。」

 ミリアは眠そうにも見える、疲弊し切った体でゆっくりと起き上がった。リョウは箸を手渡す。それを受け取ったミリアの目から大粒の涙が零れ落ちる。「ミリアが、悪い。」

 「え、お前、何も悪くねえだろうがよ。何言ってんだよ。」

 リョウはそう言って笑おうとしたが、叶わず固まった。ミリアの唇が細かく震えている。何かを言おうとする時、そしてそれに適切な言葉を与えられずに困惑する時、ミリアはいつもこうなった。だからリョウはそこを見詰めながら待った。

 すると、「……ちょっとだけ、美桜ちゃんのママみたいだったらいいなって、思ってた。」そう言ってミリアは、うう、と唸った。リョウは咄嗟にミリアを抱きしめた。

 やはり、ミリアは母親を欲していたのだ。そう思えばリョウは拭い切れない疲弊感に襲われた。自分がどれだけ愛してもミリアを完全には満たしてやることはできない――。それはとてつもない無力感を齎した。リョウはそれに呑まれそうになって、慌てて振り払った。

 「……俺が、お前のママやるから。ダメか?」

 ミリアは潤んだ瞳でリョウを見上げ、噴き出す。「リョウが、ママ?」

 「菓子作ったり、お下げ編んだり……は、無理かもしれねえけど。」リョウは苦笑した。

 「でも、ご飯、美味しい。」ミリアはそう言ってお好み焼きの端を摘まみ上げると、口の中に放った。「すっごく、美味しい。リョウが、好き。……愛してる。」

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