第14話

 脚をよろめかせながら、国道を空車ランプを点けひた走るタクシーを止める誘惑にも勝利し、どうにか帰宅をすると、まだ家には電気が点いていた。リョウは訝し気にそうっと玄関の扉を開けた。

 すると目の前には、ミリアが真っ赤に泣き腫らした顔で玄関に立っていた。何かを言おうとして、唇が震えている。

 「ったくよお。……寝てろっつったじゃねえか。」リョウはろくにミリアを見もせずに、家の中に入ろうとする。脇を通り過ぎようとしたその腕をミリアが掴んだ。

 「ミリアに、激怒してる?」

 リョウはぎょっとしてミリアを見下ろす。

 「え、激怒?」

 再び唇が震え、「ミリアをお嫁に行かすために、お買い物、してきたの?」ミリアは涙目でリョウを見上げる。

 そんな目で見るなよ、と思いつつ平生以上に何を言っているのかわからないと、戸惑う。リョウは慌てて腰を屈めミリアの顔を見詰めた。

 「ミリアを怒ってなんか、ねえよ。それに、走ってきただけ。だから残念だが土産は、ないんだ。だから、寝ろ。」

 まさかミリアに欲情を感じてしまう可能性があるので、そんなエネルギーが死滅する程の疲労困憊を目指して走っていました、とは言えない。

 ミリアの手が緩んだのを幸いに、リョウはそのまま風呂場に入る。ミリアは納得したのだかしてないのだか、その場で立ち尽くしている。

 「とにかく、もう遅いんだから寝ろよな。あと、汗だくの俺の腕触ったんだから、手ぇ洗えよ。汚ぇぞ。」さっさと入った風呂場から声が響いてくる。ミリアはそれらの全てを無視してリビングから先ほどまで読んでいた教科書を持ってくると、風呂場の前でたどたどしく読み始めた。

 「……メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した。メロスには政治がわからぬ。メロスは、村の牧人である。笛を吹き、羊と遊んで暮して来た。」

 リョウはシャワーを浴び、びしょ濡れになった長髪を片手でまとめ上げながら、何事かと風呂場から顔を出す。

 「何。どうしたの。」

 ミリアは更に、音読を続ける。

 「メロスには父も、母も無い。女房も無い。十六の、内気な妹と二人暮しだ。この妹は、村の或る律気な一牧人を、近々、花婿として迎える事になっていた。結婚式も間近かなのである。メロスは、それゆえ、花嫁の衣裳やら祝宴の御馳走やらを買いに、はるばる市にやって来たのだ。」

 そろそろ鈍感なリョウにも合点がいってくる。

 ミリアは泣きそうな声で更につづけた。「……さて、メロスは、ぶるんと両腕を大きく振って、雨中、矢の如く走り出た。……えい、えいと大声挙げて自身を叱りながら走った。」

 「待て、待て待て。」リョウは慌てて下半身にタオルを巻き、風呂場を出るとミリアの前に腰を屈めた。「わかった。俺はお前を激怒してねえし、今すぐは嫁に行かそうとも思ってねえし、ただ、走っただけなんだよ。」

 ミリアは疑い深げな瞳を向ける。

 「くったくたになるまで、走りてえ気持ちだっただけなの。」それ以上についてはさすがに口ごもり、そして「あ、……ケーキ、ごめんな。もう、食っちゃった?」

 ミリアは首を激しく横に振る。

 「じゃあ、今すぐ上がるから、待ってて。一緒に食おう。な?」リョウはミリアの頭を撫でた。


 濡れた髪を一つに縛り上げたリョウは嬉し気に、目の前のバナナケーキと抹茶シフォンケーキを眺めた。「今日は二種類も作ったのか、やるな。相変わらず美味そうだ。ミリアのギターと料理と菓子は、絶品だからな。」

 ミリアはどこか悲し気にリョウにフォークを渡す。

 「おお、ありがとう、頂きます。」

 リョウはふわふわのスポンジにフォークを入れ、すぐに口に放り込む。

 「おお、おお、旨いな。すこぶる、旨い。ふわっふわ! お前、店出せるよ。この下の一階の部屋、借りるか?」

 ミリアは首を横に振る。

 「……そうか。」

 ミリアは黙って食べている。話題が、無い。

 「そういや、明日の夜、ユウヤまた来てくれるって。」

 ミリアははっとなって顔を上げた。「本当?」ようやく会話らしい会話ができたと、リョウは微笑む。

 「本当本当。あいつも来週ライブだから忙しいみたいだけど、夕方から夜なら空いてるって。良かったなあ。」

 ミリアはじっと見上げ、「その時、リョウもいる?」と恐る恐る聞いた。

 「……ったりめえだ、いるに決まってんだろ。さすがにお前とユウヤ二人きりにしていくのはな。あ、別にユウヤを疑ってるわけじゃねえぞ。」その前に自分だ。瞬時に意気消沈する。

 しかしそんなことにはついぞ気づかぬミリアは、リョウに勢いよく抱き付いた。「その時はお外走りに行かないでね。一緒にいようね。」

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