第15話

 その翌日、ミリアは上機嫌で自ら夕飯の準備を買って出、冷蔵庫の食材をフルに使いながらやたら手の込んだ料理を拵えた。鮭のボイル焼きに、かりかりのベーコンが載ったサラダに、玉ねぎだのほうれん草だの卵だのが入ったコンソメのスープ。それからわざわざ今日のために作ったかぼちゃのシフォンケーキ――。

 リョウは単純に歓声を上げた。「お前、何だこれ、凄いな! 大統領の誕生日かよ。」

 ミリアは微笑んで、「凄い? 本当に、凄い?」と繰り返す。

 「ああ、そりゃあ凄ぇよ。しかもお前の飯は本当に本当に、旨いからな。店で飯食ってても、ミリアの方が旨いなって思うもんな。」

 ミリアは感極まってリョウに抱き付く。リョウははっとなって、慌てて身を剝がそうと試みる。

 「きょ、今日はユウヤ来るから、早く食わねえとな。な。な。」

 ミリアの作った豪勢な晩餐を全て腹に詰め込み、しばらく経つと、ユウヤがやって来た。夜に練習があるとかで、相変わらず変形ギターも一緒だったが、別に携えてきた鞄から何冊かの問題集を取り出すと、テーブルの上に並べ出した。

 リョウまでもが何故だか真剣にテーブルに向かい、ミリアと一緒にそれらを吟味する。

 「ミリアちゃんの一番得意なのは、何?」

 「英語!」

 ミリアは即答した。ユウヤは英語の問題集を開けると、早速切々とミリアに説明を始めた。「じゃあ、まずは、比較級。知ってる?」

 ミリアは嘘か本当か、「知ってる。」と答える。

 「リョウさんは大きいよね、身長何センチあんの?」

 「185センチ。」ミリアは即答する。

 「そりゃあ、bigだ。bigの比較級はbigger、RAGEのenough is enoughのサビで、みんなbigger!って拳上げて叫ぶでしょ。あれ。」

 ミリアは目を輝かせて、「bigger! When maney maker……」と謳い出す。以前ジャーマンメタルにはまっていた時期があって、その時にミリアが大層気に入って歌っていた曲だ。リョウは祈るようにミリアを見詰める。ミリアのメタルへの関心をうまく刺激しながら、教えてくれるようで、リョウはその手腕に心から額づきたい程の感謝を覚えた。

 そっとリョウは席を外しギターを持って寝室へと移動したが、ミリアがのってきたところで、数学か何かの話にもなっているらしい。祈るような気持ちでリョウはギターを軽く爪弾き始めた。

 昨今はまともに作曲もできていない。どうにかミリアがまっとうな人生を辿り、それから自分もそれを温かく見守る環境がなくては、ギターやバンドにも支障が、出る。とりあえずはミリアだ。頼むから、勉強を頑張ってくれと目を瞑ってリョウは自ずと手を合わせた。


 二時間も経つと、「リョウさん、今日はここでお終いねー!」とリビングからユウヤの声がする。リョウがリビングに行くと、

 「じゃあ、ミリアちゃん、次来る時までに、宿題やっておいてね。」ユウヤが言い、

 「うん。」ミリアは笑顔で答える。

 「お前、宿題とか出来んの?」

 「できる。」ミリアは自信満々に即答する。

 「リョウさん、じゃ、酒はまた次回っつうことで。」

 「おい待て。酒はダメだ。あれは、人をダメにする。」

 ユウヤはぎょっとしてリョウを見据えた。「……え。メタル界有数の酒飲みが、今更何言ってんすか。」

 「てめえ、神聖なる黒崎家にアルコールを持ち込んでみろ。張っ倒すぞ。酒だけじゃねえ、奈良漬も、ボンボンチョコも、酒粕も、とにかく全部、ダメだ。ありゃあ、人間を堕落させる悪魔だ。」

 一種の気迫をもってそう語るリョウに、ユウヤはごくりと生唾を飲み込み、その耳元に囁きかけた。「まさかこの前ん時、ミリアちゃんとやっちまったんすか……?」

 リョウはぎくりとしてミリアを振り向き、何も聞こえていないのか解していないのか、微笑んでいる様を確認すると、慌ててユウヤの胸倉をつかんだまま玄関を出る。

 背中で扉を閉め切ると、「……お前、滅多なこと口にすんじゃねえよ。マジでぶん殴るぞ。」と極めて声量を抑え込みながらも、恐ろし気な形相で睨み付ける。

 「……だって、そうとしか考えられねえじゃねえすか。この前の打ち上げで、酒は腹心の友、シュンやアキよりも大切だとか言って、周りをドン引きさせてた癖に。」

 リョウは慌ててユウヤを階下に連れ出す。

 「やってはねえ。やってはねえ、……多分。」息を切らせながら囁いた。

 あっちゃー、という顔つきでユウヤはリョウを眺める。

 「多分って何すか、……まあ、ミリアちゃんも満更でもねえし、お縄を頂戴する事態にはならねえから、ま、いいけど。でも、酔った勢いっつうのはなあ、……カッコ悪ぃなあ。」と言ってユウヤは顔を顰める。

 「あのな。」リョウは真剣に適切な言葉を探そうと試みる。「その、勘違いするな。……一緒に寝てただけだ。」

 「欲情せず?」

 「せず。」リョウはここぞとばかりに力いっぱい即答する。

 「服脱がせず?」

 「脱がせず。」

 「抱き締めもせず?」

 「……。」リョウの顔が強張る。

 「……そりゃあ、挿れてはねえが、揉んでんだろ。実際触ってるし。」

 リョウは頭を抱えてしゃがみ込んだ。「あのな、俺にとってミリアは子供なんだよ、妹なんだよ、俺が守ってやらなきゃ死んじまう、そういう子なの。『女』じゃねえの、それじゃ、ダメなの。」

 「でも美人だしな、しょうがねえ。」ユウヤは明るくそう言い放つ。

 リョウは唇の端を歪めながらユウヤを見上げた。

 「あのさあ、正直、言って……、俺、変態?」

 「リョウさんの変態度合いで言やあ、デスメタルに人生丸ごと捧げてるのが一番変態。次点でそこに妹巻き添え食わしてる点。三番目が……ミリアちゃんへの愛情を無理やり捻じ曲げて父性愛にカテゴライズし切ってる点だな。もっと素直になった方がいい。ステージ上みたく。」

 リョウははあ? とでも言うように顔を顰め、ユウヤを見上げた。

 ユウヤは爽やかな微笑みを讃え、「まあ、大丈夫。これからこれから。元気出せ、兄貴! 俺はこれから練習行ってくるぜー! ライブ頑張るぞー!」

 手を振って元気いっぱいにユウヤは去っていく。

 リョウはその後姿を目で追いながら、やがて、力なく立ち上がった。そしてとぼとぼと部屋に戻る。

すると「ユウヤ、また、来る?」すっかりユウヤを気に入ったのであろう、ミリアが玄関でそう尋ねる。

 リョウは「ったりめえだろ。お前が高校入るまで来んだよ。」と答えた。「だから、しっかり勉強して、ギターも弾いて、ライブも成功させねえとな。」

 ここぞとばかり詰め込んだものの、ミリアは素直に「うん。」と満足そうな笑みを浮かべて目を瞑った。

 何とか高校生の座を掴ませるためには、このまま煽て楽しませ受験に持ち込ませる他ない。そうすれば怪しいモデルなんぞに手を出さなくて、済むのだ。リョウはうむ、と一つ頷くといそいそとランニングウェアに着替えると、「行ってくる」と走りに出かけた。その後姿をミリアが首を傾げながら寂し気に眺めていた。

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