第13話

 食事を済ませ帰宅をすると、リョウは眼光鋭くランニング用のウェアに着替えだす。

 「どこ行くの?」ミリアが心配そうに、尋ねた。

 「外。ちっと走って来る。」リョウが言下に答える。

 「ケーキ、食べないの?」ミリアが今日の部活で作って来たケーキの入った箱を、目の前に突き出す。

 「先、食ってていい。そんで先寝てろ。」

 ミリアは下唇を噛み締める。そして、固く握り締めた拳を震わせながら尋ねる。「……どのぐらいで、帰って来るの?」

 「三時間ぐらい。」

 ミリアはぱちくりと瞬きを繰り返す。「そんなに? ……練習、疲れてないの?」

 「疲れて何も出来ねえぐらいにならねえと、ダメなんだ。」リョウはそう言ってミリアを睨むと、両肩を回し、イヤホンを耳に突っ込むと、玄関先から早速走り出して行った。


 その後姿を追うミリアの瞳がじんわりと濡れ出し、やがてそこから涙が零れ落ちる。暫くすると、ひい、という悲鳴のような泣き声が上がった。ミリアはソファに身を伏せながら、完全に嫌われたのだと思った。あまりにも自分が、勉強に取り組んで来なかったから。成績が酷いから。どうりでクラスメイトたちは真摯に勉学に勤しんでいる筈だ。親の愛を手放してしまうことになるのだから。でもうちは違うと思っていた。ギターさえ弾ければリョウは自分を愛してくれると思った。このままバンドのギタリストとして、いさせてもらえるのだと思っていた。学校がなくなれば、ツアーのために欠席連絡をすることもないし、その度にリョウが電話越しに頭を下げまくることもないと思っていたのに。むしろ、学校がなくなる方がリョウは幸せになれると思っていた。リョウがそこまで自分を高校に入れたいと思っているなどとは、ついぞ気付かなかった。

 ミリアは濡れた頬を拭い肩を上下させながら、今日は国語の教科書などを開けてみる。

 ――『走れメロス』

 「メロスは激怒した――。」ミリアは真顔で読み始める。メロスは内気な十六歳の妹と二人暮らしで、その妹の結婚式の道具を買うために町までやってきた、とある。

 ミリアはふと外で走っているはずのリョウの姿を思った。リョウも激怒して走っているのだろうか。自分があまりに勉強ができないから、どこかに嫁がせてしまうために? 再びミリアの双眸が無理な輝きを帯び始める。

 誰にも嫁ぎたくはない――。リョウと、いたい。

 ミリアは啜り上げる。

 ああ、昨夜の夢は何と幸せだったろう。目覚めなければよかった。リョウは教会の前でウェディングドレスを着た自分に、嫁に行くなと説得し、白い王子様の服着た若い男(顔は全く思い出せない)を追い返し、自分と結婚式を挙げてくれたのだ。

 しかし現実はあまりに、非情だ――。

 朝、言ったのに。一緒にケーキを食べようと言ったのに、それを無視して、外に走り出してしまった。しかも三時間も帰ってこない。ミリアは再び、わあわあと声を上げてベッドに身を伏し、暫く激しく泣きじゃくった。


 リョウはiPodに入れたMESHUGGAHの新譜を大音量で聴きながら、全力で車通りの多い国道沿いを走っていた。基本的に人間不信なところのあるリョウだが、遂にそれが自己不信に到達しようとしていた。今まではミリアをただの子供としか認識していなかったのに、守るべき存在としか認識していなかったのに、酒によってそれが吹っ飛んだ。リョウは呻きながらさらにスピードを上げる。車のライトが眩い。

 こうなったら、断酒は無論のこと、毎晩限界まで疲労困憊し、指一本動かせぬ状況にまで追い込まなければ、ミリアの身が危うい。まさか自分の中に種族保存の本能が備わっているとは思わなかった。そういったことには淡泊であると信じていた。それよりも自分の生きる道は音楽であり、ギターであり、メタルであり、それに全てを没入さえることが、己の使い道であると信じて疑わなかった。だのに、だのに――、リョウは悔しくてならない。

 ミリアは夢だとか言って納得していたようであるが、実際はどうなのだろう。ミリアのことだ、虚偽ではないにせよ、配慮はあるかもしれない。ああ、とリョウは呻いて汗の滴る顔をタオルで覆った。三十路のおっさん兄貴に抱きすくめられて一夜を過ごしたとなれば、あの年頃のことだ、嫌悪感、不信感、侮蔑、呆れ……。ミリアは諸々の否定的感情と共に六歳以降の人生を否定して過ごしていかねばならない。

 それに――。リョウの目がカッと見開かれる。性的虐待だとかで児童相談所にでも駆けこまれたならば、自分の人生は、終了だ。さんざ自分に職務質問をし続けてきた警察官のしたり顔が思い浮かぶ。少女を連れた赤い長髪の男は、案の定犯罪者だった――、奴らは嗤うだろう。

 リョウは立ち止まった。誰だ、運動をすれば気持ちが爽快になるなどと言った奴は。リョウはガードレールに手を突き、荒々しい息を繰り返しながら、傍を走り抜ける車を睨んだ。そろそろ肉体の限界が近づいて来た。リョウはやっと安堵の溜息を吐いて、待てよ、と思った。ここから来た道を帰るのか。リョウは驚き、呆然とし、頭を抱え、それからやけくそめいて顔を思い切り顰めると、再び走り出した。

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