第11話

 ミリアは約束通り、緑鮮やかな抹茶味のシフォンケーキを二切れ持って、帰宅した。リョウは今夜はリハがあるため、レッスンを早々に切り上げ帰宅をしたのだが、正直、今日の生徒に何を教えたのかはほとんど記憶にない。それよりも自分は昨夜何をしたのか、今日帰ったらミリアにどんな顔をしたらよいのか、そればかりを考え続けていた。しかしとりあえず、ライブが近いのである。いい加減ミリアをギターから遠ざけておくわけにもいかない。しかも、勉強が苦手であるというような、メタラーにとって世界一無価値な理由では。

 「リハ、行って、いいの?」シフォンケーキをテーブルに置くなり、ミリアは両手を胸の前で組みながら、そう感極まった声で叫んだ。

 「いいから早く準備しろよ。」不機嫌を装い、リョウはさっさと自分一人玄関に向かうと、そう言い放った。罪悪感からよくよく目も合わせられないのである。

 ミリアは慌ててフライングVを背に担ぎ、ヘルメットを引っ掴んでリョウの後を追いかけ、階下に駆け降りる。バイクの後部座席にまたがりながら、ミリアは「リョウ、昨日から、優しい。」と言って、腕を回した。

 思わずリョウはアクセルグリップを回しかけて、止める。

 「や、優しい?」鼓動が高まる。「……夢、でだろ?」

 「うん。」

 それ以上追及する勇気は無かった。リョウは泣きべそのような顔をヘルメットの中に隠し、やけくそめいてアクセルを回した。

 「ユウヤ、また、来る?」ミリアは後ろからリョウを見上げるようにして問う。

 「来る。だからもう0点は終いだ!」と後方に向かって叫んで、しかし飲酒は厳禁だ、と肝に銘じる。一滴たりとも、アルコールを家に入れることは許さない。これはしっかとユウヤにも厳命しておく必要がある。奈良漬であろうが、酒粕であろうが、ウイスキーボンボンであろうが、断じて、許さない。リョウは一人厳しく肯いた。


 ミリアは三時間の練習時間を徹頭徹尾気合十分に弾きまくり、ベースのシュンや、ドラムのアキを瞠目させた。凶暴ともいえる音作りは当然のこと、リフの重厚さ、ソロでの緊張感、気迫、満員御礼のライブでもかくやと思うばかりのプレイが次々に披露された。リョウは左脇でやたら熱意を見せ続けるミリアを焦燥しながら見守った。

 「……どうしたの、ミリア。」ミリアが手洗いに部屋を出たのをこれ幸いと、シュンがリョウに耳打ちをする。

 「え!」リョウは第三者には何やら異変が感じられるのか、と慌てて頓狂な声を出す。

 「えっ、て、ほら、やたら気合入れてね?」

 「あ、ああ。」リョウの頬が引き攣る。何と答えようか、苦心して、「あ、ギター禁止にしてたのを、今日、解除したからな。」とあながち虚偽にはならぬ事実に思い至り、答えた。

 「え、何で?」

 「……。」ユウヤ曰く、パンツを見られる程の恥ずかしさを覚えさせてはいけないと、リョウは黙す。

 それを非常事態と解したシュンは、ごくりと生唾を飲み込み黙って再びベースアンプに向き合う。リョウは慌てて自分の汚行に推理が及んでは事だと、慌てて付け加えた。

 「否、大したことじゃねえんだ。」慌ててリョウはシュンに歩み寄る。「勉強が、ちょっとな……。」言葉を濁す。

 「なあんだ。」シュンは安堵の溜め息を吐く。「勉強なんざ出来なくたって、死ぬわけじゃあるまいし。お前どの口で言ってんだよ。」

 「お前、0点だぞ、0点。」思わずリョウはミリアの消えた扉の向こうを注視し、声を潜めながら言った。

 シュンは横目で「そういうことも、あんだろ。調子が出ねえ時とか、反抗心が頭もたげてきた時とか……。」

 「お前、なめんな、全部だ、全部。」

 さすがにシュンの目が見開かれた。「ミリア、そんなにバカなのか……?」

 リョウは深刻そうにゆっくりと肯いた。

 「この間学校に呼び出し喰らって、高校行けねえと言われた。で、ユウヤに家庭教師を頼むことにした。」

 「ユウヤ……? Lunatic Dawnのユウヤか。ボーカルはやたらいい味出してんが、頭いいんか、あいつ。」

 「W大学の教育学部だぞ。」

 シュンが目を見開いた。「そんでデスメタルかよ、親不孝者にも程があるな。」

 「でも」アキがスポーツドリンクを一気飲みし終えると、言った。「高校行けねえっつうんなら、ここでギター弾かせてりゃ、いいじゃん。問題ねえだろ。」

 「……お前な、今時高校行かなかったら、バイトすらできねえじゃねえか。」

 「養ってやれよ、旦那様。」アキが微笑み、即座に「クソが!」罵声が飛ぶのと同時に、アキの耳元を空になったペットボトルが飛び、壁にぶつかる。

 アキは咄嗟に身を翻し、転がったペットボトルを見下ろす。「……っぶねー。」

 「いいじゃんか、どうせ血は半分しか同じじゃねえんだろ、何とかなんだろ。」シュンが呆れたように付け加える。

 リョウは焦燥しながら言った。

 「お前ら! そう焚き付けんじゃねえよ。……マジで、やべえんだ。」リョウは今朝方の悪夢を思い起こし、項垂れる。「俺は、今朝方やったのかもしれねえ。」

 「やった?」シュンが頓狂な声を出す。「やったって、……やったのか。」

 「記憶がねえんだよ、酒飲み過ぎて! でも朝も今も元気そうだし、ほら、その、……痛そうにしてる素振りもねえし……。」最後はさすがに口ごもる。

 きょとんとしたようにシュンが「構わねえよ。だって、お前のことあんなに慕ってんの、ミリアだけじゃん。」と言った。

 「ミリア、リョウが職質受けるのは自分と結婚するためだって、この間言ってたぞ。」アキも応戦する。

 リョウは心臓を抑えながら、「それは、あいつの鉄板のネタだから……。」と呟いた。

 そこに分厚い扉をよいしょと開けながらミリアが戻って来る。「休憩、終わり。」

 自分の休憩が終わったということなのか、全体で終わりにしようと言っているのかは解らないがすぐさまシュンはすぐさまベースを抱え持った。


 そして練習が再開される。相も変わらず、ミリアはこの痩せっぽちた体のどこにこんなエネルギーが内在していたのかと思われる程にギターを激しく掻き鳴らす。三人はどこか神妙になってミリアの音を傾聴した。

 バカであることには、あの話し方からしても疑いは無いが、0点のオンパレードとなると流石に同情の念を禁じ得ない。でも音楽理論に通暁し、見事なソロだって創り上げ、新曲だって即座に暗譜してみせる様子からは、ただ興味関心が勉学に向かないだけに思われる。世の中白か黒にしか見えていないのであろう。リョウがバイト云々と言っていたが、ミリアには金の計算はおろか、見知らぬ客に愛想笑いして「いらっしゃいませ」一つ言わせるのも至難であろう。考えず、喋らず、愛想と気遣いが不要、そんな職がバイトでもあるのだろうか、とシュンは暫し考え込む。

 アキはアキで、リョウが面倒をみてやれよ、とやはり、思う。どうせあの赤髪長髪のデスメタルバンドのフロントマンに女が言い寄って来ることは未来永劫ないのだし、見たくれとギターのテクニックだけならミリアは類を見ない程に上出来だ。ミリアもあれだけ慕っているのだから、一蓮托生でいろ、とやはりそう思うのである。

 リョウは、ミリアに、仮に自分がくたばっても一人で食べていける術がないか、と思う。それにはとりあえず勉強が最低限できればよいのだが、ユウヤに言わせると幼少時に受けた虐待の傷持つミリアには、なかなか困難であるらしい。ミリアに努力云々では到達できないハードルを敷いて、無駄に苦悩する姿を見せつけられるのも忍びない。

 モデル、と言ったか――。リョウはふと、昨日の名刺を思い起こす。もしかしたらあれなら流暢に喋れなくても、球の落ちる速度やらを求められなくても、ミリアにできるのではないか、とふと思い成す。しかしミリアが騙されるのだけは我慢ならない。服を脱げ、男と絡めなどと言われた日には……、リョウは死と憤怒の歌を彷徨した。渾身の力を持って、叫んだ。

 シュンとアキはリョウの調子も上がって来たぞとばかりにほくそ笑んだ。

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