第13話 算数のテスト

 彩那はその夜、自己嫌悪に陥っていた。部屋の明かりもつけず、ベッドにうつ伏せになっていた。こうして独りぼっちになると、決まって思い出すのは死んだ母親のことである。

 あれは小学5年生の時だった。

 彩那のクラスに転校生がやって来た。眼鏡を掛けた大人しい女の子だった。その愛らしい顔立ちは、男子の人気を独占することは想像に難くなかった。そこで女子代表として危機感を抱いたのか、学級委員長が密かに女子連中を集め、彼女を無視して孤立させようとう計画を発表した。

 クラスの女子たちにそれほどの悪気があった訳ではない。それは退屈な日常に降って湧いた、単なる余興のようなものだった。誰とはなしにみんなはそのゲームに参加し始めた。彩那も特に考えもなく、みんなの真似をした。

 ある日のこと、苦手な算数のテストが予想以上によかったため、彩那は学校から帰るとすぐに母親に見せびらかした。母親も大いに喜んでくれた。浮かれ気分も手伝って、ついつい口を滑らせてしまった。クラスの女子全員が結託して、転校生を爪はじきにしていることを暴露してしまったのである。

 それを知った母親は烈火のごとく怒った。そんな卑劣なことをするのは、たとえテストで満点を取れる子であっても、人間としては最低なのだと言った。

「彩那も周りに流されて同じことをしているのなら、警察官である父さん、母さんの子ではない。さっさと家から出て行きなさい」

 と叱りつけた。そしてあろうことか、テスト用紙を目の前で破り捨てたのである。

 これにはさすがの彩那も泣き出した。それでも母親の怒りは収まらない。すぐにその子に会いに行って、謝罪するように言った。彼女は自分だけが悪いわけではないと涙ながらに訴えたが、母親は、警察官の娘こそがそういう役目を率先して務めなければならない、それはまさに彩那の仕事だと諭した。

 幼心にもまるで納得がいかなかったが、母親に無理矢理連れられてその転校生の家に出向いた。母親は最後まで嫌がる彩那を引きずるようにして、玄関先に立たせた。その鬼のような仕打ちに涙で前が見えなかった。

 呼び鈴を押すと、女の子と母親が顔を出した。目の前の修羅場を見て、一体何が起きているのか、二人は戸惑った表情を浮かべていた。母親に促されて、彩那はこれまでの顛末を語って聞かせ、大粒の涙を流して謝った。理不尽さと悔しさ、そして恐怖感が入り交じった複雑な感情のせいで、何度も声が裏返った。

 女の子は、涙で顔がぼろぼろになった同級生にびっくりしていたが、

「あなたが友だち第一号だね」

 と最後に笑って言ってくれた。

 その子の名前は筑間奏絵だった。

 翌日から彩那は女子全員を敵に回すことになった。裏切り者とみんなから陰口を叩かれたが、それは不思議と気にならなかった。むしろそういう連中一人ひとりに説教をするほどだった。

 帰宅して母親にその件を伝えると、

「それでこそ、私たち警察官の自慢の娘よ」

 と抱きしめてくれた。それから一枚の白い紙をひらひらと目の前に差し出した。

 それはあの算数のテストだった。

 狐につままれたような顔をしていると、

「彩那の一生懸命が詰まっているテストを捨てるわけないでしょ」

 と笑顔で言った。破り捨てたのは、すり替えた別の紙だったと明かした。それはいつもの優しい母親だった。

 そんな彼女も、数ヶ月後に亡くなった。


 もう泣き尽くしてすっかり涙は涸れていた。何度か鼻をすすった。

 突然、闇の中でスマートフォンが呼び出した。

 警視庁の官給品である。怒りにまかせて帰ってきてしまって、返却するのをすっかり忘れていた。明日の朝、父親か龍哉に渡せばいいだろうと思っていた。

 捜査班を辞めてしまった彩那に、この電話に出る義務はなかった。そのまま無視してもよかったが、一応出ることにした。直ちに官給品を返せという話かもしれない。

 着信画面には「フィオナ・アシュフォード」と表示されている。

「もしもし?」

 かすれた声で応じた。

「彩那、どうやらあなたは正しかったようです」

 開口一番そう言った。

「どういうこと?」

「あの後、もう一件別のひったくり事件が起きました」

「何ですって!」

 ベッドから跳ね起きた。

「逮捕した容疑者は今所轄で取り調べ中ですが、自分は模倣犯だと供述しています」

「つまり、あの男の他に真犯人がいるってことなの?」

「そういうことです。ですからまだ事件は終わっていません」

「でも、フィオ。私は捜査班を辞めたのです。もう事件には関係ないんですよ」

 ベッドに寝転がると、天井を見上げて言った。

「それは彩那の本心ですか?」

「えっ?」

「あなたなら、もう一度現場に戻って真犯人を捕まえてやる、そう言うと思っていました」

「いいえ、そんなことは言いません」

「私の採点に怒っているのですか?」

「誤解しないでください。それはフィオに与えられた仕事なんでしょ? だからフィオのことを怒ってなんかいません。ただ点数ばかり気にしている自分が嫌なんです。大人の都合で、本当にやりたいことが曲げられてしまうのが怖いのです」

 フィオナは黙って聞いていた。

「それに私は高校生になって、もっと違った自分を見つけたいと思っていました。ですから、これでよかったのです」

「分かりました。短い時間でしたが、ありがとうございました。今後は家族仲良くお過ごしください。特にお父様の仕事については、なるべく理解してあげてくださいね」

 フィオナはこれまでにない優しい口調だった。電話が切られてからも、彩那はしばらくそのままの姿勢でいた。

 これでよかったのだ、何度もそう思った。


 翌朝は、家族四人が揃って朝食を食べることになった。

 久しぶりの家族団らんというのに、誰も口を開こうとはしなかった。もちろんその訳は分かっている。

 彩那は無言の圧力を感じていた。それに耐え切れず、

「ああ、そうだ。お父さん、この官給品は返しておくね」

 黒いスマートフォンをテーブルに置いた。

「お前、本気で辞めるつもりか?」

 ようやく父親が声を出した。

「ええ、そうよ。昨日言わなかったっけ?」

「家族が結束しようという大事な時期に、お前だけ逃げ出すというのか?」

 険悪な雰囲気に、梨穂子と龍哉は口をつぐんだ。

「そんなこと言われても困るのよね。最初に言ったでしょ。私にはやりたいことがあるし、もっと女性らしく生きたいの。そもそも仕事をダシに家族を団結させようなんて、どこか間違っているのよ」

 父親は何も言わず、突然平手で頬を打った。激しい音とともに、彩那は椅子から転げ落ちた。

「あなた」

 梨穂子がたしなめた。

「では聞くが、お前はこれまで家族の輪に入ろうと努力をしてきたのか? いつまでも死んだ母さんのことを引きずって、殻に閉じ籠もっていなかったか? 自分だけが悲劇のヒロインのような顔をして、被害者気取りじゃなかったのか?」

 彩那は唇を噛みしめた。

 こんな時に死んだ母親のことを引き合いに出すなんて、父は本当に汚いと思う。今回のことは母とは何の関係もないではないか。

「まあ、お前の好きにすればいいだろう」

 父はうつむいた娘に言葉を投げ掛けた。

「だが、この事件だけは最後まで付き合ってもらう。こちらはデータが必要なんだ。政府に提出するデータがな」

「分かりました」

 彩那は涙をこらえて答えた。

 そして食事も取らずに家を出た。


「おい、待てよ」

 背後から声がした。

 振り返ると龍哉だった。無言でビニール袋を差し出した。

 彩那が黙っていると、

「これ、お袋が持っていけって」

 受け取って中を見ると、ラップに包まれたおにぎりがいくつか入っていた。慌てて握ったのだろうか、大きさが不揃いだった。

 自然と涙が出た。龍哉にこんな顔を見られたくなかった。しかしどうにも涙は止まらない。

「ありがとう」

「いや、それはお袋に言ってくれ」

 彩那は黙って歩き出した。

 龍哉はすぐに横に並ぶと、

「さっきの親父の言葉、何だか俺に向けられているような気がしたよ」

「えっ?」

 思わず立ち止まった。

「実の父親が死んでから、随分とグレていた時期があってな。今にして思うと、自分だけが世界の悲劇を全部背負っているような気でいたんだ。お前だって、親父だって、うちのお袋だって、みんなそれぞれ悲しみは等しい筈なのにな」

 彩那は黙って聞いていた。

 龍哉も自分と似たような感情を抱いたことがあったのか。妙に親近感が湧いた。

「でも、今回のことはあなたに関係ないわ。これは私とあのバカ親父の話なんだから」

「それでどうするんだ? おとり捜査班は」

「データが欲しいのなら、いくらでもくれてやるわ。フィオの指示なんて完全無視して、無茶苦茶やってやる。データとやらも思いっきり狂わせてやるんだから」

「それって、結局いつものお前と変わらないじゃないか?」

 龍哉は冷静である。

「もう、うるさいわね」

「そんなに腹を立てるなよ。自分が正しいと思ったら、それをひたすらやるんだろ?」

「そうよ、こればかりは性格だから直らないかもね」

「どうしていつもそんなに肩肘張ってるんだ? 適当に流すという選択肢はないのか?」

「それは自分でもよく分かってるの。でもね、死んだお母さんに教えられたんだ。その時、その時を精一杯生きなきゃだめだって」

 龍哉はしばらく黙って聞いていたが、途端に笑顔になった。

「お前って、たまにはいいこと言うよな。そういうところ、俺は好きだよ」

「別に同情しなくてもいいんだから」

 彩那は慌てて目を逸らした。こんな風に、自分の感情を家族の一員にさらけ出すのは初めてかもしれなかった。

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