第11話 命の恩人

 週末を迎えていた。おとり捜査班の次の出動は水曜日と聞かされている。よってそれまでは事件のことを忘れ、学校生活を謳歌することができる。

 しかし、彩那はどこか心が安まらなかった。ひったくり犯はこれまで水曜日に犯行を重ねていたが、ここへ来て別の曜日にも出没し始めたからである。

 犯人が曜日を選ばないというのであれば、捜査班の取り決めた出動日は無意味なものとなる。この点はフィオナに問い質してみたいところだが、準備等の都合があって変更できないのかもしれない。いずれにせよ、それは彩那の決めることではない。

 しかし要請があれば、いつでも出動する覚悟はできていた。ひったくり犯をこのまま野放しにする訳にはいかないし、こんな因果な仕事は早く終わらせて、悩みのない日々を過ごしたいという願望もある。

 そんな中、放課後は奏絵を誘って演劇部に顔を出した。総勢十五人程の小規模なクラブである。早々に部員の顔と名前は全て頭に入っていた。

 龍哉は相変わらず先輩女子に囲まれていた。そのため部活中は話す機会もあまりなかった。

 演劇部と言っても、いきなり演技の練習をする訳ではない。まずはストレッチ体操をして、腹筋、背筋を鍛えるトレーニングを行う。

 舞台では発声が重要である。台詞は口ではなく、腹の底から出さなければ客席まで伝わらない。そのためには筋肉トレーニングは欠かせない。これは部長、神城かみじょうみゆきの信条でもあった。

 彩那の身体は柔軟で、どんなトレーニングもそつなくこなすことができた。一方奏絵は運動が苦手なため、腹筋二回、背筋に至っては一回もできないほど身体は硬かった。

 そんな友人を横から手伝うことになる。

「何だか恥ずかしいな。ほんと彩那が羨ましい」

 奏絵はこんな時、決まってそんなことを言う。

 三十分掛けて身体をほぐした後、いよいよ発声練習へと進む。

 運動場の片隅で早口言葉や五十音歌を声に出す。最初はトラックを周回する陸上部員たちの目が気になったが、慣れると何でもなくなった。あの内気な奏絵でさえも、声を張り上げている。ストレス解消にはもってこいなのかもしれない。

 最後はエチュードという寸劇練習が待っている。これは即興劇の一つで、二人一組で行う。巧みな演技力、台詞を用いて、相手を意のままに操るというものである。たとえば、椅子に座って動かない相手に一声掛けて、無理矢理席を立たせる状況に追い込むといった趣向である。

 ここは奏絵の本領発揮であった。

「そこ、ペンキ塗り立てですよ」

「ちょっと、私の帽子を踏んでますよ」

「お客さん、着きましたよ。ねえ、起きてください。深夜料金込みで二千円になります」

「お父さん、早く助けて。底なし沼に引き込まれるよお」

「みんな揃ってるか? それでは朝礼を始めるぞ。起立!」

 彩那には思いも寄らない台詞と演技で、一人またひとりと先輩を立ち上がらせていく。これには部員全員が感心しきりだった。


「彩那、一緒に帰ろ」

 更衣室で制服に着替えると、すかさず奏絵が誘ってきた。部活動の興奮冷めやらぬといった様子である。

「ごめんね、今日は食事当番なの。スーパーに寄っていくから、また今度ね」

「そうだったの。それじゃあ、手伝いに行ってもいいかしら?」

「私は大歓迎だけど、お家の方はいいの?」

「電話しておくから大丈夫よ」

 二人は夕暮れの中、肩を並べて歩いた。買い物に向かう主婦や、家路を急ぐ子供らとすれ違った。

「ねえ、冷蔵庫には何が残ってるの?」

「えっ?」

 彩那には答えられなかった。

「しっかりしてよ。野菜の余りで何を作るか決めるのよ。そうしないと食材が無駄になっちゃうでしょ」

「へえ、そういうものなの? さすが奏絵は主婦っぽいね」

「茶化さないで。今度はちゃんと見ておくのよ」

「はーい」

「キャベツ半分とタマネギ一玉、後はじゃがいも三個」

 背後からの声に二人は同時に振り向いた。

「うわっ、龍哉。いつから居たのよ?」

「冷蔵庫には何が残ってるの、の辺りから」

 余程驚いたのか、奏絵は胸に手を当てて呼吸を整えている。

「あんたね、女子トークを後ろから立ち聞きするなんて悪趣味よ」

「何か不都合でも?」

「いや、別に変な話はしてないからいいんだけど。男子には聞かれたくないことだってあるのよ。ね、奏絵?」

「私は、別に」

 友人はうつむいた。

「ほれ、見なさい。奏絵が困惑してるじゃない」

「すまない」

「いえ、そういう訳じゃないですから」

 さっきまでとは違う声色だった。

「今からスーパー行くのか?」

「そうよ、今晩のおかずの準備。あんたは先に帰っててよ」

「龍哉さん。何か苦手な食べ物はありますか?」

 奏絵が見上げるようにして訊いた。それは彼女にとって勇気のいる行動だったに違いない。

「いや、特にない。ひょっとして、今日は筑間がご飯を作ってくれるのか?」

「私の手伝いをしてくれるのよ」

「そりゃ、命の恩人だ」

「どういう意味よ」

 いつものように口喧嘩が始まると思いきや、

「では、キャベツ入りベーコンコロッケなんて、如何でしょう?」

 そんな控え目な提案に、

「それ、いいわね」

「何だか旨そうだ」

 兄妹は揃って奏絵の顔を見つめた。


 スーパーでベーコンや野菜を買い込んで、三人は帰途についた。

「お台所、お借りします」

 奏絵は彩那から受け取ったエプロンを着用した。

「筑間って、そういう姿が板についてるな」

 リビングから龍哉が声を掛けた。

「そうですか。ありがとうございます」

 奏絵は料理の段取りを説明して作り始めた。横から彩那が手を貸した。

 どんどん夕飯が出来上がっていく。四十分程でテーブルには色鮮やかな食事が並んだ。

 奏絵の作ったコロッケはとても美味しかった。彩那は感動した。龍哉もいつもより箸が進むのか、おかわりまでした。

 食事が終わると、後片付けは彩那が一人で引き受けた。奏絵も一緒にやると言ってくれたのだが、どこまでも甘える訳にもいかず断った。と言うよりも、あまりにも友人の料理の出来が凄くて、自分には皿洗いが分相応だというのが本音だった。

 今は龍哉とともにリビングでテレビを見ている。彩那はコーヒーを淹れる準備に入った。

 何かの番組が終わって、五分間のニュースが始まったようだ。皿を洗いながら背中でその音声を聞いていた。

「おい!」

 龍哉が突然呼び掛けた。

 アナウンサーが「連続ひったくり事件」と言ったからだった。

 彩那も直ぐさまテレビの前に駆けつけた。手から水滴が床へこぼれ落ちた。

「本日午後三時半頃、東区内にてひったくり事件が発生しました。被害者は近くに住む二十歳の女子大生で、後ろから近づいてきたミニバイクの男に、銀行通帳、キャッシュカード、現金五千円などが入ったハンドバッグを奪われたということです。

 なおこの女性に怪我はありませんでした。警視庁は二週間前から同区内で十四件発生しているひったくり事件と何らかの関連があるとみて、捜査を進めています」

 画面に映し出された映像は、彩那の見覚えのある通りだった。昨日といい今日といい、犯人は連続で犯行に及んだのだ。前回のおとり捜査で網に掛かっていれば、絶対に捕まえられた筈なのである。もどかしい気持ちばかりが押し寄せてきた。

 奏絵が小さく咳払いをした。

 それまで二人は画面に吸い寄せられていたが、慌てて視線を逸らした。

「同じ場所で十五件も発生してる事件なんだから、警察もすぐに捕まえられそうなものだけどな」

 そうつぶやいてから、

「ごめんなさい。別にご両親のことを批判している訳じゃないですよ。所轄の警察のことを言っているの」

「奏絵、そうは言うけどね、張り込みっていうのは結構大変なのよ。犯人はいつどこに現れるか分からないんだから」

 彩那が口を尖らせて言うと、

「そんなことはいいから、コーヒーを早く淹れてこいよ」

 龍哉が言葉を被せてきた。

「ああ、そうだったわね」

 彩那も彼の真意に気づいて、すぐにキッチンに戻った。

 奏絵はそんなやり取りを十分見てから、

「二人ともごめんなさい。悪気はなかったのよ」

 と素直に謝った。

 間の悪い時間が流れた。

 奏絵はそれに耐えきれなくなったのか、

「そろそろ帰りますね」

 と言って立ち上がった。

「もっとゆっくりしていけばいいのに」

 そう彩那が言うと、

「また来てもいいかしら?」

「もちろんよ。今日はありがとう。助かったわ」

「筑間の料理、旨かった」

 いつの間にか龍哉も玄関まで見送りに来ていた。

「さようなら」

 奏絵は慌てて靴を履くと出ていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る