第10話 事件発生
沈みゆく夕陽が辺りをオレンジ色に染め抜いていた。そんな中、龍哉が目を細めてつぶやいた。
「一応、フィオナに報告しておくか」
「私にやらせて」
すかさず彩那が言った。
例のスマートフォンを取り出して、「電話帳」の項目を開いた。いつの間にか「自宅」「お父さん」「お母さん」などが登録されている。
「ねえ、捜査班の電話番号が載ってないんだけど?」
彩那が尋ねると、
「誰でもいいから掛けてみな」
と龍哉は返した。
今日母親は非番である。そこで彼女に連絡して尋ねてみることにした。
「自宅」を押すと、すぐさま回線が通じた。
「フィオナ・アシュフォードです」
落ち着いた声が応じた。
「あれ、どうしてフィオが出るの? 自宅に掛けた筈なのに」
「登録された電話番号は、どれに掛けても私につながるようになっています」
「どうして?」
「これはおとり捜査班の専用回線ですから、他の電話には繋がりません。そこに登録されている情報は全てダミーです。他人の手に渡った時の用心です」
「じゃあ、これって普通の電話じゃないわけ?」
「そうです。電話というより、無線機のようなものですね」
「ちぇっ。これで携帯代を浮かせようと思ってたのに」
すると軽い咳払いが聞こえた。
「彩那、もう一度言っておきますけど、通話は全て記録されていますので」
「あっ、しまった」
「それで、用件は何ですか?」
「今、おばあちゃんの自転車の修理が終わりました。正確には龍哉が直したんですが、私は一緒にお話をしました」
「それはよいことをしましたね」
フィオナの優しい声を初めて聞いた。
「それで、フィオ。今回の得点は?」
「今日は採点しません。おとり捜査に出動した時のみ行います」
「あら、そうなの」
彩那は少しがっかりした。
「それでは切りますよ?」
「ちょっと待って、フィオ」
確認しておきたいことがあった。
「私も捜査資料を見ることはできますか?」
「もちろんできます」
「どうすればいいのですか?」
「私に言ってください。電話回線がつながっている間は、必要な資料を閲覧できます」
「こちらからは自由に見られないの?」
「私と通話している時のみ、見ることができます。他人が無断で情報にアクセスできないようにしてあるのです」
「なるほど」
「どんな資料を見たいのですか?」
「ひったくり事件の被害者リストです」
「分かりました」
すぐに画面上に一覧表が映し出された。被害日時、氏名、年齢、職業、盗難品目が並んでいる。さらにその項目を押すと、被害に遭った現場が地図上に表示された。
彩那はそのリストをしばらく眺めていた。
圧倒的に若い女性が多い。女子大生がその大半を占めている。なるほど昨日の服装は狙われやすい格好だった訳である。恐らくこれもフィオナの考えなのだろう。
リストの最後に、ようやく高齢女性が二人出てきた。犯人は何度も犯行を重ねて、若者の所持金は大したことがないと気づき、ターゲットを高齢者へと変えたのだろうか。
まさか次回の出動では、お年寄りに変装させられるのだろうか、少々不安を覚えた。
その時である。女性の悲鳴が聞こえた。彩那と龍哉は顔を見合わせた。
「泥棒!」
意外にもその声は近かった。彩那は自然と駆け出していた。
「フィオ、何か事件が起きたみたい」
全速力で走りながら言った。龍哉も後に続いていた。
「彩那、眼鏡があれば掛けなさい」
「今日は持ってきていません」
横に並んだ龍哉はいつの間にか掛けている。
「彩那の目にはなれませんから、十分気をつけなさい。無理をしないこと」
「はい」
「二手に分かれて。龍哉は違う道へ」
「了解」
道路を蹴る音が半分になった。交差点を折れると、例の銀行が見えた。昨日何度も往復した経路はすっかり頭に入っている。道路の中央にうずくまっている女性を発見した。
同時にミニバイクが遠くの交差点で姿を消した。
「被害者を発見。犯人と思われる赤いバイクが逃走しました」
「どの方向ですか?」
「大通りの方です」
「龍哉、大通りに合流する赤いミニバイクを見つけて」
「了解」
彩那は倒れた女性に駆け寄った。
髪の長い若い女性だった。ミニスカートから足がもつれるように飛び出している。
「大丈夫ですか? 怪我はありませんか?」
「ええ、大丈夫です」
「ひったくりですね?」
「はい。ハンドバッグを奪われました」
「ついさっき、あの交差点を曲がったミニバイクですね?」
「はい、そうです」
「フィオ?」
「彩那はその場で待機。今、移動中のパトカーを向かわせています。3分半で到着します。被害届を出してもらいますから、女性にそう伝えてください」
「はい」
「すみません、バイクは発見できませんでした」
龍哉が割り込んできた。
「分かりました。彩那と合流してください。場所を画面に表示します」
しばらくすると、大袈裟にサイレンを鳴らしたパトカーが目の前に停車した。
「ご協力感謝します」
事情聴取が始まった。被害者の女性はすっかり落ち着きを取り戻して、警官の質問に答えている。
しかし彩那は歯がゆい気分だった。もしおとり捜査班が昨日ではなく、今日出動していたら、間違いなく犯人を捕まえることができたのだ。たった一日のずれで犯人はまんまと逃げおおせたということになる。悔しい気持ちばかりが募ってきた。
龍哉の姿が小さく見えてきた。彼は随分と遠くまで走ったようだ。彩那が手を振ると、気づいてくれた。
「フィオ、龍哉が戻って来ました」
「それでは、二人は家に帰りなさい。お疲れさまでした」
「今日は車で送ってくれないの?」
「正式な捜査ではありませんので、それはできません。自分たちで帰ってください」
「分かりました」
龍哉がわき腹を押さえて近づいてきた。足がふらついている。
「お前、足速いんだな」
息も絶え絶えに言った。
「陸上やってたからね」
「どんな人間にも、何か取り柄があるってことか」
「ちょっと。それ、どういう意味よ?」
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